石ころ

罠から守るものはみことばの剣




 世でクリスチャンを告白する時、身に着けていなければならない二振りの剣がある、それは聖書に書かれていることばの記憶と、聖霊によってその時の必要を備えられるみことばである。

彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分」と言われた。(ルカ22:38)

他に何も要らない、組織も肩書きも才能も力も見栄えも要らない。それで十分だとイエスさまが保証された。なぜならみことばの約束によって、神がすべてを満たされるからである。
世は、クリスチャンであることを聞くと「それはすばらしい。その愛で何をしてくれるのか」と、要求を次々と突きつけてくるだろう。

イエスさまは荒野での試みに、サタンの言葉に何一つ応じられることはなかった。ただ、みことばを語り続けられた。
イエスさまは、ご自分の証明をご自分ではなさらず、ただ神のみこころを行われた。此処に習うべきである。

語るべきみことばを持たずに世で証することは、手ぶらで戦場の真ん中に立つようなもので、二振りの剣を持たないことは、戦法を知らず武器も無いという状態である。
世と同じ道具を使うなら、手段を選ぶ必要の無い世の方が圧倒的に有利であって、世の要求をすべて行ったところで、なぶられて時をすり減らし、消耗して行くだけなのだ。

イエスさまは罠にはまらない、キリスト者も主に在って罠にはまる者ではない。ただみことばを語り、みこころを行う者である。
人が救われるのは神のご計画によることである。キリスト者はそれを実行する者なのだ。すべて主から供給されるものによって勝利し、主の栄光とする者である。

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