石ころ

世の終わりの備え①(ルカ21章)




ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ21:2~4)


21章に書かれている終わりの時代にも、彼女のようである者は何ひとつ失うことはない。主だけがすべてであり、世に何も持っていない者の祝福である。

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21:5~6)


世にあるすべての物は滅びる。立派な神殿も石垣ごと崩される。
ただ、このお方だけが永遠に残るものを持っておられる。脆い土の器のようなからだをもって、神が人となって来てくださったイエス・キリストである。しかし、人は弟子さえもそのことには気づかない。

イエスさまは、人が殺すことさえできるからだの内に、すべてのいのちを包含して来てくださった。それも無力な赤子となって・・、それこそ究極の謙遜である。
その神の謙遜のゆえに、人はイエスさまを礼拝することが困難なのである。そのような謙遜を、人は見たことも聞いたこともないからである。

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ21:8)


イエスさまの交わりにあるのキリスト者は、御声をいつも聞いている。その日にキリスト者を守るものは、聞き続けたみことばである。主の呼ぶ声を知っている者が、他のものに付いて行くことは決してない。

島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。【主】は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。(イザヤ49:1)


偽キリストは王のようだろう。輝かしく神々しく見えるであろう。
しかし、救い主は無実の罪によって十字架で殺されるお方であった。死んで墓に葬られたお方である。
そのようにして、すべての人の罪を神の前にあがなった三日後に墓は空であった。
救いを成し遂げてくださって、今は天の父の右の座におられる。また、不思議なことに、霊に置いては信じる者の内に居てくださるのだ。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事