石ころ

失われたものを回復してくださる主(マルコ5章)




彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。(マルコ5:6~8)


汚れた霊につかれた人は墓場に居た。悪霊もイエスさまを拝する。彼らはイエスさまの権威を知っており、存在の許しを乞う。それらはイエスさまの許しの範囲でしか存在できないからである。
イエスさまがお言葉によって命じるとそれらは服従する。悪霊に抑圧され支配されている人をイエスさまは解放してくださる。何事に拠らず、囚われているものから解放する権威を持っておられるのだ。

それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5:18~19)


救い出された者の任務はイエスさまのお言葉にしっかり立って、本来の居場所である家族の中で、失った時間を取り戻して生きることである。
彼になされた癒しをとおして、多くの人がイエスさまのみわざを知った。彼の存在そのものが証となるのである。

 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。(マルコ5:22`24)


娘は彼にはもっとも大切だったのだ。立場をかなぐり捨てての願い方からわかる。命の危機にイエスさまをお連れしようとするが、そこには歩くこともままならない群衆と、割り込む者がいた。

 十二年の間長血をわずらっている女が、イエスさまに癒しを求めて、群衆の中からそっとお着物に触れるとすぐに癒されて痛みが直った。

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:32~34)


イエスさまが、彼女を告白を仕向けられたのは、その行為を信仰だと祝福して、心にも回復を与えるためであった。長い間病と医者に苦しめられ人目を避けていた女が、健康な生き方を回復するためであった。

福音の恵みに預かった者は、自身の存在を光の下にさらけ出す。それまで失われ、隠されていた時間を回復するためである。光を受けた者は光の中に生きる。
長血の女は、人々の前でイエスさまの祝福のお言葉を聞き、与えられた回復を、人前にも喜んで生きるようになるのである。

 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。(マルコ5:35~36)


間に合わなかったのだ。その時、「恐れないで、信じていなさい」というイエスさまのお言葉を聞いた。どこまでイエスさまのお言葉を信じるか、それがこの父親の信仰の歩みであった。しかし、イエスさまはぴったりと彼と一緒に歩いていてくださった。不信仰が入り込む隙がない距離に居てくださった。

 祈りが間に合わないと思えることがある。今更取り返しがつかないと・・。でも、それは世の時間の問題であって、イエスさまには手遅れはない。「神にはどんなことでもできる」のであり、信仰は時間に縛られていない。だから、事が終わったとみえる時も祈る。イエスさまへの祈りは、失われた時を取り戻す力がある。

中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。(マルコ5:39~40)

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:55)
死は命の造り主である主を嗤う。しかし、イエスさまが来られた今、もう死に勝利はないのだ。十字架によるたまものは永遠のいのちである。

そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。(マルコ5:41~43)


イエスさまの癒しは完全で12歳の元気に戻され、食事という日常を回復してくださった。
マルコ5章には人の弱さによる叫びを聞いて、失われたものを回復してくださるイエスさまが記されている。
今も主は、祈りに応えて失われたものを回復してくださる。そうして本来あるべき姿におき、その存在によって主を証させてくださるのだ。

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