石ころ

雲の柱火の柱(出エジプト13章)

 

「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」(2)

 

イスラエルの民の解放のために、神はエジプト人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。その時、神に守られたイスラエルの長子も家畜の初子も神のものなのである。

それは、エジプトで成された神のわざを子孫に伝えるための記念である。人は喉元過ぎれば熱さ忘れる者であり、あいまいな記憶は悪いものによって事実を歪められたり、神のわざをも持ち去られるからである。
あれほどの犠牲を伴った神の御わざが永遠に記憶されるために、神のわざによって解放されたエジプトを出る前に、神は明確な形として残すことを命じられた。

 

このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出されたからである。」(16)

 

手にしるして行動の基本とし、額にしるして神の戒めにある身を現して神に依存して生きるためである。きよい家畜の雄の初子はいけにえのためのものであり、長子の男の子が生まれたら銀を捧げてあがなった。

その贖いの代金として、生後一か月たってから、一シェケル二十ゲラの聖所のシェケルで、銀五シェケルを払わなければならない。(民18:16)

 

 イエスは銀貨30枚で売られ、十字架ですべての人のあがないを完成してくださった。その救いを受け入れた者は、キリストの義をたまわり、滅びることのないいのちを実現してくださったのである。それは神が御子の命をもって、罪の滅びからあがなってくださったのである。

 

モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、主があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。
アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。(3~4)

 

今、私たちが神に救い出された時を覚えて居なければならないのは、滅びるべき者が新しくいのちを得た日であり、永遠のいのちの誕生日だからである。それぞれの「私」を神がおおいに顧みてくださった日だからである。

 

主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに与えられるとき、
最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。(11~12)

 

カナンの地に入ってからの規定が、エジプトを発つ前に語られることは全能の神のしるしである。この旅が完全な神のご計画であり、イスラエルの民の力には拠らずに成就することを現わしているからである。

 

さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」(17)

 

物事に遠回りさせられる時間は神の守りである。私たちが塵に過ぎないことをご存じの主が、時間をかけ忍耐をもって寄り添い、かっての不信仰や思い上がりに逆戻りしないように守っていてくださる。それによって今日の信仰生活が在るのだ。

それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。(18)

 

しかし、その列には老人も居れば乳飲み子も妊婦もいただろう。生まれたばかりの家畜も居ただろう。その隊列とは、みな神の言葉から反れることなく一つの方向に進んで行ったことにあるのだ。

 

モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。(19)

 

ヨセフは、神がイスラエルの民がカナンに導かれることを信じていた。その信仰の上にこの日がある。すべては神の綿密なご計画の中にあり、信仰者は神の良い計画の全貌はまだ見てはいなくても知るのだ。

 

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。(21)~22)

 

この章を読む時心が躍る。苦難の時には度々この箇所をイメージして望みを得ていた。
万軍の主がご自分の民の前を進み、昼も夜も離れることなくご自身を現わされた。それはどれほど安心なことであろうか。

 

私たちはこの記述によって神のご真実を学ぶことがでる。今は、事実キリスト者のうちには三位一体の神がおられるのである。
そうして世の命の日々にも、命の必要な備えと助けを準備して、聖霊の導きによる喜びと感謝を与え、親しいお交わりをたまわっているのである。
そう、昼も、夜も、夢にも、現(うつつ)にも離れることなく、心の奥深く霊のうちに居てくださるのである。


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