自然を求めて近辺ぶらり

四季折々の風景、草花、野鳥などの写真を紹介しています。

キセキレイ小首傾げて水の中

2024年01月01日 | その他

                                                   (カルガモ)
キセキレイ
キセキレイが、浅い川の中を歩き回っています。
時々立ち止まっては、小首を傾げて水面を
見つめたと思うと、素早く嘴を突っ込みます。
どうやら、水生昆虫が狙いのようです。
時々、それらしきものを口にしていました。




















虫のようなものをくわえています。








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コロナ感染で自宅療養していました。

2023年09月20日 | その他
ご無沙汰いたしております。新型コロナウイルス感染症と診断され自宅療養していました。女房殿が9/1に陽性と診断されたのに伴い、私も9/5に抗原検査を受けました。この時は陰性でほっとしたのですが、9/13朝に37.1°の発熱があり、再び抗原検査を受けたところ、今度は陽性と診断されました。血液中の酸素の濃度は96%で正常値の範囲内でした。発症日は37°台で推移する発熱でしたが、発症2日目の夜に38.8°まで上昇し、3日目朝には喉の痛みが激しく、声かすれの症状まで出たので、喉の薬と解熱剤を処方してもらいました。その薬が効いたようで、発症4日目の夜に汗がドバーッと吹き出し、それを境にして翌朝からは平熱に戻り、今日までその状態が続いています。ワクチン接種6回の効果で重症化せずに、この程度で済んだのかもしれません。一応、9/19以降の外出はOKということですが、喉の痛みが若干残っており、慎重を期して今暫く様子見としたいと思っています。そういうわけでブログのネタ切れということもあり、ブログ更新はもうしばらくの間お休みとさせていただきます。再開いたしましたら、またよろしくお願いいたします。前回 (9/13) のブログにコメントをお寄せいただきました皆様、ご心配いただきました皆様、ブログ未更新にもかかわらず、ご訪問いただきました皆様に心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

新型コロナウイルス感染症の治療薬
朝と夕方の2回、各3錠を5日間服用 (左が朝服用分・右が夕方服用分)

病院からもらった資料です。園児・小・中学生用ですが、大人にも適用されるようです。


過去に撮影した写真から
椛の湖の "そばの花"

中津川市・椛の湖のそばの花が見頃を迎えているようです。
この写真は2017年9月29日に撮影したものです。







キクイモ


ヒガンバナ




椛の湖 (はなのこ)


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スカイプロムナードから眺めた夜景

2023年01月10日 | その他
灯ともし頃に名古屋駅前のミッドランド スクエアにやってきました。名古屋の街並みをほぼ360度一望できる幻想的な夜景を見るのが目的です。オフィス棟B1Fよりシャトルエレベーターで42Fへ上がり、エスカレーターを乗り継いで、44F-46Fにある屋外展望台スカイプロムナードまで上がります。上がったときは薄暮といった感じでしたが、次第に夕闇が濃くなってきます。夜景を見てから帰路につきました。
地下街を通ってミッドランドスクエアに向かいます。
地下街で撮影



ミッドランドスクエアに着きました。
ビルの名称は「日本の真ん中(ミッドランド)」にある「広場(スクエア)」という意味から名付けられました。
中部地方で最も高い247㍍を誇る超高層ビルです。



シャトルエレベーターで41Fに上がります。


エスカレーターを乗り継いで
46Fのスカイプロムナードに到着


スカイプロムナードからの眺望
南方向




名古屋駅を出ていく電車


名鉄


スパイラルタワーズ (ねじれたビル)








南東角


東方向
テレビ塔


東山タワー
その下が東山動植物園



北方向
名古屋城






北西角
お客さんの数は少なかったです。




西方向






オフィスタワー


JRセントラルタワーズ
JRセントラルタワーズの下はジェイアール名古屋タカシマヤ




45F






名古屋駅周辺の夜景
ミッドランドスクエアーを後にして名古屋駅前に来ました。
名古屋駅周辺周辺を彩る街灯りです。



JRセンラルタワーズとジェイアール名古屋タカシマヤ


















ミッドランドスクエア
スカイプロムナードはこのビルの中にあります。


オフィスタワー

大須観音へ新年初詣り

2023年01月07日 | その他
名古屋の大須観音新年初詣りに1月2日に行って来ました。三が日だけでも約50万人もの人が初詣に訪れるといわれるだけあって、『大悲殿』の前は参拝客で大行列ができています。御本尊・聖観音さまにたどり着くまでに約40分を要しました。


一定の人数だけが大悲殿に進むことができ、この人たちが全て参拝を済ませられてから、次のグループが進むという方法がとられていました。






屋根の上には、おびただしい数の鳥がいます。


鳥は全て鳩です。一斉に飛び立つとこんな感じです。一体何羽いるのだろう・・・。






大悲殿から見ると、これだけの人が順番を待っていました。




大須観音通りは大勢の人で、歩くのもままならない状態です。




大須仁王門通りもこの混みようです。
いずれの通りも歩くのを避けて、
人の少ない大通りを歩いて移動しました。



今年もよろしくお願いいたします。

2023年01月01日 | その他

錦海湾の初日の出
上の写真は1999年末から2000年1月にかけて四国一周をした帰りに、岡山ブルーライン随一の景観を誇る一本松展望公園から錦海湾に上る初日の出を撮影したものです。
香川県の高松港から岡山県の宇野港に向かう宇高国道フェリー (2012年に航路休止) の船上から、瀬戸内海に沈む1999年最後の日の入りを眺めた後に、道の駅・一本松展望公園に着くと、車中泊をして翌日の初日の出を見ようという車が数台止まっています。仲間入りをして、ここで一夜を明かすことにします。翌早朝、詰めかける車の音で目覚めます。その数の多さにはびっくりでした。広い駐車場があっという間に満車です。錦海湾上に太陽が顔を出すと拍手と歓声が上がります。初日の出の素晴らしかったこと。20年以上経った今でも、その光景が目に焼きついています。
(四国一周の旅は、概ね下記のコースで回りました。)

主な立ち寄り先
・日和佐ウメガメ博物館 ・宍喰温泉 ・室戸岬 ・土佐和紙工芸村 (伊野市) ・高知ひろめ市場 ・桂浜
・横浪半島 ・四万十トンボ自然観 ・竜串海岸 ・叶崎灯台 ・大堂海岸 ・宿毛 ・西海海中公園 
・宇和島城 ・臥龍山荘 (大州) ・内子 ・道後温泉 ・奥道後温泉 ・糸山公園来島海峡展望館 (今治) 
・金刀比羅宮 ・栗林公園  ・屋島 ・日本のエーゲ海 牛窓  ・竹久夢二生家 ・赤穂城跡と大石神社 ・神戸

瀬戸内海に沈む1999年最後の夕陽
(宇高国道フェリーから撮影・高松市方面を望む)


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77年前の記憶

2022年08月17日 | その他
私が小学校へ入学した年の1945年8月15日正午、昭和天皇はラジオを通じ
日本の降伏を国民に伝えた。
当時は近所の学童が上級生に引率されて集団で登校していました。
学校の正門に差し掛かると、一段高いところに置かれたボックスの中に
最上級生が竹槍を持って待ち構えていて、
引率する上級生の号令で一斉に敬礼をして正門をくぐり、
その足で御影堂に立ち寄って、天皇陛下にご挨拶をしてから教室に入るのが
決まりでした。

戦時中はB29の襲来が時々あり、空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難した
ことも何度かあります。
防空壕といっても窪地に作られた小屋に木の葉や枝をかぶせただけのもので
爆弾が落ちればひとたまりもないというお粗末なものでした。
幸いにも爆撃に合うことはなかったのですが、
B29が列車を爆撃する場面を、この目で見たことはあります。

上級生になる頃になると、戦争孤児が数人学級に加わるようになりました。
その中には小学生ながらスリの名人もいて、
同級生の持ち物をいつのまにか掏り取って、後で返すということを
何度か繰り返し、その技の見事さでみんなを驚かせていました。
多くの戦災孤児の中には、生きるためにスリやひったくりで
食い扶持を得ていたものも数多くいたといいます。
彼もまた、そんな生活を送ってきた一人だつたようです。

彼らは近くのお寺で共同生活していて、その中には戦争で夫を失い
乳飲み子を抱えた女性もいました。
その女性が、しばらく経ってから乳飲み子とともに自らの命を断つという
悲惨な出来事もありました。
これも戦争が招いた悲劇の一端です。

終戦の日を迎えるたびに、二度と戦争を起こしてはならぬという
思いを強くするのですが、
昨今の近隣諸国の不穏な動きを見るにつけ、いつ何が起こっても
不思議ではないという気もします。
日本が不戦を唱えても、相手が攻めてくる可能性もなきにしもあらずで、
そんな事態が起こった時に、どう対処するのか不安はつきません。
世界は、日本は、どこへ向かおうとしているのでしょうか・・・。

国盗り物語の舞台・岐阜城

2022年01月16日 | その他
岐阜城は一介の油商人から身を起して、美濃一国の国主に成り上がり、その容赦ない権謀術数は“蝮の道三”と恐れられた斎藤道三の居城で、元は稲葉山城と呼ばれていました。尾張のうつけ者と呼ばれていた織田信長が、道三の世子・義竜と戦い永禄10年(1567年)に攻め取った城です。外敵からの攻撃を防ぎやすい険しい地勢で要害堅固な城であった反面、兵量の補給には大変な労力を要したであろうことが容易に想像できます。守る側も苦労の尽きない城だったのではないかとも思われます。天守の近くに「金銘水」と呼ばれる井戸があるものの、水が湧いている井戸ではなく、雨水を貯めるための貯水池のような役割を果たしていたようです。
金華山の尾根道を歩いて岐阜城へ向かいます。

以前、備中高松城址を訪れた時に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍が城の周囲に堤を築いて「水攻め」にして、堅固な備中高松城を落城させたという堤防跡を見る機会がありました。一説には堤防の長さ3kmという説もあるようですが、実際には約300メートル、高さ2メートルの堤防で、それを12日で完成させたという説が有力なようです。この岐阜城も兵量の補給路を断たれたら、ひとたまりもないようにも感じました。もっとも城は最後の砦で、麓にそれを防ぐための強力な陣を構えていたことは間違いないことでしょう。


岐阜城へ到着しました。




岐阜城盛り上げ隊の皆さんが戦国武将の姿で記念撮影に応じられていました。




岐阜城








岐阜城天守からの眺望




中央に見える山上の建物が展望レストランで、その向こうが山頂駅になります。


織田信長公山麓居館想像図




織田信長公座像 (複製)


黄金の織田信長公像 (レプリカ)


岐阜城から資料館へ向かいます。(資料館方向から振り返って見たところです)


岐阜城資料館の展示物


織田信長公と斎藤道三公の肖像画


織田信長居館跡出土金箔飾り瓦 (復元)


天井絵


資料館から山頂駅まで戻り、ロープウェイで下山します。


ロープウェイ内からも麓からも見える、赤色は葉なのか果実なのか不明です。


ロープウェイ山麓駅に掲げられていた、岐阜ゆかりの戦国武将










織田信長略歴
1534年5月
織田信秀の次男として、尾張・勝幡城で生まれる

1549年 (16歳)
美濃の斎藤道三の娘、帰蝶 (濃姫) をめとる

1553年 (20歳)
斎藤道三と尾張・聖徳寺で会見

1560年 (27歳)
桶狭間の戦いで、宿敵・今川義元に勝利する

1563年 (30歳)
那古野城から小牧山に居城を写す

1567年 (34歳)
小牧山城から稲葉山城に移る。「岐阜」と改名

1568年 (35歳)
武田信玄の家臣・秋山虎繁が、岐阜来訪。鵜飼観覧に招待してもてなす。幕府を再興するため、のちの将軍となる足利義昭を立政寺に迎え、義昭を奉じて入京

1570年 (37歳)
岐阜城で、明智光秀ら家臣を呼んで茶会を開く
姉川の戦いで勝利

1572年 (39歳)
ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスらが、岐阜来訪。信長自ら、おやつを運んでもてなす

1574年 (41歳)
大坂・堺の商人であり茶人である津田宗及、岐阜来訪。宗及のためためだけの茶会を開き、もてなす

1575年 (43歳)
長篠の合戦で、勝利する。家督を長男・織田信忠に譲る

1576年 43歳)
岐阜城から安土城に移る

1582年 (49歳)
本能寺の変
京都・本能寺で、家臣・明智光秀に討たれる

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ダンボールや鉄・布のアート

2021年09月10日 | その他
企画展「ボン・ヴォヤージュ! ―鉄・布・ダンボール アートの森へ旅にでよう―」が、「高浜かわら美術館」で開催されています。ボン・ヴォヤージュは、旅立つ者に対して言うフランス語の「よい旅を!」という意味の挨拶です。3人の作家の鉄・布・ダンボールを使った素晴らしい作品の数々が9月26日まで展示されています。
ダンボール アート
屏風の虎

とてもダンボールで出来ているとは思えない出来栄えですね。


GARAPAGOS GIANT TORTISE


羊の親子




サケ




コマドリ
果汁飲料 (オレンジ) のダンボール箱を使用


ベニマシコ
コーラ炭酸飲料のダンボール箱を使用


カワセミ
輸入キウイフルーツのダンボール箱を使用


ツメナガセキレイ
紅茶飲料のダンボール箱を使用


アンナハチドリ
コーラ炭酸飲料と輸入キウイフルーツのダンボール箱を使用







ダンボールアートは吉田 傑さんの作品です。


布アート



布アートは森迫暁夫さんの作品です。


鉄アート











鉄アートは藤沢レオさんの作品です。



甘美な女性像や風景画までが展示された「クリムト展」に行って来ました。

2019年10月06日 | その他
愛知県豊田市小坂本町の豊田市美術館で開催中の「クリムト展 ウィーンと日本1900」に行って来ました。国内では過去最多となる25点超の油彩画を始めとした計108点が展示されています。大変な人気で平日にも関わらず駐車待ちの車が並んでいました。作品の貸し出しに制約がある作品も少なくなく、国内でこれだけの数が集まる機会は極めて貴重という。それもあってか来場者が15万人を超える盛況だということです。クリムト展は10月14日まで開催されています。

クリムト展 (館内は撮影禁止です)


豊田市美術館












あいちトリエンナーレは、愛知県内の4つのメイン会場を舞台に開催されている国内最大規模の芸術祭です。豊田市エリアも会場の一つになっており、美術館館内にも作品が展示されています。






スタジオ・ドリフト
花が自己防衛や資源の節約のために開閉する仕組みを模した作品


床に寝転んで上を見上げるとこんな感じです。












アンナ・フラチョヴアー


ダリン・サイモン




美術館から見た豊田市の街並み


奥の建物はラグビーワールドカップ2019の試合会場豊田スタジアムです。


美術館周辺
挙母城 (七州城) 隅櫓跡




又日亭




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長野県飯田市の「伊那谷道中・かぶちゃん村」を訪れました。

2018年07月15日 | その他
飯田市箱川にある、伊那谷道中かぶちゃん村を訪れました。ここは地元伊那谷へのこだわりと昭和の懐かしさが蘇る、古き良き時代の伊那谷の様子を再現してあります。日帰り温泉水晶山温泉やキャンプ場も併設されています。

長屋門




中馬館
「中馬」とは、江戸時代中期ごろから明治時代にかけて、伊那地方の農民によって行われた運送業の事を指します。中馬街道は三河湾で取れた塩などを信州へと運ぶ主要な道でした。


中馬館内部








村の街並みと建物














水晶宮




道祖神


赤地蔵


大平資料館
中山道の妻籠宿と南信の城下町飯田市を結ぶ大平街道の中間、標高1100m地域にあった大平宿の山深い生活の様子がしのばれる資料館です。大平の生活は主に山の仕事でした。住民は昭和45年に離村し飯田方面へ移住しました。












太田家薬医門
太田家とは、飯田市山本竹佐地区の庄屋・戸長を長く勤めた旧家。その門を移築し、内部に様々な展示をしております。


昭和館
昭和初期の懐かしい生活道具の展示館です。






絵馬堂
地元の画家たちによる大きな絵馬が展示されています。








キャンプ場


開運楼
地元の名産などを扱う総合売店です。


新しい生命の誕生・ドジョウの産卵

2018年05月14日 | その他
池というよりも湿原といったほうが良いのかもしれません。この小さく浅い池の水面が時々揺らぎます。何かいるのかと覗き込むと、数匹のドジョウが絡み合い、もつれ合いながら産卵を繰り返しています。それも一カ所だけではなく数カ所で行われていました。一匹のメスに数匹のオスが群がるようです。一説にはメスのドジョウ一匹が数回に分けて数万個とも数十万個ともいわれる卵を生むようです。最後に産卵後の様子を掲載しました。おびただしい数の卵です。




































この卵の数の多さには驚きですね。この写真はほんの一部を切り取ったものです。



昭和30・40年代の瀬戸の町並みを再現した『瀬戸蔵ミュージアム』

2018年02月24日 | その他
瀬戸蔵の「ひなミッド」を見てから。同じ建物の2・3階にある瀬戸蔵ミュージアムを見学しました。瀬戸には、瀬戸焼の始まりよりもさらに古い3万年前の昔から、人々の暮らしを物語る資料が残されているとのことです。2階には瀬戸焼製作の全工程がわかるやきもの工場やせともの屋、生産道具展示室などと共に昭和30、40年代の瀬戸の町並みを再現してあります。3階は古墳〜江戸時代、明治時代〜現代までの瀬戸焼の歩みがわかるようになっています。

瀬戸焼のお雛さま地上絵
瀬戸焼の茶碗や皿を使って作られています。(展示は3月4日まで)




瀬戸ノベルティ
やきものでできた人形や動物などの置物を瀬戸ではノベルティと呼びます。
アン王女


演奏会







エルビスプレスリイとマリリンモンロー


犬のノベルティ


アメリカ向けノベルティ


ヨーロッパ向けノベルティ


やきもの工場
















乾燥中の茶碗


タイルのプレス
粘土を枠に入れて、プレス機で押して模様をつける。


タイルの模様色々


タイルの完成品(色付けされて焼きあがったタイル)


本業窯 (左) と石炭窯 角窯 (右)


皿の絵付と焼き上がり




製品いろいろ














呈茶コーナー


展示室










企画展示室










千代紙のつるし飾り


せとでん尾張瀬戸駅


昭和35年頃の旅客運賃表


せとでんは昔陶磁器などの焼きものも運んでいました。