羽生結弦選手 応援ブログ~kosumo70

日々の出来事や、フィギュアスケート、羽生選手の情報や感想など。
楽しく羽生選手を語りたいと思います。

あこがれの人を超えた瞬間・・他

2019-01-31 16:04:09 | 日記
 今日の更新2ページ目です

 オピニオン:
 日本スポーツが躍進した平成、「できる」と信じる力=松岡修造氏
 一部紹介
 ──「できる」という感覚はスポーツにおいて大きな違いを生むのか。
 「ポジティブな思考の中で作り上げていくものと、ネガティブな思考で
  作り上げていくものでは大きな差が出る。

 (ゴルフの)松山英樹選手、(フィギアスケートの)羽生結弦選手、
 (体操の)内村航平選手。錦織選手を含め、昔の選手とは感覚が違う。
 彼らは最初から『できる』と思っている。私は『できない』と思っていた
 グループだった。『できる』と自分を信じられる選手は強い」
 『できる』と自分を信じられる選手は強い」

 2018年2月の平昌冬季五輪で2大会連続金メダルを
 獲得したフィギアスケートの羽生弦選手
 (2019年 ロイター/Phil Noble) 
 「子供たちはちゃんとやればできるという意識に変わった。
  昔は世界一になりたいと口にもしなかったし、思いつきもしなかった。
  今の子供たちは全員が世界一になりたいと言う。
  やりたい、できる、そういうイメージがあるのだろう」
 続きはこちらです。

 

 Yahoo! JAPAN(ヤフー)さんのツイより
 【あと3カ月、「平成」を振り返る】
 4月30日の「平成」最後の日まであと3カ月となりました。
 Yahoo!ニュース編集部が振り返る、平成30年間の
 おもな出来事は?記事はこちらです!

 五輪ぶっつけ本番の羽生がV2
 

 ミッツさんのツイより
 アナザーストーリーズでハビがSEIMEIを視聴しながら
 "楽しんでるね、見れば分かる"と
 吹き替えされてた部分、スペイン語を聞き取って
 英語に訳してくださってます🙏💕
 "彼の一番お気に入りの瞬間だ。
 表情にそれが表れてるよね。凄く疲れてるだろうけど
 見て取れる"

 pukuさんのツイより
 プル様が「彼こそがフィギュアスケートの未来になる」って
 語ってる動画探してたのやっと見つけた!!
 2013スケカナ6練中のVTR(0:50〜)だった✨
 羽生結弦スケートカナダFS(B・ユーロスポーツ日本語訳)
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 <過去の記事から> 2014年 始めてのオリンピック・ソチ
 羽生結弦選手2

 ロシアの皇帝から日本のプリンス・羽生結弦に渡されたバトン
 フィギュアスケート男子シングルで日本に初の金メダルを
 もたらした羽生結弦(はにゅう・ゆづる)。
 無限の可能性を秘めた19歳に、多大なる影響を与え続けて
 きたのが、ロシアの“皇帝”エフゲニー・プルシェンコだ。
 ロシアの英雄と日本が生んだ新世代のプリンスの邂逅
 (かいこう)をたどる。

 羽生を虜にした2強対決
 1994年12月7日、宮城県仙台市で羽生は生まれた。
 フィギュアスケートと出合ったのは
 4歳のとき。荒川静香、本田武史ら、仙台のリンクで育った選手が
 1998年2月にあった長野五輪に4人も出場していたことで、当時の
 仙台ではフィギュアスケートブームが起きていた。

 元五輪代表の佐野稔氏が仙台で開いたスケート教室に、姉について
 いく形で通い始めた4歳の羽生。
 数年の月日が流れたころ、楽しく滑っていた無垢な少年の目の前に
 現れたヒーローが、プルシェンコだった。

 2002年ソルトレークシティー五輪。羽生はテレビに釘付けだった。
 当時19歳のプルシェンコと、アレクセイ・ヤグディンの
 “ロシア人対決”に胸を躍らせていたのだ。
 
 2強のうち、最初に頭角を現したのは、15歳で出た1998年3月の
 世界選手権で銅メダルに輝いたプルシェンコ。その翌年に
 ヤグディンが台頭してきた。2人のトップ争いは熾烈だった。
 4回転、コンビネーション——。
 互いが互いに勝つために、プログラムをどんどんレベルの
 高いものに切り替えていく。

 「僕にとって、五輪のイメージは
  “プルシェンコとヤグディンが激しいバトルを
  繰り広げた場所”なんです」

 こうして迎えた2002年2月14日、男子シングルフリー。
 ショートプログラム4位から猛追を見せたプルシェンコを
 振り切って金メダルを獲得したのは、ヤグディンだった。
 しかし、羽生を虜(とりこ)にしたのは、銀メダルに終わりながら
 も強烈な印象を世に与えたプルシェンコの方だったのである。

 たくましい踏み切りから繰り出される4回転トゥループジャンプは
 もちろんのこと、高い柔軟性が求められるため男子にとっては
 非常に難しいビールマンスピン
 (片足を頭上に伸ばし、体を反らした姿勢でブレードを
  持ち上げながら回転するスピン技)は圧巻だった。

 体の柔らかさには自信のあった羽生は、すぐにビールマンスピンを
 練習した。髪型はプルシェンコを真似てマッシュルームカットに。
 サイン色紙には自分の名前よりも大きな、キノコのイラストを
 丁寧に書き添えていた。

 「一枚書くのにも時間がかかって大変だったけど、
  あのころは僕にとってキノコがラッキーチャームだった。
  プルシェンコ選手は、僕にとってあこがれの選手で、
  今もあこがれている」

 あこがれの人を超えた瞬間

 それから12年の歳月が流れた2014年2月。
 羽生とプルシェンコは、ソチのリンクで初めてともに戦った。
 羽生19歳、プルシェンコ31歳。
 団体の男子ショートプログラム(SP)が2人の最初の“そろい踏み”
 だった。トリノ五輪以降、ケガなどの紆余曲折を経てきたプルシェンコは、
 故障のため今シーズンは公式戦に出ていなかった。

 しかし、過去の実績をひっさげて一人だけの特別な選考会を開き、
 力技で代表入りを果たした。それだけ、地元五輪での金メダル獲得に
 意欲を燃やしていた。

 先に滑ったプルシェンコの演技はさすがだった。
 五輪の団体戦だったが今シーズン初の国際舞台とは思えないような
 安定ぶりで自己ベストの91.39点をマーク。
 会場はスタンディングオベーションに包まれる。

 だが、プルシェンコを上回ったただ一人の選手がいた。
 その人物こそが羽生だった。
 4回転トゥループジャンプをはじめとする3つのジャンプをすべて成功させ、
 ステップも会心の出来映え。97.98点で文句なしの首位だ。
 羽生の五輪デビューは“満点”の内容だった。

 最終的に団体はロシアが優勝し、プルシェンコは2つ目の金メダルを獲得。
 日本は5位に終わった。さあ、次は男子シングル——。

 金メダルが新たなスタート

 ところが、ここでアクシデントが起きた。
 SPの直前練習でプルシェンコが転倒して腰を強打し、棄権を申し出たのだ。
 結果、羽生がSP1位、フリーも1位で金メダルを獲得。
 プルシェンコの演技に衝撃を受けてからちょうど12年目の2月14日、
 羽生は世界の頂点に立っていた。

 「プルシェンコ選手が棄権したことは残念だった。
  でも団体戦で一緒に滑ることができて良かった。幸せだった。
  それだけで夢のようだった。
  今まで感動できる演技を届けてくれてありがとうと言いたい」

 羽生は今、「僕のスケート人生はまだまだ続いていく」と
 前を見つめる。次世代プリンスと目された時期を一足飛びに突き進み、
 王座に就いた羽生にとって、ソチ五輪の金メダルは
 世界最高のフィギュアスケーターになりたいとの思いに新たな炎が
 宿ったに過ぎない。

 一方で、過去3度出た五輪で銀金銀とすべてメダルを獲得している
 プルシェンコが、痛んだ体にムチ打ってソチ五輪出場に
 こだわったのには、2010年バンクーバー五輪で、4回転を飛ばない
 エヴァン・ライサチェク(米国)が金メダルを獲ったことへの
 アンチテーゼの意味合いが含まれている。

 フィギュアスケートは進化していくべきであり、チャレンジして
 こその競技である。なのに、リスクを恐れて4回転を跳ばない選手
 に最高の評価を与えるのはおかしいのではないか。

 プルシェンコの「4回転論争」にこたえた羽生

 プルシェンコのこの訴えは「4回転論争」を巻き起こし、その後の
 採点基準の改正につながった。
 ソチ五輪では4回転トゥループを完璧にこなし、もっと難しい
 4回転サルコウにも挑戦した羽生が金メダルを獲得したのだから、
 皇帝も心安らかだろう。

 「今回の五輪では、はっきり言って自分の演技には満足していない。
  でも、結果として優勝したということを、日本人として
  誇らしく思う。金メダルを取って、ここからこそがスタートだと
  思っている」

 そう言って己を律する羽生の目標は、プルシェンコのような選手に
 なるということだ。
 
 「今後はプルシェンコ選手みたいに、どんなときでも、どんな
  場所でもノーミスでできるくらい、強い選手になりたいと
  思っている」。
 
 12年のときを経てあこがれの存在と同じリンクで勝負した羽生。
 たった1日の邂逅は、謙虚な新王者が皇帝のバトンを
 受け継ぐための儀式だった。
 矢内 由美子(2014年2月18日 記)
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 【MAD】羽生結弦 僕の声~GPS2018 Helsinki~
 ゆづマミさん

 
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羽生選手らとバレンタインキャンペーン起用~

2019-01-31 02:28:34 | 日記
 oroさんのツイより
 「VALENTINE LOTTE」
 グラフィックは2月4日から東京・新宿駅や大阪駅の交通広告、
 東京・原宿神宮前交差点の屋外広告などに掲出
 羽生選手は日頃の感謝の思いを贈る子から母への
 「親子チョコ」離れて暮らす家族間の心の触れ合いをイメージ
 特設サイトにもグラフィックがくる予定

 広瀬すず:竹内涼真、羽生選手らとバレンタインキャンペーン起用
 「逆チョコ」にドキッと… 記事はこちらです。
 動画はゆづ君は明日解禁? こちらです。

 

 NHKきょうとさんのツイより‏
 【NHK京都 8K上映情報】
 ピョンチャンオリンピック 8Kハイライト
 2月の上映予定を追加しました。
 お知らせが遅れて申し訳ありません。
 1/31(木) 午後1時~
 2/1(金) 午後0時~
 2/2(土) 午前10時~

 NHKオンデマンドさんのツイより‏
 フィギュアスケート で五輪連覇を達成した
 羽生結弦。歴史的快挙の舞台裏と真価を3人の超一流が激白!
 表彰式直前、羽生が涙した親友 #ハビエル・フェルナンデス
 の言葉とは! アナザーストーリーズ
 NHKオンデマンド で配信開始!(有料)

 yumiさんのツイより
 プレロテ
 ハビの発言でまた注目されてるけど実は今年
 佐野氏がそれに触れてた
 再掲だけどこんなにも違うプレロテが
 未だ採点外である事もハビが主張したい点だよね
 ジャッジは一瞬に判断するのは至難だけど
 そのためにvideoがある(動画)
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 <過去の記事から> 2014年 始めてのオリンピック・ソチ
 羽生結弦選手 インタビュー

 
 ■初めての大舞台は「普段と同じ試合」

 ――初めてのオリンピックはどうでしたか?

 僕にとってオリンピックというのは、祭典とか特別な試合という
 枠ではなくて、ただただ最高の舞台、という感じで漠然としていました。
 ソチに入った後や、団体戦が終わった後からショートプログラムまでの間は、

 「これがオリンピックか!」
 という感じがすごくしていたのですが、いざスケート靴を履いて
 練習してみたら、もうほとんどオリンピックだという感覚は
 なかったですね。どんな試合でも緊張するから、それが一緒
 なんだなと思いました。

 ――「自分は今、オリンピックで演技をしている」という
  感覚はなかったのですね。

 実際に行ってみると、あまり感じませんでした。
 ただそれは、あくまでも自分の解釈ですが、頭の中で感じないように
 処理していたんだと思います。人間の体ってショックを受けると
 痛みを感じなくなりますよね。そういう現象に陥ってたんじゃないかと。
 それが緊張や体の硬直、呼吸の速さ、脈拍数、そういうものに
 すべてつながっていって、最終的にはベストパフォーマンスができない。
 それが“オリンピックの魔物”なのかなと思います。

 ――実際に脈拍が上がっていると感じていたのですか? 

 すごく感じていました。ただ、僕はどちらかというと緊張している
 時の方が結構いいパフォーマンスができるタイプなので、
 緊張は嫌いではないですし、何とかなるという感覚はありました。
 やっぱりどこかしら処理できない、見つめ切れない自分の緊張感と
 いうものがあったんだと思います。

 ■個人戦に向けていい収穫になった団体戦

 ――お客さんの雰囲気はどうでしたか? 
 団体戦の時は雰囲気が独特でしたね。

 そうですね。でも実は僕、「ロシア」コールじゃなくて
 自分のコールだと思っていて、すっごくうれしかったんですよ(笑)。
 (リンクに)入る前からコールされて、こんなに気持ち
 いいことはないと。

 ――自分でそう思うようにしたのではなくて、
  勘違いだったのですか?

 完全に勘違いです(笑)。

 緊張していて、自分の演技が始まる前の1分間でも
 「絶対に俺のコールだろ」と思って、すごくうれしくて。
 それでいい演技ができて、帰って(映像を)見直したら、
 どうしても「ロシア」にしか聞こえないから、
 「あれ、おかしいな」と(笑)そのとき初めて気づきました。

 ――あとから気づいてよかったですね。

 よかったです! 
 「ロシア」だと分かったら、精神的に違っていたかもしれません。
 初めての団体戦で先頭バッターというプレッシャーもありましたし、
 そのなかでいい滑り出しができたので、すごくうれしかったです。

 ――団体戦は初めての経験ですが、
  チームで戦ってみてどうでしたか?

 緊張しましたね。すごく緊張しました。
 自分がまずやらなきゃと思って……やらなきゃと
 思ってる時点でマイナスなんですけど(笑)。
 
 「エース羽生」と報道されるプレッシャーもありましたし、
 その中でできたということは個人戦に向けてのいい収穫、
 経験になったなと思います。

 ――個人戦に入ってから日本のファンも増えたと思いますが、
  声援は聞こえましたか?

 すごく聞こえました。
 団体戦でもチームの浅田(真央)さんや鈴木(明子)さんも
 応援してくれましたし、個人戦のときもたくさんの
 応援が聞こえました。
 テレビの前で応援して下さる方の雰囲気もやっていて
 感じられたので、ギリギリの勝負でしたが、
 (ファンの皆さんに)助けてもらいました。

 ――自身の競技は終わりましたが、
 女子の応援には行きますか?

 もうすぐ始まってしまうので、行けたら行きたいですね。

 ――演技直後はかなり悔しかったと思うのですが、
 フラワーセレモニーやウイニングランではうれしそうに
 していたのが印象的でした。

 うれしさというよりも、びっくりしてハイになって
 いたという感じでした(笑)。
 
 やっぱり自分が納得できなかったし、悔しかったし、
 最後のポーズで「ダン!」と手をついた瞬間に
 「あ、俺のオリンピックはこれで終わった」と思いました。
 誰しもがそう思いましたよね(笑)。
 うれしくないと言ったら嘘になりますが、うれしさというか、
 そういうものを感じることはまだなかったです。

 ――パトリック・チャン選手(カナダ)とは
  何か話をしましたか?

 僕自身がパトリック選手の演技をすごく応援していたので、
 「どうしたの? 何が起きたの?」という話はしました。
 彼も「分からない」って言っていましたし、自分もいい演技が
 できなかったので、多分同じ境遇にいたと思います。
 彼とはまた試合で会うと思うので今度はお互いに全力で
 ぶつかりたいと思います。

 ■生まれ育った仙台、東北への思い

 ――宮城県出身ということで、東北の皆さんにすごく
  勇気や元気を与えられたのではないかと思いますが、
 改めて皆さんへの思いを教えて下さい。

 震災があったシーズン(2011年~12年シーズン)は
 練習環境もあまり整っていなくてつらかったです。
 そのシーズンの初めごろは「僕が何かしなきゃ」とずっと
 思っていました。シーズン最後の世界選手権で銅メダルが
 取れたのですが、そのとき、被災地の方々、東北の方々が
 すごく僕を支えて下さって、逆に勇気をもらっていたなと
 思ったんです。

 今回も被災地を含めた東北の方々や宮城県、仙台市のみなさん、
 また日本で応援して下さっている人たちがたくさんいました。
 その方々にどれだけ勇気をもらえたか、どれだけ背中を押して
 もらえたかをすごく感じているので、逆に本当にありがとう
 ございましたと言いたいです。
 もしかしたら、この金メダルは羽生結弦じゃなくても
 よかったかもしれません。
 でも、僕というその存在の中にたくさんの思いが
 宿っていると思うので、決して一人じゃないということを
 忘れないようにしたいですね。本当にうれしかったです。
 (日本オリンピック委員会より)

 
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