武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
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大宅壮一さんのこと

2024年04月19日 13時18分28秒 | エッセイ・私事など

<2010年7月に書いた以下の記事を復刻します。>

大宅壮一さん

1) 先日、ある方のブログを訪問したら、昭和の大評論家・大宅壮一氏の有名な言葉「一億総白痴化」の話が出ていた。この言葉は1957年(昭和32年)に、大宅氏が「テレビというのは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると一億総白痴化になる」といった趣旨で述べたと伝えられている。
 詳しいことは分からないが、この「一億総白痴化」というフレーズはとても有名になり、テレビを論じる時は長く使われた。調べてみると、同じ頃に作家の松本清張氏もテレビについて「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」と述べたと言われる。 とにかく、テレビ初期の時代は余りにも低俗な番組が多く(今でもそうかもしれないが)、知識人の多くが日本の将来を危惧したようである。
 
しかし、私がここで言いたいのは、大宅さんほどテレビを愛し、テレビを活用したジャーナリストも珍しかったのではないかということだ。
 あれは1964年(昭和39年)の夏だったか、当時、自民党の大実力者であった大野伴睦という政治家が亡くなった。大野は東海道新幹線の駅を地元の岐阜県・羽島市に誘致したと批判されていたが、これに関連して、大宅氏はテレビで「あんな政治家は早く死んでくれて、日本のために良かった」という趣旨の発言をした。
 今ならそれほど問題にならなかっただろうが、大野伴睦氏が死んだ直後だっただけに、自民党・大野派の国会議員らが烈火のごとく怒り、「大宅を国会に呼べ!」などと大騒ぎになった。この時はテレビの担当者も連日大変だったようで、なんとか自民党議員らをなだめすかして事態を収めたようだ。
 
このように、大宅さんは新興メディアのテレビを活用して言いたい放題であったが、翌1965年(昭和40年)には、なんとテレビニュースのキャスター・司会者として登場したのである。あれほどテレビを「白痴化」の元凶だと非難していたのに、自ら番組の司会者になったのだ。ニュースキャスターだから、真面目なものと判断したのだろうか。
 私はその時、フジテレビの新米社員で番組のAD(アシスタント・ディレクター)だったから、大宅さんの“付き人”みたいな形でずっとお世話をさせてもらった。番組は「大宅壮一サンデーニュースショー」と言って、毎週日曜日に生放送するものである。ニュース原稿はもちろん女性アナが読んで、大宅氏がいろいろ解説を加えるというものだ。
 初めは、テレビを白痴化の元凶と決めつけた大宅氏だっただけに、非常に怖い人かと思って接したが、全くそうではなく実に優しい人柄であった。われわれスタッフに怒ったことは一度もなく、好奇心が旺盛な人だからテレビとはどんなものか楽しんでいる風情なのだ。 私はその時「この人は根っからのマスコミ人だな~」と思ったのである。

2) 大宅さんは博覧強記というか、とにかく何でも知っているので“付き人”でいる間はとても勉強になった。私は単に番組のADという立場だったが、大宅門下生というのは草柳大蔵氏を始め数多くいて、それらの人たちがやがてテレビでも大いに活躍するようになる。 そう考えると、大宅氏は一億総白痴化の元凶と言いながらも、テレビジャーナリズムの原点を作った一人と言えよう。
話が面白かった例として、これはやや品が悪いが“エロ話”も得意だった。ある時、別の番組で政治・経済のティーチインをやることになった。大宅さんが評論家の立場で一人だけ出ることになり、あとは政治家や財界人が7~8人出たと思う。
 その事前の打ち合せ会で、私が番組進行の説明などをしたのは良かったが、本番までかなり時間が余ってしまった。こういう時は所在ないものである。まして、自民党の国会議員も財界人も大宅さんを快く思っていないので、なんとなく気まずい雰囲気になってしまった。
 ところが、大宅さんだったか誰かがひょんなことで“女”の話を持ち出した。すると、いい年をした男ばかりだから、急に話が弾んで皆が生き生きとなった。エロ話も時には良いものである。自民党のある議員がここぞとばかりに、女のことで大宅さんに質問する。すると大宅氏は待ってましたとばかりに、とうとうとまくし立てるのだ。
 エロ話だから詳しく言えないが一つだけ紹介すると、大宅さんは、外国人の女、特に若い女と結婚した日本人は大変だと言う。毎晩攻められてクタクタに疲れ、ついに離婚した男の話をすると皆がどっと笑った。
 すると、経団連のトップの人が、ロシアの女の話をおもしろおかしく始めたので、全員が興味深く聞く始末だ。本番までの待ち時間はアッという間に過ぎ、ADの私が話を切り上げるのに手間取ってしまった。ああいう時は、大宅さんという人は話上手で実に重宝するのだ。
 
昔のジャーナリスト、知識人というのはタフな人が多くて、遊びなども豪快だったらしい。大宅氏もその門下生もエネルギッシュで、群馬県の温泉旅館などへ行くと朝から晩まで、そして徹夜でマージャンをやったそうだ。温泉などそっちのけだから、旅館の人が驚いたり呆れたり・・・(笑)
 しかし、今でもよく覚えているが、大宅さんが愛する長男を亡くした時は可哀そうだった。ある日、番組の打ち合せ時間に大宅さんは遅れてやって来た。見ると目が真っ赤に充血していて「実は昨夜、息子が死にまして」と言う。
 われわれスタッフはびっくりしていろいろ気を使ったが、その日の番組は彼も気丈にやってのけた。あとで聞いたり調べたりしたら、大宅さんの息子は歩(あゆむ)さんと言って、その時、弱冠33歳だった(1966年)。
 歩さんは17歳の時にラグビーの試合中に大怪我をし、それが元で後遺症に苦しんでいたが、学問や文学に大変な才能を示していたという。彼の著書も出ているが、昔、ある雑誌に寄稿した歩さんの一文では、父・壮一氏を冷たく批評していた。「父は思想家でも社会主義者でも何でもない」と。
 つまり、息子は冷徹な目で大宅さんを見ていたのだ。歩さんから見れば、壮一氏は単なるマスコミ人、時代の流れに敏感な一ジャーナリストにしか映らなかったのだろう。しかし、どんなに批判されようとも、父・壮一氏は息子の死を嘆き悲しんでいたのだ。
 
そろそろ終りにするが、テレビを一億総白痴化の元凶と批判した大宅氏こそ、テレビを最も有効に活用、利用した人ではなかったかと思う。悪く言えば、ミイラ取りがミイラになったようなものだが、同じようにテレビを批判した松本清張氏も、その作品が最も多くテレビドラマ化された作家である。
 私はこうした点で、自分が生きてきたテレビというメディアを“誇り”に思うが、大宅氏や松本氏は草葉の陰でどのように考えているだろうか。
 以上、昭和の大評論家であり、マスコミ界の王者でもあった大宅壮一氏について述べた。(2010年7月8日)


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