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映画評 「1917:命をかけた伝令」 これを絶賛する人々 ★★★☆☆(ネタバレ全開)

2020-02-21 22:37:49 | 映画批評

映画評 「1917 :命をかけた伝令」 これを絶賛する人々  ★★★☆☆(ネタバレ全開)

 

筆者は、日本でこの映画の約1か月前に封切られた、第一次世界大戦の塹壕戦を映したドキュメント映画 「彼らは生きていた:They shall not grow old」 (2018) を観ている。

また、同じく第一次世界大戦の塹壕戦を描いた、ダニエル・クレイグ主演の 「トレンチ:The Trench」(1999) も観ている。

また、筆者は過去10年ほどのあいだに公開された主な戦争映画はほとんど観ている。最近は日本で劇場公開されていないロシアやドイツやノルウェーの戦争映画も YouTube  や amazon prime  で数多く観ている。

戦争映画についてはかなりうるさいほうだと思っている。

戦争映画についての筆者の持論は、「すべての戦争映画はプロパガンダである」 というものである。

今回の 「1917: 命をかけた伝令」 もこの例外ではない。

 

ストーリーをざっと紹介しよう。

舞台は、第一次世界大戦の終結の前年の1917年の或る日のフランスの田舎で、塹壕戦で膠着状態にあった英軍とドイツ軍の双方に或る動きがある。ドイツ軍が密かに撤退したために英軍の或る部隊が一斉に追撃して殲滅しようと準備をしている。しかし、英空軍の航空写真の示すところによって、撤退は陽動作戦で、ドイツ軍は撤退したふりをして退路の途中で圧倒的な大部隊を密かに配置して虎視眈々と待ち伏せしていることがわかった。しかし、当時の主要な通信手段であった有線電話の電線がドイツ軍によって切断されていたために、翌朝の追撃を準備している 1600名の英軍の部隊にドイツ軍のワナを知らせて追撃を中止させるのに電話が使えない。そのために若い兵士2名が伝令として急遽送り出されることになる。途中でドイツ軍に見つかって殺されれば、味方の1600名の兵士たちも大殺戮の罠にはまってしまうという重要な使命を帯びて二人は出発する。

  「お前たち二人が失敗すれば、大殺戮になる。」

この非常に重要な任務を果たすために、ドジな失敗を重ねながら敵地を突破し、2人のうち1人だけが最後は辛うじて使命を果たすというヒロイックな物語である。

 

 

見かけ倒しの “全編ワンカット” 

今回のこの映画は、「全編ワンカット」 による 「戦場への圧倒的没入感と臨場感」 という触れ込みの前宣伝が周到になされ、実はこの筆者もほとんどそれに乗せられたようなものである。

「全編ワンカット」 についての結論を先に言っておこう。

はっきり言って、「別にどうってことないじゃないか」 「どこがどうだっていうの?」 という感じである。映画撮影技術的には多少革新的なのかもしれないが、「シームレスなワンカットだから何だ?」 という感じなのだ。

そもそも、ふつうの “継ぎ接ぎカット” で編集した映画だって、観客は目障りだとは思っていないし、ふつうのそうした編集を大して不満にも思っていないのだ。実際、“継ぎ接ぎカット” には様々なメリットがあることは今さら言うまでもないだろう。“シームレスのワンカット” にこだわり、それをことさら “ウリ” にする意味がどれだけあるかはなはだ疑問だ。

映画制作者の側は自分たちのせっかくの技術的苦労を一生懸命に前宣伝の目玉にしているわけだが、映画の中身とは全く別の話ではないか。一方、商業ベースの薄っぺらな批評家たちは、そうした製作者側による宣伝のための テクニカルな謳い文句 をそのまま受け売りして 「すごい!すごい!」 と絶賛しているが、「実はそれほど大したものではない」 というのが本当のところだ。

映画であれ、服であれ、シームレスであることに格別の意味はない。

実際、映画中で兵士がトラックの荷台に乗り込むシーンでは外から背中を撮っていたかと思うと、瞬時にトラックの荷台の奥からの撮影に切り替わって、同じ兵士がすでにベンチシートに腰を下ろしている姿を映しているのだ。左の画面から “瞬時に” 右の画面に切り替わっている。このあいだのシーンは無い。

こういった調子なのに、どうして 「全編シームレスのワンカット」 と言えるのだ?しかも、他にもこうした “継ぎ接(は)ぎ” がいくつもあるのだ。ということは 「全編シームレスのワンカット」 という謳い文句は、“不当表示”、 “誇大広告” の疑いすらあるということだ。

 

 

さて、筆者は伝令役の二人の俳優がなかなか好演していることを認めるにやぶさかではない。しかし、ストーリー中の対照的なキャラクターにあまりにも見た目が合致しすぎていて、まるでディズニーアニメの登場人物のようだ。

実際、“あまりにも単純なストーリー” といい、“対照的なキャラクターコンビの珍道中” といい、“ディズニーアニメの実写版” のような出来上がりだ。

全面退却をして無人となったドイツ軍の塹壕陣地に辿り着くと、イギリス軍の泥だらけのぬかった塹壕とは大違いで、堅固なコンクリートの地下壕があり、中の兵舎にはスチール製のベッドが整然と並んでいる。

ドイツ兵が残していった家族の写真に一瞬目を止める。このシーンが唯一ドイツ軍兵士に一片の人間性を認めるシーンである。人間性というよりは、この地下壕に実際にドイツ軍兵士たちが寝起きしていたという生活感をかもしだすための小道具と言うべきか?

 

牛乳の入った桶の “謎”

2人は途中ドイツ軍の占領地域に入る。無人の農家の納屋に、搾って間もないと思われる牛のミルクが桶に入っているのを顔の長い方のスコフィールドが見つける。

スコフィールドは手ですくってまだ飲めることを確かめ、それを自分の水筒に入れる。桶のフタが半分ほど開いていたので発見されたという設定なのだが、この “見え透いた伏線” が後半で “回収” されることになる。

そもそもドイツ軍の占領地域でフランスの農民が呑気に牛の乳を搾っているだろうか?誰もがとうに逃げ出しているはずで、実際地平線には農民の姿など皆無である。まさかドイツ兵が搾った牛の乳ではあるまい。

念の入ったことに、まるでここに来たひとに必ず発見してもらうためであるかのように、桶のフタがなぜか半分開いていて中の白い液体が目に付くようになっているのだ(下の左側のシーン)。ハエなどの虫がたかっている様子もない。これが “天の配剤” として周到に仕掛けられていたことが、追って明らかになるのだ。

 

さて、丸顔のブレイクと長い顔のスコフィールドという対照的なキャラクターの弥次喜多道中だが、丸顔の陽気なブレイクが道中あっけなく敵に殺されてしまう。

このエピソードが実に意表を突いている。敵地を進む二人の頭上で空中戦が始まり、大きく被弾したドイツ空軍の複葉機が火を噴きながら、二人の立っている方向に不時着してくるのだ。決してあり得ないとは言わないが、実に “マンガ的展開” である。

この瀕死のパイロットを 「楽にしてやろうか」 とスコフィールドが言うが、ブレイクは "No!"  と言い、井戸を指さしてスコフィールドに水を汲んでくるように指示し、自分は瀕死のドイツ軍パイロットを介抱し始める。

しかし、スコフィールドが必死に井戸のポンプの柄を上下しているときに、ブレイクはドイツ軍パイロットにナイフで腹を刺されてしまうのだ。

このエピソードのメッセージはこうである。

心優しいイギリス兵 は重傷のドイツ軍パイロットを、燃える複葉機から救い出して助けようとするが、恩知らずのドイツ兵 はためらうことなくイギリス兵を殺そうとする。

しかし、このエピソードには若干無理がある。この重傷のパイロットは幸運にもイギリス兵に助けてもらえたのだから、そのままでいればおそらく殺される心配はなく、手当までしてもらえる公算が大である。明らかに自分が殺されるような兆候があれば、ナイフで攻撃するのも理解できる。しかし、少なくとも燃えている複葉機から引きずり出してもらっているという状況である。さらに自分を介抱してくれているその相手を殺す必然性がどれだけあるだろうか?

実は、このドイツ軍パイロットがイギリス兵を殺すのは、“作劇術的な必要性” のためである。つまり、“情のあるイギリス兵と人間の心を持たないドイツ兵” という “プロパガンダ的コントラスト” の強調のためである。これはこの作品の基底となる通奏低音である。心優しいイギリス兵を美しく描き出すために、ドイツ兵の非人間性をことさらに演出してコントラストを際立たせているのだ。

 

刺されたブレイクの叫び声を聞いて、スコフィールドがドイツ兵を即座に射殺するが、あれあれ、今度はブレイクが瀕死の状態だ。スコフィールドに介抱されながら、ブレイクは泣きそうな声でこう訊く。 "Am I dying?" 「僕は死んじゃうのか?」

そうすると、一生懸命に手当てをしていたスコフィールドが実に即物的に "Yes."  「ああ。」 と即答する。さらにダメ押しするように "... Yes, I think you are." 「・・・そうだ、死んじゃうんだと思う」 と言う。

そのあとスコフィールドが黙っていると、ブレイクは死の恐怖に耐えかねて、彼に "Talk to me!"  「何か言ってくれよ!」 と 懇願する。死に際して、気休めでも何でも何か気が楽になるようなことを言って欲しかったのだ。しかし、スコフィールドは、そうしたブレイクの気持ちを察することもなく、もうわかりきっている伝令としての任務の内容をビジネスライクに復唱し、最後にブレイクの最期を彼の兄に伝えることを確認する。

そして、ブレイクはそのまま息絶えてしまう。

このエピソードのメッセージは、ハリウッドの定石の "Good people die first."「気のいい奴から先に死ぬ」 そのままである。

そして、対照的にクールでビジネスライクなこの片割れが次第に使命感に燃えだして伝令としての任務の遂行にたった独りで邁進することになる。この映画の主人公はスコフィールドだったのだ。

つまり、情に流されずにビジネスライクに考えて行動する者こそが大きな使命を果たすことができるという、わりと常識的なメッセージがここにはある。

死にゆく戦友が 「何か言ってくれよ!」 と懇願しても、慰めの言葉もかけないのも “作劇術上の歪曲的創作” と考えることができる。“情に流されないロボットのようなキャラクター” の演出である。

 

1人となったスコフィールドは移動中の友軍部隊のトラックに拾われ、所属を訊かれ、重要なメッセージを届ける伝令であることを告げる。そして、そのメッセージの、“ドイツ軍の罠” の内容も教えるのだが、その部隊長はスコフィールドに協力を申し出るわけでもなく、他人事のように聞き流している。

同じ英国軍が敵の罠に陥いって多大な犠牲が出るかもしれないのに、我れ関せずである。さて、これも実に現実感を欠いているエピソードである。

実は、これも “作劇術的な歪曲的創作” である。つまり、この部隊の連中がこぞってスコフィールドに協力したら、「大虐殺の憂き目にあうかもしれない 1600名の救出」 という “勲章ものの名誉ある手柄” が、最終的には善意の協力者全体に分散してしまい、スコフィールド一人に “独占” させることができなくなってしまう。そうなれば、最後のクライマックスでの “ヒーローとしての輝き” が薄れてしまうからなのだ。違うだろうか?

なお、ここで “歪曲” というのは、ストーリーの自然に予想される流れを創作上の理由でねじ曲げることを言う。もともとフィクションであるので、“事実” の歪曲ではなく、“予想される合理的で自然な物事の展開“ の歪曲ということである。

 

 

戦火によって被災し、瓦礫の迷路と化した夜のフランスの地方都市で、身を潜めた建物の中で、スコフィールドはフランス人の女性に遭遇する。

彼女は赤ん坊と一緒にいる。しかし、その赤ん坊の母親が誰だかは知らないと言うのだ。スコフィールドは自分が持っていた携行非常食をすべて彼女に与える。

しかし、彼女が 「赤ちゃんにはどれも食べられない」 と言うと、彼は まるで 「はいはい、ちゃんとありますよ」 と言わんばかりにミルクの入った水筒を彼女に差し出すのだ。

観客はここで、あの納屋でスコフィールドが見つけたミルクが “天の配剤” であったことに、小学生のようにつくづく得心するわけである。筆者が “ストーリーの単純さと幼稚さ” ゆえに “ディズニーアニメの実写版” という理由の一つがこれである。観客は相当に子ども扱いされているのだが、ほとんどの観客はそれに気づかない。

さらに、スコフィールド は1600 名の部隊の命を救うための伝令としての任務を棚上げにして、赤ん坊をあやすために戦火の中で一生懸命に童謡を歌って聞かせる。赤ん坊、子供、女性、動物といった 「目の前の弱者を救ってこそヒーロー」 というのもハリウッド映画の鉄則である。

もちろん、町を破壊し、赤ん坊から母親を奪ったと思われる非人道的なドイツ軍兵士たちとは大違いの、戦火の中の幼い命のために心を砕くヒューマンで心優しい英軍兵士 をアピールするのがこのエピソードの狙いである。

戦争映画ではほとんど定番になっているが、ドイツ軍はまるでスターウォーズの帝国軍のように画一的で非人間的な集団として描かれる。

それに対し、イギリス、アメリカ、フランスなどの連合国側の兵士は一人一人がみな人間の顔をした善良な自由人として描かれる。

敗戦国はいつまでも悪役 を演じさせられて文句は言えず、戦勝国はいつでも善玉であり、正義の味方の役 を演じるのが当然とされるのだ。こうした “20世紀的プロパガンダ” は戦争映画においては疑われることのないパラダイムとして踏襲され、21世紀になっても再生産され続け、「1917」 はその最新版として歓迎されているというわけだ。

 

さて、1600名の兵士が今まさに攻撃準備をしている目的地の塹壕に着くが、第一波の攻撃がすでに始まっている。現地はそれこそ 「戦場のような」 混乱状態で、司令官を見つけるのが一苦労。しかし、必死になって探し回る。

司令官のマッケンジー大佐のいるポイントまで待機中の兵士でごった返しているジグザグの塹壕はなかなか進めない。すでに始まっている攻撃を止めさせ、少しでも味方の犠牲を減らさなければ!スコフィールドは危険を顧みず、思い切って満員の塹壕から飛び出して、塹壕に平行に走って、司令官のいるポイントまで疾走する

やっと司令官を見つけ出して、エリンモア将軍からの攻撃中止命令を伝える。しかし、マッケンジー大佐はすでに攻撃を開始している。そして、自分の面子もあってか、「もう手遅れだ」 と言って無視しようとする。

しかし、「これはドイツ軍の罠です!」 と言って、やっとのことで説得し、攻撃中止に持ち込むことに成功する。

彼の伝えるべきもう一つのメッセージは、死んだ相棒ブレイクの兄のジョセフをこの部隊で見つけて、ブレイクの死を報告することだ。ブレイクの兄はブレイクによく似ているということになっている。

弟トム・ブレイク上等兵  / 兄ジョセフ・ブレイク中尉

野戦病院もどきのテント付近で、忙しく働いているブレイクの兄をついに見つける。

所属と名前を名乗り、トム・ブレイク上等兵と一緒に伝令として派遣されて来たことを伝える。すると、ブレイクの兄ジョセフは 何と 「で、トムはどこだ、どこにいるんだ?」 と言って、キョロキョロするのだ。

この脚本は稚拙に過ぎないか?自分の部隊に伝令として2名派遣され、1人しか自分の目の前にいなければ、もう一人は死んだということではなかろうか。ここは戦場である。ましてや、そのもう一人が自分の愛する弟であるならば、嫌でも “最悪のこと” が頭をよぎるはずではなかろうか?

そのようにすぐにぴんとくる人間こそ、野戦病院で毎日死体や手足のもげた重傷者を見ているはずの将校ジョセフ・ブレイク中尉ではなかろうか?それが戦場、それが戦争ではなかろうか?

「で、トムはどこだ、どこにいるんだ?」 は、相当 “ボンクラな質問” と言える。

トム・ブレイクの兄である自分を見つけ出した初対面のスコフィールドが、一人で真っすぐに自分の目を見て自己紹介をした時点で “「もしや?」という胸騒ぎ” に駆られるはずではなかろうか?その動揺、不安、恐れの入り混じった兄の心の動きをこそ、カメラにはゆっくりズームアップして欲しいところだった。欲張りすぎだろうか?

そして、スコフィールドも言葉で事務的にブレイクの死を報告する前に、まず遺品である彼の指輪と認識票を兄のジョセフに静かに差し出すほうが先であったように思う。

 

 

さて、この映画を、上の方ですでに “単純で幼稚” と評したが、特にその致命的な点を論じたいと思う。それは、このストーリーの最初から最後までを貫くことになる、若い兵士2名による伝令派遣の “リアリティ” である。

1600名からの兵士たちの運命をたった2名の伝令に託すということが1917年当時の歴史的状況で実際に起こり得るだろうかという疑問が筆者には映画鑑賞の最後まで払拭できなかったのである。

まず、敵によって電線が切られているということなのだが、たしかにそれはよくあることだ。だからこそ、当時の戦場では 伝書鳩 が広く使われていたことを筆者はたまたま知っていた。ウィキペディアでも以下のように解説されている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%B3%A9

「第一次世界大戦が始まると、軍鳩は広範囲にわたって用いられるようになった。フランス陸軍は軍備増強とともに鳩の小屋を増やしていき、マルヌ会戦が勃発した1914年当時は、72の鳩小屋を保有していた。

一方、米陸軍通信隊はフランスにおいて600羽もの鳩を使っていた。それらの伝書鳩のなかでもシェール・アミと名付けられた鳩は、ヴェルダンの戦い(1916年2~12月)において12通の重要機密書類を運び活躍したとして、フランスとベルギーにおける軍事功労章であるクロワ・ド・ゲール勲章を受賞した。さらにシェールは1918年10月、何者かにより翼を撃ち抜かれたものの重要な伝達を運んでくるというミッションを完遂した。その伝達はアルゴンヌの戦い(1918年9~11月)においてドイツ軍の包囲下(失われた大隊(第一次世界大戦)にあった第77歩兵師団の兵員約200名の安否に関わるという重大なものだった。・・・

第二次世界大戦のころには、イギリスはすでに25万羽もの軍鳩を使っており、そのうち32羽に、戦争で活躍したかなり高い知能を持つ動物に与えられるディッキンメダルが授与された。そこでイギリスは空軍省(現在の英国防省国防会議空軍委員会)における「鳩部隊」の導入を行い、以後これを保持することを決定した。」 (太字部分はザウルスによる加筆)

このように、1917 年の前年でも翌年でも伝書鳩が活躍しているという事実があるのだ。

極めて重要なメッセージの伝達方法として2人1組の伝令班だけに限定するということは 非常に現実性(リアリティ)に乏しい と言わざるを得ないと思うのだが、いかがであろうか?

1600名もの兵士の生死がかかっているほどの重要なメッセージであるならば、伝達方法としては “リスク分散” として原則的に “複数の方法” を用いるはずである。それが軍事の原則である。少なくとも人間の伝令と伝書鳩の両方は使うだろう。もしかしたら、伝書鳩を複数飛ばせば済んでしまうかもしれない。

当然伝書鳩のメッセージの方が早く着く公算が大きいだろう。しかし、そうなったら、“命をかけた伝令” は ドラマとして成立しなくなってしまう。よって、作劇上の都合で伝書鳩という選択肢は完全に排除される。

さらに伝令班が2人1組の1つの班にせざるを得ないとする根拠はそもそも何であろうか?人員に余裕がないからか?そんなことはない。映画の冒頭の塹壕シーンでは、ヒマを持て余している兵士がゴロゴロいるのだ。

出発前の塹壕の状況を見ると、使えそうな兵士はいくらでもいる。

令班はいくつでも作れる状況ではなかろうか?複数の伝令班を派遣することは十分にできる。普通の兵士でいいのだ。特別な能力は不要である。

 

最悪のことを想定して、複数の伝令班にそれぞれ異なる経路を指示して派遣する こともできるはずだ。もし筆者が伝令を派遣する立場であったら、2人組の伝令班を少なくとも3つ派遣するだろう。そして、「3つの伝令班は互いに500m 以上離れて別行動をし、敵の攻撃を受けても決して合流してはならない」と命じるであろう。

また、そもそもこの映画では飛行機からの航空写真によってドイツ軍の罠を知ったという設定なのだから、飛行機を使いメッセージを入れた缶を投下する方法 も選択肢として可能であろう。同じメッセージを入れた複数の通信缶を飛行機で運び、空から目的の部隊に投下すればいいのだ。実際、映画の中でも味方の複葉機が飛んでいるではないか!ドイツの飛行機を撃墜したのはイギリスの飛行機ではないのか?

写真撮影や空中戦ができるのなら、通信缶を投下することもできるだろう。

もし伝書鳩も飛行機も選択肢としては無かったとしたら、伝令班を複数にして派遣するだけである。塹壕は失業している兵士で毎日溢れているのだ。伝令をわざわざ2人1組の1班だけにして、失敗のリスクを高める理由はない。伝令班を増やせば、それだけ失敗のリスクが減るのだ。これは軍事学的常識というよりは、“ただの常識” である。

それなら、この映画でも “複数の伝令班” という設定にすることは可能であっただろうか?残念ながら、答えは「否」である。

なぜならば、この映画は、伝令班の2人のうち1人は自分の兄が危険にさらされている当の部隊に所属している、という非常にパーソナルな条件があってこそ成立している愛と勇気の物語だからである。味方の1600名の兵士たちを救うと同時に自分の兄も救うという二重の使命 が、この映画における2人の伝令のヒロイックな行動を支える強いモチベーションとなっているからである。

「走れメロス」 を走らせたのは “友情” だった。「1917:命をかけた伝令」 を走らせるのは “愛国心”、 “同胞愛”、 “兄弟愛”、 “友情” なのだ。

もし軍事的原則に従って危険分散して、伝令班を3つも4つも繰り出したら、軍事的にはもちろん正解であって、伝達の失敗のリスクを最小化でき、結果としての被害も最少化できるだろう。賢明な戦略家ならば、渡らなくていい危ない橋は渡らないものだ。

「お前たち二人が失敗すれば、大殺戮となる」というような選択をするわけがないのだ。意外であろうが、むしろこれが戦場の現実である。余計な冒険はしないものだ。 

しかし、危険分散という賢明な選択をすれば、映画のストーリーとしては散漫になり、観客が感情移入できるヒーローを絞り込めなくなってしまうということだ。つまり、“2人の伝令” という選択は、作劇術上の “歪曲的創作” であり、この映画では 最大の “ツッコミどころ” なのである。

 

つまり、このストーリーはそもそもの発端から軍事学的常識(ただの常識?)が作劇術的必要性に大きく道を譲っているために、ストーリー展開におけるリスクやサスペンスや緊張感は、ほとんど 観客の無知に依存 したかたちになっている。

軍事学的リアリティの欠如は、戦争映画におけるストーリー構成上の 致命的な難点(ツッコミどころ)となる。これが 「トイ・ストーリー」 や「ハリーポッター」 と同じ観客層をターゲットにしているのなら、映像の奔流に簡単に没入させて最後まで引っ張っていけるだろう。

しかし、ある程度以上の知的レベルの観客層の場合、彼らを没入させることは、「全編ワンカット」であっても難しいだろう。けっきょく、現実の戦争について多くを知らない人ほど感動し、絶賛する戦争映画ということだ。

 

 

★★★☆☆ 星3つ: リアリティの無いストーリーは星2つだが、塹壕戦のディテール(兵士たち、戦場等)の映像的再現のリアリティに星4つである。

多くの観客や批評家は、塹壕や馬の死骸や兵士の軍装などの考証的リアリティをストーリーのリアリティと取り違えているのである。

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5 コメント

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Unknown (sy)
2020-02-24 05:07:33
ザウルス様
本編の映画を見て居ないので何もコメントは出来ない
のですが、映画やテレビドラマなどよくよく考えて
見ると確かに平凡なストーリーや台詞の言回しなど
でさえ現実との違和感が感じられるものが殆どです
しょせん観る人を意識した創作物ででしょう。
sy さま (ザウルス)
2020-02-24 10:22:53
ストーリーの自然に予想される流れを創作上の理由でねじ曲げることを、この記事では “歪曲的創作” と呼んでいます。
理屈じゃないでしょ (1917)
2020-02-25 18:22:12
先日見てきましたが、面白いと思っていました。映画ってそんなに理屈で見るものじゃないでしょ。ま、ケチつけるのは自由ですけれどね。
1917 さま (ザウルス)
2020-02-25 19:02:54
「面白いと思っていました」  と “過去形” ですね。 「面白いと思います」  というふうに “現在形” ではないのはどうしてでしょうか?
Unknown (sy)
2020-02-26 05:13:26
ザウルス様、1917様
本当に余計なお世話ですが、流れから思うに
1917さんは、面白いと思いました  の
入力間違いでは無いかと思います。
余計なお世話、お許しください。

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