不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

朝日 sippo (2) 「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?

2018-07-30 14:37:06 | 動物

朝日 sippo (2)  「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?


 当ブログの記事 sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み は、一部の人たちには非常に気になる、うろたえさせる記事であったようだ。これはある程度予想されたことではあった。

その記事の主張は以下の通りである。

1) 朝日新聞社は 「シッポ」 というペットオーナー向けのウェブサイトを開設している。

2) 「シッポ」 では犬や猫といった 「ペットの殺処分反対」 の記事も掲載している。

3) 尻尾(シッポ) は犬や猫だけでなく、鳥、魚、サソリ、クジラなど自然界のほとんどの動物についている。

4) 朝日の 「シッポ」 に、尻尾を持っている牛や豚の 「殺処分反対」 の記事が一切無いのはなぜか?

  

コメント欄をみると、読者の “動揺ぶり” “困惑ぶり” がうかがえる。

  • 「えっ!? 殺生がそんなに悪いことなの?・・・生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 2018-07-03 23:02:40
  • 「自分も動物界の一員だと思えば気ままに殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。」 2018-07-03 01:04:13
  • 「殺生ははたして悪いことでしょうか?みなさんどうお考えでしょうか?」 2018-07-21 20:29:43
  • 「殺生をしないで生きていける生物は存在しません。殺生は生命の根源です。」 2018-07-29 21:28:20

そもそも当のブログ記事で一度も使われていない 「殺生」 という言葉を持ち出して勝手に問題視しているのだ。 「殺生は悪いことか?」 とか 「生きることは殺生だろ」 とか 「殺生は生命の根源です。」 という、いきなり 抽象的な 「殺生論」 へのすり替え が後を絶たないのだ。当のザウルスの記事では、「殺生はいけない」 とか 「生きものを殺すのはよくない」 とかいったことはどこにも言っていないにもかかわらずである。


「殺生をしないで生きていける生物は存在しません。殺生は生命の根源です。」 だから 「殺生は避けられない」、 だから 「豚や牛を殺して食べるのも仕方がない」 と言いたいのだろう。その理屈で “肉食生活” に明け暮れる自分を矛盾なく自己正当化できたつもりなのである。どうやら何とかして “うしろめたさ” を払しょくしようと必死なようだ。

こうやって繰り返しこの殺生論を持ち出す人たちは、どうやらこの“すり替え” つまり、 “まやかし” によってしか “心の安らぎ” を得ることができない様子なのである。

“まやかし”? そうである。それを以下に明らかにしていく。

 

「“生きること” は “殺生をすること” だ」  だから 「“殺生すること” なしには生きていけない」 というこの論理を、「殺生不可避論」 と呼ばせて頂く。「生きるためには、他の生きものを殺すことはどうしても避けられない」 という、一見説得力のありそうな理屈ではないか。

しかし、この「殺生不可避論」 に多くの人がこれほどまでにしがみつくのは、この一見非常にわかりやすい論が、実は とんでもない “諸刃の刃(やいば)” であることにまったく気づいていないからなのだ。

冷静に考えてみていただきたい。この 「殺生不可避論」 は 「人殺しもやむを得ない」 という主張に何の矛盾もなくそのままつながるのだ。言うまでもなく、殺生は “生きもの” についての話であり、人間は “生きもの” の一種である。 違うだろうか?

 

「自分も動物界の一員だと思えば 気ままに 殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。」 というこの 「殺生不可避論」 からすると「“気ままに”人を殺したければ殺したってかまわない」 ということになる。たしかにこれは “論” としては 一貫性がある。強盗殺人犯は 「生きていくためにはどうしても人を殺して金銭を奪う必要があった」 と主張するかもしれない。

また、無差別殺人事件の、引きこもりの犯人は、「誰でもいいから殺したかった」 と言うかもしれない。これも立派な 「殺生不可避論」 ではないだろうか? 

「殺生は生命の根源」 という説は、ほとんど 「殺人賛美」 である。実際、「殺生不可避論」 からすると、どんな殺人も正当化、いや美化すらできるだろう。何しろ “生きること” は “殺すこと” だと主張しているのである。'TO LIVE is TO KILL.' である。

そればかりではない。「殺生不可避論」 というこの “一般論” からすると、今度は 「自分が殺されても仕方がない」 ということも何の矛盾もなく論理的に導き出されてしまう。当然だろう。

「生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 などと、いい気になって “一般論” を振り回していると、それがブーメランとして飛んできて自分の眉間に炸裂するのだ。

いや、自分のみならず、自分の家族や自分の友人が殺されても文句も泣きごとも言えないことになるだろう。

それどころか、「それこそ生命の必然だ!」 として、もろ手を挙げて歓迎しなくてはならないのではなかろうか。なぜならば「殺生不可避論」 者 はみずから 「すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 と主張しているからだ。彼らにとって、“殺すこと” はまさに “生命を謳歌すること” にほかならない。 

 

しかし、「殺生不可避論」 を担ぎ出す連中は、実はその 「殺生不可避論」 から都合よく “自分” だけをちゃっかり除外しているのだ。殺生の対象から自分だけを黙って免除している 実に利己的なズルい論理なのである。違うだろうか?弱肉強食の修羅場から自分だけをこっそり安全圏に隠し込んでいるのだ。「他人や他の生きものは殺してもいいけれど、このわたしを殺すのはダメだよ」 という 何ともムシのいい理屈 なのだ。

これは “トリック” であり、“いかさま” であり、“欺瞞” である。

それとも 「殺生は必然の事です。だから、わたしやわたしの家族が殺されても全然かまいません。」 と本気で言う覚悟があるのだろうか?

たとえそう言ったとしても、そんなことを言う人間をあなたは信用できるだろうか?こいつは口先だけの人間だと普通の人は思うにちがいない。

けっきょく、“一般論” に見せかけながら、実は自分だけを “例外” にしている騙しのテクニックなのだ。ここに 「殺生不可避論」者 の“ウソ” がある。無脳層や他脳層の人間は、自分でも気づかずにこの “自己欺瞞” にどっぷり浸かっているのである。

そもそも仏教における 「不殺生戒」 とは、全ての生き物、生きとし生けるものの命を奪ってはならない、ということである。そして当然 “人間” であるあなたという存在は、殺してはならないものの筆頭ではなかろうか。

「殺生不可避論」 を振りかざすひとたちは、自分だけを特別扱いする、実に利己的なトリックを当たり前のように使っているのだ。さも一貫性のありそうな “一般論”、 つまり誰にでも当てはまるはずの論を振りまわしているように見せながら、その実、全然一貫性のない利己的な “まやかし” で自己正当化しているだけの、実にアンフェアな輩(やから) なのである。

 

仏教的な装いをした 「殺生不可避論のトリック」 は、実は非常にキリスト教的 である。

聖書においては、動物の肉は神様が人間を養うために食物として与えたものであって、動物は遠慮なく殺して食べていいのだ。聖書の教えは、人間とその他の動物との間の決定的な違いの上に成り立っているのであって、十戒の中の 「汝、殺す無かれ」 という戒めも、その対象はもっぱら人間のことなのだ。隣人」 とは人間のことだ。人間を自然界、宇宙における特権的な存在と見ているのだ。人間にとっての他者である動物は、人間のためにいくら犠牲にしてかまわないのだ。

 

しかし、本来の仏教の 「不殺生戒」 は生きものすべてが対象である。生きものの世界に上下関係を見ないのである。みな同等であり、平等なのだ。

「『あらゆる一切衆生の類(たぐい)、もしは卵生(らんしよう)、もしは胎生、もしは湿生(しつしよう)、もしは化生(けしよう)、もしは有色(うしき)、もしは無色、もしは有想(うそう)、もしは無想、もしは非有想(ひうそう)、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度(めつど)せしむ。」(「般若心経・金剛般若経」)

「すべての生命がひとしく救済されるべき」 という発想が本来の仏教なのだ。

 

 しかし、日本に渡った仏教はあまりにも変わり果ててしまっている。

日本以外のアジア諸国の仏教はもちろん、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、ヒンズー教であれ、イスラム教であれ、聖職者と名のつく人たちは一般人とは違う 何らかの禁欲的な生活 をしているものだ。

しかし、日本ではほとんど何でもOKである。妻帯、肉食、飲酒、喫煙、ギャンブル、風俗・・・何でもありである。今日の日本の僧侶は、一般人と同じ資本主義的快楽主義の “俗” の世界にそのままどっぷり浸かって生きているようだ。

 そのくせ法衣を着て、“上から目線” で説教を垂れるので、一般大衆は 「生臭坊主がエラそうなこと言っちゃって・・・」 と腹の底で笑っているのだ。

宗教的理由で肉食や飲酒をしない仏教僧は今日の日本にはほとんどいないであろう。実際、そういう奇特な僧侶は同業者たちから 「ええカッコすんな!」 とイジメられるそうだ。日本の仏教があまりにも堕落して腐りきっていたからこそ、仏教原理主義を標榜したあのオウム真理教が台頭してきたのではないか。しかし、日本の既成仏教宗派には “オウム” 後 も何の反省もないようだ。

 

日本の仏教のメジャーな宗派のほとんどは仏教の本来の教えを忘れ、葬祭サービス業 になり下がっている。どこのお寺も 世襲制のファミリービジネス である。宗教施設が ファミリービジネスの事業所 になっているのは日本だけでであろう。

一般大衆は 「坊さんは葬式だけちゃんとやってくれればいい」 と割り切って、それ以上は特に期待していない。なので、坊さんの肉食や飲酒に目くじら立てるひともいない。それをいいことに、日本では “俗” 物の聖職者 が津々浦々にはびこり、のさばることになる。

 

そうした生臭坊主の一人が、法事のあとの会食中にこう説教していたことを思い出す。「生きものは牛や豚だけではない。どんな食べ物もみな生きものだ。お米も野菜も生きものだ。それらを食べるということはみな殺生だ。水だって、放っておけば腐る。腐るということは生きているということだ。つまり水を飲むことも殺生なんだ。要するに食べたり飲んだりすることはみな殺生なんだ。そもそも、生きるということじたいが殺生なんだ。」 実にすっきりしたわかりやすい話に聞こえるではないか。

 

しかし、これは 「殺生不可避論のトリック」 そのものである。自然界において人間だけを特権的に扱うキリスト教的な、利己的で差別的な論理なのである。このトリックによってその住職は自分も含めた会食中の出席者全員の “肉食生活”、 “欧米化したモラル” を丸ごと正当化し、安心させていたのである。

「生きものを殺してはいけない」 という仏教本来の教えを守ることは簡単なことではない。しかし、簡単ではないことだからこそ意味があるはずだ。誰にでもできることを “教え” にしてどんな意味があるのか?

日本では仏教本来の教えもおそらく 「どうせ無理なことなんだから守ることはない」 と、日本的に “合理化” されてしまったのではなかろうか。さらに戦後になって、アメリカ式の肉食生活 が本格的に移入されると、臆面もなく 「殺生不可避論」 で開き直ることになったに違いない。

「殺生不可避論」 を振りかざすひとたちは、自分だけを特別扱いする、実に利己的でアンフェアなトリックを当たり前のように使っているのだ。

さも一貫性のありそうな 「殺生不可避論」 を振りまわしながら、その実、全然一貫性のない利己的な “まやかし” で自己正当化している、実に狡猾な輩(やから) なのである。

「食べること自体が “殺生” じゃないか」 「生きること自体が “殺生” なんだ」 などとわけ知り顔で言う人間は、みなこの類(たぐい) である。 

 

「牛や豚の肉も “感謝の気持ち” をもってありがたく頂けばいいのだ」 ということもときどき耳にする。現に、上述の住職もそれで説教を締めくくった。実際、世間のふつうのひとたち(無脳層)はこの 「感謝免罪論」 に簡単に納得してしまうのである。

“感謝すること” によって “免罪” されるのならば、

● コンビニ強盗は  「どうもありがとー!」 と店員に言い捨てて逃げればいいことになる。 

● 婦女暴行魔は立ち去るときにベルトを締めながら 「ありがとう、サイコーだったよ。」 と言えばいいことになる。

● さらには、一家惨殺強盗事件の犯人ですら、逃げる前にテーブルに 「ありがとうございました。頂いたお金は大事に使わせて頂きます。皆さん、どうぞ安らかにお眠りください。」 と丁寧に一筆書き残していけばいいことになる。

こうした連中の感謝は本心であるわけがない、と言う人がいるかもしれない。わたしはそうは思わない。“頂いたこと” に対して非常に満足し、本当に “心から感謝する” ケースはゆうに考えられる。しかし、かりに “心からの感謝” だったとして、それが何だと言うのだ?そもそも “感謝” とはその程度のものなのだ。

“感謝” を勝手に “神聖視”、“美化” して、“感謝の気持ち” という “一方的な善意” を表すことによって相手側の被害、損失を埋め合わせることができるかのように思う “身勝手さ” に気づくべきであろう。

命を奪われた相手に対する “感謝の気持ち” の表現などは、要するに “殺害を正当化するためのただの偽善” ではなかろうか?せめて正当化した気分になるためのポーズであろう。ということは、けっきょく正当化しづらい面があることを暗に認めているということだ。

ステーキやトンカツを食べ終わって、「牛さん、豚さん、ありがとう!」 と言うのは、上に挙げた3つの例の中では最後の 一家惨殺強盗事件 がいちばん近いケースであろう。

利益や満足を得るために相手の生命を一方的に奪っていると言える。

 ステーキやトンカツの場合は通例受益者が直接に手を下すのではなく、間接的に第三者に報酬を払っての 殺害の依頼 というかたちをとっていると考えることができる。自分で牛や豚を殺す代わりに専門業者に を代行 させているとも言える。

 対価を払って食べるいじょう、自分が食べる牛や豚の殺害には責任があることになる。対価にはとうぜん “” や “解体” の費用が含まれている。

 

原始仏典には次のような言葉がある。

「すべての生きものは暴力を恐れる。すべての生きものは死に脅える。わが身に引き比べて、殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならない」  ダンマパタ

「彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である、と思って、わが身に引き比べて、殺してはならない。また他人をして殺させてはならない」  スッタニパータ

 

 sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み

 

コメント (67)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« YouTube 「海底考古学 25... | トップ | 鎌倉由比ヶ浜にクジラの死骸... »

67 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (智)
2018-10-29 21:16:20
確かに、依存心かもしれないとは思っています。

実際、慈悲心がない、人格力のない密教僧などは危なくて仕方がありません。却って近寄るべきでないのかもしれません。人格が破たんしている人物もなかにはいます。
若干の法力があるという人はときどきいるものですが、まともな人格を伴っていないと実際に世の中に役立ちません。

どんなものでしょうね。

私の場合、縁故の寺社は政治的なこともあり、他派に乗っ取られていることが多く、良質な宗教家を探すのは本当に困難です。同族や親族でないと信頼できないのでしょうが、そういう人はまず見つかりません。

宗教心というのは、人間の本質的なものですから、たぶん本物の宗教家に会いたいという気持ちはそう簡単には無くならないと思います。
智 さま (ザウルス)
2018-10-29 20:27:53
「現代には高僧は存在しないのでしょうかね。」  とのことですが、あのダライラマ14世にしても、たまたまチベットが中国に弾圧されているというだけで、欧米の知識人やハリウッドのセレブにもてはやされているだけです。

肉食で開き直っているのは有名ですし、名誉欲と支配欲の権化です。

或る意味で、宗教界には人格的に問題のある人間が集まってくる傾向があると思います。そういった掃き溜めに尊敬に値する、見習うべき人物を求めることじたい無理な注文です。

そもそも 「高僧」 を見い出したいという心理じたいが要注意です。 宗教はオレオレ詐欺と変わりません。騙されたい人間を巧みに籠絡して染脳するのが、教祖なのです。
希ノ醍  さま (ザウルス)
2018-10-29 12:42:19
今の世の中には、「死んだら坊さんのお世話になるしかない」 と思い込んでいる人が多すぎます。だから、「坊さんがつけあがっていても仕方ない」 とあきらめているのです。

間違いです。

今日、無宗教の葬儀は増えています。ゼロ葬、海洋散骨、樹木葬等々、墓も不要なケースも可能です。

生臭坊主によって自分の最後を汚されたくないひとたちが、高額な葬式費用をほとんどかけずに、ゼロ葬を選んだり、海洋散骨を選んだりするのは自然な流れになることでしょう。

葬儀法要に坊主は要らない (希ノ醍 輝平左ヱ門)
2018-10-29 10:25:59
お世話になります。

私の父方は真言宗、母方は浄土真宗、という環境で育ちました。

そういうものには辟易です、もう身内のことに彼らを呼びません。意味の分からぬ経を読み上げてもらっても、ただの雑音に聞こえます。坊主の法話も、一般人の心を打つような内容ではありません。

故人への思いは、遺族親戚友人だけを集めて分かち合いたいと思います。

日本のなまぐさ坊主、もう霊界との橋渡しは任せられませんし、今までも、出来ていなかったでしょう。
Unknown (智)
2018-10-29 08:14:30
仏教の中身もそうですが、

私が仏教界の人達に感じられるのは、
支配欲と金銭欲だけです。

全く見習うべき人達ではなく、
全体的に非常に残念なことだと思います。

現代には高僧は存在しないのでしょうかね。
智 さま (ザウルス)
2018-10-29 01:05:55
別記事 「(1)“お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人」 にも書きましたが、    
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/c/c3a3fd0195166fb158513fe3380811e5     
日本人が “仏教” として崇めてきたもの自体が仏陀の教えとはかけ離れた、中国の民間信仰の寄せ集めです。天竺の権威をカサに着るために “仏” 教 と名乗ってきたわけです。仏典も仏像も仏教建築も中国や日本の知的階級が大衆を支配するための文化的資産だったのです。
Unknown (智)
2018-10-28 20:24:17
私も日本の仏教界が堕落していることに怒っています。
お寺は家業となり、何かの産業になっていますし、
個人の魂の救済などには全く興味がないように思えます。
また、支援が足りないせいか、随所で潰れまくっています。

こういうのは要らないかもしれないと、仏教を学びつつ
思うのは、いかにも矛盾しています。

せめて現代に生きる名僧など知りたいのですが、
残念ながら、ご縁がありませんな・・・・・。
こわがり さま (ザウルス)
2018-10-27 21:58:27
「私も答えを出せずにいます」   とのことですが、無理に答えを出さないほうがいい場合もあります。
こわがり さまはザウルスとはちがって、完璧主義の傾向があるようですね。

そもそもザウルスは “非”完璧主義者 です。

「完璧要求のトリック(詐術)をしかける人間」    
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/917cfc33727efa9d141143af466109dc

「自らが完璧でなくても、l真実に近づくことはできる」

「自らが完璧でなくても、他者の誤りを指摘、もしくは証明することはできる」

あなたは、真実に近づこうとする者、他者の誤りを指摘する者は、自らが完璧でなければならないと思っているのでしょうか?

ま、まさか……⁈ (こわがり)
2018-10-27 13:36:43
※このブログと、前回のsippoも、そして両方のコメントも全て読みました。

ザウルスさんの様々な主張から一貫しているものなどをいくつかピックアップするに、
・動物を可愛がる人が肉食するのは矛盾
・肉食するのは悪いとは書いていない
・殺生は悪いとは書いていない
・ご想像にお任せします(「ザウルスさんは肉食しない人ですか?」のコメントに対する返答。※sippo2のコメントより ←はっきりとした回答をしないで閲覧者の「想像に任せる」という事ですので、私は「ザウルスさんは肉食もする」と想像させていただきました)

つまり……、

『動物を可愛がらない人なら肉食してOK。自分は可愛がらないから、肉食してる。自分は全く矛盾していない。』

ということ……だったりしますか……⁇

更に、
「自分で殺せるのなら食べれば良い」
「ごちゃごちゃと理屈をこねて肉食を正当化しようとしないで、"美味いから食う"のだと認めれば良い」
などのコメントに対しては全く反論がありませんでした。

もしや、ザウルスさんは、

『自分は動物を可愛がらないし、自分で殺して食べている。「動物好き」と書いたが、あれは殺すと楽しいから、"そういう意味"で「動物は好き」って事だよ。文脈からみんなが勝手に「ザウルスは動物好き」=「ザウルスは動物愛護」と勘違いしてるだけ。』

という事でしょうか……⁇
たしかに、これなら"矛盾"はありませんが……、

ザウルスさんは、本当は、
「ペットと食肉用動物を区別して、肉食を正当化している矛盾」を非難しているのではなく、

『ペットを虐待している人なら肉食しても全く矛盾しないので、肉食する人は動物を虐待する人を認めるべき』

という主張をしたいのでは……⁈

などと思い付いてしまったら、ザウルスさんの事が怖くなってしまいました……


……飛躍しすぎですよね、すみません……
でも、この主張なら、全く『矛盾』しません……

この『恐ろしさ』をザウルスさんは伝えたいのでしょうか……⁇


久々に、いろいろ考えさせられました。
私も答えを出せずにいます……

世の中、矛盾・相違はたくさんありますが、反発し合うのではなく、お互いの意見を出し合って、双方から見て「これなら、何とか譲歩できる」というところに、いつか辿りつけると望みたいです……
プルメリア さま (ザウルス)
2018-08-19 09:30:34
あれこれ言っていても、自分の思考や論理が自分で理解できていないひとたちがいるものです。
そういった “思考停止” しているひとたちのかわりに思考をフル回転して整理して、建設的な議論を可能にしても、今度はそれが不満なひとがいます。自分の思考や論理の中の矛盾や誤りが白日のもとにさらけ出されるからです。

ちなみに 「はいけない」 とはわたしはどこにも言っていませんよ。自分が先入観から勝手に想像していることを相手に “投影” しているのが 「誤解」 の元ではないでしょうか?
「〜論」と仰いますが ... 。 (プルメリア)
2018-08-19 08:46:41
あなたの話にはすぐに「殺生不可避論」だ、「感謝免罪論」だ、「殺生同罪論」だ、「一般論」だ、「トリック論」だという風に、討議する相手に対して「〜論だ」と投げ捨てますが、思考停止されておりませんか?
その通り、相手はなぜ殺生が不可避であるのか、感謝して免罪を受けるというのはどうか、生命を殺すという事に対して同罪では無いのか、という風に論じているのです。逃げも隠れもせずにです。
それを「〜論」だの一言で終わらす話し方は、どちらが逃げているのか?と思います。
あなたの頭の中にはすでに「はいけない事」という動かぬ信念があるのはわかりますが、ここに投稿されてる方達は、では、なぜいけない事なのか?という本質に迫って考えようとしているだけではありませんか?
それを頭ごなしに「〜論だ」で済ませようとするのはそれこそ思考停止状態に陥っていると言えます。
“自己正当化” は難しい事 (ザウルス)
2018-08-18 22:19:50
「ザウルスさんは肉は食べないのでしょうか?」 --- ご想像におまかせします。

「だから何を食べるにしろ感謝して食べればいいんではないでしょうか?」 --- “感謝免罪論” については記事の中にすでに十分に書いています。もう一度お読みください。

「命ある植物だって表現をしないだけで実際どう感じてるかは人間にはわからないと思うんです。」 --- 「何でもあり」 の浄土真宗の僧侶は、肉も野菜も水もみな生命で同じだ、と言っていました。しかし、生きている牛を殺して食べるのも、生きているお米を植えずに食べるのも同じだというのはけっきょく “殺生同罪論” という詭弁に他なりません。

“感謝免罪論” も “殺生同罪論” も単に現状肯定、自己正当化のための屁理屈です。
難しい事 (あ)
2018-08-18 21:13:05
自分もペットとして犬を飼っています
それに肉もほかの食材同様に食べます。この前の記事にあった写真を見て想像はしていたけど実際に見て怖かったしかわいそうだと思った そんな事を思うのは好き勝手して自分勝手な私(人間)だと思います

命ある植物だって表現をしないだけで実際どう感じてるかは人間にはわからないと思うんです。だから何を食べるにしろ感謝して食べればいいんではないでしょうか?
現代は必要以上に殺してそれを破棄してるのは勿論やってはいけない事だと思います。
ちなみにザウルスさんは肉は食べないのでしょうか?ただ気になりました
もしそうであれば植物を食べて暮らしてるということですか?

文章が苦手ですいません。
プルメリア さま (ザウルス)
2018-08-18 05:41:40
「なぜが仏教や仏陀と関連あるのか」   とのことですが、すでに以下のようにお答えしています。

「動物のの話を仏教やお釈迦様の話にすり替えている」 のは、“殺生不可避論者たち” です。この記事ではありません。
この記事は特定の宗教を唱道してはしていません。」

しかも文頭に 「誤解のないようにお願いします。 」  とまで念を押していますが。
誤解 (プルメリア)
2018-08-18 01:28:31
誤った仏教感を申しているのではなく、なぜが仏教や仏陀と関連あるのか、という事自体を質問しています。
プルメリア さま (ザウルス)
2018-08-17 22:57:59
誤解のないようにお願いします。 
「動物のの話を仏教やお釈迦様の話にすり替えている」 のは、“殺生不可避論者たち” です。この記事ではありません。
この記事は特定の宗教を唱道してはしていません。
必要があって、“殺生不可避論者たち” の誤った仏教観は指摘しています。
屠殺と仏教 (プルメリア)
2018-08-17 22:22:57
なぜ動物のの話が仏教やお釈迦様の話にすり替わってしまうのですか?
仏教や釈迦の言動を信じない異教徒ならは黙認なのですか?
全人類相手の話に仏教や釈迦の話は何か違和感だらけです。
それとも全人類は必ず釈迦の教えに従わねばならないのでしょうか?
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-15 07:53:03
原始仏典には次のような言葉があります。

「すべての生きものは暴力を恐れる。すべての生きものは死に脅える。わが身に引き比べて、殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならない」  ダンマパタ

「彼らも私と同様であり、私も彼らと同様である、と思って、わが身に引き比べて、殺してはならない。また他人をして殺させてはならない」   スッタニパータ
鶏。。。 (ナオです)
2018-08-15 00:57:14
知り合いが食べれません。昔知り合いの親が鶏を捌く時首チョンパしたら、首無しのまま走った?のがトラウマらしく。。。

また別の知り合いが勤めているペットの葬儀場に、つい最近鶏が持ち込まれたそうだ。

鶏を火葬したのだ。


6才と言ってたらしい。老衰かと思う。

自分も子供の頃ヒヨコを数匹貰い飼っていたが、イタチや猫にヤラれてしまった。。

茜さんとこの情景が浮かぶ。。。

かわいいものだよ。彼等は。

牛も馬も触った事があるが大きい。

いつも思うのは彼等は純粋に生きている。

猫ですら子猫を探すんだ。仔牛を取り上げられた母牛は悲痛な声を出すそうだ。

豚ですら子供を守る為向かって来たと聞いたこともある。

ある雌の豹は子供が亡くなり食欲を無くしたか痩せこけ死んだそうだ。

自分は、やはり商品扱いには出来ない。
茜 さま (ザウルス)
2018-08-13 14:03:07
茜さんのコメントには、いつも純粋な心が感じられてこちらの心が洗われます。

わたしのかつての同僚に鶏肉が食べられない男がいました。大きな体をしていて、牛肉も豚肉もたくさん食べるのですが、鶏肉だけはダメなのです。ある会食の際に鶏肉が出ましたが、彼は残していたので、わたしが訊きました。「トリ飼っていたことがあるの?」 と。「そうなんだよ」 と彼は照れくさそうに答えました。
その後、別の人で鶏肉が食べられないひとがいましたので、「ニワトリ飼っていたんでしょう?」 と訊くと、案の定でした。

子供のころにニワトリを可愛がっていたひとでも、平気で鶏も豚も牛も食べるひとはいることでしょうし、他の肉は平気で食べても、ニワトリだけはずっと食べられないひとがいるのです。

しかし、茜さんのように、ニワトリから他の家畜にまで一般化して食べられなくなる人はまれです。心に曇りのないひとだからこそ、そうなるのです。相手の気持ち、痛みが自分の心にそのまま映り込んでしまうからなのです。
 (茜)
2018-08-13 01:27:45
ザウルスさま、私の稚拙なコメントを載せて頂きありがとうございます。
今夜も横から失礼致します。
私は子供の頃、鶏を飼っていました。夜店で売ってたヒヨコを数羽買い、生き残った一羽でした。私になついてだんだん大きくなると、毎朝学校に行く私の後を一生懸命追いかけて来ました。
でも賢いことに、通りに出る前で立ち止まり見送るのです。
この子が特に賢い鶏だったのか分かりません。
また、学校から帰る私を見ると庭をトットットッ〜と駆け寄って来て出迎えてくれるのです。
私の腹の上で眠ってしまったり…
くちばしに付いた餌のとうもろこしをきれいに取ってやる時は、気持ち良さそうに目をつぶってうっとりしてました。
私は羽を撫でたり抱っこしたり可愛がっていました。
ところが、ある日、学校から帰る私を出迎えに来ませんでした。
父と兄が売ってしまったのです。子供の私なんかには一言もなく。私は悲しみと喪失感で夕飯が食べられませんでした。肉屋に持って行ったとすぐ分かったからです。
それから鶏肉は食べられません。可愛いあの姿と顔が記憶に焼きついているのです。
他の肉類もほとんど食べません。食べろと言われますけどね。困ったことに食べたいと思わないのですよ。
「けなし合い」 ? (ザウルス)
2018-08-12 23:06:08
「けなし合いからは何も得るものが無いので・・・」   とおっしゃっていますね。
わたしのほうは、あなたのことをけなしているつもりはまったくありませんでしたが、少なくともあなたのほうは、このわたしを “けなしている” という自覚が明確にあったようですね。
「けなし “合い”」 という表現がそれを如実に物語っています。
お話 (マヤ)
2018-08-12 21:58:35
あなたとは込み入ったお話ができずらいようです。
けなし合いからは何も得るものが無いのでこれで失礼いたします。
53
思考停止 の 本意 さま (ザウルス)
2018-08-12 21:43:45
「本意はそこにはありません。」  と言っても、いろいろあるあなたの考え方のうちの一つであることは間違いないでしょう。

「どうして仏教第一主義なのか、そこで思考が停止してしまうのか」  とのことですが、どうしてブッダに言及しただけで、「思考停止」 と決めつけるのでしょうか?

わたしは今日の日本の仏教がいちおう建て前ではブッダを最終的な権威としているからこそ言及しているだけで、別にあなたの言う 「仏教第一主義」 ではありません。

わたしの記事を読んで、ザウルスは 「仏教第一主義」 だと思う人はマヤさんくらいでしょう。
それはあなた自身が仏教に対して 「思考停止」 しているからなのです。

「もっと深く考えてみて下さい。」  などと上から目線で説教するのは、どうせ相手は自分ほど仏教のことをわかっていないとたかをくくっているからなのです。
本意 (マヤ)
2018-08-12 20:47:30
本意はそこにはありません。
仏教の教えとかブッダと言うだけで思考停止してしまうことを言っているのです。
ブッダの教えあるいはブッダの境地が全て基準ではないかもしれない、と疑うことを投げかけてるだけです。
枝葉は付け足しです。
枝葉を全て取り払って、訂正修正してもう一度記します。

「仏教で教えられている、ブッダの教えである、と言う理由だけで立ち止まらないでもっと深く考えてみて下さい。」
という事です。
マヤ さま (ザウルス)
2018-08-12 20:21:53
「ブッダはただのボンボン」  「しょせんブッダは良いとこの坊ちゃん」 と言ってますが、あなたは 人間を “生まれ” で “差別” していませんか?

不可触選民や奴隷や農民が語ったり、書き残したりしたことなら信用できるとでも思っているのでしょうか?
ブッダはただのボンボン。 (マヤ)
2018-08-12 19:32:10
どうして仏教第一主義なのか、そこで思考が停止してしまうのか、私からしたら疑問です。
しょせんブッダは良いとこの坊ちゃん。
ひとり勝手に悩み続けただけ。
飯の糧もほとんど他人からもらって偉そうなことばかり言って回ってただけ。
慈悲を第一に説いたと言うが、あのね、逆でしょ。
ブッダが周りの皆んなから慈悲を受けてた、飯の糧をね。
その辺はソクラテスに始まりキリストも、大口叩く奴はみな同じ。
世の中皆ブッダのように生きたらいったい誰が飯の世話するの?
茜 さま (ザウルス)
2018-08-12 10:03:59
牛や豚が犬や猫と同じように恐怖心を持ち、苦痛を感じることは明白です。そしてそうした感情、感覚は人間と変わりません。
今日の日本人には葬祭サービス業になり果てた仏教しかなく、大衆は資本主義的な快楽主義によって “何でもあり” の価値観に毒されています。
このコメント欄で 「殺生不可避論」 を振り回している人たちがいい例です。
ゴータマ・シッダルタが今日の場を見たら何と言うか謙虚に想像してみようではありませんか。
分かるんですよ (茜)
2018-08-11 21:16:13
横から失礼致します。
知り合いに牛を飼ってた人がいます。
牛肉にする為に、ある朝トラックに乗せようと引っ張るも、頑として動かないんだそうです。
分かるんだそうです。
他の牛も、そうやって連れて行かれて戻らなかったから。
動物も分かるんですよ。
書き忘れてました (ナオです)
2018-08-11 01:23:57
人間だけ殺生するなという仏教の教えは的を得てるとは思いません。

多分この教えは人間が道具を使うからではないかな。。。石投げたりね。また道具によって必要以上に命奪う可能性高いしね。

基本仏教の教えは慈悲だから。。絶対殺生はダメじゃないんだ。無駄な殺生はダメで。では無駄なはどういう意味かというと、こちらの命が危ぶまれた時。未だ日本で聞くだろ?熊とかさ。熊は人の血の味覚えたら人ばかり襲うらしい。


人間同士でも法律でも正当防衛で守られてる。ただし基準があるがね。
この様な図を考えて頂きたい。
相手が殺傷能力の高い凶器を持っている(猛獣)
君は何も持っていない。が手元(又はてが届く所に)大き目の石があり、それで相手の頭を殴り(回数制限あったと思う。1回だったか)殺した。
正当防衛だ。罪に問われない。しかし君が凶器を持ち無防備な相手を殺した。は殺人。以前コメントで動物の中では人間は武器となる牙も爪も。。と書いておられたが、こんな取り柄のない動物は本当いない。だから英知を得たのだろう。


他の動物と全く異なる知を持ってしまった人間には、結局その知を使って、すなわち法律というルールを持って社会を形成して行くしか無いのですから、いづれ食肉や家畜に関しても過半数が納得する法律が出来るのを待つ、あるいは作って行くしかないのではないかと思います。


そうなれば良いけど。日本が生まれ変わらないと無理だろうな。それでも無理かもな。一度崩壊しないとダメかもな。

利権かなり絡んでる。肉食で病気が増えたと言ってもおかしくない部分多い。

極端な話しするが。

肉食する(生産〜販売業者が儲かる)ー病気になる(病院、製薬会社が儲かる)て図が出来るんだ。今はそれに加え介護関係が儲かる。

乳業御三家もしかり。そして政治家が儲かり国が儲かる。
まあ極端な話しだ。しかしマッチングポンプ?だったか。ザウルス氏のブログにもある。あり得る話しだ。

そしてどこぞ宗教とどこぞの宗教が儲かり皇室関係者が喜ぶ。天皇の長男の嫁は公明党の母体者(様とか書きたく無いのでこの様な表現になり申し訳無い。)

この辺りは自分もちょっと前に知った。国が儲かる辺り迄は知ってたが。

でれでれ草ってブログに書いてある。もしまだ訪ねられてないなら訪ねて見たらどうだろうか。

関係のない所迄行ってしまった。申し訳無い。長文失礼しました。
マヤさん。 (ナオです)
2018-08-11 00:04:35
確かに世界的に見ればそれぞれだ。

日本でも昔猫はネズミ対策で売買されていたとも聞く。牛は農耕。馬は運搬。犬は番犬?

の時のあのなんとも言えない感情。。。

宗教のせいだけだろうか。

日本は動物愛護に至っては欧米にかなり遅れを取っている。。

動物愛護は日本は発展途上国と言ってもいいだろう。。
 
どこぞの過激な団体は外しても、やはり日本の動物愛護活動は亀の如く遅い。。


キリスト教徒が多い欧米(昔から肉食推進)は動物愛護活動は盛んで

仏教が多い日本(何度も肉食禁止発令)は動物愛護は少ない。

動物愛護活動されてる方のブログ拝見したが、活動中欧米系の方はエールを送り、日本人は罵声を浴びせるそうだ。

しかも欧米系にベジタリアンが多い。というよりベジタリアンを受け入れている。

では日本ではどうか?ベジタリアンというだけで変人扱いされる。

このコメントの最初辺りでザウルス氏が言われている(開き直りの破戒僧親鸞)とあるが

あれで自分は納得した。

「門徒忌み知らず」

なるほど!真言宗や天台宗が禁忌としていた肉食(魚含め)を親鸞は解禁したのだ。

本当はそういう意味だったのか。。と腑に落ちた。

現在浄土真宗は日本で1番多いの宗教だ。やがてお盆だが浄土真宗の方々でお盆で特別な食事をするのは聞いた事が無い。先祖がお盆だけ還ってくると云う教えがない。

熱心な真言宗の方々は、お盆の間肉食はしない檀家もいる。お盆には先祖が還ってくる教えがある。

とすれば宗教は関係ないのではなかろうか。

何しろ肉食推進派の親鸞門徒は日本で1番多い。

多分日本人は繊細なんだよ(と、言う事にしとこう)

欧米系では、昔から狩猟があり、今でも狩猟をする。ウサギとか鹿とか。勿論全ての欧米人がしている訳ではないが。。。。で、自分たちで捌く。。日本で捌くのができるのは、想像だが昔から山間部に住んでいる方々か鉄砲許可のある方々。

昔はタヌキやらウサギやら日本人も食べてただろうがね。自分たちで狩って。


近年日本で請負してたのは朝鮮人だったと聞く。

日本人が嫌がる仕事しかなかったか、積極的にしたかどうか分からないが。。。。

親鸞門徒が多いから100%宗教絡みではないとも言えないが。宗教絡みは少ないのではないだろうか。

もし宗教絡みが多数ならばもっとこの様な問題に理解があっていいのではなかろうか。

逆を言えば欧米諸国で動物愛護に対し反対があってもよいのではなかろうか。

チグハグなんだ。それこそ矛盾なんだ。

宗教だけでは収まらないんだ。

だから日本人は繊細でって書いたんだが。

ただ感情はおおいにあるが、何故そこまでに至ったか。。。性善説、性悪説とあるが自分の偏見だけで言うがどちらでもない(無)説なんだ。生まれてすぐは(無)。。そこから何を感じ取ってきたか。。


もう一つ。マヤさん海外に仕事で行かれている様だが、何か日本人と違うと感じた事はなかったかい?
自分は日本人は皆と同じが好きみたいだと言われた事がある。

30年程の昔だがね。考え方も行動も皆と同じ。
まだ県とか市ができる前は村で。。村八分って聞いた事ないだろうか?

村八分は八分は付き合わない。二分は付き合う。この二分って葬式だけと言う意味らしい。

村八分にされた家の誰かが亡くなった時だけは顔を出すと。。

多分村八分にされたくないから意見を合わせる。意見が違うとのけ者にするし、される。。

そういった日本人独自?と言ったら大袈裟かもしれないが、そういった事もあるのかも知れない。

の時のあの感情。。想像しただけでもえぐられる感情は。。もしかしたら自分に置き換えているのかもしれない。。

まぁ。それでも施設の子供等を森に放ち人間狩りしている、血なまぐさいどこぞの王室に比べれば。。。肉食なんてマシなのかも(笑)
ナオさんへ (マヤ)
2018-08-10 00:46:25
人間の感情・感傷の問題かもしれません。
私も含め多くの人は牛や馬がトラックで運ばれて行きされるのを見た時、こみあげるものを感じます。
この感覚はおそらく人間独特のものと思います。(他の動物達にも無いとは断言できませんが...)
仮にハイエナ達の大群が人間達を取り囲んで腹が空くたびに次々と人間を食す図を考えると、その時奴らには私達が家畜に対して抱いた感情が湧くでしょうか?
人間という種族にだけ備わる感情かと思います。
では何故そのような感情が湧くのか?
人それぞれでしょうが、環境によるものと思います。
仏教などの宗教、経済的余裕、などその一因かと思います。
猫は私達の環境ではペットとしての位置ずけですが、
なんと、マダガスカルでは使役動物です。
猫が市場で首に縄をかけられて、他の日用品と同じように売られているのです。ネズミや有害虫、ヘビなどの対策として購入されて行くのです。そこでは愛玩動物ではありません。
その光景を見た時には私、人間としてやはりされ行く牛や馬に抱いたような、なんだか物悲しさを感じました。
愛玩するも、するも、所変われば、環境次第で、要は人間様の都合次第です。
家畜やペットに対する感情はは経済的そして精神的余裕により相違が出るものと思います。カニバリズムを持つ部族すらあります。
多くの動物は殺生無しでは自ら生きては行けません。
人間だけ殺生するなという仏教の教えは的を得てるとは思いません。
が、に嫌な感情が生じるのは拭えません。この嫌な感情を芽生えさせたのも仏教であるのも可笑しな話です。
とかく宗教というものは人間の心を迷わすばかりです。

他の動物と全く異なる知を持ってしまった人間には、結局その知を使って、すなわち法律というルールを持って社会を形成して行くしか無いのですから、いづれ食肉や家畜に関しても過半数が納得する法律が出来るのを待つ、あるいは作って行くしかないのではないかと思います。
マヤさん。 (ナオです。)
2018-08-09 23:29:12
早速検索頂いたみたいで嬉しい限りです。

中々あの記事はセンセーショナルで。。。

1859年にダーウィンが進化論を発表して(年号間違えてたらすみません)

覆える迄159年掛かっている。

まだまだ時間掛かりそうです。

さて話しをちょっとだけ。

自分ベジタリアンになったキッカケは


野良猫を保護し家族にしたから。


(同じ命じゃん)と、自分の中の垣根を取っ払った。

悪くいえば一緒にしたんだ。家畜と自分ちの猫を。

そしてこうも思った。

肉を食べる事は義務ではない。権利ではないだろうか。勿論野菜も魚にも言える事だが。

肉は好きだが食べる事を放棄するのもアリではないかと。。

(野菜嫌いが食べるのを放棄は意味が違う)

肉を食べる権利を放棄した。だからと言って世の中変わる訳ではないが。

肉屋が商品を作り、消費者である我々が食べる。その中で、口当たりのよい美味しい商品が開発される。美味しいから消費者がどんどん買う。。硬い肉が薬剤で柔らかくなり、大量生産されるから値段は昔に比べたら安くなり、加工され、ハムやウインナー等開発される、イシイのミートボールに至っては、芸術と言っていい程90%添加物で出来ている。

同じ命だと思ってしまった事。自分と猫と豚が。

自分猫を家族の位置づけにしてるから、同じ4足を食べる事は出来なくなった。(これを周りにいったが為自分頭がオカシイ人と位置づけられた)

韓国ではペット用の犬と食用の犬は呼び方で分けてるらしい。

だからもしかしたらペットの犬の側で犬食べているなんて事もあり得る。

日本と韓国では事情が違うと言う人もいるだろうが

ペット用の動物の側で食用の動物を食べているのには違わない。

だから食べるなとかではない。またそれが当たり前の光景でもある。

思考は果てしなく。。。自分の内なる形無きものに耳を傾けるのも一考ではなかろうか。。。
こちらこそ。 (マヤ)
2018-08-08 08:41:10
思考に果てはなし。
ダーウィン進化論が否定されたという情報をいただきさっそく検索して検討して見ました。
人間やその他の動植物は元々そのものとして誕生したというのがDNA研究からの視点というのが要約でした。
でも、大きな疑問が残ります。
哺乳類の様に子宮で育って生まれてくる動物達は?
初めに子宮が存在した?子宮の様な物や環境が存在した?どこに?どうやって?

カエルなら分かりやすいです。
世界中至る所に存在してます。主に淡水に生息するカエルが海を渡って散らばったとは考えられないので
ある時期の地球環境がカエルの誕生に貢献して、ああやって膜に包まれた卵からオタマジャクシを経てカエルへと誕生したのは、なんとなく想像しやすいです。

しかし、今回の発表では人間は元々人間として誕生した!というのが趣旨。
人間が先?子宮が先?大いに疑問が生じます。
DNA(アミノ酸・ポリペプチド)万能至上主義的な気配が強い昨今、ひょっとするとDNA以外に生命を司る要素がどこかに存在しているのを見逃しているのかもしれないと思いました。

たまに出くわす、「宇宙からやって来た」説はハナから答えになりません。だって、ではその宇宙でもいいから、そこでどうやって生命が生まれたのかの答えにならないからです。

今後生命に関する新たな知見が続々出てくることが楽しみになりました。
ありがとうございました。
マヤさん! (ナオです)
2018-08-08 00:40:37
ありがとうございました!ザウルス氏も!


また、お会いしましたら宜しくお願いします!

先程のコメント間違えてザウルス氏に感謝だけになってましたが、正確にはザウルス氏マヤさん感謝!!です。申し訳ない。

また良い討論が出来る事楽しみにしてます。
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-07 23:54:33
そもそもこのブログは、“問題提起の場” であると考えています。その意味では、ナオさんをはじめいろいろな方々の意見を “喚起” していることはこのブログ主の大いに喜びとするところです。特にコメント投稿者同士の意見の交換がもっと盛んになるようにしたいですね。
ナオさんには多くのことを教えられます。今後ともよろしくお願いいたします。
いつもありがとうございます (ナオです)
2018-08-07 21:26:28
何かしらのキッカケで、肉食の道を断った方々。。。

あのまま、何の疑問も持たず、インスピレーションも無視し

そのままいっていたら、自分も未だ肉食だろう。。

親のおかげで好き嫌いなく育ったので

ベジタリアンになるのは、以外と容易かった。

卒業と書いたが多分道を外れたが正しいのかもしれない。。。それもわざわざ選んで外れた(笑)

ただそれただけ。。

(自分)ちょっとそれたんだよ〜(笑)(相手)それも仕方ないよ〜君変人だし、アウトローだし〜まあいいんじゃないの?みたいな会話が成り立てばと妄想する。

お互い議論して、納得して(マヤさんは納得してるか分からないが)

それぞれの考えを尊重して行けたらいいと思う。

ここのコメント見たが大半の方々は何かしら思いながら考えながら肉食をされている。

素晴らしい事ではなかろうか。

何も考えず、思わず、疑問も持たず、ただ周りが食べてるから当たり前の様に習慣の様に肉食されている方々よりも。

この豊食の時代色々考えさせられる。

ザウルス氏に感謝!!
ナオさんへ (マヤ)
2018-08-07 10:29:47
ようやく普通に議論できる方がいてホッとしました。
世の中議論に喧嘩腰になる人が多くてナオさんの様に落ち着いてお話しできる方は希少です。

素晴らしい視点を提示していただきました。
「美味しいから食べる」

この点につき熟考して見ました。
確かに現在の食品群は「味」が一番の要素と思われます。米、お菓子、麺類、飲料、そして食肉に至るまで味を追求している様です。
では、人間の味覚というものはどういうものなのか?
私はアフリカでヒンバ族の食事を口にした事があります。お粥の様な、スープの中に米や野菜が入ったものでした。彼等はとても美味しそうに食べていたのでちょっと試しに別けてもらったのです。
失礼な事でしたが、一口で吐き出してしまいました。
酸味が強く、日本風で言うなら、腐った漬物のスープとでも言う様な感じで、咄嗟に危ない、食べたら危ないと、吐き出してしまったのです。
Taste differ.
ある集団にはある種の味覚が定着するし、個々においても、魚の生臭い・泥臭いのがダメ、とか、何々の何々が受け付けない、とか味覚はそれぞれです。
また慣らされるという側面もあるかと思います。
ワサビや生姜や胡椒など香辛料は、初めて食したら多くの人が受け付けない筈なのに、慣れると欠かせないものにまでなってしまいます。

では、現在の食肉はどうか?
仰る通り、美味しく美味しく、常日頃から手を加え続けられています。
もはや食肉用の豚や牛などは動物ではないという見方が正しいのかもしれません。

なぜこの様な事態になってしまったのか?
人間様の生活様式のせいだと思います。
狩猟生活時代なら一日中自分達の食を探し求めていれば事足りたのですが、現代においては無理です。
色々な職種に従事しているため、食の確保だけに1日を費やすことは不可能です。
それで代わりに食を確保する専属の職も生まれ、大量に食を確保する必要に迫られる。
ついには工業的・産業的な食肉供給という形態が定着してしまった。
それに資本主義という経済的側面も後押ししているものと思います。
味覚自体も後天的に押し付けられた、または慣らされたものかもしれません。

ペットを飼う側で食肉を食べることに関しての線引きは個々の心情に委ねられているのかと思います。
平気な人は食せば良いし、哀れみなどの情が沸く人は避ければ良い。それだけのものかもしれません。
他人の食に口出ししないのが無難ということかもしれません。
ヒンバ族に急に今私達が口にしてる食を与えたら、きっと吐き出してしまうかもしれません。
マヤさん。コメントありがとうございました。 (ナオです)
2018-08-06 22:08:30
とは言ってもここはザウルス氏のブログだが。。。

「動物をペットにしてる人間が動物を食べている事の矛盾」はどこにあるのでしょうか?


食用に動物やペット(=家畜)を囲い定住生活、もしくは携えながら移動生活しながら、万一の時にはそれを食す。


これについては彼等が万一の為、食するだけであり、必要最低限の、尚且つ非常時、または特別なハレの日の食事の為だと思われ日本の様に毎日毎日処分しないといけない程のものではないと自分は思う。モンゴル辺りがこんな感じだろう。



食肉として動物を扱う事、自由を奪い取る事は
誰もが残酷で心病む事だと存じます。
その良心の呵責の境界線はどのあたりでしょうか?
牛馬豚鳥ならダメで、魚や貝の養殖ならヨイ?


自分は養殖も反対である。魚も釣りで自分が食べるだけだ。貝もその時期に食べるだけ取りに行く。



知能を持ったり可愛い動物ならダメで、愚かで醜い動物ならヨイ?
牧場はダメで、動物園ならヨイ?
その基準はどこにあるのでしょうか?
その基準自体を作り上げているのもこれまた人間です。


ここは同意出来る。全て人間側の線引きに過ぎない



また、自分の手で仕留められない動物以外はダメであれば、原始時代の生活を強いることになります。
確かに太古の狩猟時代の人間の生活は地球環境に同化し、動物達とも調和が取れていた様に聞かされます。
しかし、それと同時にとても弱い存在でした。
おそらく動物界で最も弱い動物の一つでしょう。
足は遅く、飛べもできず、潜るのも少しだけ、泳ぎも下手、獲物を倒す武器としての爪や牙も持たず。
こんな取り柄のない動物も珍しい。
岩陰か掘った穴倉で、毎晩夜な夜な恐怖に怯えていたと思います。
恐怖と妄想、恐怖と妄想、恐怖と妄想…
しかし、この恐怖と妄想が人間に知能を授ける原動力となりました。
身体で劣る人間が、知能で動物に勝り出したのです。
その結果がご覧の通りです。


ダーウィンの進化論が少し前に覆ったとアメリカ辺りでは大騒ぎだった。日本のマスコミは放送すらしない。人間は猿から進化したわけでもなく人間のままである。その他の生き物もそうだ。とすれば、確かに猛獣を目の前にしたら恐怖この上ない。マヤさんが言われる様に太古の生活になるしかない。人間は文明の発展の為かなりの動物を犠牲にしてきた。今も進行中だ。
この点も共感出来る。



単に食肉用の家畜は可愛そうと言う理由や、特定の宗教(仏教)に殺生は一番悪い罪と言われていると言う理由、だけで考えるのではなく、思考停止せずに、もっともっと深く考えて下さいと言う事です。

自分がこの最初のコメントに仏教を持ち出したのでこんな考えにマヤさんが言っておられるのかもしれないが、あれは坊さんたちに向けて言っているのであり、それ以外の方々に言っているのではない。坊さんには糾弾したい。

それと繰り返しになるがザウルス氏はペットを飼っているのに、何故肉食するのかの矛盾だけを言われている。

自分も以前肉食してたのでよく分かる。


なんやかんや理由付はいいんだよ

ただ美味しいから食べるんだ

乳製品もうまいんだ。ドリア、ピザ。ステーキ、焼き肉、ケーキ。。。肉由来、また肉そのものは悪魔的にうまい。だから食べる。正直なところの答えはそうではなかろうか?


どんなに危険と言われようが、感情的な面で頭で分かっていようが、うまいから食べるんだよ。違うかい??不味かったら食べないだろう、いくら肉でも。解体に失敗した猪は臭くて食べれない。そんな肉は食べないだろう。猪も上手く解体したら豚より美味いんだ。

人間の、それも日本人好みに改良された商品であるモノに感情や道徳を当てはめるのがおかしいと、大半は言うんだ。あれらは動物の形をした別物だと。

それを我々は否と言っている。

あれは、それでも動物なんだと。。 


我々は肉食を卒業しただけだ。だからと言って肉食の方々を避難するつもりは毛頭ない。それぞれの考えであり感情だ。

意見は言う。。水と油でいつまでも平行線だろうが。。。

ただ何故美味しいから食べると言うコメントがないのか不思議でたまらないだけだ。



ただ一言。自分は根の野菜は殆ど食べない。間引きのしか食べない。


マヤさんは、自分の考えを筋道立ててコメント下さった。おかげで自分も言いたい事が言えた。

敬意を表する。
ナオさんへ (マヤ)
2018-08-06 09:14:25
「動物をペットにしてる人間が動物を食べている事の矛盾」はどこにあるのでしょうか?

食用に動物やペット(=家畜)を囲い定住生活、もしくは携えながら移動生活しながら、万一の時にはそれを食す。

食肉として動物を扱う事、自由を奪い取る事は
誰もが残酷で心病む事だと存じます。
その良心の呵責の境界線はどのあたりでしょうか?
牛馬豚鳥ならダメで、魚や貝の養殖ならヨイ?
知能を持ったり可愛い動物ならダメで、愚かで醜い動物ならヨイ?
牧場はダメで、動物園ならヨイ?
その基準はどこにあるのでしょうか?
その基準自体を作り上げているのもこれまた人間です。

また、自分の手で仕留められない動物以外はダメであれば、原始時代の生活を強いることになります。
確かに太古の狩猟時代の人間の生活は地球環境に同化し、動物達とも調和が取れていた様に聞かされます。
しかし、それと同時にとても弱い存在でした。
おそらく動物界で最も弱い動物の一つでしょう。
足は遅く、飛べもできず、潜るのも少しだけ、泳ぎも下手、獲物を倒す武器としての爪や牙も持たず。
こんな取り柄のない動物も珍しい。
岩陰か掘った穴倉で、毎晩夜な夜な恐怖に怯えていたと思います。
恐怖と妄想、恐怖と妄想、恐怖と妄想…
しかし、この恐怖と妄想が人間に知能を授ける原動力となりました。
身体で劣る人間が、知能で動物に勝り出したのです。
その結果がご覧の通りです。

単に食肉用の家畜は可愛そうと言う理由や、特定の宗教(仏教)に殺生は一番悪い罪と言われていると言う理由、だけで考えるのではなく、思考停止せずに、もっともっと深く考えて下さいと言う事です。
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-06 01:30:45
マヤさんはナオさんによって、ずっとまともに相手にしてもらっていると思います。誰でもそう思うでしょう。
ナオさんは問題点を的確につかみ取って丁寧に論じています。今はわたしはむしろ見習うべきだと反省しています。
確かにマヤさん? (ナオ)
2018-08-06 00:18:18
こちらが殺されそうになったら自分の命を守る為相手を殺す可能性は有るだろ。


しかし食肉にされる動物は
抵抗もできず、人間の一方的な暴力で殺されるんだ。

君が縛り上げられピストルで眉間を撃ち抜かれる(では体を固定され眉間に高圧電流かだったか)

もしくは縛られ、なます切り(韓国犬の場合)

吊るされ喉切り(鶏)

これがこちらが殺されそうになっている状況だろうか。

どなたかがコメントしていたが、自分で処理出来ない()から食べないに、おおいに賛成だ。本来食べ物は自分の手で全て行い得られるものではないだろうか。

しかし米を含む農作物は作るにしても大変である。

しかし収穫をお願いされればできるのではなかろうか。

では、魚を〆る事は出来るかであろうか?鶏は?豚や牛を自らの手でし、解体はできるだろうか?

自分は、それが出来る人なら食べるのもいいと思う。が、このブログは、そんな事を問題視していない。

動物をペットにしてる人間が動物を食べている事の矛盾を問題視しているだけだ。

余りにも自分的にマヤさんのコメントに対し自分なりの感想を書きたく、また、この場荒らしてしまった事お詫びします。
Unknown (マヤ)
2018-08-04 00:27:03
みなさん、生き物を何で分けていますか?
肉は食べないけど、魚は食べる?
昆虫食なら良い?
知能があり、可愛くて、人間の為になるから食べない?
どういう理由で生き物を殺して食べて良い場合とダメな場合に分けているのでしょうか?
五十歩百歩にならないために。

そもそも食肉家畜がこの世に生じたたのは、農耕し定住するようになってしまったからです。植物を都合よく食しようと始めた農耕のせいで、食肉家畜というものも生まれてしまったのです。
Unknown (マヤ)
2018-08-04 00:08:30
「他人や他の生きものは殺してもいいけれど、このわたしを殺すのはダメだよ」
そもそもこれが生き物の本来の姿では無いでしょうか?

「殺生は必然の事です。だから、わたしやわたしの家族が殺されても全然かまいません。」 と本気で言う覚悟があるのだろうか?
これって飛躍?

人間は肉体的な力関係を「知」で覆っているだけ。
全然構わない人はいないでしょう。殺されそうになったら殺しかえしますよ。
殺生が必然な事=すぐ殺す、ではありません。
殺し殺されが煩わしいから「知」で法を設けて人間同士の殺し合いを抑制してるだけです。
逆にその「知」が他属・他種の動物達に取っては脅威となってしまった。
もしも、この世に人間種族に知・体ともに勝る生命体が存在したら人間種族はどう扱われるでしょうか?
知が豊富だから人間に優しく接してくれる?
それとも奴隷のように使い捨てされる?
Unknown (マヤ)
2018-08-03 23:48:23
仏教では殺生が一番重い罪。
宗教とは人間だけが持つ観念。
自然界で浮いているのは人間だけ。
自然界に宗教は存在しない。
弱肉強食。
命なんて単なる物質の寄せ集め。
いづれ崩れ、また作り変えられ、転生して行く。
意識が消えれば全て無となる。
憎しみも、憐れみも、怒りも無い。
ただ周りの意識が騒ぐだけ。
死して新たな物となる。
それを良しと受け入れる。
殺す・殺される事なぞ些細な事となりし。
ちょここ さま (ザウルス)
2018-08-03 20:02:33
おっしゃる意味はわかります。 ただ、いわゆる 「委託殺人」 もしくは 「嘱託殺人」 とは、自殺ほう助のようなものを指します。自殺願望者が誰かに「自分を殺してくれ」 と頼むようなケースです。
ですので、厳密には 「動物殺害の依頼」 もしくは 「の代行の依頼」 と言ったほうがいいかもしれません。
委託屠殺 (ちょここ)
2018-08-03 18:42:09
貴記事には、いろいろと考えさせられました。
自分自身でせずにスーパーなどでパック肉を買う人は、「委託殺人」ならぬ「委託」しているのですよね。
あるいは、業者に寄生しているというか…。私は肉食しませんがスーパーで食料を買うので、果穀藻菜業者に寄生しているということです。
テレビなどで牛や豚の赤ちゃんを「かわいい!」といいながら肉食をしているタレントには底知れぬ恐怖を感じます。
牛は生後たった16~30ヶ月、豚は たった7ヶ月でされるそうです。残酷に殺されるためだけに生まれてきた命など、あるはずはありません。
肉食をしている人はみんな、若い命を「委託している」という自覚だけは持つべきですね。
何でそんなに力んでいるのかな?  さま (ザウルス)
2018-08-03 08:14:40
デジタル大辞泉の解説: 「殺生: 生き物を殺すこと。仏教では最も重い罪の一つとされる。」   これがふつうの正しい解釈です。つまり、人間を殺すことはとうぜん殺生に含まれ、殺生のうちで最も重いものなのです。

「殺生とは他属や他種の生き物に関しての話です。」   これはあなたが勝手に “すり替え” ている勝手な解釈です。 ものごとを自分の都合のよいように勝手に狭く解釈しているだけです。あなたの世界観の狭さを物語っています。

「何でそんなに力んでいるのかな?」 
ザウルスのこのブログでも、YouTube でも いろいろな書き込みがありますが、議論の中で 「何をそんなにムキになってるの?」 と言いだす人がときどき出てきます。これは自分の論理が破綻して反論しようがなくなったときに出てくるセリフなのです。今までの豊富な経験からはっきりそう言えます。
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-03 07:42:09
ぜんぜん話それていません。
「牛や豚等の4足は、2.3才児くらいの知能があるらしいです。悲しみ、喜び、怒り恐怖といった感情もあります。の瞬間、どれだけの恐怖だろうか。生けとし生きるモノに慈悲を持ち無駄な殺生をしないのが仏教の教え。」     とのことですが、まさにおっしゃるとおりです。 
堕落した日本の仏教は、肉食を問題視するどころか、「殺生不可避論」 によって正当化しています。仏教の核心である “慈悲の心” を現代の日本人は忘れ、産業化した肉食生活 を疑問に思わなくなっているのです。
ちょここ さま (ザウルス)
2018-08-03 07:30:18
「肉食をする人は、ちゃんと自分の手で殺して食べることができるなら、肉食もアリだと思います。」   まったく同感です。
うしろめたいことを隠蔽することに問題があるように思います。場と呼ぶべきなのに、食肉センターと呼んだり、見学を受け入れても、肝心の牛や豚を殺すところだけは見せないのは偽善です。そこにはやはりやましいところがあるのです。

“肉食” はこうした隠蔽、偽善、欺瞞、罪悪感の上に成り立っている社会的慣習であり、病理的産業です。
タバコは500年続いた悪習でしたが消えつつあります。肉食という悪習は日本ではまだ100年ほどしか経っていません。いつまでもタバコを吸い続ける人はいるでしょう。いつまでも肉食を続けるひともいることでしょう。
狂牛病は (ナオ)
2018-08-02 22:29:16
全破棄の牛を加工して牛の肥料に混ぜて食べさせたりしたのが一つの原因とも言われている。肉って、分からないんですよ。日本では牛は牛として売ってますが、アジア圏では何の肉か分からないんですよ。実際自分犬食べてます。犬とは知らず。。向こうからしたらご馳走で、はるばる日本からきたのでオモテナシしてくれて。。今はそういう意味では安心してます。昔の人も肉食べていたとは思いますが、自分等が食べるのに必要な分だけの狩りだったのでは?今は必要以上に生産してる。発展途上国ならまだしも物が豊かなこの国で何故わざわざ肉を選ぶのか。肉の栄養価値何て最新の栄養学では覆っている。江戸の頃には薬と称して猪や鹿を食べる事もあったらしい。が、それも最低限しか獲って無かった。ユダヤ人大量虐殺の如く生産される食肉と云う名の死体。牛や豚等の4足は、2.3才児くらいの知能があるらしいです。悲しみ、喜び、怒り恐怖といった感情もあります。の瞬間、どれだけの恐怖だろうか。生けとし生きるモノに慈悲を持ち無駄な殺生をしないのが仏教の教え。人間は知能を活かし文明を築いた。弱肉強食の枠からは外れている。だから上から目線だけど生殺与奪があるけれど、願わくば生かし与え給う。話しそれました。すみません。
何でそんなに力んでいるのかな? (人間)
2018-08-02 21:49:39
話のすり替えが上手いのはどちらでしょうか?
殺生から殺人にすり替えてますね。
殺人を良しとは誰も考えもしないでしょう。
殺生とは他属や他種の生き物に関しての話です。
いづれ私達もその他属や他種の餌食になって還元されるのですから、もちつもたれつです。
はじめまして。 (ちょここ)
2018-08-02 21:26:59
殺生を正当化する「殺生不可避論」は、私もよく聞かされますが、ご都合主義のキモさにウンザリします。
私も肉は食べません。理由は、自分の手で動物を殺すことができないからです。
自然界のあらゆる生物は、「自給自足」が基本。
私は食べるために自分で果穀藻菜やタマに魚介類を取ることができても、動物を食べるために殺すことはできません。肉食をする人は、ちゃんと自分の手で殺して食べることができるなら、肉食もアリだと思います。戦争したり殺しあうこともできる人がいるのですから。
夏っ子 さま (ザウルス)
2018-08-02 20:02:43
まず、「共食い (人肉食)」 は肉食の中でも極めて特殊なケースです。たしかに極めて危険な弊害があることは事実ですが、それを “肉食” 一般に当てはめることはできないでしょう。

現代の “肉食” にはプリオンよりももっと複合的な危険が潜んでいます。今日の食肉産業は食肉用の家畜(牛・豚・鶏)の徹底した薬物的管理によって維持されています。成長促進剤、抗生物質、性ホルモン剤といった薬物を投与し続けていないと、食肉業界で生き残れないのです。

その結果、牛も豚も鶏も、戦前には考えられないほどのペースで大きく成長して、出荷できるのは事実です。しかし、そうしたさまざまな薬物はとうぜん精肉の組織に残存し、人間の体内に摂取されます。そして、がんを始めとしたさまざまな病気の原因となります。これらは目にも見えず、味でもわかりません。しかし、家畜に投与した薬品を表示する義務は食肉業者には一切ありません。

肉を食べなくちゃ動物性タンパク質を摂れないと思い込んでいる人は、こういったリスクも十分に考慮すべきでしょう。
Unknown (夏っこ)
2018-08-02 18:38:28
割り込み失礼します。
武田邦彦教授が、哺乳類は共食いをすると脳にプリオンが溜まり、狂牛病のような病気になってしまう、と書いておられました。
長い歴史から、人類も主要な栄養源としてヒトを食べ続けることは避けるようになったのかも知れません。
学生 さま (ザウルス)
2018-08-02 17:00:59
「肉食」 といっても、さまざまです。この記事ではあえて厳密に定義せず、牛や豚といった四つ足を食べることといったくらいの意味で考えています。

「菜食主義」 もさまざまで、卵、乳製品、魚介類などを含むかどうかで細かく異なります。
ですので、いわゆるベジタリアンな食事では動物性タンパク質が常にゼロになるとはかぎりません。厳格にゼロを目指している極端なケースは意外に少ないと思われます。

「動物性蛋白質は動物からしかえられない為に動物をころします。」   とのことですが、卵や魚介類をちゃんと食べていれば、牛や豚を殺さなくても、十分に動物性タンパク質は摂取できている思われます。 それとも卵や魚介類も 「動物をころす」 「肉食」 と考えているのでしょうか?

「動物性タンパク質 イコール 肉食」 と固定的にお考えのようですが、昆虫を “食用家畜” として捉えた場合、少ない飼料で生育可能なこと等から資源が限られる宇宙などでも得られる動物性食物として優れているそうです。また、国際連合食糧農業機関(FAO)はタンパク源として世界的な人口増加による食糧難対策の一端を担う食文化として “昆虫食” を評価しているそうです。

コメット さま (ザウルス)
2018-08-02 16:22:17
タイ国内では犬を食べることは動物愛護法により禁じられているそうですね。
タイのバンコクには野良犬がたくさんいるのは事実ですが、それらの犬を違法業者が捕獲してトラックにぎゅうぎゅう詰めにしてベトナムに輸出しているそうです。もちろん殺して食べるためです。厳しく取り締まる必要があるでしょうね。
夏っ子 さま (ザウルス)
2018-08-02 15:14:47
最初の記事の 「sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み」 において、わたしは以下のように言っています。
「まずは、犬や猫を飼っている人たちから、“肉食生活” を見直す必要があるのかもしれない。」 と。

牛豚は犬猫と同じ四つ足動物で、人間と同じ哺乳類です。哺乳類ということは魚類や爬虫類などと違って母親が子供を “愛情” を持って育てます。牛豚は人間がペットとして飼っている犬猫よりも明らかに大きいですし、実際、人間よりもずっと大きいです。

犬猫を殺させてその肉を食べることなど考えられないようなひとが同じことを牛豚には平気でしているのは、そういう社会的慣習が産業化して大衆がそれを疑わずに受け入れているからです。
奴隷を使うという社会的慣習も疑われることなく長く続きました。女性の権利を認めず家畜扱いする社会的慣習も長く続きました。タバコを吸うという社会的慣習は500年くらい続きましたが、現在やっと消えつつあります。しかし、どんなおかしな時代にも、それらのおぞましさに気づいているひとはいるのです。

犬猫を飼っている人は、同じ四つ足の哺乳類を飼っているというだけで、肉食のおぞましさに気づきやすいはずです。少なくとも自分の知性と感性で物事を考えることができるひとならば、いくら周りの人が当たり前と思っていても、「おかしい」 と気づくはずです。
Unknown (学生)
2018-08-02 15:01:32
たしかに今は動物性蛋白質を植物からでも得られるようになって来ていますが、未だにそれが普及していません。(GM作物の安全性はまだ分かっていません)またこの地球には菜食主義者もいますが彼らの寿命は平均と比べて低くなっています。(このデータが間違えている場合は以後の論は意味を成さない)つまり、人間が長寿を目指すならば動物性蛋白質をとらざるを得ず、それは多くの場合動物からしかえられない為に動物をころします。このとき何故人間は互いに殺し合って動物性蛋白質をとろうとしないかですが、それに完全に合理的な答えは見付からないので文化だとして割り切るべきだと思います。確かに動物愛護団体がすべての動物を愛護していないことは気色悪いですが、それに属していない一般人は健康を保ちたいのであれば肉食は避けられないと思います。
タイの野良犬、インドの野良牛 (コメット)
2018-08-02 14:22:27
タイの話ばかりして恐縮ですが、今回の話題はタイにピッタリかも知れません。タイの町は野良犬だらけです。(飼い犬が放し飼いにされている場合もあります。)一度ご近所のインドへ行った事がありますが、ナ、ナント野良「牛」が町中を歩いていました。慣れない私は若干怖かったのですが、向こうは人間に慣れているようで、威嚇して来たりしません。ようするに鳥や爬虫類と同じ扱いなのです。慣れれば違和感はありません。インドのジャイナ教は虫を踏まないように気をつけて歩き、誤って蚊を飲み込まないようにマスクをして生活するそうです。一般人はそこまで徹底していないようですが、動物に対する配慮は日本や欧米に勝っているように感じました。ただ、野良犬や野良牛の糞の始末は問題ですが、、、、
私にとっては原罪に近いかな? (夏っこ)
2018-08-02 13:25:21
お久しぶりです。私も愛犬を愛でながらお肉を頂いている身であります。
ペットだけでなく牧場の動物たちも本当に可愛いと思いながら同時に「あー…この子たちはいずれ私たち消費者のために殺されてしまうんだ…」と意識せざるを得ず、見ているのが辛くなってしまいます。スーパーに並んだお肉を見てなお、「これは場に入って行かねばならなかった動物たちの肉なんだ」と苦しくなりながら買っては食べているのです。正当化はできません。ベジタリアンにもなれません。申し訳なく思いながら頂くのみです。
しかし人類は現存する宗教がまだなかった太古の時代から狩りや釣りをして生き物の命を奪って生き延びてきました。私たち日本人は魚介類や鹿猪を取って食べる事にはあまり抵抗や後ろめたさは感じないのではないでしょうか?それは私たちが生きていくために是非もなく命を頂く身近な対象であったためだと思います。現代は必要以上に動物を産ませ、殺し、使いきれずに廃棄している上、他方では食糧がなく飢えている人が何億人もいるのです。ペットでさえ必要以上に産ませ、買い手がつかないうちに成長してしまったら闇に葬り…(これがsippoにとっての本題でしたね)
結局人間が分をわきまえず、他者の命をカネに変えることに血道を上げた結果という観点で、ペットの命も家畜動物の命も軽んじていることに変わりはないと思います。さらに言えば、人身売買や臓器売買、デザイナーズベビーなど人間の命も手っ取り早くカネに変えられています。

朝日新聞も肝を据えて、センシティブなテーマに発展しても受けて立つ覚悟で始めてくれたら良かったのに…ですね。
ぱんだ さま (ザウルス)
2018-08-02 12:24:54
率直なご感想をありがとうございます。

わたしが今回の2つの記事でしていることは、肉食の “断罪” や “非難” ではありません。

肉食の正当化にひそむ矛盾や不整合を明らかにして、“問題提起” をすることです。
毎日のあまりにも日常的なことに大きな問題がひそんでいることに気づいて頂けたらうれしいです。
前回のsippo記事と合わせて読ませていただきました (ぱんだ)
2018-08-02 10:16:08
初めまして。コメントは初めてですが少し前から読ませて頂いております。

私が住んでる所から車で数十分ほど行ったところに、場だと噂される(もしかしたら私がそう思いたくないから確認してないだけかも知れませんが)場所があります。
そこを通るたびに、こちらの記事にある画像のような世界が頭をよぎり、考えるのをやめてしまいます。

それでもお肉が好きな私。嫌なことには目を向けず、ただ好きなものを食べる私。
いつも「仕方ない」と心の中で言いわけしつつ…。

幼い頃、近所にあったお肉屋さんで奥の冷凍室に冷凍された処理済みの牛が丸々一頭、逆さまに吊るされているのが見えて驚いた記憶もあります。

私はあの生き物の一部を食べているんだと思ったこともあります。それなのに食べる時はそれを忘れる、考えないようにしている。

私はエゴの塊なのだなぁ、と改めて感じました。

それでもまた私は同じことを繰り返すのかも知れません。

ザウルス様の論旨とズレたコメントでしたらすみません。
拙いながら、私の感想をこちらに残したくなりました。
おっしゃる通りです (ザウルス)
2018-08-02 07:35:38
この記事は、多くのひとたちが自分の毎日の “肉食生活” を、「生きるためには殺生はやむを得ない」 という 「殺生不可避論」 によって “正当化” していることを明らかにしました。そしてその「殺生不可避論」 が実は “欺瞞に満ちたトリック” であることを証明しました。

自分たちの拠り所としている 「殺生不可避論」 がまるで仏教に基づいているかのように錯覚しているのが滑稽です。単に “堕落した生臭坊主の言い訳” の受け売りなのです。
この “生臭坊主の言い訳” はどうやら 「開き直りの破戒僧」 として悪名高い親鸞に端を発するように思われます。
一言も! (ナオ)
2018-08-02 00:32:43
ザウルス氏の記事には出てませんよね。なのに、出てきてしまう。これ、不思議です。普段でもその手の話しになると出るんですよ。相手から。まさにこの記事は、その解答編なんですね。ただ分かるんですよね。相手は食べたいから言うんだなってのが。でもその意味をザウルス氏と似たような事言ったことがあって。
そしたら屁理屈と言われた(笑)自分からしたら言動に一貫性がないなあ〜と(笑)
ナオ さま (ザウルス)
2018-08-01 23:21:57
肉食の是非についてはキリスト教徒の間でも論議されているようですね。それは近年、欧米において菜食主義、ビーガニズムが大きな広がりを見せているためでしょう。

健康のため、生命倫理のため、エコロジーのため、から肉食が疑問視され、批判されているのだと思います。

しかし、「ザウルスでござる」 では、肉食家たち自身の価値観の論理と倫理における “矛盾” 、“不整合” を問題にしています。「殺生はいけない」 とは一言も言っていないのです。
肉と言う文字は (ナオ)
2018-08-01 22:35:26
誰かが言ってましたが家の中で人が人を食べていると。見えなくもない(笑)
前回のシッポの記事内容は、朝日新聞が動物愛護活動の一環で犬や猫の里親探し等するみたいだけど、シッポとネーム打ったからにはシッポのある生き物全てにおいて愛護活動したらいいのにね!って事でした。ざっくりな内容は。で、コメントにはいつの間にか殺生に話しが飛んで。。論点ずれまくり。しかしこの考えが大半。ベジタリアンと言うだけで偏見される。宗教上の理由?とか言われる(笑)あと。どこかで読みましたが実はキリスト教も肉食は禁止らしいです。長い間に歪んで伝わっているのでしょう。肉、魚(貝類はわからないけど)は実はダメと書いてありました。ホント、殺生を許すと言う意味を考えて頂きたいものです。坊さん等も!仏教の教えに輪廻転生ってあるでしょうが!アレの意味知っているなら殺生出来ないはずなんだが。。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

動物」カテゴリの最新記事