ふくろうカフェの放置 は 拉致問題の放置 と同じである
日本人がふくろうカフェを放置しているのは、日本人が “掛け声だけ” で けっきょくは拉致問題を放置しているのと同じである。
日本は “放置”国家 である。
日本人がふくろうカフェのフクロウたちを助け出さないのは、いつまで経っても日本人が北朝鮮にいる拉致被害者を助け出さないのと同じである。
ふくろうカフェのフクロウたちも、拉致された日本人たちも、 “本来いるべきところではない場所での生活を不当に強いられている者たち” である。基本的な自由を奪われている者たちである。違うだろうか?
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“放置国家、ニッポン” の国民は、 “不正に苦しむ者を助けない国民” である。虐げられている者を “見捨てて忘れようとする国民” である。仲間の一人が食われていても、自分たちは、草を食べ続けながら横目で見ている “心優しい草食動物” である。
日本人にとって、美徳は “耐えること” であり、これは見捨てられた者にも等しく求められる、日本人の精神世界における普遍的な “美徳” である。
日本には古来、”不正に苦しむ者を助け出すヒーロー” はいなかった。日本には“救い出すヒーロー” はいなかった。 “救い主” も “解放者” もいなかったのだ。
日本人に助けてもらうことを期待してもムダである。けっきょく誰も助けに来ないのだ。このことを骨身に沁みてわかっているのは、北朝鮮に連れていかれた、いわゆる “拉致被害者たち” である。
日本政府も、「助け出さないとは言っていない」 という逃げ口上だけはちゃんと用意しているのだ。
「 “遅れた助け” は “侮辱” である。“大きく遅れた助け” は “大きな侮辱” である」 ザウルス
建前を繰り返すだけで、日本人は誰も自分からは “余計なこと” はしないのだ。そういう “おせっかい” は、“放置国家”の日本人の行動モデルには元々ないのである。目の前の牧草を黙々と食べ続けるだけである。
悪人や抑圧者は、この日本人の精神にどっしり根を下ろした “忍耐” という美徳 によって追及や断罪を免れるか、先送りされるという恩恵に常に浴している。
いわゆる “泣き寝入り” とは “忍耐” のバリエーションではなかろうか。
日本には第三者が介入して助け出すという行動モデルは存在しない。だから、“泣き寝入り” という典型的な結末になるのだ。“泣き寝入り” は英訳が非常に難しい日本語の一つである。
不正、圧制、虐待にあっても、じっと耐える、それだけが期待されていることだ。文句を言うのは “大人げない” のだ。“弱音を吐く” のは人間ができていないからだ。誰かに助けを求めれば、そのひとにとって “迷惑” になるだけだ。
日本では、助けを求めず、文句も言わず、 “ひたすら耐える人間” が “ヒーロー” なのである。
日本人の “マラソン好き” の理由はまさにここにある。苦しみながらも文句を言わず延々と耐え続けるのが、“日本的ヒーロー” の姿なのである。支配者、権力者、圧制者、為政者、マスコミにとっては、最も理想的な愚民 となるタイプである。
しかし、“忍耐” はどう考えても “奴隷の美徳” ではなかろうか。どれだけ我慢できるか、奴隷どうしで競い合って、褒め合っているのが日本である。“苦労している” のが褒め言葉であり、取り柄になる世界である。
マラソン中継にかじりつきながら、苦痛に顔をゆがめる選手に自分を投影して感動している奴隷の群れ がほとんどの日本人である。
そして日本のスポーツ選手の好きな言葉は、“自分との闘い” である。これこそは自虐的性癖の宣言(カミングアウト)である。
日本人の精神構造の根底には、こうした “奴隷根性” がびっしりと根を張っている。
“奴隷根性” は “敗北主義的マゾヒズム” と言ってもいい。
敗北主義 とは、どうせダメだ、ということである。ここでは、奴隷の境遇を拒否すること、自由になることを初めから放棄している態度をいう。
ここでいうマゾヒズム は、もちろん 広義の意味 であり、狭義の身体的、性的な意味ではない。
広義には、“支配されること、服従することに満足を覚える性癖” である。
わかりやすく言うと、“奴隷になりたがる精神構造” である。
つまり、 “束縛のない自由の身になることを拒否する 倒錯的な 精神構造” である。
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さて、話を “ふくろうカフェ” と “拉致被害者” に戻そう。
「それでは、この二つに “奴隷根性” が、どう繋がるのか?」
見事に繋がっていることがおわかりにならないであろうか?
奴隷は、いや、“奴隷根性の人間” は、不正に自由を奪われている者を見ても、そんなに騒ぐほどの問題とは思えないのだ。フクロウの境遇も、拉致被害者の境遇も、そんなに緊急性のある問題とは思えないのだ。要するに、“自分には関係ない” ということなのだ。 “放置国家” の “放置主義者の群れ” のふつうの反応である。
そういった “不正に対する無関心” 、 “他者の痛みに対する無感覚” こそが、奴隷根性が骨の髄まで染みついた人間の偽らざる反応なのである。
“ふくろうカフェのフクロウたち” と “拉致被害者たち” とを結びつけることを、「そんなの、こじつけだよ!ばかばかしい!」 と否定するのが、彼らの典型的な反応である。
「わたしたちは“ふくろうカフェ”に反対します」 反ふくろうカフェポスター No.1
“可愛いきゃ何でも許される?” 反ふくろうカフェポスター No.2
“カワイイ” 以前に “かわいそう” 反ふくろうカフェポスター No.3
”鳥がしゃべれたら・・・” 反ふくろうカフェポスター No.4
「真似してフクロウ飼わないで!」ハリポタ作者の声 反ふくろうカフェ ポスター No.5
ただ、おそらくわたしはあなた以上に “愛国者” であると思います。
あなたは現状を放置する愛国者であり、わたしは現状に満足しない愛国者なのです。その違いです。
日本人であろうと外国人であろうと、人間であろうと動物であろうと、苦しんでいるものは助けようと言っているのです。
“放置国家ニッポン” という表現で挑発して問題提起していることは、ふつうのひとならわかるはずです。
最近になってやっと憲法改正を主張する愛国政治家が出て来たので、大いに期待し、ザウルスさんを見習って拉致被害者救出のポスターを張ったりして頑張っております。
しかしやっと最近になって憲法改正を主張する愛国政治家が出て来てくれました。
わたしは「憲法改正」「拉致被害者を取り戻す」運動のポスターを街角に貼りなどして、愛国日本の運動に微力を尽くす所存です。
ザウルスさんのご指導ご鞭撻を宜しくお願い致します。
この記事のわたしの挑発的な日本人論よりずっと前向きで現実的です。政治家をあてにするだけでなく、みずから行動を起こしているところは立派です。
「なんとかしなくては!」で終わらせずに、問題解決に向けて、とにかく自分でできることから始めることですね。すると、必ず賛同者が出てくるものです。
別のコメント欄でも書いたが、動物愛護、動物の権利の保護の問題は、個々の動物種によって別々に論ずる必要があるのだ。水槽の中にカナリヤを入れれば虐待であり、熱帯魚を鳥かごに入れれば虐待なのである。
飼育すること自体がすでに虐待だという立場は “論” としては可能だが、わたしはその立場は現実に根ざしていない空理空論であると考えている。それを言ったら、大きな水槽で熱帯魚を飼うことも虐待であり、広い庭付きの自宅で犬を飼うことも虐待だろう。
「その通りだ、虐待だ!」 と言う人の多くは、実際には動物にほとんど興味のないただの理屈屋である公算が大である。
わたしはの立場は、その動物種の基本的な棲息条件を十分に満たしているのであるならば、飼育に大きな問題はない、という常識的な立場である。
特にネコの場合、すでに歴史的に人類によって家畜化されてきており、DNA的にも人間(社会)に依存している動物の場合、人間が飼育せず、街路や野山に投げ出すほうがよっぽど “虐待” となるであろう。
イエネコはイリオモテヤマネコなどの野生猫に比べて「人からえさをもらう事の警戒心が低い」というDNA的変化があるだけで他は野猫となんら代わりありません。
イエネコを野に放したところでネズミや小鳥を捕まえて生きていくだけです。今からでも遅くないので全ての猫を野生に返すべきです。
「人間に依存している」なんて、猫のことを何も理解していない発言です。たぶんあなたは猫を飼ったことがないでしょう。
人間の都合を全て切り捨て、猫の自由と尊厳を尊重する心持ちのある私のような「真の猫好き」ならそれを望むのです。カワイイカワイイだけで猫を飼うのは人間(自分)の都合だけを押し付けるエセ猫好きです。
そもそも猫を家畜化する必要がどこにあったのか分かりません。
それと別に「人間の都合によって家畜化された猫を個人的に飼育する」ことは大して問題にしていないので論点を勝手に変えないでいただきたい。
問題は猫カフェです。本来単独行動を好む猫を、大勢の猫と一緒に部屋の中に放し、昼夜問わず大勢の人の前に引っ張り出して、なんとか金儲けしてやろうと言うその魂胆が許せないのです。
フクロウカフェのほうがより問題点が多いというだけであって、「動物を利用して金儲けする」という根底の意味では猫カフェもフクロウカフェも一緒です。
「家畜化されてるんだから」という人間の身勝手な理由を持ち出して正当化するのはあまりに危険です。理由をつければいかようにでも扱うことをよしとする、あなたのような人間がいるとこういうことが起こるのです。
http://news.livedoor.com/article/detail/11445761/
さて、本来の問題の 「猫カフェ」 の是非についてですが、わたしは次のように考えています。猫の基本的な棲息条件を十分に満たしているのであれば問題なく、実際それは可能で、そういった条件をかなり満たしている “猫カフェ” は実際に存在すると言えます。もちろんそうでない “猫カフェ” が存在することは事実で、そこが問題となるでしょう。
わたしは、かなりまともな “猫カフェ” があることを知っているので、“猫カフェすべて反対” とまでは言えないということです。
論者が実際に猫を飼っているかどうかは、議論において何ら決定的な意味を持たないことは言うまでもありませんが、ちなみにわたしは15年以上飼っていて、今は三匹目です。
「そもそも猫を家畜化する必要がどこにあったのか分かりません。」 とのことですが、保存穀物を食い荒らすネズミを獲るというのが、猫たちが重宝がられた理由と理解して頂いてよろしいかと思います。ちなみにうちの猫はゴキブリをよく獲ってくれます。