北カリフォルニアのお父さん

家族5人 - 北カリフォルニアに暮らす。

三男 - 日本語補習校 高等部卒業 (2021年)

2022年01月16日 | 日本語補習校
更新です。

もう直ぐ一年が経ってしまいますが、三男のサンフランシスコ日本語補習校高等部
3月の卒業について。

今回の更新

ブログを持っていらっしゃるる方はご存知だと思いますが、私には、本ブログへの
アクセス数、読まれた記事、検索に使われたキーワード等が確認出来るようになっ
ています。元々は自分自身のための記録、また日本の家族や、ごく一部の友人への
近況報告のために始めたブログであり、更新は勝手気まま、アクセス数など大した
こともなく気にもなりません。この先も変わりません。そのようなブログですが、
たまに見るアクセスデータで興味深いのは「日本語補習校」をキーワードにされる
方が意外に多いことです。恐らく日本からサンフランシスコやシリコンバレーへの
海外赴任が決まった方、または、既にサンフランシスコ・ベイアリアにお住まいで、
小学校入学を控えた小さなお子さんがいらっしゃる方が検索の結果たどり着かれた
のではと推測いたします。そういった方々には申し訳ありませんが、本ブログの
サンフランシスコ日本語補習校に関する更新は今回が最後となります。

長男がサンフランシスコ日本語補習校小学部に入学したのが2004年の4月でした。
息子達3人合わせて丸17年のお付き合いでしたが、やはりここまで長かったと思い
ます。日本語補習校云々については、過去、長男、次男、三男それぞれについて
既にブログ内で書き綴っており、その都度、自分の思いは記録に残してきました。
今回、三男の高等部卒業に、コロナが学校に与えた影響と私の日本語補習校観を
少し加えて締めくくりといたします。長くなりますが、最後ということでご了承
ください。

コロナ

三男は中学3年生で日本語補習校嫌いが始まり、高校入学は無いものと思った時期
もありました。中3修了間際で考えを改め高等部に進学したくだりは2年前に触れ
ています。高等部に入学した後は、仲の良い友達に囲まれ、クラブ・サッカーの
試合が土曜日に重なると遅刻、早退、欠席はありましたが、全てが順調な学校生活
でした。そしてコロナです。2020年3月上旬にカリフォルニア州で非常事態宣言、
直ぐにWHOのパンデミック宣言が続き、その後に始まった州を始めとする地方自治
体の自宅待機令により、サンフランシスコ日本語補習校も調整を余儀なくされま
した。事務局の方々は大変なご苦労があったとお察しします。三男の一つ上の学年
は、卒業式の二日前に式の中止が決定し可哀そうな締めくくりとなりました。この
時点では他人事のように考えていたかもしれません。三男の学年はと言いますと、
最終年度は約一ヶ月の自宅学習で開始し、5月より遠隔授業がスタート。夏までに
何とか元通りにと思いましたが、考えは甘かったです。三男は二度と登校すること
はありませんでした。サンフランシスコ校の生徒達が毎年楽しみにしていた球技大会、
フードセールは問題外。卒業間際の文化祭がかろうじて遠隔で実施され、一つ上の
学年の年以上に残念な最終年度となりました。(サンフランシスコ校とサンノゼ校
ではイベントの名称と内容は若干異なります。)

対面授業が出来なくなって苦労したのは、勿論、日本語補習校だけではありません。
世界中の教育機関が手探りの状態だったと思います。日本語補習校が行きついたの
は多くの現地校が取り入れ始めていた Zoom でした。授業内容と質がどうであれ、
取りあえず児童・生徒が登校することなく授業の継続が可能になりました。そして
一年。遠隔授業のままで修了。学校や生徒達がどうこう出来るものではなく、卒業
に至っただけでも有り難いと思うべきかもしれません。

三男を見る限り、Zoom の授業は従来のものと比較しますと、その質、また受ける
側の生徒達の習得度においてどうしても限界があります。その一方、遠隔システム
を上手に使えば、場所を選ばずに授業が受けられることが証明されました。海外で
認定校に通わずに文科省の教育カリキュラムに準じた授業を受けることも技術的に
可能になったということでもあります。シリコンバレーを含むサンフランシスコ・
ベイエリアには幼稚園や小・中・高の子供を対象とした日系の学校は複数存在し、
それぞれ強みと言いますかセールスポイントがあり、子供達のニーズ、レベルに
合った幼稚園・学校選びが出来ます。将来はそこに複数のバーチャル校が選択肢と
して加えられるかもしれません。

さて、三男の最終学年、Zoom を介しての授業は教室のようにはいかず、先生方に
とっては試練の一年だったと思います。家内が幼稚園の遠隔授業のため、毎日かなり
の時間をかけて準備する様子をずっと見てきました。小中高となりますと比較になら
ないくらいの作業量であったのではないでしょうか。遠隔授業となった後の三男自身
はどうだったかと言いますと、別に文句を言うでもなく、かと言って楽しんでいる
風でもなく、言われるがままに授業を受けていました。仲の良いクラスメートとは
グループチャットで絶えず繋がっており、授業外でも時々週末にマスク着用で一緒に
遊びにも行っていたようです。

卒業

そして、卒業が近づいてきました。卒業式の前の週、文化祭だけは学校側の計らい
で開催となりました。但し「遠隔」です。サンフランシスコ校の高2にとって、
最後の文化祭は本来、学年(通常高2は一クラスのみ)をあげて盛り上がり、時に
は観客席の父兄の涙をさそうものですが、「遠隔」という大きな条件付きであった
ため例年とは異なりました。「遠隔」の出し物を決める際、クラス内で意見が真っ
二つに割れ、残念ではありますがギスギスしたまま文化祭が行われたようです。
そして卒業式。勿論遠隔です。卒業生も先生方も画面で上半身しか写らない Zoom
の卒業式、三男は一応ネクタイにブレザーで式に臨みました。卒業証書の授与はと
言いますと、高校入学時には誰も考えもしなかったドライブスルー式で卒業式の
翌日にサンフランシスコの郊外で実施されました。アメリカとは言え「マック」の
ようなあっけないエンディングです。それでも、封筒に入れた郵送と比べると感謝
すべきでしょう。

通常、高等部卒業式の後には、父兄主催で学校行事とは切り離した祝賀会がサンフ
ランシスコ市内のレストラン等の場所で行われます。当然コロナの間は無理な話。
11年間を一緒に過ごした仲間とこれで最後とはあまりにも残念過ぎるといったこと
もあり、父兄の有志の方々によって、卒業式が終わった後、午後からサンフランシ
スコ市内の公園で合同写真撮影会が開かれました。卒業生が正装・マスク着用で
参加し、11年間を共に過ごしてようやくたどり着いた卒業の喜びを仲間と分かち
合いました。撮影会の別れ際に、ぜひ近いうちに改めて卒業祝賀会をとの話が出た
ようですが、その後もコロナがずっと居座っています。恐らく、全員が一緒に顔を
合わせることはもうないでしょう。安全面がプライオリティー。仕方ありません。

我が家のラストバッターの三男が11年を終え、アメリカ永住予定の日本人として、
また、3人の息子達が無事に卒業出来た父親として最後に補習校観を加えさせて
いただきます。

親子の学校

サンフランシスコ日本語補習校は、カリフォルニア州法に準じた非営利教育団体で
ある一方、理事、保護者会役員、図書委員、クラス委員、卒業関連の特別な委員等、
一年を通じて父兄の関わりは大きく、先生方に加え、大勢の人々の熱意によって
支えられているユニークな学校でもあります。私は10年以上前に保護者会役員を
一期、理事を数期務めさせていただいたことがあります。学校運営の母体となる
理事会は、議長を除き、子供を日本語補習校に通わせる保護者で構成され、定例
理事会は平日に仕事が終わった後の夕方から始まりました。現在はどうか分かりま
せんが、当時の理事会では夜遅くまで熱く議論し、時には喧々諤々といったことも
ありました。子供達、学校のことを真剣に考えるが故のことです。また、異なる
意見が出て徹底的に協議されることは、ある意味で健全な学校運営であると思い
ます。実は、いくつかあった喧々諤々のうちの一つは、私自身が始めてしまった
ものであり、その数週間後に理事長と副理事長から一緒に夕食をとのことで、ある
日本食レストランに呼び出されました。続きか?叱責か? 売られる喧嘩は買わせ
ていただく覚悟で臨んだところ、次年度理事会へのリクルートでした。ボランティ
アやら様々なお手伝いを通して学校に携わり、17年の間に実に大勢の方々と知り
合い、多くのことを学びました。サンフランシスコ日本語補習校は私自身にとって
も有り難い学校でした。

中高部について

さて、重要なのは勿論、父兄目線の学校ではなく児童、生徒達にとってどうである
かということです。サンフランシスコ日本語補習校についての最後の更新となり
ますので、よく知られている小学部は敢えて飛ばし、サンフランシスコ日本語補習
校の中で生徒数比率が低い中高部について、無事に卒業出来た息子達3人を見てき
て思ったことを書き述べます。

まず、サンフランシスコ日本語補習校を語る場合、アメリカ在住事情別の構成を
無視する訳にはいきません。(本ブログで過去に何度かお伝えしている情報であり、
少しくどいですが、今回が最後。敢えて触れておきます。)構成は、数年で日本に
帰国するアメリカ駐在のご家庭、永住するご家庭、親御さんがアメリカ人と日本人
の国際結婚のご家庭、以上3つのグループに分けられると思います。(わずかです
が、ご両親が日本人ではないのに、普通に日本語で学習する優秀な児童・生徒さん
もいらっしゃいます。)そして、駐在グループの構成比率は上の学年に行くにつれて
小さくなり、これは私が知る限り、少なくとも最後の10年は変わりませんでした。

構成比率とその背景、そして息子達3人の中高部在学中、卒業後に思ったことを
改めてまとめてみます。
                                    

(中高部の生徒数の減少)

学年が上がるにつれて中高部の生徒数が減少する理由はいろいろあります。進学準
備重視の他校への進学・転校は駐在グループのお子さん達に多く、永住グループの
お子さん達の間では、我が家の長男や三男がそうであったように、補習校嫌いに
なった、または、授業についていけず通う意味が無いといった理由が多いようです。
他にはスポーツが忙しくなり最低の出席日数を維持出来ない、親御さんがここまで
これば十分と判断して退学させるといったことは過去よく耳にしました。また厄介
な難しい教科を設けず、日本語維持だけに焦点を当てる学校への転校もあり、日系
の学校の中で棲み分けが出来上がっています。

(中高生の学力)

文科省の日本語でのカリキュラムを基準にした学力を、日本語補習校中高部の生徒
と日本の同年の平均的な生徒の間で比較しますと、一部の生徒を除き日本語補習校
生はどうしても劣ります。自分が知る範囲でしかありませんが、学年が上がるに
つれ、漢字でついていけない生徒が多くなります。テストで問題が読めないことが
出てくるため、致命的ではあります。その一方、普通に難なく授業についていき、
直ぐにでも日本の中学・高校に編入出来そうな優秀な生徒もいました。平日週5日、
ひょっとしてスポーツ活動を加えた現地校と両立させ、進学準備に特化した他校に
通うわけでもなく、日本語補習校生の鏡のような子供達です。

(絆)

高等部卒業時のクラスメートとの絆は、ただ11年間一緒に通って出来たものでは
なく、長年苦労を共にした「戦友」のような繋がりかもしれません。土曜日を
犠牲にして通う日本語補習校での苦労は、現地校では仲の良い友人にも理解して
もらうことは難しいでしょう。日本語補習校のクラスメートは、愚痴を言いあえ
る良き理解者であり、一緒に過ごした年数の分だけ絆は強くなると思います。
我が家の息子達に関しましても、現地校の友人達に日本語補習校のことは話す気
にもならなかったようです。

(日本式コミュニケーションの教育)

小学部と異なり、サンフランシスコ校の中高部では日本文化を伝えるようなイベ
ントはありません。球技大会、フードセール、文化祭は「日本文化」というより
「日本式学校行事」が当てはまると思います。これらは学校生活にメリハリを
つける、チームワークを学ぶ、父兄の支援(ボランティア)に触れる、そして
お腹を満たす。大変意義のあるイベントではあります。「文化」と解釈すべき
かもしれませんが、規律・礼節を含めた「日本式コミュニケーション」の教育は
教室の内外で実施されています。小学部同様、中高部でも行われる校庭での「朝
会」では、先生方の指示で全員が整列し「気を付け!」「礼!」、そして校長
先生または教頭先生のお話、生活指導の先生、生徒会からの連絡事項。また、
息子達の遅刻や早退の記帳でよく立ち寄った職員室では、ヌーっと黙って出入り
する生徒はいませんでした。「一礼」がルール。日頃、英語文化の中に身を置く
生徒達にとっては、日本では当たり前のことも「かったりー」以外の何物でもない
はずですが、日本式コミュニケーションの教育は毎週土曜日に何年も繰り返し行わ
れてきています。

(父兄への感謝)

実は、中高部での父兄の関わりは、生徒を自立させるという学校の方針により
小学部と比較しますと小さくなります。それでも生徒達は、毎週土曜日、自分
達の送り迎え、お弁当の用意、登下校時に校舎前の横断歩道を渡る自分達を誘導
する交通当番やフードセールで売り子をするボランティアのお母さん・お父さん
方、そして裏方さんとして忙しく働く保護者会役員さんをずっと見てきています。
本心かどうかは分かりませんが、卒業式での答辞や卒業関連の印刷物では、誰も
が父兄に対する「感謝」の気持ちを表現しています。お父さん、お母さん方の
長年の努力が報われます。

(永住グループの進学)

長男の高等部卒業は2015年でした。クラスメートの多くはカリフォルニア州内の
UC 校であったり、アメリカ国内の大学に進学していきました。一方、日本の大学
に進学したクラスメートが数名。上智大学、早稲田大学だったと記憶しています。
2018年の次男の日本語補習校卒業、昨年の三男の卒業後も、上智大学、早稲田大
学、国際基督教大、筑波大学に進学していったクラスメートが数名ずついました。
(三男の日本語補習校のクラスメートで2003年の4月~8月に生まれた生徒は
現地校での学年は一つ上となり既に大学生です。)何だ外国人枠、留学生枠での
有名大学進学じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。長男の
クラスメートは日本で大学に進学し、卒業後はそのまま日本企業に就職しました。
また、一つ年上の友人は、日本の大学の理工学部に進学し、卒業後は日本のスター
トアップ会社に就職。現在は日本人と外国人の同僚に混ざって機械工学の最先端
技術の仕事をしています。息子達の学年以外でも同じように日本で頑張っている
卒業生がいることは容易に想像できます。知り合いの方の日本語補習校卒業生でも
あるお子さんは、アメリカで大学卒業後、東京大学の大学院に進学して修士号を
取得し、更に上を目指すそうです。

大学のブランド、職業がポイントではありません。アメリカ永住グループの日本
語補習校高等部卒業生の中には卒業を「出口」ではなく「入口」として捉え、
したたかに自分の可能性を広げようとしている生徒達がいるということです。
サンフランシスコ日本語補習校のスローガンのようにもなっている「未来の懸け
橋」は、小学部在校生やその父兄の皆さん、多くの先生方さえにも知られず静か
に築かれています。(昔、卒業生の進路先の追跡調査と卒業生の会の発足につい
ての話があったようですが、情報をどう収集し、その後の更新や管理を長期的に
継続出来るのかといったあたりで躓いたようです。)

進学先とは関係のない余談ですが、私には忘れられない生徒がいます。保護者会
役員をさせていただいていたずっと昔の話です。あるイベントでサンフランシス
コ日本語補習校の在校生代表として、高等部の生徒をゲストスピーカーとして
招待しました。永住グループの男子生徒です。話は非常にきれいにまとめられ、
日本帰国が決まったクラスメートとの別れについて淡々と語ってくれました。私
には「これだけしっかりした考えを持ち、それを表現出来る日本語補習校生が
いるのか!」とショックでもあり大変感動しました。潤んでくる目とすすりそう
になる鼻を周りの人達に悟られまいと必死でコントロールしていたところ、隣に
座っていたある理事の方が鼻をすすっており、安心した記憶があります。数ヶ月
後の別のイベントで偶然その生徒を見かけ、声をかけました。明るく礼儀正しい
青年でした。アメリカか日本で、きっと今では立派な社会人になっていることで
しょう。

次男の昔の友人が、日本語補習校を途中で退学したことを今になって悔やんでい
ます。三男の昔の友人は日本語補習校を去ってから話す日本語もたどたどしくな
りました。一方、卒業まで頑張ることは素晴らしいことですが、それが全てでは
ありません。日本語補習校を早々と退学し、アメリカの名門大学を卒業して着々
と人生の駒を進めている長男の昔の永住グループの友人がいます。また、駐在グ
ループの息子達の昔の友人が、お父さんのアメリカ赴任終了後、帰国子女として
日本の教育システムに復帰し、その後りっぱな大学生、社会人になったといった
話はよく耳に入ってきます。それぞれの道を歩んで行きます。
                                    

息子達について

さて愚息3人です。兄弟の間の会話は全て英語。日本語が第二外国語ですが、お気
に入り日本人ユーチューバーの最新動画をチェックしては笑い転げ、年末の紅白歌
合戦に登場する若手アーティスト、サッカーの J リーグの情報にも詳しく、我が家
を訪れる日本人のお客さんには言葉を選び、自らが、いつも日本を身近に置いてい
ます。日本語補習校から直接、間接的に得たものは多く、3人それぞれ意義のある
11年間だったと思います。

昨年の夏、次男の一年半のコロナ帰省がもう直ぐ終わろうとしていた頃だったと
記憶しています。家族5人が一緒に夕食をとっている時でした。日本語補習校が
話題に挙がり、それぞれが苦労話を一通りした後に家内が息子達に尋ねました。
「もし将来、家庭、子供を持ってこのベイエリアに住んでいるとしたら、子供達を
日本語補習校に通わせる?」息子達3人、間をおかず即答でした。「通わせる。」
全て前向きであった次男は分かりますが、在学中あれだけ手こずった長男、また
中学部の後半で頑なに高校進学を拒んだ三男もサラッと答えました。そして三男
が締めくくりました。「嫌で仕方なかった頃を経験し、その後に考えが変わった。
両方を知る自分は、きっと子供にいいアドバイスが出来ると思う。」だそうです。
家内と私、少し嬉しかったです。

長男は勿論、三男の高校進学の際にも苦労し、自分としましては17年間、押したり
引いたり、持ち上げたり叱ったりで、何とか息子達を導いてきたと考えていました。
無事に終わったからこそ言えるのかもしれませんが、よくよく考えてみますと、何
のことはない、家内も私も、息子達3人に手を引かれて17年を駆け抜けたように
思います。サンフランシスコ日本語補習校とのお付き合いは終わりました。ひょっ
とすると十数年後に長男の子供の入学式で日本語補習校を訪れるかもしれませんが。


写真に移ります。





ここから始まりました。小学部の校舎。




夏期集中は場所を移動。




中高部は、他の現地校の校舎を使用しました。




次男が在籍中に借用校が変更となりました。校舎は全て現地の小学校、中学校、高校より
「週一回お借りする」立場であり、コストもかかります。時には校舎の確保で事務局の
方々は苦労されていました。




17年間、土曜日に息子達を連れて走りました。




家内も平日の現地校に加え、土曜日も朝から準備。




今となっては懐かしい小学部の運動会です。




小学部で開かれた古本市。お世話になりました。




中高部の数少ないイベントの一つのフードセール。食べ盛りのティーンエージャーには
喜ばれました。




全学年、各クラスに必ずスターがいた中高部の球技大会。コロナが落ち着いたら、息子達
はボランティアとして戻るかもしれません。




丸一年間の遠隔授業でした。




とうとう11年の終止符。ラップトップに向かう三男の姿は見慣れていましたが、同じ遠隔
のまま卒業式となりました。




同日の午後、卒業生が晴れ姿にマスク着用で集まりました。ある有志のお父さんによる
撮影です。他の父兄の方々と共にきめ細やかな準備をしていただき、いい思い出を残す
ことが出来ました。




長男も家内と共に付き添って三男の写真撮影。

この写真撮影会、実は私はいませんでした。本ブログで過去の息子達の卒業に関する記事
を読まれた方にはお分かりかもしれません。最後にまたもやってしまいました。私が一人
勝手に編集して卒業生に配布する「卒業記念冊子」です。過去、徹夜作業にもかかわらず、
編集が終わらずに息子達の卒業証書授与の瞬間を逃したことが何度かありました。今回は
「Front Yard リフォーム」終了後ではありましたが、早めに作業を開始し、それまで使用
していた印刷スピードの遅いインクジェットから速いカラーレーザープリンターに取り
替えて臨みました。遅れの原因は使用写真をイラスト風に加工する作業です。大幅に作業
時間が延び、そしてレーザープリンターだからと油断していたところ、大量のテスト印刷
を行ったため最終印刷の途中でトナー切れ。卒業式の当日午前3時でした。結局トナーを
調達出来たのがお昼前。それから10時間かけてようやく完成しました。卒業生への配布は
卒業式の翌々日。情けない最後となりました。




レーザープリンターをフル稼働。テスト印刷と写真の加工修正作業を繰り返し、かなり
の紙とトナーを消費してしまいました。(クラス費の卒業関連予算から費用の半分を
負担していただきました。)




焦っても間に合わないものは間に合いませんでした。とにかく急ぎました。卒業生用が
24部、お世話になった先生方や事務局用のものが16部で計40部。印刷後の製本作業も1
時間で済むものではなく、数時間をかけてようやく完成しました。冊子の内容は、過去
の息子達の卒業のように「絵本」風とし、卒業生一人一人のオリジナルです。ページ数
は50。そのうち1/4だけが個人の加工写真や本人のメッセージを組み込んだページ、残り
の3/4はクラス全体共通のページです。製本のページ組みの失敗は許されず、かなり神経
を使って進めました。




翌日です。卒業証書の授与は、一般の人達の邪魔にならない
ように、サンフランシスコ郊外にある某日系企業さんの倉庫
前でドライブスルー式で行われました。証書を受け取った後、
車を駐車場に停めて家内が三男の記念撮影。カジュアルな
服装です。私は自宅で作業の真っただ中でした。




受け取った卒業証書。




我が家ではようやく「卒業記念冊子」完成です。卒業式翌日の手渡しは間に合わず、
翌々日、卒業生を住所別で4グループに分け、サンフランシスコ市内、Peninsula、North
Bay、East Bay の4カ所で父兄の方々に集まっていただき手渡ししました。


全てが終わりました。


先生方、事務局、理事会、保護者会、図書委員、クラス委員、各種当番やボランティアの
皆さん、大変お世話になりました。


おまけです。





ぎょっとする写真ですが、長男と彼のサンフランシスコ日本語補習校の元クラスメートと
の記念写真です。昨年の10月、彼らが、我が家からそれほど遠くはないレストランで久し
ぶりに集合しました。中には2015年春の卒業式以来で再会したクラスメートもいたそうで
す。その帰り、近いからということで、わざわざ家内と私に挨拶するために我が家に立ち
寄ってくれました。小学校1年生から知る「子供達」は、既に23~24歳。殆どが身長180cm
以上の大男ばかりでした。




家内が出してきたイヤーブックやら卒業記念冊子で盛り上がります。「ハイハイ、そんな
ことありましたねー。」「ちょっと〇〇のこの変なメッセージ見てー。」「ガハハハー。」
と長年のブランクを感じさせない気心知れた仲間の会話でした。(勿論、全て英語です。)
家内も私も楽しいひと時を過ごしました。



さて、最後となりました。




2004年。長男がスタートをきりました。




次男が後を追い、


三男も続き、駆け抜けました。


親子共々、思い出いっぱいの17年間でした。有り難うございました。


ここまで目を通していただいた方、お疲れ様でした。

三男の高校サッカーの写真が手つかずでたまっています。次回の更新はずっと先に
なりそうです。