日航機墜落事故から34年 遺族らが灯籠流し(19/08/12)
520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から12日で34年です。
群馬県上野村では遺族らが現場近くの川で灯籠(とうろう)を流して犠牲者の冥福を祈りました。
墜落現場の麓を流れる上野村の神流川では毎年、事故の前日の8月11日に灯籠流しが行われています。
遺族らは「事故のない世界」「命を大切に」などと書かれた手作りの灯籠に火をともし、
川に浮かべて犠牲者の冥福を祈りました。
祖父を亡くした若本崚さん:
「子どもが生まれたので祖父からするとひ孫の紹介。会いに来ましたを第一に報告しようと」
父を亡くした若本千穂さん:
「ここに父がいると思っているので、ここで報告したいなと毎年思う。皆でここで会いたいなと思う」
遺族らは12日、事故現場となった「御巣鷹の尾根」へ登って犠牲者へ祈りを捧げます。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
東京新聞 2019年8月11日付記事
「日航墜落事故から34年 あの夏の経験語り継ぐ」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201908/CK2019081102000172.html
1985年8月12日、御巣鷹の尾根(上野村)に墜落したジャンボ機の残骸や乗客の遺品は、
日本航空が羽田空港にある「安全啓発センター」に展示、社内外の研修に活用している。
案内役の伊藤由美子さん(60)は事故当日、羽田のカウンターで多くの乗客に応対した。
「事故を自分に置き換え、三人称ではない視点を持って」。
あの夏を経験した思いを伝えている。
2019年7月、パイロット訓練生が同センターを訪れた。
伊藤さんが冒頭で触れたのは、1982年2月に起きた羽田沖日航機墜落事故。
死者は24人、原因は「機長の逆噴射」だった。
翌日から乗客は全日空のカウンターに列をなした。
「怖くて日航には乗れないよ」。
閑散とする日航のエリアで、入社三年目の伊藤さんは頭を下げ続けた。
「三年がたち、ようやくお客さまが戻り始めた夏でした」。
乗客乗員524人のジャンボ機には伊藤さんが数時間前に言葉を交わした人々が乗っていた。
次の便を予約していた乗客には出発直前、空席を提供。
「もちろん乗るよ。早く家に帰れる」と笑顔だった。
一人旅を前に、不安そうに母親に抱きつく小学生の男の子には
「一人で大阪に行くの? 偉いね」と声を掛けていた。
翌年に長男(33)を産み、母親として守るべきものができた。
穏やかな寝顔に「身代わりになってでもこの子を生かしたい」と誓った。
同時に、あの日、男の子が抱きついていた母親に思いを致した。
「わが子を一人で乗せたことを、一生後悔し続けるのだろう」
「あの日の母親」は、遺族らでつくる「8・12連絡会」事務局長で、
次男健君=当時(9つ)=を亡くした美谷島邦子さん(72)だった。
美谷島さんは2016年、日航の関連会社で講演を行った。
聴講者の一人として31年前の記憶を打ち明けた伊藤さんに、美谷島さんが応じた。
「健が私たちを会わせてくれた」
ジャンボ機事故当時から在籍する社員は、日航全体の5%に満たない。
研修を受けた斎藤理史さん(29)は「自分も事故を起こした一人だという意識を、すべてのベースとしたい」と話す。
伊藤さんは
「これから仕事の経験を積むだけではなく、『自分が操縦したり整備したりする便に家族が乗っていたら』
という視点があれば、安全への意識は変わってくる」 と語っている。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
あの日からもう34年。
当時、自分は知床半島の岩尾別ユースホステルに宿泊しており、
翌日の午前中、岩尾別から釧路へ移動するために乗った斜里駅ゆきの路線バスで流していた
ラジオのニュースで知った。
学生だった当時と比べて、飛行機への依存は格段に増えた。
(あの事故以降、東京~札幌間はもちろん、国内線の搭乗はANA&Air Do機を最優先している)
だから、当時以上に自分にとってはあの事故は「他人事」ではなくなった。
台風や冬の荒天等での搭乗で「機内サービス」がない時の揺れなどは、着陸まで生きた心地がしない。
さすがに34年経った今では、テレビの報道も群馬県上野村・御巣鷹の尾根への慰霊登山だけになった。
でも、決して忘れてはいけない事だ。
ちなみに、ジャンボ機事故(1985.8.12)当時から在籍する社員が「日航全体の5%」というのは、
その後「日本エアシステム(JAS)」吸収合併や大リストラがあったから、という事実も忘れてはいけない。
そして、この事故で犠牲になった人を忘れてはいけない。
彼も、その一人だ。
坂本九さんの「上を向いて歩こう(何故かSUKIYAKI)」で、この話を終えます。
上を向いて歩こう 坂本九
2019年8月13日付訪問者数:243名様
お付き合いいただきありがとうございました。
520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から12日で34年です。
群馬県上野村では遺族らが現場近くの川で灯籠(とうろう)を流して犠牲者の冥福を祈りました。
墜落現場の麓を流れる上野村の神流川では毎年、事故の前日の8月11日に灯籠流しが行われています。
遺族らは「事故のない世界」「命を大切に」などと書かれた手作りの灯籠に火をともし、
川に浮かべて犠牲者の冥福を祈りました。
祖父を亡くした若本崚さん:
「子どもが生まれたので祖父からするとひ孫の紹介。会いに来ましたを第一に報告しようと」
父を亡くした若本千穂さん:
「ここに父がいると思っているので、ここで報告したいなと毎年思う。皆でここで会いたいなと思う」
遺族らは12日、事故現場となった「御巣鷹の尾根」へ登って犠牲者へ祈りを捧げます。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
東京新聞 2019年8月11日付記事
「日航墜落事故から34年 あの夏の経験語り継ぐ」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201908/CK2019081102000172.html
1985年8月12日、御巣鷹の尾根(上野村)に墜落したジャンボ機の残骸や乗客の遺品は、
日本航空が羽田空港にある「安全啓発センター」に展示、社内外の研修に活用している。
案内役の伊藤由美子さん(60)は事故当日、羽田のカウンターで多くの乗客に応対した。
「事故を自分に置き換え、三人称ではない視点を持って」。
あの夏を経験した思いを伝えている。
2019年7月、パイロット訓練生が同センターを訪れた。
伊藤さんが冒頭で触れたのは、1982年2月に起きた羽田沖日航機墜落事故。
死者は24人、原因は「機長の逆噴射」だった。
翌日から乗客は全日空のカウンターに列をなした。
「怖くて日航には乗れないよ」。
閑散とする日航のエリアで、入社三年目の伊藤さんは頭を下げ続けた。
「三年がたち、ようやくお客さまが戻り始めた夏でした」。
乗客乗員524人のジャンボ機には伊藤さんが数時間前に言葉を交わした人々が乗っていた。
次の便を予約していた乗客には出発直前、空席を提供。
「もちろん乗るよ。早く家に帰れる」と笑顔だった。
一人旅を前に、不安そうに母親に抱きつく小学生の男の子には
「一人で大阪に行くの? 偉いね」と声を掛けていた。
翌年に長男(33)を産み、母親として守るべきものができた。
穏やかな寝顔に「身代わりになってでもこの子を生かしたい」と誓った。
同時に、あの日、男の子が抱きついていた母親に思いを致した。
「わが子を一人で乗せたことを、一生後悔し続けるのだろう」
「あの日の母親」は、遺族らでつくる「8・12連絡会」事務局長で、
次男健君=当時(9つ)=を亡くした美谷島邦子さん(72)だった。
美谷島さんは2016年、日航の関連会社で講演を行った。
聴講者の一人として31年前の記憶を打ち明けた伊藤さんに、美谷島さんが応じた。
「健が私たちを会わせてくれた」
ジャンボ機事故当時から在籍する社員は、日航全体の5%に満たない。
研修を受けた斎藤理史さん(29)は「自分も事故を起こした一人だという意識を、すべてのベースとしたい」と話す。
伊藤さんは
「これから仕事の経験を積むだけではなく、『自分が操縦したり整備したりする便に家族が乗っていたら』
という視点があれば、安全への意識は変わってくる」 と語っている。
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あの日からもう34年。
当時、自分は知床半島の岩尾別ユースホステルに宿泊しており、
翌日の午前中、岩尾別から釧路へ移動するために乗った斜里駅ゆきの路線バスで流していた
ラジオのニュースで知った。
学生だった当時と比べて、飛行機への依存は格段に増えた。
(あの事故以降、東京~札幌間はもちろん、国内線の搭乗はANA&Air Do機を最優先している)
だから、当時以上に自分にとってはあの事故は「他人事」ではなくなった。
台風や冬の荒天等での搭乗で「機内サービス」がない時の揺れなどは、着陸まで生きた心地がしない。
さすがに34年経った今では、テレビの報道も群馬県上野村・御巣鷹の尾根への慰霊登山だけになった。
でも、決して忘れてはいけない事だ。
ちなみに、ジャンボ機事故(1985.8.12)当時から在籍する社員が「日航全体の5%」というのは、
その後「日本エアシステム(JAS)」吸収合併や大リストラがあったから、という事実も忘れてはいけない。
そして、この事故で犠牲になった人を忘れてはいけない。
彼も、その一人だ。
坂本九さんの「上を向いて歩こう(何故かSUKIYAKI)」で、この話を終えます。
上を向いて歩こう 坂本九
2019年8月13日付訪問者数:243名様
お付き合いいただきありがとうございました。