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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その31

〈日本軍に協力した中国人の姿(1945年9月3日)〉
 
 
 ひさしぶりに長沙へ帰ってきた私は、長沙の町がなつかしく、身の危険を忘れて勝手知った市内を歩き回った。私たちがイ(管理人注-変換漢字なし)県へむかってたっていったころに比べると、町は見ちがえるほど復興していた。住民も多くなり、かつての焼跡には木の香も高い新しい家が建ち並び、表通りにはかなりの数の商店ができていて、洋車(ヤンチョウ)も走っていた。   
 
 「陳浩達夫妻はどうしているだろう」と思った私は、不注意にも直接彼の家をたずねていった。漢奸として中国軍につけねらわれ、家の奥にひっそりと息をひそめていた夫妻は、私の扉をたたく音に恐る恐る出てきたが、てっきり漢奸狩りと思ったのか、二人はすっかり顔色を変えていた。たずねたのが私であることを知った夫妻は、いかにもホッとした様子であった。そして、私をせきたてるようにして部屋へ入れるとあわてて表の扉をしめ、壁をもはばかるような低い早口で自分たちのおかれている立場を訴え、私の無事を喜ぶ言葉もそこそこに、裏口から送り出した。(258-259頁)
 
 
 
 
 
〈憲兵不在の国民党軍で憲兵の役割を果たす(1945年9月6日)〉
 
 
 甲憲兵隊本部は私たちより先に長沙まで引き揚げていたので、とりあえず到着の報告に行った。ところが私にはまたまたつぎの任地が待っていた。今度は長沙下流約十二キロの霞凝港(かぎこう)へ先行して憲兵隊を開けという命令を隊長の北川三郎中佐からいいわたされた。このころには中国、朝鮮出身の通訳たちが皆逃亡していたので、中国語を解する私が引きつづいて選ばれたのだった。今度は現地の中国軍から直接依頼されたのだというが、易家湾の仕事とはちがい、進駐した中国軍を取り締るのだから今度こそ大役だ、よほどふんどしをしめてかからねば大変なことになる。それにしても敗けた私たちが勝った中国軍を取り締るとはどうなっているのか。   
 
 私は、六日には易家湾から述れてきた部下とともに長沙をたち任地へ向かった。霞凝港には中国軍の手で新しい憲兵隊のために民家を借りあげ、庁舎が用意されていた。私たちが到着早々、一人の中国軍の大尉(参謀)がやってきた。「われわれの部隊が戦勝気分で住民たちに接するので住民と軍との間がうまくいかないで困っている。貴下に来てもらったのはわれわれの方からお願いしたのだ。われわれはまだこの土地になれないので住民とのあいだに立ってよろしくまとめてもらいたいのです。もし日本軍や住民にたいして悪いことをする者があったら、ビシビシやっつけて下さい。ただし、ゲンコツをくれる程度ならよいが、特に悪いやつはめんどうでもわれわれの師団司令部へ送ってほしい。徴罰は軍規にてらして当方でやった方が無難だから、こちらでやります。われわれの部隊には憲兵がいないので、取り締りはすべて貴下にお願いすることになるが、よろしく頼みます」   
 
 彼はていねいな言葉で依頼し、「一度参謀長と会っておいてもらいたい」と町はずれの池のそばにある師団司令部へ案内してくれた。紹介された参謀長は丸顔の立派な体格をした人で、はじめて会った私にたいしてまるで十年の知己のように終始にこやかに話しかけた。   
 
 「もう戦争は終わったのだから仲良くしましょう、これから中国が復興するにはどうしてもあなたがた日本人の力を借りねばならない。よろしく頼みます」と中国の知識人らしい寛大な態度で語った。   
 
 この地区で帰国の日を待っていた日本兵は、船引正之中将(東京国分寺出身)を長とする、第六十四師団の約五千名であった。敗戦国の軍隊だから当然ではあるが、この部隊の兵隊たちはおとなしい人が多く、中国人とのトラブルはなかった。しかし原爆被爆地の出身者が多いため、彼らは帰国しても家も家族もすでにないものと思い、動揺していた。そのため二、三名で一組となり、逃亡する事件が相ついでおこっていた。なかには若手の中、少尉十二名が一団となり、軽機関銃、無電機などを鉄舟に積みこみ逃走する、などということもあった。この将校たちの一団は、洞庭湖へ出て海賊になるのだといっていたという。私はそのつど状況を中国側へ報告するのだが、参謀長は「大丈夫です、心配はいりません。まさか住民たちが逃げた兵隊を殺しはしないでしょう」とまったく気にかけなかった。私は逃亡兵が兵器を持っているので、食うためには住民に危害を加えるだろう、と心配していたのだが、参謀長はまったくあべこべに考えている様子であった。「兵器を持っているので心配だ」といえば、「たいした数ではないのでしょう。九牛の一毛ですよ」と少しも意にかいせず、ケロッとすましていた。太っ腹というのか、何というのか、ヌーボーとしていてつかみどころのないじつに偉大な参謀長殿だった。(259-260頁)
 
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