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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その36

〈著者によるあとがき〉
 
 
   あとがき   
 
 本書は、昭和十二年(一九三七念)三月はじめからニ十一年(一九四六年)末にかけて中国各地を転戦し、北は北京周辺から南は広東(カントン)省北部まで、十年間にわたって踏破した私が各地で体験、見聞した事実をもとに記述したものである。   
 
 本文にもしるした通り、私は昭和十二年に現役初年兵として北支那駐屯軍歩兵第一連隊第二中隊に入営し、応召兵のだれもが体験する厳しい初年兵生活を送るうちに、蘆溝橋事件がぼっ発、まさに中国の最前線で歴史の震駭に直面することになった。もちろん当時は私白身、入営後数ヵ月の身であり、この事件がのちに本格的な日中両軍の戦争にまで推移しようとは夢にも思っていなかった。   
 
 その年の暮れ、私はひょんなことから憲兵採用試験を受験することになり、東京憲兵学校に入学、昭和十三年五月十五日憲兵に転科してからは、朝鮮平壌憲兵隊をふりだしに、上海、蘇州、九江、甲憲兵隊と、中国各地の憲兵隊を転々とした。その間、戦地憲兵として防諜、情報収集、治安維持、思想戦対策、謀略などいわゆる特務戦に明けくれる毎日で、それこそ目のまわるような忙しさであった。とりわけ軍事郵便物や中国側郵便物の検閲、諜者、密偵(スパイ)を駆使しての情報収集は戦地憲兵の重要な任務であり、一部の隊員は、わが軍の鉄道隊や野戦倉庫に苦力(クリー)として潜入し、数ヵ月、場合によっては数年間にわたって防諜・諜報工作にあたったりもした。   
 
 憲兵といえば、肩ひじいからして兵隊をいじめるという暗い印象をいだかれがちであるが、正直いって私たち戦地にいた憲兵はそれどころではなかったというのが実情である。そうはいっても憲兵自体絶大な権力を特つ存在であったし、私たちも若かったことから、さまざまな人に迷惑をかけたことと思う。その点深くお詫びしたい。   
 
 私たち戦地憲兵は一般の兵科の人よりも中国の人々との接触も多く、私自身つたないながらも一応は中国語を話すことができたので、本書では中国の戦場の特異性、あるいは中国の一般民衆の心情に少しは迫ることができたのではないかと思う。なかには二度と思い出したくないようないまわしい経験もあったが、そうした事実にふれずに中国の戦場を語っても、単にきれいごとの戦記に終わってしまうと考え、あえてありのままに記録するようつとめた。事実、当時の私たち日本軍が中国で行なった行為はけっして許されるものではなく、また私たち日本人も歴史の汚点として目をそむけるわけにはいかないのである。本書をこの不幸な戦争で亡くなった日中両軍の兵士、それに数多くの中国一般民衆の霊に捧げるとともに、二度とこのような戦争のおきることのないよう祈って稿を閉じたい。   
 
 なお、取材にあたっては、さまざまな方々のご協力をいただいた。この場を借りて厚くお礼申しあげたい。   一九八〇年九月   井上源吉(277-278頁)
 
(この稿終わり)
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