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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その35

〈著者のBC級裁判についての気持(1946年8月20日)〉
 
 
 ところが八月二十一日の午前、戦犯容疑取調べのため至急管理処まで出頭せよ、という命令書を持った中国側の憲兵軍曹が突然私を呼びにきた。さきには長沙憲兵分隊の特高班長古川曹長が中国側スパイ殺害の罪を問われ戦犯として刑死し、また九江憲兵分隊特高班の小笠原軍曹が、同じ罪で住民たちの前にさらされ暴行を受けていた。さらに漢口憲兵隊では、昭和十七年に漢口市内で行なわれた死の行進の直接責任者として、藤井力憲兵准尉ほか下士官四名が処刑されたという。私の知るかぎりこれらの人たちは皆まじめな軍人であった。こうした下士官以下の行為はほとんどが、上官である隊長、分隊長の命命令によって行なわれたものである。しかるに、なぜ命令を下した上官は罪をまぬがれ、下級者が処刑されなければならないのか、この不合理に私はかねがね疑問と不満を持っていた。   
 
 死の行進とは、去る昭和十七年四月十八日、東京初空襲に参加した米軍機が江西省南昌付近の川原へ不時着したさい、これに搭乗していた米軍パイロットニ人を南昌憲兵分隊の手で捕え、第十一軍軍法会議へ送った。軍法会議で死刑がいいわたされたのち、漢口憲兵隊にその刑の執行命令が下ったが、なぜか漢口憲兵隊では処刑に先だち彼ら二人を洋車に乗せ市内を引きまわし、中国人たちの目にさらしたのだった。このさい引きまわし役をおおせつかったのが藤井准尉以下五名だったのである。昭和二十一年(一九四六年)四月二十五日、無事な帰国を待つ妻子たちに想いを残しつつ、米軍裁判官の手によって異郷の地の絞首台上に消えたのである。   
 
   君が代はあめつちと窮なかれ   
     賤男が運命何か憶わん   
 
   潔よき大和桜の散り様を   
     言伝せよや深山吹く風   
 
   大君のすきのまにまに任果たし   
     桜花抱きて我は逝くなり   
 
   皇軍(みいくさ)の姿にかかるしみけがれ   
     ふき清めなん吾が血潮もて   
 
 三十五歳の若さで散った藤井准尉はこのような辞世の歌を残している。また昭和二十一年二月二十八日に絞首刑をいいわたされて以後約一ヵ月間獄中にあった准尉は、獄中記をのこしたが、その文面に秘められた切々とした望郷の念と祖国愛、生に対する断ちがたい執着心は読む者の胸を打たずにはいられない。この獄中記によれば、准尉の直属上官であり事件の下命者であった隊長、特高科長らは死をまぬがれ、准尉以下の下級者だけが死をあたえられたという。そしてこの矛盾を怒りをこめて指摘している。米軍のしきたりはいざ知らず、上官の命令には絶対服従することを強要している日本軍においては、彼ら上官にこそ死をあたえるべきではないか。ただ、このなかに准尉以下を救うため罪の一切をすべて一身に受け血書をのこして自決した漢口憲兵分隊長・服部中佐があったことはせめてもの救いである。私たちの上司である甲憲兵隊長・北川三郎憲兵中佐は、全隊員の責任者として長沙でみずから進んで中国側に出頭したまま消息不明であり、ここ上海戦犯収容所でも出頭を命ぜられた数名の者はそのまま消息を断っていた。   
 
 中国側は一度呼び出した以上、無罪だといっては帰しにくいので、何かと理由をデッチあげては処刑するのだといわれていた。数日前には、上海憲兵隊員にたいして住民たちの首実検が行なわれ、そのさいに首実検にきた姑娘(クーニャン)が「この准尉さんにはいろいろとお世話になった」と語った言葉を中国兵が聞きとがめ、なんの理由もなくその准尉を処刑したといううわさも流れていた。思うに過去の国際法に規定もない戦犯裁判自体が一種の報復手段以外の何ものでもなかった。私たちは収容所のなかで一見平和そうな生活をしていたものの、仲間うちからしばしば呼び出しを受けている者もあるし、また自分の身におぼえはなくても、部下に罪があれば責任をとることになっているので、いつ自分にその番がまわってくるかと内心は戦々恐々としていた。(272-273頁)
 
 
 
 
 
〈軍制が廃棄された収容所(1946年8月1日)〉
 
 
 話はさかのぼるが八月一日以降、一切の軍制がとかれ、以後将兵は一般人として平等に交際することになった。今まで○○閣下、××大佐殿と呼んでいたものが、急に○○さんと呼びあうことになったのである。なんとなくぎこちなかったが、それでも一応、ホッとした気持になれた。また、軍人を廃業したので各棟ごとに隣り組を作ることになり、同時に組長選挙が行なわれ、以後は組長が各種の使役を割りあてることになった。選挙によって選ばれた私たち組長は相談の結果、炊事その他管理処の使役など比較的重労働には若いものを当て、お年寄りには風呂当番をお願いすることにした。管理処の使役というのは、掃除その他の軽作業だった。帰りにはなにがしかの心づけを持たせてくれるし、外へ出られるのでこれは志願者が多かった。   
 
 いっぽう作日までは師団長閣下とあがめられまったく神様扱いであった人たちが、今日は大きなベルを振りながら「皆さんお風呂がわきましたからどうぞ」といって各棟をまわっていた。(274-275頁)
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