1931(昭和6)年9月18日、関東軍による謀略によって満鉄線路が爆破され、この事件を契機として満州事変が勃発する。
そして、この満州事変は、その後15年にもおよぶ戦争の幕開けでもあった。
本日9月18日。
これから満州事変に関する史料や回想録などを掲載していきたい。
集団的自衛権を閣議決定した安倍内閣、緊張が高まる日・中・韓、ヘイト・スピーチなどを行う排他主義者の横行。このような現状の中で、満州事変がどのように起こされ、それを国民が支持してきたのか。また、満州事変から始まる15年にもわたる戦争を、なぜ阻止できなかったのか。どのようにして満州事変が正当化されていったのか。それらのことをもう一度考えることは無意味ではなかろう。
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想-』(岩波書店 1950年6月10日) 52-53頁
〈解説〉
森島守人とは、日本の外交官・政治家である。満州事変勃発時、奉天の総領事に勤務していた。柳条湖(注-事件当時は「柳条溝」とされていた)で事件が起こったと聞いた森島は、関東軍よる謀略ではないかと思い、武力ではなく外交で収めようとするが、関東軍により阻止される。
これはその時のことの回想録である。
十時四十分頃、柳条溝(管理人注-正確には「柳条湖」)で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事
に対する伝言を残すとともに、官員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に
随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌ただしく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから
軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代
行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉
天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現して見せる」とまで極言したところ、同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」
と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもな
いので、一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。 同夜のうち、東三省の最高顧問、趙欣伯博士(明大出身)から再三電話
で、「中国側は無抵抗主義で行くから、日本軍の攻撃を即時停止してもらいたい」との要請があったので、その都度総領事や私から板垣に伝達したが、何ら反応はなかった。