SYUUの仕事部屋:ものづくりの世界のしくみをもっと深く知ろう!

製造業(メーカー)の仕事の仕組みをご紹介しています。

山梨工場時代:コンピュータ学習1

2023-09-17 10:38:03 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園の大温室にて    8月22日撮影)

 

 

 調達部門で重要な仕事の事務処理があります。いかに安く、必要な時に、必要な品質の物を購入するかが調達部門の仕事ですが、そのためには、まずは注文を取引先に伝える必要があります。

 急ぐ時はまずは電話注文ですが、通常は注文伝票を取引先に郵送などで届けることで行われます。そのための事務処理が注文伝票の作成事務です。そのためには、コンピュータでの処理が必要になるというわけです。

 私の会社では、私が入社した1970年初頭頃から、このコンピュータによる注文伝票の作成処理がスタートしたばかりでした。今のように、個々人にパソコンがある時代ではありません。コンピュータ部門にあった大型のコンピュータで注文伝票の作成処理するのですが、次のような手順で行われていました。

①まずは、担当者がコンピュータ処理するための元伝票を上司の承認を得て作成します。

②その伝教の内容をパンチャーがデータ入力します。その結果データ入力結果の紙テープが作成されます。(紙テープ?、何それ?でしょうが、当時はデータは紙テープに穴をあけて作成していたのです。)

③入力結果の紙テープをコンピュータ室に持っていって、データの読み取り処理します。その結果、入力規則に沿わないデータはエラーリストが出力されます。

④そのエラーリストを見て、元の紙テープの入力ミス部分を探して、紙テープを補修、正しいデータを再パンチします。そして、再びコンピュータ室でデータの読み取り処理をします。

⑤データが正常に読み取られると、注文データの処理結果の一覧表が担当者ごとに出力されます。

⑥その一覧表を担当者が元伝票と照合して、入力ミスが無いか(特に、注文品名、納期、数量、単価)をチェックします。その結果、入力ミスがあると、その内容を一覧表に記入、パンチャーに届けます。

⑦パンチャーは入力ミス内容を確認、紙テープのミス部分を探して、修正パンチします。

⑧担当分全部の修正が終わると、再びコンピュータ室で、紙テープの読み取り処理をし、注文データの処理結果の一覧表が再出力されます。

⑨最後にコンピュータ担当の責任者が、修正依頼の元一覧と再処理一覧を照合し、正しく修正されたことを確認し、コンピュータ室に正規の発注処理の依頼をします。

⑩以上の結果、やっと注文書が作成されます。

 

 と、まあ、大変な事務処理が当時は行われていたのです。今はどうかというと、定期的に注文される通常品は、内部での確認作業はありますが、ほぼ自動で取引先にWeb対応で行われています。

 調達部門での事務処理はもう一つあって、それは、購入結果により支払いの元データを作成する作業です。専門用語では「検収処理」と言います。
 検収処理は、検査合格結果により納入伝票が、調達部門に届くため、それを発注処理と同じようにデータ作成して、コンピュータ処理することになります。

 

 と、だいぶ長くなりました。タイトルの「コンピュータ学習」の話までたどり着いていませんが、本日はここまでとします。

 

(「コンピュータ学習」つづく)

 

 

 


山梨工場時代:山梨工場調度課

2023-09-10 10:58:12 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園の大温室にて    8月22日撮影)

 

 

 出勤日は覚えていませんが、1976年の10月上旬に山梨工場調度課に初出勤しました。

 4年半の社会人経験がありますから、新入社員のようなドキドキの初出勤ではなかったと思います。残念ながらその日のことは何も覚えていません。
 それと、転勤といっても、全く何も知らないところに転勤したわけではなかったからだと思います。というのも、同じ調達部門ということで、同課には定期的に打合せに行っていて、課長をはじめ主だった人とは顔なじみだったからだと思います。

 詳しくは覚えていませんが、課員は安田課長をはじめ10名ほどでした。思いだせるのは男性が6名(安田課長、土屋、三枝、川手、沢田、私)女性5名(竹内、名取、名取、岩間、?)でした。それと、詳しく思い出せないですが、2,3年前から始まった注文伝票のコンピュータ処理のための、データ入力のパンチャーの女性が別に数名いた気がします。

 私の担当は当面特にありませんでした。当時起こっていたトラブル内容は覚えていませんが、ともかく問題点の発見とその対策が私の任務ということでの赴任したので、課長の補佐的な仕事でした。
 安田課長とは、本社時代に、課長が別工場の調度課の担当で仕事上のやり取りがあって、馴染があり、「自由にやっていいから」と任せていてくれました。

 ということで、赴任当時は調度課での皆さんの仕事の内容をざっと覚えることに努めたのですが、見えてきたのは、データ入力の際の入力ミスのトラブルでした。それと、加工外注といって、図面にもとづいて外部の業者に部品を発注する業務で、品質不良などのトラブルが多いことでした。

 そんなこともあって、まずはこれらの問題に手を付けることとしました。

 

本日はここまでです。次回はコンピュータのお話です。

 

 

 

 

 


山梨工場時代:山梨工場へ

2023-09-03 10:44:16 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園の大温室の熱帯スイレン    8月22日撮影)

 

 本社資材部の勤務は、ほぼ4年半でした。鋳物担当に変わって半年ほどして、山梨工場への転勤となりました。28歳の誕生日の2か月ほど前、1976年(昭和51年)の10月だったと記憶しています。

 勤務先は、調度課。先にご説明したと思いますが、本社は資材部購買課という名称でしたが、工場の調達部門はこの「調度課」という名称でした。
 少し前から話が聞こえていたのですが、この山梨工場の調度課で、ちょっとしたトラブルが続いていて、体制の整備のため人を派遣する必要があったのです。ということで、私にお鉢が回って来たというわけです。
 部長からは、「頼むぞ!落ち着いたら戻すから」と言われて山梨に向かいました。事実、山梨での勤務は2年間でした。もっとも、2年後に本社資材部に戻ったかというと、違う部署でした。そして、本社資材部に戻ることはその後もありませんでした。

 自動車部品製造が主力の会社には3工場があり、本社に隣接した川崎工場は先にご紹介したように石油プラント向けの製品製造で、残る2工場が自動車部品の製造工場でした。そのうち山梨工場はブレーキ部品の工場で、従業員は800名ほど、当時で生産額はブレーキ製品としては国内2位だったと思います。

 工場は、現在の南アルプス市(当時の櫛形町)、甲府から身延山に向かう国道の中間地点、櫛形山のふもと、山梨といえばブドウと桃、春になれば周りは桃源郷に変貌するそんなのどかな場所にありました。
 住まいは、横浜の独身寮から、今度は工場から車で10分ほどのやはり独身寮でした。当時免許は持っていなかったので、近くに住む同じ調度課の同僚の車に毎日同乗させてもらっていました。その車の免許、山梨の2年間の勤務の間に何とか取得したのですが、それが大変でした。その話はいずれしたいと思います。

 

 ということで、山梨での勤務が始まりました。次回以降、山梨勤務での出来事をご紹介していきたいと思います。

 

 本日はここまでです。次回は山梨工場調度課のご紹介をしたいと思います。