SYUUの仕事部屋:ものづくりの世界のしくみをもっと深く知ろう!

製造業(メーカー)の仕事の仕組みをご紹介しています。

新入社員時代:担当変更

2023-07-30 10:49:12 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のムクゲ    7月5日撮影)

 

 

 いつまでを新入社員というのでしょうね。一応入社から1年間として、今日で新入社員時代の最後としたいと思います。

 その新入社員時代の最後、入社から1年目で業務の内容が変更になりました。そうなのです、あの怖いおじさんからやっと逃れることが出来たのです。もっとも、この担当変更で間近にいるより怖いおじさんとの仕事での関係がより密になって、背中ぞくぞくの日々は続くことになるのですが。

 で、新しい担当は「金属材料の購入」となりました。

 当時の会社の年間売上額は700億円ほど、原価率が8割、内材料費率は50%、内金属材料の比率は50%、ということで、素材の購入額は年間150億円ほどでした。

 金属材料の購入担当は3年間ほどでした。ということでこの3年間は毎年150億円も散在する、これまでの人生で特別に贅沢な生活を送っていたことになります。

 当然、それだけの金額を扱いますので、資材部門でも特別に重要な担当で、部長にとっても重要な購入品ということになります。普段は主任から、または課長からの指示が出るのですが、いきなり部長から直接指示が出ることも時にあって大慌てすることもあったのです。

 主任や課長が承知していない指示内容の時もあって、慌てて主任や課長と相談するのですが、「俺の指示どおりすればいいんだ!」とその都度怒鳴られる結果となるのが常でした。

 担当を引き継いだばかりのころは特に困りました。細かい方法まで指示があるわけではないので、それは主任や課長に聞かないと出来ないのは当然のことで、次第に慣れてくると、主任、課長には事後報告ということも増えました。

 一番困ったのは、購入メーカーの変更指示があったときです。聞けば、もう変更した、30トン程注文は済ませている、後の手続きをしろ、と指示があったときです。

 金属材料の納期は通常3ヶ月です。つまり3か月後には新しいメーカーの材料が30トンも入ってきてしまうわけです。つまりこの間に、その材料の使用工場の調達部門と数量の調整をする必要があります。細かいことは覚えていませんが、使用料は月に20トン程で、『置き場所がないぞ!』と言われて、調整に四苦八苦した記憶があります。

 もっと困ったのは、品質問題です。メーカー変更は、設計部門や検査部門、さらに実際に使う製造部門など技術部門の承認が必要なのです。当然、部長もそのことは知っていたはずですが、「後は頼むぞ」の一言で済まされて、こちらは大変でした。

 ともかく大変なことになりました。「部長駄目です」とは言えないので、頼み込んでテストをしてもらったのですが、1回目はNGになった記憶があります。

 今になるとどうやって合格させたかよく覚えていないのですが、旧の材料がなくなって、仕方なく無理やり使わせた記憶もあります。さすがにその時は部長が直接技術部門の長に頼み込んでくれた記憶があります。

 金属材料は基本JIS規格によって造られますが、市販の材料と違って、大量購入の場合は、使用メーカーと鉄鋼メーカーの間で仕様決めが行われます。これを紐付き契約といいます。つまり、本来は事前に仕様決めが必要なのですが、それをしないで1回目は購入したので、当然のトラブルだったわけです。以降の発注分は仕様決め後で行われ品質は安定し、やっとホッとすることが出来ました。

 この強引なメーカー変更、部長にもある経験からきたことだったのです。それは、私の入社2年目に起こった「オイルショック」です。このことは次回お話ししたいと思います。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


新入社員時代:マロングラッセと東照の饅頭

2023-07-23 10:22:21 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のムクゲ    7月5日撮影)

 

 

 私の履歴書・仕事編ということでお話させて頂いていますが、今日は仕事から離れて、軽い話というか甘い物のお話です。

 愛知から信州へとまあ田舎暮らしの20年ちょっとで、関東の川崎の会社に入社したのですが、川崎とは言え、私のとっては上京したのと同じ、完全はお上りさんだったわけです。
 ということで、関東に来ての楽しみはやはり東京観光と食べ物でしたが、実際は、休日に横浜駅周辺でお茶をする程度で、会社の寮の食事で満足しているレベルでした。

 そんな日々の生活の中で、私にとってはビックリすることが起こりました。それは「マロングラッセ」でした。
 そうなんです。上京して初めて知った洋菓子がマロングラッセでした。
 会社でのことでした。お客さんが持ってきてくれたお菓子が、昼食後の休憩時間にお茶とともに配られました。濃い茶色の丸い得体のしれない代物でした。「何ですかこれ?」「あら!知らないの、マロングラッセよ!」。それが、栗で出来た洋菓子であることを庶務の岩崎さんが優しく教えてくれました。もちろん知らないのは私だけでした。
 下戸で甘党の私、そのお菓子は、まさに初めての味、大げさでなくこの世の物とは思えない美味しさでした。『やはり東京は(川崎ですが)違う!こんな美味しいものがあるんだ!』と思いました。

 まさに、衝撃の出来事でした。以来、美味しいものはいろいろ食べているはずですが、この時感じた美味しさを超える美味しさをいまだ感じていません。
 まあ、貧乏学生時代を過ごして、ともかく味よりおなかを満たすことしか考えていなかったので、そんな生活でつくられた舌には、強烈な印象を残したのでしょうね。

 と、熱っぽく話す話でもありませんが、マロングラッセの思い出でした。

 それと、甘い物といえば、思いだすのは「東照の饅頭」です。川崎に東照という和菓子屋さんがあるのですが、そこの紅白の饅頭が正月明けの出勤日当時、会社からもらえたのです。

 甘党の私には、特別にうれしい正月のお年玉でした。もっとも、入社翌年にはオイルショックがあり、2年ほどでこの正月のお年玉はなくなってしまいました。今年はなし、と知ったときはがっかりでしたね。こんことでもよく覚えています。
 ちなみにネットで調べると、東照の饅頭、東照は今もありますが、饅頭は売っていないようです。川崎は、お大師さんによくお参りに行っています。一度東照にも寄ってみようと思っていたのですが、饅頭がないのは残念です。

 と、あまりに軽い話で大変失礼しました。ただ、新人時代での良き思い出です。

 

(新入社員時代:つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新入社員時代:独身寮2

2023-07-16 11:11:25 | 888私の履歴書ー仕事編-

(府中市郷土の森博物館のアジサイ    6月21日撮影)

 

 ということで、11年半に及んだ独身寮の生活ですが、結構快適だったのかもしれません。夏などエアコンもなく、扇風機だけ、TVはありましたが、冷蔵庫も電子レンジもない生活だったから、今どきの若者なら、快適とはとても言えませんが・・・。

 日々の生活について詳しくは覚えていませんが、山梨の2年間を除けば、朝夕の食事がそれなりに美味しかったことが快適と思えた一番の理由かもしれません。休日を除けば、大半の時間が会社での仕事、寮では寝るだけですから、食事は大事だったんだと今はそんな気がします。

 寮での生活の一番の思い出は同期が4,5人いたので、彼らと休日を一緒に過ごしたことでしょうか。 入社後ほぼ近い時期の休日に皆と当時はやっていた歌謡曲で有名になった「伊勢佐木町」に早速出かけました。『こんなもの!』という印象でしたね。
 山登りが趣味の岡君とは、2年目の夏休みに穂高・槍の縦走をしたのは良い思い出です。山といえば、自宅通勤でしたが、久保君がワンゲル部出身で、冬には群馬県の水上にあった大学の山小屋に寮の仲間と行って、久保君の指導でスキーをやったのも、青春してたな!と良い思い出です。

 私の寮での役割は休日の食事当番です。学生時代は下宿で自炊していたので料理は得意だったのです。寮では冬のストーブも禁止だったので、室内では火は使えないのですが、違反して電熱器や登山用の石油コンロを使って料理を作っていました。作ったのはすき焼きが多かったですね。それと一番思えているのは、槙君が教えてくれた山形の地元料理「ひっぱりうどん」でした。
 この料理いたって簡単な料理です。基本は茹でたうどんのつけ麺です。ポイントはタレです。準備するのは納豆、ネギのみじん切り、刻みのり、醤油、これらを混ぜて、うどんのゆで汁を少し入れるだけのものです。
 これを4,5人の寮生が鍋をうどんの鍋を囲んで食べるのです。ともかく、どうということもない料理でしたが、やたら美味しかったです。今でも冬になると時に作ります。槙君、どうしてくでしょうね?

 と、楽しんだ寮生活ですが、何といってもお年頃、結婚で次第に抜けて、結果的に残ったのは、金原君と私の二人だけでした。この二人だけの寮生活が7年程続きました。
 そして、遂に私にも退寮の時期が訪れます。きっかけは金原君の結婚でした。彼から結婚の話を聞いて、さすがに焦りました。
 焦ると人間何とかなるものですね。彼の話聞いて半年後には私の結婚も決まりました。結果、寮から5分の社宅に入居したのは、金原君とほぼ同時期でした。

 寮での話まだあるのですが、新人時代の話から乖離してしまいましたので、この程度でやめておきます。

 

(新入社員時代:つづく)

 


新入社員時代:独身寮1

2023-07-09 10:27:50 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のアジサイ    6月8日撮影)

 

 

 新人時代限定ではありませんが、今日は独身寮でのことを少し振返ってみたいと思います。

 独身寮は横浜の郊外にありました。入社試験で利用したので、入社で初めて知ったわけではありませんが、横浜といっても、ともかく田舎でした。
 最寄り駅は相鉄線の「三ツ境」そこから徒歩だと15分ほど、今はどうでしょうか、周辺には畑も多く、徒歩5分ほどに社宅があったのですが、その近くには養鶏場や牛舎もありました。
 もっとも、今は三ツ境駅は駅ビルもオシャレに変貌しています。相鉄線はJRや東急と相互乗り入れして都心まで1本で繋がって、今は田舎と言ったらお叱りを受けそうですね。

 そんな独身寮に入社と同時に昭和47年(1972年)4月に入寮、結婚して昭和58年(1983年)11月に退寮するまで11年半ほどお世話になることになります。(途中2年ほど山梨の工場に転勤になって、そこでも独身寮生活だったので、その2年も含みます。山梨転勤の話はまたしたいと思います。)

 

 入寮したのは、鉄筋コンクリート3階建で2棟あった南側最上階南東角部屋10畳という最高の条件の部屋でしたが、ここは2人部屋でした。
 入社日の2日前に入寮したのだと思います。入寮した日は一人でした。『この広さで一人、良いね!』と思った記憶がありますが、翌日同期の山本君が入寮してきてこの思いは簡単に裏切られます。

 入寮した日のことでよく覚えているのですが、部屋に入ってしばらくして、隣に入寮した槙君が缶ビールを2本持って訪ねてきたのです。
 山本君は営業所属で、勤務地も神田にあった営業所、しかも半年で退寮したということもあって、考えてみると特別な思い出もないのですが、槙君とはその後それなりの付き合いが出来ることとなりました。
 ということで、入寮早々から槙君、山本君の二人の同期と知り合って、独身寮生活がスタートしました。

 

 本日はここまでで、続きます。

 

 

 


新入社員時代:怖いおじさん2

2023-07-02 10:56:04 | 888私の履歴書ー仕事編-

(府中市郷土の森博物館のアジサイ   6月21日撮影)

 

 もう一人の怖いおじさんは、上司の樋口部長です。

 もう50年も前の話ですから、当時は当たり前でしたが、いまなら間違いなくパワハラ上司と大問題になるでしょう。もっとも、当時でも他部署からやりすぎ、とクレームもあって、それを「他部門は口だすな!」とはねのけたという話もあったほどの部長でした。もっとも、こんな上司、樋口部長に限らず当たり前のようにいた時代ではありました。

 そんな樋口部長から、直接仕事の指示はないのですが、時々声を掛けられました。具体的な内容は忘れていますが、何やら文章にまとめたものを時々提出していました。

 ともかく怖い部長で、女性以外の部員は全員呼ばれて怒られていたので、恐る恐る提出するのですが、まずは何も言われず突っ返されます。
 最初は何故か分からないので、「どこが駄目ですか」と聞くのですが、何も答えてくれません。困っていると、課長や主任が席に戻るように声をかけてくれます。「もう一度見直せ」という意味だよ、と教えてくれます。
 一応見直して、提出すると、再び突っ返されます。困ったときは、課長や主任にも相談しますが、こんなことが3回はくりかえされます。
 その結果、やっと部長からの直接の具体的な指摘があって、4,5回目にはやっとOKがもらえました。

 そうなのです、これは部長の教育法だったのです。考えてみるといい時代だったですね。今なら、こんな悠長な教育はしていられません。本社機構ということあったと思いますが、当時は、仕事が忙しくて連日残業、などということはない時代でした。
 もっとも、この教育法、2年後に主任者試験があったのですが、その時に大いに役立つことになります。

 それにしても、1年後に担当業務が変わるのですが、それからは部長からも直接仕事の指示が出るようになり、私にとっての怖いおじさんがいっそう強まることになります。
 ともかく、最初は、具体的な問題点の指摘をされないので、なぜ怒られているのかも分からないのはいつものことでした。

 名前を呼ばれて部長の指示を受けるのですが、〇〇〇〇君と君付けの時はまだ大した用事ではないのです。ちょっと問題があると、君が抜けて〇〇〇〇と呼び捨てになります。大問題の時は、〇〇と名字の頭2文字だけで呼ばれます。この時はさあ大変です。「はい!」とすぐ部長の前に跳んでいきます。そんな時は課長も一緒に跳んできます。

 ともかく、怖かったですね。特に、担当変更後は、部長の目が常に光っているように感じ、いつ呼ばれるかと背中をぞくぞくさせて仕事をしていました。

 本社資材部での仕事は4年半でしたので、樋口部長の下での仕事もそれだけ続いたのですが、「飴とムチ」というように、飴の部分もあった4年半でした。そのお話はまたしたいと思います。

 

(つづく)