この前から北部九州も遅い梅雨入りしたけど、今日はすごく晴れてます。週末も晴れっぽい。
車内は地獄になっていくけど、やっぱり晴れって気持ちがいいものです。
最近は家で過ごす必要があってなかなか出歩けなくなったので、王道文学の夏目漱石の「こころ」が家にあったんで読み始めました。発行が私が生れる30年以上前の本で、使われてる漢字が字画多すぎる旧字ばっかりで読み進めるのが一苦労。
初めて見るのもあるし、送り仮名がついてればまあ文脈と漢字の雰囲気で分かるけど、単語になると全く読めなかったり。
今の漢字って昔に比べるとかなり簡素化されて簡単。
伝達手段だから、漢字も言葉も変化して当然。
昨日録画してた見れて無かった年末のドラマ「吉原炎上」も明治時代まであの実態があって。まあ吉原とか遊郭って形では無くなって、風俗っつーものがまだあるけど。
悲しい話でした。
蜷川実花の「さくらん」も切なかった。
と、最近花魁もの続けて見たんでこんな感じ。
秋葉原の犯人が書いてた
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし 難しいね」
という発言。
何かのTVでホームレスの人が
「家があってそこで生活すると誰とも関われなくなるからホームレス生活をやってるんだ」
みたいなことを言ってたってのをやってました。
人心を蝕む孤独。世知辛い。
孤独が人の温度を感じられなくさせてるのかな。
とも思う反面
今の日本はどう言ってもやはり豊かで、貧困が孤独に繋がり無くなってきてるから、秋葉原の様な特出した事件が目立つだけで、昔の通り魔が多かったという昭和前半くらいの頃とも、やっぱり何ら変わってないだけかも。
決して犯人を擁護してるわけではなくて。
孤独と貧困についてちょっと思っただけです。
漢字も然り、文化も人間も何もかも、ただたった60年そこらでこんなにも変わったのに、こんなにも本質は変わらないものなのだと。
どんなに孤独でも人の気持ちを温度を感じられる人間であれば。
やっぱり心が歪まない環境って大切だな、と思うわけです。
今日の日記、自分の中ではそれぞれ微妙にリンクしてるんだけど、全く繋がってなく見えてしまう。。。脈略なさすぎてすいません。
肝心の読書はまだまだかかりそう。
車内は地獄になっていくけど、やっぱり晴れって気持ちがいいものです。
最近は家で過ごす必要があってなかなか出歩けなくなったので、王道文学の夏目漱石の「こころ」が家にあったんで読み始めました。発行が私が生れる30年以上前の本で、使われてる漢字が字画多すぎる旧字ばっかりで読み進めるのが一苦労。
初めて見るのもあるし、送り仮名がついてればまあ文脈と漢字の雰囲気で分かるけど、単語になると全く読めなかったり。
今の漢字って昔に比べるとかなり簡素化されて簡単。
伝達手段だから、漢字も言葉も変化して当然。
昨日録画してた見れて無かった年末のドラマ「吉原炎上」も明治時代まであの実態があって。まあ吉原とか遊郭って形では無くなって、風俗っつーものがまだあるけど。
悲しい話でした。
蜷川実花の「さくらん」も切なかった。
と、最近花魁もの続けて見たんでこんな感じ。
秋葉原の犯人が書いてた
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし 難しいね」
という発言。
何かのTVでホームレスの人が
「家があってそこで生活すると誰とも関われなくなるからホームレス生活をやってるんだ」
みたいなことを言ってたってのをやってました。
人心を蝕む孤独。世知辛い。
孤独が人の温度を感じられなくさせてるのかな。
とも思う反面
今の日本はどう言ってもやはり豊かで、貧困が孤独に繋がり無くなってきてるから、秋葉原の様な特出した事件が目立つだけで、昔の通り魔が多かったという昭和前半くらいの頃とも、やっぱり何ら変わってないだけかも。
決して犯人を擁護してるわけではなくて。
孤独と貧困についてちょっと思っただけです。
漢字も然り、文化も人間も何もかも、ただたった60年そこらでこんなにも変わったのに、こんなにも本質は変わらないものなのだと。
どんなに孤独でも人の気持ちを温度を感じられる人間であれば。
やっぱり心が歪まない環境って大切だな、と思うわけです。
今日の日記、自分の中ではそれぞれ微妙にリンクしてるんだけど、全く繋がってなく見えてしまう。。。脈略なさすぎてすいません。
肝心の読書はまだまだかかりそう。