蓮畑で(アマガエル 出会い)

2013-07-21 22:43:01 | 日記
いい天気です。そろそろ、近くの蓮畑が花が咲くころかと。行ってみれば、花が咲いた後の実、まだ小さいものもある。あと数日後が見頃かな。そもそも、「畑」なので、花を愛でるところではないのかもしれません。蓮の大きな葉に、小さなアマガエルくんがいました。ほんの2センチないくらいの、きっとカエルになったばかりのアマガエルくんです。こんな会話をしています。
☆あれ?君いるの?ここは君のもの?
♪いや、誰のものでもない。
☆ここで、ひと休みしてもいい?
♪もちろん、構わない。なんで、いちいち、ボクに聞くの?
☆だって、一枚の葉に一緒にいてもいいのかなって。ボク、お邪魔ではないかって。
♪うん、いい気持ちでのんびりしてたから、キミに出会って、少しびっくり。一人を楽しんでいたので…。
☆やはり邪魔したのですね。
♪そうかも。でも、君とボクは出会った。だから、君とボクは友だち。出会ったこと、ここから全てが始まるのだから。
◆この大きな地球の上で、小さな命と命が出会う。
 出会ったひとは、皆、友だち。かけがえのない命。





セミのぬけがら(その3)

2013-07-20 23:57:53 | 日記
またまた、今日もセミのぬけがら発見。夏ですよね、毎日、目を皿にして探し回っています、セミのぬけがらを。今日のセミくんは、「おっと、落ちそうだ」くんです。こんなところで「変身」したのですか?ここから?もっと、よさそうなところはなかったのでしょうか?セミのぬけがらを見つけたら、聞こえている今日のセミの鳴き声が、とても親しく感じられます、この「おっと、落っこちそうだ」も、どこかで鳴いているのでしょう。たぶん、今、私は幸せなのでしょう。去年も、一昨年の夏も、この桜並木を通っていた。でも、今年が初めてです、地面から出てきたセミの幼虫に出会ったのは。その日から、ここで見かけたすべてのぬけがらは、見るとうれしく…愛おしく。つい、にっこり。また一つ、夏を見つけたよ。

夏、セミの幼虫(その 2)

2013-07-19 23:49:55 | 日記
今晩は、なぜか涼しい夜です。窓からは、少し隣の家の話し声が聞こえます。今日は、うれしい一日でした。なぜ?朝、昨日のセミの幼虫が、無事に空へ飛べたようだから。昨日、その幼虫をとまらせた桜の樹、確か、昨日見上げたときは、葉にとまったぬけがらは、並んで二つだったはず。でも、その上にもう一つ、今朝はぬけがらがありまた。きっと、昨日出会ったセミくんのものかと。そう、今朝、いつもの桜並木を通るとき、一帯でセミが本当にうるさいくらい鳴いていました。そして、あの桜の樹を見上げた時、確かに、あのセミくんが今日の陽を浴びることができたのを、私は知ることができたのです。今日はあのセミくんの誕生日になったのです。だから、今日のうるさいくらいのセミの鳴き声は、そのよろこびの歌だったのです。セミくんの再び誕生する場に、私もほんの少し立ち合うことができ、そして、彼が命のうたを歌っているのを聞くことができたのです。今日は私にとって、とてもいいことのあった「うれしい一日」だったのです。

夏、セミの幼虫見つけた

2013-07-18 23:37:59 | 日記
今日は、夕方19時過ぎ、いいもの見つけたよ。桜の木の下、やっとやっとと、セミの幼虫が歩いていたのを見つけた。思わず、手のひらを出すと、ちょっと頭を傾げたような気がしたが、私の手のひらに上がってきた、のっちのっち。間近に見ると、かすかに目の上の方が土で汚れている。時間から考えると、土から出てきたところなのでしょう、ゴメンね。見つけちゃった。家にこの幼虫を連れて帰りたかったけれど、入れて買える箱がない。ポロシャツにつかまってもらおうか、とも思ったが、自転車なので、落ちたら大変。しばらく、セミの幼虫がポロシャツをつかまり上がっていくのを見たが、そう、変身となればここではマズい。樹の幹に掴まらせてやった。子どもが小さな頃、ひと夏のこと、近くの神社で、セミの幼虫を捕まえ(今みたいに、拾って)、家でセミの幼虫がセミになるのを、見た。私にとっては、それが初めてのことだった。目の前で生まれた(からから出てきた)セミは、神秘的な美しいホワイトの入ったグリーンだった。これが新しい「命」かとも思った。親子でただ観る、華麗なショーだった。すっかり、親子ともこのショーに魅せられ、 3、4回観た頃だった。その夜のセミはどうしても、からから出られなかった。朝になっても、美しい生まれたセミはそこにはいなかった。それをどうしたのだろう?思い出せない。でも、私はその時、命の生まれるその時、その何ものも決して冒してならないもの(命)を見て楽しんではいけなかったのだと思った。私がいけないことをしたので、このセミは(セミとして)生まれ、鳴くことがなかったのだと思った。私が罪なことをしたので、この命が消えたと思った。子どもは何を思ったかわからない。しかし、私はその時、子どもに伝えたかった。(あなたは)『生まれた』、そのこと自体を感謝して、生きて欲しい」と。

京都 琴引き浜(その()

2013-07-15 23:39:54 | 日記
今日も朝、どしゃぶりでした。子どもたちは、もうすぐ、夏休みですね。琴引き浜は、本当に、生き物たちがいっぱいでした。日曜日「楽しかった」と書いたとき、文章の最後が「ありがとう」という言葉になった。そうなのですよね。「ありがとう」が浮かんだとき、私の頭の中には、磯の小さな命、そこにいた子どもたちやその親など、そんなにいっぱい、ことばを交わしたわけはないけれども、そこにいただけで、私のこころは、うきうき、小さな魚を見つけたことがうれしいし、カニが岩の間から、顔を出すのを見つけたのも、横に親子がいることも、ただうれしかった。自分で「子どものように」、磯をのぞき歩いていると思った。久しぶり、何も考えない時間だった。そう、その日の全てが、共にいた、まわりの全ての命に、海に、空に、浜に、磯に、たぶん、こういう「ありがとう」という素直な私のこころに出会わせてくれた、そういう一日があったこと自体が、「ありがとう」なのでしょう。