第二次パープル問題

<15代目フーシェ>が管理人のハンネです 

ルイ18世の野望リターンズ『最終回』《タレーラン・ノート》

2016年04月10日 | 日記
1837年のタレーラン女史の病死から、すべてが動きだす。


タレーラン女史は生前に、泣きじゃくるモントロンに口述筆記させていた。

その文書を《タレーラン・ノート》という

1837年のパリ総選挙に出馬しようとしていたタレーランだったが、出馬する前に死んでしまった

さぞかし無念だっただろうね

しかし、自分が死んでも選挙システムなどについては細かく指示書ができあがっていた。
1837年のタレーラン元外相はの病死の3か月後に行われた選挙戦は

すべての階級が立ち上がった

第1身分だった司祭やシスター、第2身分だった貴族

第3身分だった平民のすべての職業の人たち

首都のパリ地方区は定数6名の大激戦区だったが、タレーランには後継者はいなかった

84歳まで生きた彼女は弟子を作っている時間がなかったし、84歳まで生きれたから90歳まで生きれる錯覚におちいっていたのである

フランスの史実ではオルレアン、ブルボン、ボナパルトと3つの政党が乱立していたが

ブルボン家はシャルル10世以降は、政権をとったことがない。

王党派とジャコバン派の二大政党に飽き飽きしたフランス人たちは、いろんな政党をつくった

パリ地方区は定数6名に対して、立候補者は300人以上で、言い忘れていたが《供託金》という制度がなかった

だから どんなに貧しい人でも立候補できた

1837年の総選挙は、総定数500名に対して、ボナパルト党が5議席

ブルボン党が5議席

オルレアン党が490議席と、オルレアン党が過半数をとった。

歴史改変はおこなわれなかった

1848年のパリ総選挙とウィーン総選挙で、タレーラン・ノートが実施されるのである

続きは25話の第二部で

最新の画像もっと見る

コメントを投稿