なんだか人として生まれて・・同情しちゃう面もあるけど・・
思いは複雑です
参考WEB・・http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/
母原病
昭和50年代、『母原病』という本がベストセラーとなった。
子供の身体的・精神的な病気の多くが、母親の普段の態度や躾の仕方によるものだという作品である。誕生から6~7歳ごろまでの子供の生活において、もっとも重要な存在は母親だ。とある精神科医はこう述べた。
「連続殺人者を育てようと思ったら、頭部に重大な損傷を与えるような
毎日の虐待を行ない、性的に混乱させるよう努め、パートナーを次々変えるなどの生活の緊張を強い、愛情や躾などの恩恵をいっさい与えないこと」。
現実の殺人者たちの母親は、ではどういった人物だったのか。
リチャード・チェイス
チェイスは中流家庭の息子として生まれた。素直なやさしい子として育つが、12歳のとき、母親が精神分裂病を発症する。彼女は幻覚や妄想を抱くようになり、夫に対し、浮気をしているだの、麻薬をやっているだの、自分を殺そうとしているなどと言って、
なじるようになった。
しかし発病のせいだけでなく、母親の生来の性格も愛情深いものではなかったようだ。チェイスの母親を面接した精神科医は、「ミセス・チェイスは精神病患者の母親によく見られるタイプで、きわめて攻撃的、人に敵意を抱いており、挑発的」と診断した。両親のいさかいは10年以上つづき、その後2人は離婚し、父親は再婚した。
10代なかばで、チェイスは精神病発症のきざしを見せはじめる。また、異性とうまく接触できなかったことから、アルコールと麻薬に手を出すようにもなった。
20歳前後から彼の症状は悪化した。彼は自分の心臓が定期的に鼓動を止める、肺が盗まれた、からだがばらばらに崩れ落ちる、などと周囲に訴えはじめ、ある日ウサギの血を飲んで中毒症状に陥り、そのまま精神病院送りになった。
チェイスは病院でも小鳥の頭を食いちぎって血をすするなどの奇行をみせたが、1年で母親は彼を無理に退院させてしまう。退院後、彼は犬や猫を裂いて血を浴びはじめる。血を飲まなければ、彼は自分の体内の血液がいずれ枯渇してしまうと信じていた。そして対象はどんどん大きくなりはじめる。犬猫から牛へ、そして人間へと。
彼はひとりの男性を射殺し、1ヵ月後、一家惨殺をはたらいた。
彼は独房で、抗鬱剤を大量に飲んで自殺した。
アーサー・ショウクロス
彼が10歳になる以前に、彼の両親の間には決定的な亀裂が生じていた。彼は両親にとって、「自分を家庭につなぎとめる厄介者」でしかなかった。そしてそれを2人とも、露骨に態度にあらわした。ある日少年ショウクロスは、精神異常者とおぼしき男にトラックに乗せられ、レイプされた。彼は傷つき、出血した体をひきずって家まで帰った。ぼろぼろになった息子の姿を見ても母親は眉ひとつ動かさなかった。
少年は言った。「ママ、ぼく、ひどいことされたんだ」
すると母親はこう答えた。「そうね。おまえを見たら誰だってムカつくだろうからね」。彼女は振り向きもしなかった。
脳障害
連続殺人者に、事故や虐待等で脳に損傷を負った人々が多いというのは余りにも有名な話だ。だがもちろん頭を打ったすべての人々が殺人を犯すわけではない。また、過去に虐待を受けたほとんどの人は、今犯罪とは関係なくまっとうに生活しているはずだ。
では一体、「境目」は何処にあるのだろうか?
リチャード・スペック
<看護婦寮に押し入り、8人の女性を殺害した男。連続殺人者ではなく、大量殺人者のカテゴリーに入る。
懲役400~1200年の刑を宣告された。>
彼は6歳のとき、釘抜きで頭を強打し、失神した。木から落ちて1時間半も意識不明だったこともある(そのときは泡を吹いてひきつけを起こしていたらしい)。
また15歳のときには、日除けの鉄柱に激突し、鉄柱の先端が頭蓋骨にめり込んだ。
父親と言い争いになり、激昂して自分の頭を何度もハンマーで殴りつけたこともあったという。親を殴ればいいのに、とは思うがそれができる程度ならそもそも抑圧とは呼べまい。さらにはバーで喧嘩をし、頭部を負傷した。
知能は低かったようだ。コリン・ウィルソンによると穏やかな性格らしいが、ロバート・レスラーの言によれば態度が悪くて凶暴らしい。
知能に関しては染色体異常も関係しているかもしれない。彼は男性遺伝子であるY染色体が平常人より一本多い「XYY症候群患者」だったという説があり、
これが攻撃性を誘発したのではないか、とも言われている。なお染色体異常は、知恵遅れになりやすい傾向にもある。
ヘンリー・リー・ルーカス
「360人殺しのヘンリー」として超有名な殺人者。ただしすべてにおいて立件できたわけではない。また“FBIに協力する死刑囚”という、ハニバル・レクター博士のモデルであることでも広く知られている。宣告された刑は、死刑1回、終身刑6回、加えて懲役刑は210年分。」
売春婦だった彼の母親は、日常的に彼に暴力をふるっていた。
ほうきの柄や棒きれなど、何でも手当たり次第掴んで殴りつけたらしい。靴ヒモを結ぶのが遅い、という理由で、2×4の角材で後頭部を思い切り殴りつけられたこともあったという。その打撃で3日ほど彼は意識不明の重体に陥り、怖くなった母親の愛人が病院に運んだ。母親は梯子から落ちたと医師に説明したらしい。
有罪判決がおりたのち、彼はCTスキャンとMRI検査を受けたが、脳の損傷範囲はあまりにも広大だったようだ。そして勿論、カールトン・ゲーリーと同様、慢性の栄養失調であった。また、長じてからのアルコールとドラッグの乱用、さらにカドミウム中毒が脳損傷に拍車をかけたと考えられている。知能は厳密な意味で言えば高いとは言えないだろうが、驚くほどカンが良く、相手がなにを言ってほしいかを察知する能力が肥大しているようで、供述調書をとった担当捜査官はかなり振り回されたようだ。
母親のヴァイオラはありとあらゆる変態行為をよろこんで請け負うことで有名な売春婦で、12歳のときからこの稼業をやっており、ルーカスは彼女にとって11番目の子であった。彼女は非常に商売熱心な女で、ルーカスが生まれる直前まで「妊婦の腹を蹴りとばしてみたいサド男」を募集していたし、新たな子供が生まれて、それがもし女の子だったら母娘で共稼ぎするつもりで、「娘が生まれたらよろしくね。ふたりでいっぱいサーヴィスするわ」などと顔見知りにふれまわっていた。
だが期待に反して、子供は男の子だった。
父が彼につけた名はヘンリー。しかしヴァイオラはその子を「ヘンリエッタ」と呼び、女児用の産着を着せた。その子は男の子だ、よせよ、と諌める夫に対して、ヴァイオラはこう吐き捨てた。「役立たずの男はあんただけで充分だよ」と。
ヴァイオラはロリコンの傾向がある客をとって、ルーカスに女の子の格好をさせたまま、その光景を見ているよう強制した。ルーカスは髪を伸ばしてカールさせられ、ドレスを着せられて学校へ行かされた。ただし、足は裸足のままだった。
またヴァイオラは夫に向かっても、「せめて足でもありゃ、あんたにも女装させて客をとってやれるんだが」
だがそんなルーカスの人生で、救いの手をさしのべてくれた人が3人いる。
そのうちの2人は小学校教師で、彼の家庭環境に同情し、ルーカスの髪を男の子らしくカットしてくれ、ズボンを買ってくれた。また生まれてはじめて彼に、「あたたかい食事」というものをふるまった人物でもあった。ルーカスは生まれてからというものずっと慢性の栄養失調で、父親といっしょに残飯をあさって飢えをしのぐことも珍しくなかった。ヴァイオラはこの2人の出現に激怒し、パニック状態に陥った。
ヴァイオラは少年の頭を2×4の角材で殴りつけた。一撃でルーカスは昏倒したが、激昂した彼女はなおも我が子を殴りつづけた。頭皮が半分ほど剥け、頭蓋骨が割れた。ヴァイオラは彼を戸外に叩きだすと、酔っ払って寝てしまった。
それから3日以上彼は昏睡し、こわくなったヴァイオラのボーイフレンドがついに彼を病院に運んだ。ヴァイオラは医師に「梯子から落ちた」と説明した。
この負傷以来、しばしばルーカスは癲癇や失神の発作を起こすようになる。
そんなある日、3人目の救いの手があらわれた。ルーカスが8歳になったとき、雪道を裸足で歩く少年に仰天したトラック運転手が、彼を助手席に乗せ、靴と靴下を買ってくれたのだ。ルーカスは礼を言って彼と別れた。ヴァイオラは靴をはいて帰ってきた息子を見て激怒した。「靴なんか買ってもらって、この馬鹿。なんで現金をもらってこないんだよ」その日、ルーカスは気絶するまで殴られた。数日後、その運転手が妻と共にルーカス家を訪ねてきた。子供がいないので、よかったらルーカスを養子に欲しい、というのである。しかしヴァイオラは、「てめえらの股ぐらが役たたずだからって、あたしになんの関係があるのさ。おばちゃん、ほら見な、これがまともな女のもんってやつさ」そう言ってスカートをめくりあげ、下着をおろして見せた。
夫婦は蒼白になって逃げ帰った。後年ヘンリーはこう語る。
「おふくろは、完全なきちがいだった」。
ヘンリー・リー・ルーカスには誰に愛されることも、なにものかを愛することも許されなかった。
彼ははじめミシガン刑務所に護送されたが、自殺を繰りかえし、頭の中で「母親の声が聞こえる」と言って苦悩した。ルーカスはイオニア州立病院へ移送され、「典型的な、萎縮させられた人間」というレッテルを貼られる。「自信、独立心、自尊心、意志力のすべてがいちじるしく不足した人間」であると。
ルーカスは釈放されることを一度も望まなかった。
ルーカスはのちにこう述べている。
「人生のすべてがいやでたまらなかった。あらゆる人間が憎かった。なにもかもだ。俺は敵意の塊だった。好きなものなんか何ひとつなかった」
「切り刻んだし、吊るしたし、轢き殺したし、刺して、殴って……溺死もさせたし、あとえーと、磔(はりつけ)にしたこともあったっけ。魚みたいにおろして切り身にもしてやったよ。焼き殺したし、撃ち殺したし、あともちろん絞め殺したしね」
逮捕後から判決後にかけて臨床的に調べてみたところ、ルーカスは長年の虐待により脳の神経系統に広範囲の損傷を受けており、前頭葉と側頭葉、脳下部にも傷が認められた。また大脳にも異常が見受けられた。血液中からは、健常人の数値をはるかに超えるカドミウムと鉛が検出。また幼い頃からまともな食事を与えられなかったがゆえの慢性の栄養失調が、脳組織の発育をずっと妨げてきたに違いなかった。
彼が今まで毎日摂取してきたものはといえば、アルコールとドラッグとニコチンくらいのもので、血糖値は異様に高く、慢性のビタミン不足であり、それらは脳神経を覿面に蝕んだ。
この独房の中で、彼がいくらかの人間的発達を見せたとしても、それが完全となることはないだろう。彼にはもはや、他人への感情移入という機能はまったく失われており、回復する見込みはない。彼は心理学者に向かって、こう述べている。
「人間? うん、それは俺にとって何でもなかった。ただの、白紙だった」。
アンドレイ・チカチーロ
「ロシアの死神」こと53人殺し。
母親の妊娠中、胎内で何らかのトラブルがあったとみられる、先天性の脳障害。当時のロシア全土を覆っていた重篤な飢饉も関係していたかもしれない。
脳波に異常があり、水頭症の兆候が見られ、左右の瞳孔の大きさも違っていた。また12歳になるまで排尿のコントロールができなかった。
ホルモン異常による乳房の発達もあったという。(ちなみにボビー・ジョー・ロングも同じような遺伝性の異常を抱えており、十代はじめのとき、手術で胸から6ポンドほどの組織を除去した。1ポンド=453グラムで計算して下さい)
知能は正常値だが物覚えが悪かった。職業は教師。
チャールズ・マンソン
「殺人カルト教祖様」の元祖。
典型的な崩壊家庭の落とし子である。父親の顔を知らぬ私生児として生まれ、親の自覚のない母親に親戚間をたらいまわしにされて育ったが、ある日施設に置き去りにされる。彼はしばらくして施設を飛び出し、生きるために窃盗を働いた。14歳で少年院へ送られたマンソンはそこで看守の虐待に会う。性的暴行と肉体的暴行の両方である。1年も経たないうち、毎日の殴打による頭部損傷の影響が、体のチックや顔面麻痺となって現われはじめた。さらに出所したのちの、60年代のヒッピー・ブームによって常用したLSDが脳の中枢神経に打撃を与えた。彼はまた精神病の兆候も示していたが、そのすべてが、側頭葉に損傷のある人間特有の症状だったという。
知能はかなり高かったようだ。カリスマ性があり、音楽的才能もあった。
アルバート・フィッシュ
アルバート・フィッシュは5歳のとき、父の死によって孤児となり、施設にあずけられた。そこでの戒律は厳しいもので、些細なことで子供たちは鞭でぶたれた。
のちにフィッシュは「惨めさと苦痛は、犯罪のよい肥やしになる」と捜査員に語っているが、彼はここで鞭打ちの苦痛と屈辱を、性的な快感にすり替えるすべをすでに身につけている。虐待を受けたが、ティーンエイジャーで自殺もせず生き延びた者を、アメリカでは「生存者(サヴァイヴァー)」と呼んでいる。
意外なことに、そのうちには多重人格者も含まれる。
さらに12歳のとき、彼は年長の電報配達夫と性的な関係を持った。
相手も未成年ではあったものの、それはいささか性的虐待に近いものであった。
だがフィッシュはすぐにそれに惑溺した。
その青年は、すでにマゾヒストであったフィッシュに、
相互サディズムのやり方と、スカトロジーを混じえた性行為を教えこんだ。
この関係は数年つづいた。
しかし、14,5歳になるまでフィッシュがまともな性的環境に一度も置かれたことがないというのは、やはり当時の社会状況をさしひいてさえも驚くべきことである。
だが彼はこれらのすべてを「受け入れ、順応」することで適応していった。
フィッシュは精神的にひどく、タフだったのだ。
だが彼にも最後のチャンスが――まともな愛情をはぐくむ人間になれるかもしれない最後の機会が訪れた。結婚である。彼は塗装工の仕事をしながら、この妻との間に3人の子供をもうけた。が、結婚19年目にしてこの夫婦関係は破綻する。きっかけは妻の浮気であった。彼女は近所の精神薄弱の男と駆け落ちし、数日後帰ってきた。それだけならまだしも、「このひとと一緒にここで住ませてほしいんだけど」
と彼女は言ったのだ。済んだことは水に流してやってもいい、だがそれは無理だ、とフィッシュは至極まっとうなことを妻に告げた。妻はしぶしぶながらそれに同意し、愛人と別れると約束した。が数日後、フィッシュは信じられない光景を目にすることになる。追い出したはずの精薄の男がまだ彼の家にいて、彼の妻と抱きあっていたのだ。
じつは妻は彼に内緒で、その低脳の従順な愛人を屋根裏部屋に住まわせ、こっそり食事を運びながら情事にふけっていたのである。
この事実はフィッシュを打ちのめした。その上2人は駆け落ち費用としてフィッシュ家にあった家財道具のすべてを持ち出し、売り払って出ていった。
彼のもともと不安定だった精神が、完全に均衡を失いはじめるのは、この瞬間からである。
フィッシュは自分で自分を痛めつけることを好んだ。釘を植えたパドルで自分の全身を叩いたり、真っ赤に焼けた金梃子を押し付けたりもした。
彼はあいかわらず塗装工だったが、ペンキを塗っている間はオーバーオールの下になにも着けず、幼い少年が通ると「前をはだけて見せる」などという典型的な露出行為にも励んでいたようだ。また、家に遊びに来た息子の友達に、鋲を打ちつけた板を手渡し、ズボンを脱いで四つんばいになると、その裸の尻を血が出るまで殴ってもらった。しかし長ずるにつれ息子たちはこれを嫌がったので、彼はまた自傷行為に戻った。
彼のあみだした自傷行為の中でもっとも有名なものは、陰嚢に針を突き刺すこと(彼の骨盤周辺を撮ったレントゲンは、彼を紹介した著作にはたいてい掲載されている。そこには錆びた針が太いのも細いのも、折れたのも腐食しかけたのも混じって、27本映っている)と、直腸にアルコールをひたした綿布を詰め込み、火をつけて、体内が燃える感覚に身悶えることだった。
フィッシュは警察で、400人の子供を殺したと供述した。この数字にはなんの根拠もなく、誇張ととらえるよりほかない。だが少なくとも数十人の子供を殺したことはあきらかで、性的暴行を加えた子供の数は100人をくだらないはずだった。
彼が犯行をおかしていた期間は約25年間だが、その間軽犯罪以外の罪に問われたことは一度もない。穏やかな容貌も上品な立ち居ふるまいも、すべてが彼にとって有利だった。
犯行はあまりに歴然としていたので、裁判の論点はただひとつ、彼が狂気であるかどうかだけだった。フィッシュの強靭な精神は自殺を拒み、すべての苦痛を快楽としてとられることで永らえてきた。だがその代償として精神の均衡を失っているのは誰の目にも明らかだった。
記者に囲まれたフィッシュは、電気椅子送りになることについて、
「最高のスリルだ。――いままで試したことのない、唯一最大のスリルだ」
と述べた。これはキュルテンの「自分の首が切断されるときの、その血の噴き出る音を是非とも聞きたい」という言に共通するところのある台詞だと言えよう。
彼は65歳という高齢ながら、1936年、電気椅子に座らされた。
アルバート・フィッシュは最期の食事としてTボーンステーキを残さずたいらげ、処刑場へ向かった。
彼の最期の言葉は、
「なんでまた私は、こんなとこにいるのかねぇ」
というものだった、という。
ペーター・キュルテン
ペーター・キュルテンは「ジャック・ザ・リパー」と並ぶ、19世紀を代表する殺人者である。ただしジャックが「謎」であるがゆえに伝説となったのとは対照的に、彼の場合はベルク博士という犯罪研究家によって、心の深奥を分析されたという点でほとんど初めての殺人者だからだ。その研究ゆえに、われわれはキュルテンという人物について知ることができる。それはおそらく彼のほんとうの姿の、半分にも満たないものでしかないだろうが。
キュルテンは1883年、ケルンミュルハイムで生まれた。
父親は鋳型職人だったが、粗暴で、虚言癖があり、アル中であったため稼ぎはほとんどなく、(この父方の血統には、アル中や精神病者が多かった。祖父は窃盗癖があった)また子だくさんで11人もの子供がいたため、一家は極貧状態だった。
この父親は精力過剰だったらしく、子供の目の前であろうとおかまいなしに、しばしば妻を犯した。また、実娘を強姦した罪で服役もしている。
こういった家庭環境で、まともな性意識が育つわけもない。
8歳のとき、彼は近所の野犬捕獲人と仲良くなった。男はキュルテンに「犬をおとなしくさせる術だ」といって、犬に自慰をしてやる行為を教えこんだ。また、動物虐待の現場も、このわずか8歳の少年の目の前で委細かまわず見せつけた。
9歳のとき、彼は最初の殺人を犯した。
13歳から16歳ごろまで、キュルテンはせっせと獣姦にはげんだ。相手は羊や山羊などであるが、交わりながら家畜を刺すと快感が強まることに気づき、以来これが常習となった。また同時期に家出をし、追いはぎをしながら浮浪生活を送ったりもしている。
16歳のとき、鋳型工の見習いになったが、待遇が悪かったので金を盗んで逃げ、売春婦と同棲した。この女はどうやらマゾヒストだったらしく、彼の性的嗜好にまた新たな変化をもたらした。窃盗はすぐにばれ、彼は投獄された。(これが初犯で、以来17犯を重ね、計27年間を監獄の中で送ることになる)
1925年、彼はデュッセルドルフへ帰った。
「デュッセルドルフの恐怖時代」の事実上のはじまりである。この日、彼は夕陽が血のように赤いのを見て、暗示的だと喜んだ。
これから3年間のうち、彼は絞殺未遂4件と、放火14件を起こした。
1929年に入り、「恐怖時代」は完全に幕をあけた。
2月3日、女性が24箇所を刺され、数ヶ月入院するほどの怪我を負わされた。
2月9日、8歳の少女が建築現場で、13箇所を刺された死体となって発見された。性的にいたずらされており、鋏で性器まで刺し貫かれていた。また、石油をかけて焼こうとした形跡があった。
2月13日、45歳の機械工の男性が、同じく鋏で刺し殺された。頭部を含む20箇所を刺されていた。
ここで特筆したいのは、キュルテンの犯行が完全に性的興奮を求めることが動機だったというのに、被害者が老若男女を区別していないことである。キュルテンのサディズムは、もはや「相手かまわず」の域まで達していたのだろう。
1930年5月24日、キュルテンは逮捕された。彼は突進してきた刑事たちに向かってにっこり笑い、抵抗はしないよ、と言った。
冒頭に記したベルク博士はキュルテンに非常に興味を持ち、著書をものにした。彼によると
「わたしはこの自供をとっている速記者の白い喉をわくわくしながら見つめ、それを絞めたいと思いました」
と述べたという。さらに、
「残された最後の望みは、自分の頭が切り落とされ、血しぶきが噴き出す音をこの耳で聴くことです」
とも言ったという。
1931年7月2日、彼は最後の食事を残さずたいらげ、ギロチンで首を落とされた。
最後の瞬間まで、とても愉快そうに見えた、という。
ジェシ・ポメロイ
ジェシ・ポメロイは1859年、11月29日にボストンで生まれた。
ポメロイは赤ん坊の頃から体が弱く、また1歳にもならないうちに患った熱病のため、片目が真白に濁っていた。一説には兎唇でもあったというが、ともかく美しい子供でなかったことは間違いない。大酒飲みで癇癪持ちだった父親は、しばしば彼を、
「醜い、見るのもいやだ」 と言って殴った。 この虐待によりポメロイの肌にはストレス性の湿疹が吹き出し、頭痛と不眠にも悩まされるようになった。
彼には4歳上の兄がいたが、兄もポメロイほどではないがやはり父親に殴られて育っていた。ただポメロイと違うところは、彼には憂さを晴らすためのサンドバッグである「弟」という存在があった。 そしてこれは母親も同様であった。
醜く、おどおどしたポメロイは父母と兄に殴られ、蹴られ、打ちすえられながら育った。 つねに暴力への恐怖にさらされていた彼の体は緊張でこわばり、動作はぎこちなくなり、姿勢は極端に曲がって歪んだ。歩き方は「もつれるよう」だったという。
本来ならばもっとも愛くるしい時期であるはずの4、5歳の時点で、ジェシ・ポメロイは、「片目は真っ白く濁り、ぎくしゃくとロボットのようにしか動けず、肌は湿疹と瘡蓋だらけで、絶えず体の不調を訴える猫背の醜い子供」 であった。
父に殴られている兄と母が、ポメロイをサンドバッグにしたように、彼もやがて自分の怒りの捌け口を見つけるようになる。 それはもちろん自分より弱いものでなくてはならなかった。 5歳のポメロイは猫をナイフで刺し殺し、小鳥の首をひねって殺した。連続殺人者の幼児期によくみられる、典型的な小動物虐待行為である。
シリアル・キラーの特徴としては他に「放火、夜尿症、過度の夢想」などがあるが、彼の場合は動物虐待と夢想癖が顕著であった。彼はひとりの友達もなく、学校をずる休みし、夢想にふけった。 父親はそんな彼を見て激昂し、服を脱がせて、裸にした上で鞭打った。 ポメロイは幾度も家出をした。しかしそのたびに連れ戻され、さらなる激しい折檻を受けた。
12歳のポメロイは、3歳の男児を物陰に誘い込むことに成功した。
彼はそこで男児の服を脱がし、手首を天井の梁へ括りつけて吊るした。男児が恐怖で泣き出すと、ポメロイは人生で初めての充足感を覚えた。 自分より弱いものが今、自分の目の前で、自分に怯えて泣いている。 これこそが彼の求めていたものであった。
ポメロイは男児の裸の背を心ゆくまで棒切れで打ち据え、やがてオーガズムに達すると、逃げ去った。男児は、泣き声を聞きつけた通行人によって助け出されたという。わずか3歳の子供は犯人の特徴を言うこともできず、恐怖に震えるばかりであった。
2ヶ月後、7歳の男児が被害にあった。
前回と同じように天井から吊るしたが、ポメロイは狡猾さを増しており、今回は被害者に猿轡をかませることを忘れなかった。彼は声を発することのできなくなった犠牲の前で有頂天になり、高笑いし、嘲りの言葉を浴びせながら棒切れをふるった。
男児は背中を血が出るほど殴られただけではなく、歯を数本叩き折られた
さらに3ヶ月後。
今度の被害者は8歳の男児であった。
ポメロイは彼を池で溺死させたかったのだが、抵抗にあったので今回も物陰に引きずりこみ、柱に縛り付けた。そして被害者に卑猥な言葉を言うよう強要し、棒切れで所かまわず叩きまくった。 ポメロイは彼を痛めつけながら自慰し、オーガズムに達すると、ただちに興味を失ってその場を去った。
2ヵ月後。
ポメロイはすぐ近隣の7歳の男児を襲った。 すでにもう相手を選んではいられないほど、嗜虐の欲求が高まっていたのである。彼は「ボタンをはずすのももどかしい思いで、男の子の服を引き裂き」、やはりこれまでの被害者と同じように吊るして、打ち据えた。暴行の手口は明らかにエスカレートし、回を重ねるごとに被害者への虐待は苛烈なものとなっていた。
当然のことながら、住居を変えてもポメロイの性癖は変わらなかった。
前の犯行からほぼ1ヶ月後。
彼は7歳の男児を捕まえ、服を脱がせて猿轡をかませ、縛った。今回は殴打するのに棒切れではなく、ベルトのバックルを使った。それはポメロイの父親がやるお気に入りの折檻の手口だった。ポメロイは「これからお前を噛んで、肉を噛み千切ってやる」と言いながら男児の顔や尻に噛み付き、「次はお前に針を刺してやる」と宣言してから、脇の下や腕の内側など、柔らかい部分を狙って縫い針を突き刺しまくった。
犯行の間隔は次第に狭まっていく。
2週間後、彼は6歳の男児を捕まえ拷問した。 ポメロイはこの時はじめてナイフを使い、被害者を切り付け、性器を切り取ろうとした。だが幸いにもそれは成功しなかった。 これで犠牲者は6人。ポメロイはまだ12歳で、孤独で学校嫌いではあったものの、まだ表面的には正常に見えた。
翌週、7歳の男児が捕まえられた。
この男の子は歯を何本か折られ、鼻骨を叩き折られ、ナイフで顔と太腿を切られたという。ポメロイは犯行の間じゅう、ずっと被害者を嘲り、狂ったように高笑いしていた。
6日後。
ポメロイは5歳の男児を線路のポールへ縛りつけ、服を引き裂いた。
彼は男児の顔をナイフで切り付け、流れ出した鮮血によって明らかな興奮状態に陥った。ポメロイは「殺してやる、お前をこれから殺してやる」と言いながら、5才児の喉笛を切り裂こうとしたが、鉄道員に発見されて逃げ出した。
収監後も、彼はやはり嗜虐的な夢想から抜け切ることはできなかったようだ。
隣の房の囚人にせっせとメモを書き送り、「学校ではやっぱり鞭打たれてたかい? 親には殴られた? どんな気持ちがした?」 と執拗に尋ねていたという。
彼は刑務所にいる間、誰とも仲良くならず、誰にも笑顔を見せず、精神状態は悪化の一途をたどるだけだったという。そして老化により体は弱っていく一方だったが、それにも関わらず、「脱走してやる。逃げてやる」と絶えず看守に脅し文句を怒鳴っていた。ポメロイの一生はただ悪意と敵意だけに染まっており、そのまま終わった。
ジェシ・ポメロイが息をひきとったのは1932年9月29日。
73歳の誕生日を目前にしており、死因は心臓発作だった。
思いは複雑です
参考WEB・・http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/
母原病
昭和50年代、『母原病』という本がベストセラーとなった。
子供の身体的・精神的な病気の多くが、母親の普段の態度や躾の仕方によるものだという作品である。誕生から6~7歳ごろまでの子供の生活において、もっとも重要な存在は母親だ。とある精神科医はこう述べた。
「連続殺人者を育てようと思ったら、頭部に重大な損傷を与えるような
毎日の虐待を行ない、性的に混乱させるよう努め、パートナーを次々変えるなどの生活の緊張を強い、愛情や躾などの恩恵をいっさい与えないこと」。
現実の殺人者たちの母親は、ではどういった人物だったのか。
リチャード・チェイス
チェイスは中流家庭の息子として生まれた。素直なやさしい子として育つが、12歳のとき、母親が精神分裂病を発症する。彼女は幻覚や妄想を抱くようになり、夫に対し、浮気をしているだの、麻薬をやっているだの、自分を殺そうとしているなどと言って、
なじるようになった。
しかし発病のせいだけでなく、母親の生来の性格も愛情深いものではなかったようだ。チェイスの母親を面接した精神科医は、「ミセス・チェイスは精神病患者の母親によく見られるタイプで、きわめて攻撃的、人に敵意を抱いており、挑発的」と診断した。両親のいさかいは10年以上つづき、その後2人は離婚し、父親は再婚した。
10代なかばで、チェイスは精神病発症のきざしを見せはじめる。また、異性とうまく接触できなかったことから、アルコールと麻薬に手を出すようにもなった。
20歳前後から彼の症状は悪化した。彼は自分の心臓が定期的に鼓動を止める、肺が盗まれた、からだがばらばらに崩れ落ちる、などと周囲に訴えはじめ、ある日ウサギの血を飲んで中毒症状に陥り、そのまま精神病院送りになった。
チェイスは病院でも小鳥の頭を食いちぎって血をすするなどの奇行をみせたが、1年で母親は彼を無理に退院させてしまう。退院後、彼は犬や猫を裂いて血を浴びはじめる。血を飲まなければ、彼は自分の体内の血液がいずれ枯渇してしまうと信じていた。そして対象はどんどん大きくなりはじめる。犬猫から牛へ、そして人間へと。
彼はひとりの男性を射殺し、1ヵ月後、一家惨殺をはたらいた。
彼は独房で、抗鬱剤を大量に飲んで自殺した。
アーサー・ショウクロス
彼が10歳になる以前に、彼の両親の間には決定的な亀裂が生じていた。彼は両親にとって、「自分を家庭につなぎとめる厄介者」でしかなかった。そしてそれを2人とも、露骨に態度にあらわした。ある日少年ショウクロスは、精神異常者とおぼしき男にトラックに乗せられ、レイプされた。彼は傷つき、出血した体をひきずって家まで帰った。ぼろぼろになった息子の姿を見ても母親は眉ひとつ動かさなかった。
少年は言った。「ママ、ぼく、ひどいことされたんだ」
すると母親はこう答えた。「そうね。おまえを見たら誰だってムカつくだろうからね」。彼女は振り向きもしなかった。
脳障害
連続殺人者に、事故や虐待等で脳に損傷を負った人々が多いというのは余りにも有名な話だ。だがもちろん頭を打ったすべての人々が殺人を犯すわけではない。また、過去に虐待を受けたほとんどの人は、今犯罪とは関係なくまっとうに生活しているはずだ。
では一体、「境目」は何処にあるのだろうか?
リチャード・スペック
<看護婦寮に押し入り、8人の女性を殺害した男。連続殺人者ではなく、大量殺人者のカテゴリーに入る。
懲役400~1200年の刑を宣告された。>
彼は6歳のとき、釘抜きで頭を強打し、失神した。木から落ちて1時間半も意識不明だったこともある(そのときは泡を吹いてひきつけを起こしていたらしい)。
また15歳のときには、日除けの鉄柱に激突し、鉄柱の先端が頭蓋骨にめり込んだ。
父親と言い争いになり、激昂して自分の頭を何度もハンマーで殴りつけたこともあったという。親を殴ればいいのに、とは思うがそれができる程度ならそもそも抑圧とは呼べまい。さらにはバーで喧嘩をし、頭部を負傷した。
知能は低かったようだ。コリン・ウィルソンによると穏やかな性格らしいが、ロバート・レスラーの言によれば態度が悪くて凶暴らしい。
知能に関しては染色体異常も関係しているかもしれない。彼は男性遺伝子であるY染色体が平常人より一本多い「XYY症候群患者」だったという説があり、
これが攻撃性を誘発したのではないか、とも言われている。なお染色体異常は、知恵遅れになりやすい傾向にもある。
ヘンリー・リー・ルーカス
「360人殺しのヘンリー」として超有名な殺人者。ただしすべてにおいて立件できたわけではない。また“FBIに協力する死刑囚”という、ハニバル・レクター博士のモデルであることでも広く知られている。宣告された刑は、死刑1回、終身刑6回、加えて懲役刑は210年分。」
売春婦だった彼の母親は、日常的に彼に暴力をふるっていた。
ほうきの柄や棒きれなど、何でも手当たり次第掴んで殴りつけたらしい。靴ヒモを結ぶのが遅い、という理由で、2×4の角材で後頭部を思い切り殴りつけられたこともあったという。その打撃で3日ほど彼は意識不明の重体に陥り、怖くなった母親の愛人が病院に運んだ。母親は梯子から落ちたと医師に説明したらしい。
有罪判決がおりたのち、彼はCTスキャンとMRI検査を受けたが、脳の損傷範囲はあまりにも広大だったようだ。そして勿論、カールトン・ゲーリーと同様、慢性の栄養失調であった。また、長じてからのアルコールとドラッグの乱用、さらにカドミウム中毒が脳損傷に拍車をかけたと考えられている。知能は厳密な意味で言えば高いとは言えないだろうが、驚くほどカンが良く、相手がなにを言ってほしいかを察知する能力が肥大しているようで、供述調書をとった担当捜査官はかなり振り回されたようだ。
母親のヴァイオラはありとあらゆる変態行為をよろこんで請け負うことで有名な売春婦で、12歳のときからこの稼業をやっており、ルーカスは彼女にとって11番目の子であった。彼女は非常に商売熱心な女で、ルーカスが生まれる直前まで「妊婦の腹を蹴りとばしてみたいサド男」を募集していたし、新たな子供が生まれて、それがもし女の子だったら母娘で共稼ぎするつもりで、「娘が生まれたらよろしくね。ふたりでいっぱいサーヴィスするわ」などと顔見知りにふれまわっていた。
だが期待に反して、子供は男の子だった。
父が彼につけた名はヘンリー。しかしヴァイオラはその子を「ヘンリエッタ」と呼び、女児用の産着を着せた。その子は男の子だ、よせよ、と諌める夫に対して、ヴァイオラはこう吐き捨てた。「役立たずの男はあんただけで充分だよ」と。
ヴァイオラはロリコンの傾向がある客をとって、ルーカスに女の子の格好をさせたまま、その光景を見ているよう強制した。ルーカスは髪を伸ばしてカールさせられ、ドレスを着せられて学校へ行かされた。ただし、足は裸足のままだった。
またヴァイオラは夫に向かっても、「せめて足でもありゃ、あんたにも女装させて客をとってやれるんだが」
だがそんなルーカスの人生で、救いの手をさしのべてくれた人が3人いる。
そのうちの2人は小学校教師で、彼の家庭環境に同情し、ルーカスの髪を男の子らしくカットしてくれ、ズボンを買ってくれた。また生まれてはじめて彼に、「あたたかい食事」というものをふるまった人物でもあった。ルーカスは生まれてからというものずっと慢性の栄養失調で、父親といっしょに残飯をあさって飢えをしのぐことも珍しくなかった。ヴァイオラはこの2人の出現に激怒し、パニック状態に陥った。
ヴァイオラは少年の頭を2×4の角材で殴りつけた。一撃でルーカスは昏倒したが、激昂した彼女はなおも我が子を殴りつづけた。頭皮が半分ほど剥け、頭蓋骨が割れた。ヴァイオラは彼を戸外に叩きだすと、酔っ払って寝てしまった。
それから3日以上彼は昏睡し、こわくなったヴァイオラのボーイフレンドがついに彼を病院に運んだ。ヴァイオラは医師に「梯子から落ちた」と説明した。
この負傷以来、しばしばルーカスは癲癇や失神の発作を起こすようになる。
そんなある日、3人目の救いの手があらわれた。ルーカスが8歳になったとき、雪道を裸足で歩く少年に仰天したトラック運転手が、彼を助手席に乗せ、靴と靴下を買ってくれたのだ。ルーカスは礼を言って彼と別れた。ヴァイオラは靴をはいて帰ってきた息子を見て激怒した。「靴なんか買ってもらって、この馬鹿。なんで現金をもらってこないんだよ」その日、ルーカスは気絶するまで殴られた。数日後、その運転手が妻と共にルーカス家を訪ねてきた。子供がいないので、よかったらルーカスを養子に欲しい、というのである。しかしヴァイオラは、「てめえらの股ぐらが役たたずだからって、あたしになんの関係があるのさ。おばちゃん、ほら見な、これがまともな女のもんってやつさ」そう言ってスカートをめくりあげ、下着をおろして見せた。
夫婦は蒼白になって逃げ帰った。後年ヘンリーはこう語る。
「おふくろは、完全なきちがいだった」。
ヘンリー・リー・ルーカスには誰に愛されることも、なにものかを愛することも許されなかった。
彼ははじめミシガン刑務所に護送されたが、自殺を繰りかえし、頭の中で「母親の声が聞こえる」と言って苦悩した。ルーカスはイオニア州立病院へ移送され、「典型的な、萎縮させられた人間」というレッテルを貼られる。「自信、独立心、自尊心、意志力のすべてがいちじるしく不足した人間」であると。
ルーカスは釈放されることを一度も望まなかった。
ルーカスはのちにこう述べている。
「人生のすべてがいやでたまらなかった。あらゆる人間が憎かった。なにもかもだ。俺は敵意の塊だった。好きなものなんか何ひとつなかった」
「切り刻んだし、吊るしたし、轢き殺したし、刺して、殴って……溺死もさせたし、あとえーと、磔(はりつけ)にしたこともあったっけ。魚みたいにおろして切り身にもしてやったよ。焼き殺したし、撃ち殺したし、あともちろん絞め殺したしね」
逮捕後から判決後にかけて臨床的に調べてみたところ、ルーカスは長年の虐待により脳の神経系統に広範囲の損傷を受けており、前頭葉と側頭葉、脳下部にも傷が認められた。また大脳にも異常が見受けられた。血液中からは、健常人の数値をはるかに超えるカドミウムと鉛が検出。また幼い頃からまともな食事を与えられなかったがゆえの慢性の栄養失調が、脳組織の発育をずっと妨げてきたに違いなかった。
彼が今まで毎日摂取してきたものはといえば、アルコールとドラッグとニコチンくらいのもので、血糖値は異様に高く、慢性のビタミン不足であり、それらは脳神経を覿面に蝕んだ。
この独房の中で、彼がいくらかの人間的発達を見せたとしても、それが完全となることはないだろう。彼にはもはや、他人への感情移入という機能はまったく失われており、回復する見込みはない。彼は心理学者に向かって、こう述べている。
「人間? うん、それは俺にとって何でもなかった。ただの、白紙だった」。
アンドレイ・チカチーロ
「ロシアの死神」こと53人殺し。
母親の妊娠中、胎内で何らかのトラブルがあったとみられる、先天性の脳障害。当時のロシア全土を覆っていた重篤な飢饉も関係していたかもしれない。
脳波に異常があり、水頭症の兆候が見られ、左右の瞳孔の大きさも違っていた。また12歳になるまで排尿のコントロールができなかった。
ホルモン異常による乳房の発達もあったという。(ちなみにボビー・ジョー・ロングも同じような遺伝性の異常を抱えており、十代はじめのとき、手術で胸から6ポンドほどの組織を除去した。1ポンド=453グラムで計算して下さい)
知能は正常値だが物覚えが悪かった。職業は教師。
チャールズ・マンソン
「殺人カルト教祖様」の元祖。
典型的な崩壊家庭の落とし子である。父親の顔を知らぬ私生児として生まれ、親の自覚のない母親に親戚間をたらいまわしにされて育ったが、ある日施設に置き去りにされる。彼はしばらくして施設を飛び出し、生きるために窃盗を働いた。14歳で少年院へ送られたマンソンはそこで看守の虐待に会う。性的暴行と肉体的暴行の両方である。1年も経たないうち、毎日の殴打による頭部損傷の影響が、体のチックや顔面麻痺となって現われはじめた。さらに出所したのちの、60年代のヒッピー・ブームによって常用したLSDが脳の中枢神経に打撃を与えた。彼はまた精神病の兆候も示していたが、そのすべてが、側頭葉に損傷のある人間特有の症状だったという。
知能はかなり高かったようだ。カリスマ性があり、音楽的才能もあった。
アルバート・フィッシュ
アルバート・フィッシュは5歳のとき、父の死によって孤児となり、施設にあずけられた。そこでの戒律は厳しいもので、些細なことで子供たちは鞭でぶたれた。
のちにフィッシュは「惨めさと苦痛は、犯罪のよい肥やしになる」と捜査員に語っているが、彼はここで鞭打ちの苦痛と屈辱を、性的な快感にすり替えるすべをすでに身につけている。虐待を受けたが、ティーンエイジャーで自殺もせず生き延びた者を、アメリカでは「生存者(サヴァイヴァー)」と呼んでいる。
意外なことに、そのうちには多重人格者も含まれる。
さらに12歳のとき、彼は年長の電報配達夫と性的な関係を持った。
相手も未成年ではあったものの、それはいささか性的虐待に近いものであった。
だがフィッシュはすぐにそれに惑溺した。
その青年は、すでにマゾヒストであったフィッシュに、
相互サディズムのやり方と、スカトロジーを混じえた性行為を教えこんだ。
この関係は数年つづいた。
しかし、14,5歳になるまでフィッシュがまともな性的環境に一度も置かれたことがないというのは、やはり当時の社会状況をさしひいてさえも驚くべきことである。
だが彼はこれらのすべてを「受け入れ、順応」することで適応していった。
フィッシュは精神的にひどく、タフだったのだ。
だが彼にも最後のチャンスが――まともな愛情をはぐくむ人間になれるかもしれない最後の機会が訪れた。結婚である。彼は塗装工の仕事をしながら、この妻との間に3人の子供をもうけた。が、結婚19年目にしてこの夫婦関係は破綻する。きっかけは妻の浮気であった。彼女は近所の精神薄弱の男と駆け落ちし、数日後帰ってきた。それだけならまだしも、「このひとと一緒にここで住ませてほしいんだけど」
と彼女は言ったのだ。済んだことは水に流してやってもいい、だがそれは無理だ、とフィッシュは至極まっとうなことを妻に告げた。妻はしぶしぶながらそれに同意し、愛人と別れると約束した。が数日後、フィッシュは信じられない光景を目にすることになる。追い出したはずの精薄の男がまだ彼の家にいて、彼の妻と抱きあっていたのだ。
じつは妻は彼に内緒で、その低脳の従順な愛人を屋根裏部屋に住まわせ、こっそり食事を運びながら情事にふけっていたのである。
この事実はフィッシュを打ちのめした。その上2人は駆け落ち費用としてフィッシュ家にあった家財道具のすべてを持ち出し、売り払って出ていった。
彼のもともと不安定だった精神が、完全に均衡を失いはじめるのは、この瞬間からである。
フィッシュは自分で自分を痛めつけることを好んだ。釘を植えたパドルで自分の全身を叩いたり、真っ赤に焼けた金梃子を押し付けたりもした。
彼はあいかわらず塗装工だったが、ペンキを塗っている間はオーバーオールの下になにも着けず、幼い少年が通ると「前をはだけて見せる」などという典型的な露出行為にも励んでいたようだ。また、家に遊びに来た息子の友達に、鋲を打ちつけた板を手渡し、ズボンを脱いで四つんばいになると、その裸の尻を血が出るまで殴ってもらった。しかし長ずるにつれ息子たちはこれを嫌がったので、彼はまた自傷行為に戻った。
彼のあみだした自傷行為の中でもっとも有名なものは、陰嚢に針を突き刺すこと(彼の骨盤周辺を撮ったレントゲンは、彼を紹介した著作にはたいてい掲載されている。そこには錆びた針が太いのも細いのも、折れたのも腐食しかけたのも混じって、27本映っている)と、直腸にアルコールをひたした綿布を詰め込み、火をつけて、体内が燃える感覚に身悶えることだった。
フィッシュは警察で、400人の子供を殺したと供述した。この数字にはなんの根拠もなく、誇張ととらえるよりほかない。だが少なくとも数十人の子供を殺したことはあきらかで、性的暴行を加えた子供の数は100人をくだらないはずだった。
彼が犯行をおかしていた期間は約25年間だが、その間軽犯罪以外の罪に問われたことは一度もない。穏やかな容貌も上品な立ち居ふるまいも、すべてが彼にとって有利だった。
犯行はあまりに歴然としていたので、裁判の論点はただひとつ、彼が狂気であるかどうかだけだった。フィッシュの強靭な精神は自殺を拒み、すべての苦痛を快楽としてとられることで永らえてきた。だがその代償として精神の均衡を失っているのは誰の目にも明らかだった。
記者に囲まれたフィッシュは、電気椅子送りになることについて、
「最高のスリルだ。――いままで試したことのない、唯一最大のスリルだ」
と述べた。これはキュルテンの「自分の首が切断されるときの、その血の噴き出る音を是非とも聞きたい」という言に共通するところのある台詞だと言えよう。
彼は65歳という高齢ながら、1936年、電気椅子に座らされた。
アルバート・フィッシュは最期の食事としてTボーンステーキを残さずたいらげ、処刑場へ向かった。
彼の最期の言葉は、
「なんでまた私は、こんなとこにいるのかねぇ」
というものだった、という。
ペーター・キュルテン
ペーター・キュルテンは「ジャック・ザ・リパー」と並ぶ、19世紀を代表する殺人者である。ただしジャックが「謎」であるがゆえに伝説となったのとは対照的に、彼の場合はベルク博士という犯罪研究家によって、心の深奥を分析されたという点でほとんど初めての殺人者だからだ。その研究ゆえに、われわれはキュルテンという人物について知ることができる。それはおそらく彼のほんとうの姿の、半分にも満たないものでしかないだろうが。
キュルテンは1883年、ケルンミュルハイムで生まれた。
父親は鋳型職人だったが、粗暴で、虚言癖があり、アル中であったため稼ぎはほとんどなく、(この父方の血統には、アル中や精神病者が多かった。祖父は窃盗癖があった)また子だくさんで11人もの子供がいたため、一家は極貧状態だった。
この父親は精力過剰だったらしく、子供の目の前であろうとおかまいなしに、しばしば妻を犯した。また、実娘を強姦した罪で服役もしている。
こういった家庭環境で、まともな性意識が育つわけもない。
8歳のとき、彼は近所の野犬捕獲人と仲良くなった。男はキュルテンに「犬をおとなしくさせる術だ」といって、犬に自慰をしてやる行為を教えこんだ。また、動物虐待の現場も、このわずか8歳の少年の目の前で委細かまわず見せつけた。
9歳のとき、彼は最初の殺人を犯した。
13歳から16歳ごろまで、キュルテンはせっせと獣姦にはげんだ。相手は羊や山羊などであるが、交わりながら家畜を刺すと快感が強まることに気づき、以来これが常習となった。また同時期に家出をし、追いはぎをしながら浮浪生活を送ったりもしている。
16歳のとき、鋳型工の見習いになったが、待遇が悪かったので金を盗んで逃げ、売春婦と同棲した。この女はどうやらマゾヒストだったらしく、彼の性的嗜好にまた新たな変化をもたらした。窃盗はすぐにばれ、彼は投獄された。(これが初犯で、以来17犯を重ね、計27年間を監獄の中で送ることになる)
1925年、彼はデュッセルドルフへ帰った。
「デュッセルドルフの恐怖時代」の事実上のはじまりである。この日、彼は夕陽が血のように赤いのを見て、暗示的だと喜んだ。
これから3年間のうち、彼は絞殺未遂4件と、放火14件を起こした。
1929年に入り、「恐怖時代」は完全に幕をあけた。
2月3日、女性が24箇所を刺され、数ヶ月入院するほどの怪我を負わされた。
2月9日、8歳の少女が建築現場で、13箇所を刺された死体となって発見された。性的にいたずらされており、鋏で性器まで刺し貫かれていた。また、石油をかけて焼こうとした形跡があった。
2月13日、45歳の機械工の男性が、同じく鋏で刺し殺された。頭部を含む20箇所を刺されていた。
ここで特筆したいのは、キュルテンの犯行が完全に性的興奮を求めることが動機だったというのに、被害者が老若男女を区別していないことである。キュルテンのサディズムは、もはや「相手かまわず」の域まで達していたのだろう。
1930年5月24日、キュルテンは逮捕された。彼は突進してきた刑事たちに向かってにっこり笑い、抵抗はしないよ、と言った。
冒頭に記したベルク博士はキュルテンに非常に興味を持ち、著書をものにした。彼によると
「わたしはこの自供をとっている速記者の白い喉をわくわくしながら見つめ、それを絞めたいと思いました」
と述べたという。さらに、
「残された最後の望みは、自分の頭が切り落とされ、血しぶきが噴き出す音をこの耳で聴くことです」
とも言ったという。
1931年7月2日、彼は最後の食事を残さずたいらげ、ギロチンで首を落とされた。
最後の瞬間まで、とても愉快そうに見えた、という。
ジェシ・ポメロイ
ジェシ・ポメロイは1859年、11月29日にボストンで生まれた。
ポメロイは赤ん坊の頃から体が弱く、また1歳にもならないうちに患った熱病のため、片目が真白に濁っていた。一説には兎唇でもあったというが、ともかく美しい子供でなかったことは間違いない。大酒飲みで癇癪持ちだった父親は、しばしば彼を、
「醜い、見るのもいやだ」 と言って殴った。 この虐待によりポメロイの肌にはストレス性の湿疹が吹き出し、頭痛と不眠にも悩まされるようになった。
彼には4歳上の兄がいたが、兄もポメロイほどではないがやはり父親に殴られて育っていた。ただポメロイと違うところは、彼には憂さを晴らすためのサンドバッグである「弟」という存在があった。 そしてこれは母親も同様であった。
醜く、おどおどしたポメロイは父母と兄に殴られ、蹴られ、打ちすえられながら育った。 つねに暴力への恐怖にさらされていた彼の体は緊張でこわばり、動作はぎこちなくなり、姿勢は極端に曲がって歪んだ。歩き方は「もつれるよう」だったという。
本来ならばもっとも愛くるしい時期であるはずの4、5歳の時点で、ジェシ・ポメロイは、「片目は真っ白く濁り、ぎくしゃくとロボットのようにしか動けず、肌は湿疹と瘡蓋だらけで、絶えず体の不調を訴える猫背の醜い子供」 であった。
父に殴られている兄と母が、ポメロイをサンドバッグにしたように、彼もやがて自分の怒りの捌け口を見つけるようになる。 それはもちろん自分より弱いものでなくてはならなかった。 5歳のポメロイは猫をナイフで刺し殺し、小鳥の首をひねって殺した。連続殺人者の幼児期によくみられる、典型的な小動物虐待行為である。
シリアル・キラーの特徴としては他に「放火、夜尿症、過度の夢想」などがあるが、彼の場合は動物虐待と夢想癖が顕著であった。彼はひとりの友達もなく、学校をずる休みし、夢想にふけった。 父親はそんな彼を見て激昂し、服を脱がせて、裸にした上で鞭打った。 ポメロイは幾度も家出をした。しかしそのたびに連れ戻され、さらなる激しい折檻を受けた。
12歳のポメロイは、3歳の男児を物陰に誘い込むことに成功した。
彼はそこで男児の服を脱がし、手首を天井の梁へ括りつけて吊るした。男児が恐怖で泣き出すと、ポメロイは人生で初めての充足感を覚えた。 自分より弱いものが今、自分の目の前で、自分に怯えて泣いている。 これこそが彼の求めていたものであった。
ポメロイは男児の裸の背を心ゆくまで棒切れで打ち据え、やがてオーガズムに達すると、逃げ去った。男児は、泣き声を聞きつけた通行人によって助け出されたという。わずか3歳の子供は犯人の特徴を言うこともできず、恐怖に震えるばかりであった。
2ヶ月後、7歳の男児が被害にあった。
前回と同じように天井から吊るしたが、ポメロイは狡猾さを増しており、今回は被害者に猿轡をかませることを忘れなかった。彼は声を発することのできなくなった犠牲の前で有頂天になり、高笑いし、嘲りの言葉を浴びせながら棒切れをふるった。
男児は背中を血が出るほど殴られただけではなく、歯を数本叩き折られた
さらに3ヶ月後。
今度の被害者は8歳の男児であった。
ポメロイは彼を池で溺死させたかったのだが、抵抗にあったので今回も物陰に引きずりこみ、柱に縛り付けた。そして被害者に卑猥な言葉を言うよう強要し、棒切れで所かまわず叩きまくった。 ポメロイは彼を痛めつけながら自慰し、オーガズムに達すると、ただちに興味を失ってその場を去った。
2ヵ月後。
ポメロイはすぐ近隣の7歳の男児を襲った。 すでにもう相手を選んではいられないほど、嗜虐の欲求が高まっていたのである。彼は「ボタンをはずすのももどかしい思いで、男の子の服を引き裂き」、やはりこれまでの被害者と同じように吊るして、打ち据えた。暴行の手口は明らかにエスカレートし、回を重ねるごとに被害者への虐待は苛烈なものとなっていた。
当然のことながら、住居を変えてもポメロイの性癖は変わらなかった。
前の犯行からほぼ1ヶ月後。
彼は7歳の男児を捕まえ、服を脱がせて猿轡をかませ、縛った。今回は殴打するのに棒切れではなく、ベルトのバックルを使った。それはポメロイの父親がやるお気に入りの折檻の手口だった。ポメロイは「これからお前を噛んで、肉を噛み千切ってやる」と言いながら男児の顔や尻に噛み付き、「次はお前に針を刺してやる」と宣言してから、脇の下や腕の内側など、柔らかい部分を狙って縫い針を突き刺しまくった。
犯行の間隔は次第に狭まっていく。
2週間後、彼は6歳の男児を捕まえ拷問した。 ポメロイはこの時はじめてナイフを使い、被害者を切り付け、性器を切り取ろうとした。だが幸いにもそれは成功しなかった。 これで犠牲者は6人。ポメロイはまだ12歳で、孤独で学校嫌いではあったものの、まだ表面的には正常に見えた。
翌週、7歳の男児が捕まえられた。
この男の子は歯を何本か折られ、鼻骨を叩き折られ、ナイフで顔と太腿を切られたという。ポメロイは犯行の間じゅう、ずっと被害者を嘲り、狂ったように高笑いしていた。
6日後。
ポメロイは5歳の男児を線路のポールへ縛りつけ、服を引き裂いた。
彼は男児の顔をナイフで切り付け、流れ出した鮮血によって明らかな興奮状態に陥った。ポメロイは「殺してやる、お前をこれから殺してやる」と言いながら、5才児の喉笛を切り裂こうとしたが、鉄道員に発見されて逃げ出した。
収監後も、彼はやはり嗜虐的な夢想から抜け切ることはできなかったようだ。
隣の房の囚人にせっせとメモを書き送り、「学校ではやっぱり鞭打たれてたかい? 親には殴られた? どんな気持ちがした?」 と執拗に尋ねていたという。
彼は刑務所にいる間、誰とも仲良くならず、誰にも笑顔を見せず、精神状態は悪化の一途をたどるだけだったという。そして老化により体は弱っていく一方だったが、それにも関わらず、「脱走してやる。逃げてやる」と絶えず看守に脅し文句を怒鳴っていた。ポメロイの一生はただ悪意と敵意だけに染まっており、そのまま終わった。
ジェシ・ポメロイが息をひきとったのは1932年9月29日。
73歳の誕生日を目前にしており、死因は心臓発作だった。