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コロナ渦での普通の死 #3

2021-06-19 18:22:18 | 日記

そうそう、Mさんの話は、「戦争の終わり頃、儂は万里の長城の守備を中隊でしていた。ところ

が突然帰国せよとの命令が出て、日本に帰った。今度は皇居の警護にあたれとのことで、二重橋の警護をしていた。

そしたら突然『戦争は終わった。故郷に帰れ』との命令が出た。そのまま東京駅に行き、列車に乗り、名古屋に着き、駅からは歩いた。途中、トラックに乗せてもらいながらして家に帰った」この話は格別省略した訳ではなく、3度ほど一気呵成に聞いたが話は同じだった。でも、毎回ビデオを見るようなリアルな感じだった。

でも、これでMさんが”2度目の海外旅行”に万里の長城へ行きたがっていた気持ちが解るような気がした。でも、この旅行で奥さんは雪で滑り腰を打ちかなり長い間寝込み、Mさんより15年ほど前に亡くなっていた。


4月始め早すぎる今年の桜が盛りを過ぎようとしていた頃、知り合いのAくんの奥さんのお父さん(Nさん)が亡くなった。どんどん腎臓が悪くなり、入院している内に、コロナが流行り、退院も出来ず、結局家族との面会も出来なくなり、病室で、スマフォで電話を大声でかけまくり看護師さんに叱られていたらしい。

結局Nさんと奥さんとの最後の対面は、総合病院から腎臓の専門病院に奥さんが車で送って行く間だけだったらしい。葬儀は10人だったそうで、別れの曲は「愛燦々」だったそうだ。享年77歳。


5月の連休の最中、従兄弟③から「従兄弟②がとうとうなくなった。通夜、葬儀は、…」の連絡があった。食道癌の手術以来この数年何度も最期、最期と従兄弟③が言いながら奇跡的に生き延びてきた人だ。それなりの社会的地位を築いてきた人で、全然暈けず、家族、従兄弟はスマフォで呼びつけられ、介護は大変だったらしい。3月末、桜が真っ盛りの時、従兄弟4人が集まったときも脳は全く元気だった。でも、同じ話を3度していた。葬儀は親族40人ほどであった。享年92歳。


連休最後の日、道路際の花壇の手入れをしていたら、マスクをしているが見覚えのある顔が東の方から近づいてきた。会釈をして見過ごすことも出来たが思い切って「Nさん?」と聞くと、「Bさん?」ときた。「そうです。今日は散歩ですか?」「まー、結構ここらはいつも歩いているんだわ」「家から1kmはあるでしょ」「歩くのは全然苦にならんのだわ。歩いていると何処までもいっちゃうのだわ」「凄いですね。そういえばこの間、Mさんが亡くなりましたが…」「うん、あれは儂より2つ下なんだわ」「てことあなたは大正生まれですか?」「そう。大正生まれは減ったなー」「そしたらこの村の最年長者ですか」「そうなるかなー」と。

偶々その日は珍しく家族総出で狭い花壇をいじっているのを見て、「ええ、家族を持たっせーたねー。まー、はよ死にたいわ」と、スタスタと西の方へ向かって行った。

この人の顔も名前も知ってはいたが、口をきいたのは初めてだった。が、彼こそここらで知る人は知る、いや、知らない人はいないという、とは言え、私はつい最近まで全く知らなかったのだが、何とも艶っぽい話で名をはせた人らしいのだ。確かに上背はあるし、顔は良いし、短い会話だったが、話しっぷりからも頭も良さが出ている。


コロナ渦での普通の死 #2

2021-06-19 18:21:50 | 日記

「ほりゃーなー、まー、そのころ、儂の隊は呉にいたんが、下関の方でけが人が多く、人手がいると言うことで、救援に向かえと言うことで、大きくもない船何隻かで出航した。

しばらくしたら『広島に新型爆弾が落ちて、死人、けが人がたくさん出ているらしい、直ぐに救助に向かえ』と言う命令が入り、広島の方へ向かうと、湾の奥の方の市街地方面から煙がモウモウと上っており、段々と人の焼ける臭いがしてきた。とにかく上陸したが、灼けた死人が延々と横たわっており、手当をするなってもんじゃない。まずは、遺体をどけて、通り道をつくることだった。…」と。

 その続きもあったのだろうが、話はそこまでしか覚えて居ない。

 数年後、市の最高齢者にはなれなかったようだが、おとなしく、療養施設で109歳で亡くなった。葬儀は神道であった。


今年になって亡くなったMさんは、我が家から東へ並びの4軒目で、農家らしく道路に面したガラス張りの4間(けん)以上の廊下のある平屋の住人で、毎日、背もたれ椅子に座って、新聞を開いたり、本を読んでいたりした。長らくこの自治区の長老だった。前を車で通る度に、「おお、今日も元気じゃん」と見ていた。

一度寄ってみようとかなと思っていたが、昨年(2020年)夏くらいから新聞も見ていなし、動くことなく座っていて、「こりゃーもうあかんじゃないか」と思いながらも、なおかつ、通り過ぎていたが、秋になって、本当にあまりに動かなくなり、ヒッチコッコクのサイコの中の「母親」的雰囲気を醸しており、生きてるのかしらと思ってはいたが、夕方にはいなくなっているのでサイコではなさそうだがとは思いつつ、庭に車を入れてみた。


縁側のガラス窓を「とん、とん」と叩くと、フーッと顔を向けて、目の焦点が合うのに少し時間がかって、数瞬を置いて、”オオー(知っとる人間じゃん)”といった感じで目の輝きが変わり、ガラス戸の鍵を開けてくれた。私は、何度も、私の名前を告げたが、もうそれはどうでも良いようで、「わしゃー、もうじき百歳になる。わしゃー、もうじき百歳になる。…」を繰り返す。

「うん、うん」と頷きながら、Mさんは"生けるミイラ”かと思って居たが、そうではなかった。が、話は進まない。で、そういえば、この世代の記憶のハイライトは良くも悪くも「戦争」だと介護施設の人から聞いていていたので、彼の”100歳”への思いを少し置いてもらって「戦争はどうだった」と、聞いてみた。

そしたら、堰を切ったように「終戦の頃儂は、………」と本当に、小学生の高学年の良く出来た日記のように、日時、場所、登場人物の具体名も入れて話し始めた。恐らく家族にはもう何度も、何度も話したた話だろう。ストーリー実に具体的では私にはビデオを見るような気がした。

私も3度”お話しビデオ”を聞いた。4度目に入った時に、私も「わかった。わかった、また、来るでね」を何度も繰り返し、去った。車の運転を始めてしばらくして、話の大筋は覚えているが、細部は既に全く性格に記憶に残っていない事に気づき、近いうちにビデオを持って行こうと思った。


21年3月始め、Mさんの訃報を聞いたと、言うより、隣組への「訃報投げ込みレター」を読んだ。この文が、隣組に「来て欲しいような、そうでないような」内容なので、まずは翌日、午前、隣組の一員として、お悔やみに行った。焼香の後、喪主に、昨年の話をしたら、「ありがとう。ありがとう。よう聞いてくれたねー。あの話が大好きで、集まるといつもしていたんだは。」と、涙ぐんだ。「で、百歳になったの」「ほんとは94歳。あの年になると大体が100歳になっちゃうらしんだわ」。

急に改まって会葬お礼のような物言いに変わった。終わって、「なに、これ喪主挨拶の練習」といったら、笑いながら、「そう、判る」「まーね」「これで良いかしら」「うん、良いんじゃないの。で、隣組は来た方が良いの、来なくて良いの」と聞いたら、「親戚だけでも40人以上もあるから葬儀をしないわけにも行かず、…」「そこに隣組が入ったら大変だね」。

その後、隣組は自由参加になったようだが、結局、行かなくても良いと言う話になったようだ。


コロナ渦での普通の死 #1

2021-06-19 18:21:18 | 日記

美術館の帰りに息子達がお店に寄っている間、駐車場で待っていたら、赤い靴を履いた2,3の女の子がお店のドアを開けて、出てきた。マスクがずれたのが気になったのか、少し引っ張ってポンとやったら、今度は少し上えすぎて目に被ってしまった。素早くもう一度ポンとやったら今度は顎に行ってしまった。3度目でちょうど口鼻の位置に止まった。このシーンがいつまでも目と脳に残っている。これからの子どもは大変だなー。


書き始めたはずの下書きが見当たらなくなってしまったので、まー、書くのは止せ、と言うことなのかも知れないか、と、思いつつも、今年に入って私の身近で、と言うより、顔を知っていて、口も結構きいたことのある人が、3人亡くなってしまった。…この記事はこちらに移りました。