畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

質疑応答(5)

2011年09月14日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
1.「あきらめ」と「満足」についてお話ください。
2.本当の心の安らぎについて。
3.先生の生活態度について。
答え
1.ふつうに言うあきらめは、いいかげんなところで妥協するということ、仏法でいうあきらめは、事実を明らかにすることです。その事実を明らかにみるところに満足が与えられるということであります。
今日の話からすると、依他起性、縁起、これが現実、ありのままのすがたであるということをはっきりさせる、そういうことが、仏法でいうあきらめということです。
2.自分が「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」だというところに腰を落ちつけておりますと、どんなことでもひきうけていける、ここに安らぎがあるのです。
3.それで私は日常どういうことをしておるかということでございますが、これはまいりましたね、ろくなことをしておりませんから。仏法は、話の筋をいくら覚えてもだめなことで、日常の生活の中に生きてはたらくものでなければだめなものだと私は思っております。無学文盲の人の中にでも仏法の生きている人がいる。仏法は語羅連でもよい、体で生きておるということがいちばん大切です。
終わり
(昭和49年6月9日 一宮勤労会館「一宮親鸞に聞く会」講演による米沢英雄『広き門より入れよ』86~90p)

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1.「人間の意識構造」(8月31日)を参照。
依他起性と縁によってもろもろは存在、変化していくのに、人間はそれを自分の目でとらえて、はからい、分別し、固執(偏計所執)していく。そのことに気がつくのを円成実性。
2.「罪悪深重煩悩熾盛」と歎異抄の一節で言っていただくと立派すぎておそれ多くて。‥「うぬぼれ」とか「高上がりもん」とかの方がぴたっときますね、自分には。
そのうぬぼれも徹底しているから、いつまで経っても安らぎがないんだな。
3.わたしは筋を覚えるのが得意だな。
米沢先生の講演の要約、これで終わります。

質疑応答(4)続

2011年09月13日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
私は富山の高岡で青年を前にお話ししたことがあります。終わってから、応接室へ、娘さんがお茶とお菓子を持ってこられた。それで、
「さきほど真実の自己いう話をされましたが、自分にも真実の自己があるのでしょうか」おたずねになった。それで、「あなたにもあります」ということで、たとえば、あなたがどこかにお客になっていく。そこで生まれて初めて食べるような美味しいお菓子をだされたとする。一口食べてみたらとても美味しかった。そうすると、あなたはそれを持って帰ってお母さんに食べさせてあげたとするわけです。お母さんにあげれば自分のが減る。しかしお母さんが喜んでくれると、自分ひとりで食べるよりも嬉しいではないか、これが人間の本質です。これが自己なのです。というふうに自己の心はみんな持っているとお話ししました。

仏法というのは、自我よりも自己がたいせつである、生まれながらにして世界とともに生きている、みんなのおかげがなければ生きられないのが人間である、そういうことを教えている。

この自己の心が目覚めておりますと、上から押しつけなくても、人びとは自然に道徳的になって、社会が安定してくると、そう思います。

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美味しいものを持って帰ることができなくても、美味しかった食べ物の話をするだけでも、親というのは喜んでくれますものねえ。

質疑応答(4)

2011年09月12日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
今日のお話の中で、自己というものに目ざめるのが生き甲斐であるということを聞かせていただきましたが、そのことについて、もう少し、具体的にお話ください。
答え
自己というのは人間の本質ということです。
人間とは人と人の間と書くように、孤立しているものではなく世の中一般とあるものです。人間というのは世界中とともにいるのです。けれども今日ではそれを忘れて自分だけおるように考えている。その自分だけおるように考えているのを自我と申します。自分以外のものは自分にサービスすべきもんだと思っているのです。母親というのは自分の洗濯をするものだと思っているのが自我でございまして、こういう自我が教育によって、ひじょうに増長して育てられているのでないかと考えられます。

自己というのは、世の中、世間とともにあるもの、それが自己というもので、これが人間の本質でございます。相手の悲しみが自分の悲しみであり、相手の喜びが自分の喜びである。これが自己というものでございまして、こういう心がみんなに少しはある。あるけれども、それが人間の本質とまでは思っていない、これを軽く考えておるのではないかということでございます。

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米沢先生の自己と自我の話を読みながら思い出すのは、有吉佐和子が小説『複合汚染』で昭和の花岡青洲と評した、奈良県五條市の医師梁瀬義亮先生。NHKの教育テレビ「こころの時代」再放送拝聴以来、数年間毎月、残されたお話のテープを送っていただいて、毎晩のように聞きました。その内容も、第一の自己、第二の自己ということを徹底されていました。毎月、テープが届くので、ご健在のように感じていました。
‥ただ、私には、「自己」も「第二の自己」もまだまだ遠い遠い水平線の向こう‥。

質疑応答(3)

2011年09月11日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
現在の教育は、宗教心についてあまりふれておりませんが、この点について、また宗教心と道徳についてお話ください。
答え
道徳というのは、私にいわせていただきますと、人間がおおぜい生活している上において守らねばならないことです。それで道徳は時代やところによって変わるんです。しかし宗教心は変わらない、そして道徳のもとにもなるたいせつなものだと思います。
たとえば人間というのはうそをつかずに生きておられません。しかし、うそをつくことが「恥ずかしいなぁ」「虚仮不実の自分だなぁ」と、そういう懺悔の心をもつことがたいせつだと思います。自分がうそをついて「恥ずかしい」という気持ちをもつということ、これは宗教心だと思います。

宗教心は、あくまで他人の問題でなくて自分自身どうなのかと、自分自身を照らす鏡です。

このいちばんたいせつな教育が、明治の学校教育の中から脱落をしている。これが日本の最大の不幸であるとも言えます。
(米沢英雄『広き門より入れよ』78~80p)

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朝晩は涼しくても日中は暑く、コンビニでビールを買って帰ったのですが、飲もうとしたら、ノンアルコールでした。見た感じもそっくりだし、急いでいたのでわかりませんでした。お店の人、デザイン、いろんな人のせいにしてみましたが、結局、自分の不注意と欲が原因ですからね、しかたないです。1本飲みましたが、やっぱり美味しくなかったよぉ。
要約の際、ニュアンスも伝えようと思いますが、どうしても自分の言葉に置き換えているので、正確に要約できているかどうか不安です。とくにこの箇所はそうです。

質疑応答(2)続

2011年09月10日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
昭和49年3月24日NHK教育テレビ「宗教の時間」での、米沢先生のお話、聞き手は亀井鉱さんです。

犬は跣足(はだし)なり  丸山薫

ある日 みんなと縁端にいて
ふいにはらはらと涙がこぼれ落ちた
母は埃でも入ったのかと訊き
妻は怪訝な面持ちして私を見つめた
私は笑って紛らわそうとしたが
溢れるものを隠す術もなかった

せんちめんたるな と責めるなかれ
実はつまらぬことが悲しかったのだ
愛する犬 綿のような毛並みをふさふささせ
私たちよりも怜悧で正直な魂が
いつも跣足で地面から見上げているのが
可哀想でならなかったのだ

ここですね。これは決してセンチメンタルな詩でないですね。犬は私よりも正直だ。私たちは、欲しいものがあっても欲しいといわんでしょう。相手がくれねばならんよう、誘いをかけるでしょ、ずるいんだ。それからみると犬は正直で利口なんだ。そういう小さな魂が地に跣足でいて、人間がそれにパンを投げてやっている。もし正直ということが美徳だとしたら、犬の方が正直で、われわれの方が不正直だ。
亀井 
そうですね。
米沢
じゃあ、犬を畳に上げて、われわれが下に降りるか‥。
犬は本能だけで生きているので、犬を見て犬が正直で、私が不正直であると、こう恥じる心は人間だけが持つ、しかも単なる人間でなく、仏だけがね。
亀井
なるほどねえ。
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「恥じる心は人間だけが持つ、しかも単なる人間でなく、仏だけがね」とまとめられました。
恥じる心、か、うーん。

質疑応答(2)

2011年09月09日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
親鸞聖人はが法然上人を「よき人」として仰がれた。信心の目が開けるのには、よき人に会わなければならない。なかなか身辺によき人が見つからないのですが‥。
答え
親鸞聖人は、叡山では念仏の教えは学びましたが、生きた念仏、つまり念仏を生きている人に出会うことができなかった。それが法然上人に会うて、ここに生きた念仏があると教えられた。念仏というのは、これはキリスト教の「証し」と同じようなものだと存じます。念仏を証明する人、そういう人に出会うたので、よき人と言われたんだと思います。
しかし、そういう特定な人でなくてもよき人はございます。たとえば先ほど申したようにコップひとつ見ても、「コップは正直だなあ」というように感ずることができます。

丸山薫さんの「犬」という詩にもそのことが書かれてありました。
また吉川英治さんが好んで色紙に書かれた「自分以外のものはみな師である」と言うのも同じことであります。

先日、滋賀県でお会いした奥さんは、お姑さんがうるさい方でそれで長いこと苦しんでおられた。ところがご自分のことをふりかえってみたら、お姑さんを非難できる自分でないと気づいて楽になったということでした。うぬぼれ、下品下生に気づかせしめるものは仏である、よき人であるといえるのでないでしょうか。

そして、私は、奥さんに「お不動さん」の話を申したのです。お不動さんは、火焔をかついでいる、右手に剣を持っている、左手に網を持っている。火焔は怒っているのです、刀はきつい言葉で突き刺してくるのです。それから家から出て行かせない、つまり網をかけてくるのです。こしらえたお不動さんは拝めるけれども、生きた姑さんのお不動さんはなかなか拝めないものです。この生きているお不動さんを拝めるようになると、天地一切を拝めるようになるのですと。

よき人は、よき人という看板を上げておられない。こちらが、よき人を見つける目を持つかどうか、そういうことだろうと思います。
(米沢英雄『広き門より入れよ』73~77p)

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お不動さんのお話、言葉では簡単ですが、それは果てしなく遠いことです、少なくとも私にはできないですねえ、逃げまわりますよ。
でもこうやってじっくり読んでまとめていくと、仏法のたどりつく先を予想できます。仏法は厳しい世界ですね。

明日は、ちょっと寄り道して、話題になっていた丸山薫の「犬」を読みたいと思います。

質疑応答(1)

2011年09月08日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
問い
天地に存在する一切のものは、全部法性法身のはたらきというお話でしたが、昔のお寺さんのうたにも、波の音も南無阿弥陀仏であると、こう言われたのはその意味でしょうか。
答え
おたずねというよりも再確認というお言葉ですが、その通りでございます。
仏法というのは、お経や説法だけからではなく、天地一切から真実が聞ける耳をいただくものでないかと思います。
私はよく申すのですけれども、こういうコップからも仏法を聞くことができる。このコップに水をどんどん注ぐと、しまいにいっぱいになってこぼれる。ところが、人間はいっぱいになってもこぼれたような顔をしません。まだいくらでも入るような顔をしている。そういうところに虚仮不実というのがあるのでしょう。もし正直ということでしたら、コップはひじょうに正直で、いっぱいになるとこぼれるということを教えてくれる。そういう点からいえばコップも仏さまです。
天地一切のものから聞く耳さえ持てば、天地一切からきけるのでないか、こういうことが自在というのだろうと思います。
(米沢英雄『広き門より入れよ』71~72p)
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虚仮不実 
親鸞『正像末浄土和讃』中の一節。真宗の門徒さんは、日々の勤行で詠われるらしい。
ほんとうの自分を知るというのがお釈迦様の教え。
ならば、真宗門徒さんはこういう言葉に日々ふれるということで、平安仏教よりたしかに進んでいると思います。我が家の宗派は遅れていると最近つくづく思うようになりました。

自在 
般若心経の観自在菩薩と同じ「自在」。
信心をいただいた人、悟った人は、自在に聞き、自在に観る、自由自在。

終わりに

2011年09月07日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
「広き門より入れよ」ということでお話してきましたが、そろそろ、終わりの時間が近づいてきました。

浄土というのは十声念仏すればみんな生まれることができると申しました、なぜかと申しますとそれはもともと、浄土の中にいるのですから。
しかし、本来浄土の中におりながら浄土におることを忘れている。それを「仏にそむいている」と申します。そのそむいている私たちの首根っこをおさえて、浄土の方へむけてくれるのが、五逆罪をおかし、仏を謗った者は浄土に入れないということばであろうと思います。
その時、わたしたちは「罪悪深重 (じんじゅう)煩悩熾盛(しじょう)の凡夫(歎異抄第1章)」といってもよいし、「下品下生のおのれ」、あるいはまた「うぬぼれている」と置き換えてもよいのですが、そういう自分でしかなかった、と気がつかざるをえないのです。

‥えらい面倒なことを申しましたが、今日の話の中から少しでも皆さんのお役に立つものをつまみあげていただければと存じます。ご静聴どうもありがとうございました。
(『広き門より入れよ』69~70p)

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お話はここで終わりました。
まとめてみると、繰り返しが多いことに気がつかされます。
要点を角度を変えながらお話しくださっているのでした。
この後、質疑応答があります。明日から読んでまいります。

こころの詩(5)

2011年09月06日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
さきほどうぬぼれのことを申しました。このうぬぼれというのがわれわれの中にあって、これがなかなか頭が下がらんやつでございまして、うぬぼれが三定死に落ちて、初めて信心の眼が開くということを申し上げましたが、このうぬぼれをうたった詩があります。

うぬぼれ

うぬぼれは木の上からポタンと落ちた
落ちたうぬぼれはいつのまにか
また木の上に登っている

人から批判されて、うぬぼれが落ちる場合があります。しかし、「落ちたうぬぼれがいつのまにか木の上に登っている」。人からおとしめられると、あいつだってこんな欠点があるというように、相手の欠点をまた見つけて相手をおとしめる。うぬぼれがのうのうとしているわけです。下品下生というのは、このうぬぼれのことで、これは強靱な命を持っていて、なかなか死にません。
しかし、「またうぬぼれが出たな」と気づくことで、われわれは浄土に帰っていくことができる。帰るべき世界を持つということが、ひじょうに大切なことでないかと思います。

浄土というのは解放された世界である。まなこを開いた人なら浄土を見ることができる。だからせっかく人間に生まれた生き甲斐というのは、その中に自分が生かされておるところのまなこを開かされることであろうと思います。そのまなこを開かせようというこころづかいが阿弥陀仏の本願であり、中でも五逆罪と仏を謗る者は浄土に入ることができないという、この通せんぼで下品下生に自分が突き落とされて、はじめて浄土を開眼することができるのでないかと思います。
(『広き門より入れよ』57~70p)

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仏教用語を日常用語におきかえての説明がおじょうずです。
そういう箇所がいくつかありました。
下品下生は、うぬぼれのことだと言っておいでです。
私には、下品下生よりは、うぬぼれ、と言われた方が、胸に届きますね。
これをさらに自分のことばにし、できれば人にも伝えられたらいいです。
心境が進んだらの話ですが。

こころの詩(4)

2011年09月06日 | 米沢英雄『広き門より入れよ』を読む
歩く

私を見ていてくださる人があり
私を照らしてくださる人があるので
私はくじけずに
きょうを歩く

商売をしておられますと、「私を見ていてくださる人」があって、ちゃんと自分の店に買いに来てくださる人がなくてはなりません。
また、「私を照らしてくださる人」は、すでに亡くなられた松原致遠というお寺さんでございます。この方から仏法を聞かれたようでございますけれども、仏法の骨格がわかりますと、どんな人からでも教えを聞くことができます。
「照らしてくださる人」というのは、特定のひとりではなくて、自分が出会ういろいろな人、そういう人が自分自身というものを教えてくださる。こういうことで、「私はくじけずにきょうを歩く」ということになります。
謙虚で、ある意味、自信が無いようでありますけれども、こういう謙虚さを持っておることによって、どんな世界でも生きていくことができるであろうと思います。
(米沢英雄『広き門より入れよ』57~70p)

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こころを温めてもらえる詩です。
私にも見ていてくださる人があり、照らしてくださる人があります。
くじけんと、歩いていかなきゃと、そんな感じになれます。