畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

呉の旅(4日目) ①大和ミュージアム(3)遊覧船

2020年01月13日 | べんちゃん
2年前の春の旅の記事の続きです。
雨の中大和ミュージアムに到着ししばし観覧。


人物などの写真を実物大に切り出して個々に配置して占領当時の雰囲気をかもし出していた。


9時半ごろ遊覧船に乗船、雨のためにお客が少ないということだったが席の7割は埋まっていた。


阪急ホテル、いや阪急ホテルだけではなく市内各所から見えていたHIHの巨大なタンカー。


そのタンカーに接近。


海上自衛隊の艦船。




護衛艦かがと思うのだが。




けっこうな雨が降り続いた。


戻ってミュージアムに再入場、昼ごろ近接のスーパーの食事コーナーでランチ。


その後鉄のくじら館に入った(ランチの前だったかも)、潜水艦内部。


3時前に、呉駅の改札を通った(と思う)。

呉の旅(4日目) ①大和ミュージアム(2)呉空襲と日向の応戦

2019年03月02日 | べんちゃん
父の軍人履歴によると、19年11月5日に所轄が安浦海兵団から日向となっている。
『軍艦日向栄光の追憶』野村艦長戦時日誌を読んでみる。
11月6日1430(14時30分)日向呉発。
中略(この作戦行動については追って記事にしたい)
20年2月20日1000(10時10分)呉着、直ちに搭載物件のを開始す。
21日昨夜徹夜作業。此の日夕刻迄に揚搭を終わり北号作戦茲(ここ)に終わる、とある。

要するに父は約4カ月日向で勤務した。
そして『軍艦日向の最後』の20年3月26日乗船名簿に一等水兵として載っている。

その後の日向は、同書大皿俊治さん「空爆下の日向の奮戦」が詳しい。
3月19日空襲応戦、4月27日情島沖転錨、5月7日情島北西岸に固定、7月24日28日の空襲応戦。

呉空襲の展示を見る。
  



立田正雄さんの寄贈資料2点を見れたのは大収穫。




3月26日の乗船名簿に立田正雄さんの名も少尉噴進砲指揮官としてある。
父は噴進砲部隊にいたのは間違いないので関わりのたいへん深い方だ。

続く
  

呉の旅(4日目) ①大和ミュージアム(1)吉浦から見た原爆雲

2019年02月23日 | べんちゃん
大和ミュージアムというけれど、呉の歴史博物館。
呉が漁港から軍港、工廠の都市への足取りも興味深かったが、やはり大東亜戦争の展示に目を奪われた。

8月6日の原爆、呉市吉浦付近からの撮影。
父の軍人履歴によると、日向か呉海兵団に所属していた。
5つ上の兄のTさんも隼鷹を下りて呉にいたはず。
2人とも雲を見ているはずだ。
そう言えば去年、T市にお住まいの日向乗組員のご夫人の話しをうかがったが、この雲のことがでた。



以下2枚、きのこ雲の下でおきたことより、下の写真、軍港、工廠及び海兵団の町呉、日向終焉の情島に注目。
この雲を見上げたに違いないということだ。




風圧や地響きについて。
三井化学工場の爆発に伴う衝撃波によると、2012年4月22日の三井化学工場爆発事故による衝撃波は、地震計で150km東側の香川県坂出付近まで記録されている。
県都や工場地帯の空襲で南の空が赤く燃えて怖かったと母からまた近所の人からも耳にしたが、衝撃波の恐ろしさもあったと思う。

これはウィキより。
「1945年8月6日午前8時17分、原爆の炸裂から2分後の原子雲。撮影場所は爆心地から7㎞離れた旧安佐郡古市町(現広島市安佐南区古市)の神田橋付近。撮影者は広島市衛生課のレントゲン技師、松重三男」とある。

なお館内では原爆の展示は少なかったように思う。

次に立ち止まったのは終戦後の大きなモノクロ写真の前。
二十歳の父に思いをはせた。




呉の旅(3日目) ⑤入船山記念館

2019年02月12日 | べんちゃん
あの呉の旅から1年足らず、旅行記が3日目後半で止まっていた。
11日記事より再開したが、引き続き4日目を早く書いて完了させなければと。

情島の日向の鎮座した海を見ての帰り、入船山公園を訪れた。
ウィキより要約。
日本の歴史公園100選。
北側の「入船山記念館」や「呉市立美術館」の文化ゾーンと、南側の「市民広場」と呼ばれる多目的広場からなる都市公園。
古くは703年(大宝3年)から亀山神社、近代は1889年(明治22年)から呉鎮守府司令長官官舎、戦後は1956年(昭和31年)までイギリス連邦占領軍司令長官庁舎が置かれていた場所。
記念館は、呉市の歴史的資料や旧海軍資料を展示、本館にあたる旧呉鎮守府司令長官官舎は明治期に建築され国の重要文化財。
美術館は、ブールデルやルノワールや地元出身芸術家作品を展示、枯山水庭園、記念館から美術館への道すがらに正岡子規句碑。
日本の道100選に選ばれた美術館に至る坂道は「美術館通り」と呼ばれ、道端には17点の彫刻やオブジェ。
周囲には海上自衛隊呉地方隊の関連庁舎。











実は前日2日目の夕方もホテルから散策、4時前に帰ってきたこの日は市民広場の駐車場に車を置きゆっくり散策。
市民広場はもとの呉海兵団の練兵場でその西山裾には海軍病院があった。
父の軍人履歴によると、19年の5月、大竹、9月安浦海兵団、11月からに早くとも3月まで遅ければ8月まで日向、その後呉海兵団に所属している。

ホテルについて後、黄昏の商店街も歩いた。

呉の旅(3日目) ④情島沖、日向の終焉(後)

2019年02月11日 | べんちゃん
日向が着底したのは倉橋島の北西付近。
左は半島、中央の丸く見えるのがおそらく情島で、右に小情島。
情島は細長いが方角によればこのように見える、経路で付近の方に聞いたので、たぶん間違いないと思うが・・・。


ウィキの米軍7月28日航空写真で見るとこのように。
「音戸町坪井沖で爆撃を受ける伊勢。右が倉橋島で左の海峡が音戸の瀬戸、左が呉市本土。左奥に日向、右奥に微かながら阿蘇の姿も確認できる」とある。

わたしの浜からの写真とは違って見えるので気にしている。
いずれにせよこの地で激戦があったことは間違いのないことだ。

ツイッターも。



音戸町の八幡山神社を回って帰る。
「嗚呼 特殊潜航艇」潜航艇戦死者440柱の霊を祀るとの碑あり。




この神社の浜から情島方面を望んでいる。

昭和20年7月24日

2018年07月24日 | べんちゃん
昭和20年7月24日の呉空襲。



サイト大日本帝国海軍 連合艦隊 WORLD WAR 2:太平洋戦争 海戦の記録 呉軍港空襲から借用させてもらった写真である。

二十歳(はたち)の父は、情島沖の日向後部の噴進砲部隊に所属し米軍機と対峙戦闘していた。
昨日がちょうどその7月24日だったので記事にした。
父の青春とわたしのそれを比べ、その重さ、切迫感、真実さに、何とも言えない思いがしているところだ。
平和で豊かな時代のわたしは父に比べ、理屈を並べて生きてきただけのような気がする、・・・父に合掌。




呉の旅(3日目) ④情島沖、日向の終焉(前)

2018年06月15日 | べんちゃん
父親が乗っていた戦艦日向の終焉の地に向かった。
これについてのんびり百名山さんの旧海軍史跡巡り軍艦日向が詳細でわかりやすい。


「旧海軍史跡巡り軍艦日向」には係留地を情島西側に記載してあるが、文献によれば西側としているものもあったと思う。わたしは東側だと思っていたので、情島の向こう側に着底したものだと思って見入っていた。また確認しておきたい。
森重昭氏による「昭和20年7月28日呉沖海空戦艦船配置図」によると情島の西側と明示してあった。したがってわたしは倉橋島の東海岸にほぼ沿って移動したので、日向終焉の海を眺望したことになる。
同ブログは、
「7月24日の呉軍港空襲で米軍空母機の波状攻撃を受け、艦長草川淳予備少将(戦死後中将)も戦死する。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ。7月26日、「日向」は水平状態で着底した」との重要な記録を取り上げていて、これによると父親が退艦していた可能性もある。
しかし、立田正雄氏著『心晴朗なれど波高し』には7月24日の状況について以下の記述がある。
「この日、大日本帝国海軍少尉の私は戦艦「日向」に乗船していた。対空兵器を担当とする第七分隊の指揮官として分隊員220名を率いて、25ミリ機銃92門、12ミリ噴進砲(対空兵器)28門の指揮にあたっていた。日向は呉湾浅海の情島沖に停泊していた(以下略)」。
父親は噴進砲の分隊に所属していたのでこの戦闘に参加していた可能性が高いと思っている(平成30年現在では)。



呉の旅(3日目) ③江田島・倉橋島・情島

2018年05月23日 | べんちゃん


この日のメインは日向終焉の海、情島沖。
レンタカーのドライブなのでいろんなところにいった。

灰が峰、海軍墓地をまわり、からすこじまをでたのが10時半を過ぎていた。
バイパスを通って音戸大橋・倉橋島北岸・早瀬大橋を渡り、能美島東岸を経由して江田島をぐるっと(江田島海軍兵学校、小用港、秋月港)、再び能美島東岸に出て早瀬大橋を渡り倉橋島の中央部を通って南岸の桂浜に出た。
ここで昼食のあと、民俗資料館で珍しいものを見て喜ぶ。
鹿島地区が段々畑で有名なところらしくてその地図。
畑を広げた人々の歴史を偲ぶ。

こちらは漁業権を示すもの。
わたしの両親祖父母、地域それぞれ、同じように土地を守る約束をしながら地道に粘り強く暮らしていただろうと。
民衆の生きた歴史といったところか。


水軍の根拠地だった山城の復元。
制作工程、なかなかの力作(横になってわかりづらい)。




ナウマンゾウの化石、瀬戸内海の原始を伝えている。


遣唐船の記念館、浜の東、遣唐船を作っていたということで、和船の特性なども伝える記念館、あと桂浜神社に参拝。
要するに歴史のある土地柄だということがよくわかった。


東岸の狭い道に難渋しながら情島沖、日向終焉の海を望む。
真ん中の小さな島が小情島、左側の長い島が情島。
これについては別の記事を立てるので多くはふれない。


その後も同島を東岸づたいに北上、音戸大橋を渡って地道を呉方面に移動し入船山公園に。
鎮守府の長官の邸宅、ここには海兵団から水兵さん上がりの父とはまったく別の雲の上の人物が暮らしていたわけだ。
雲の下が幸せか雲の上が幸せか・・・これは何とも言えないがと、ふと思う。




ホテルに帰って食事前に『この世界の片隅に』のれんが通りあたりを歩く。

呉の旅(3日目)②アレイからすこじま公園

2018年05月10日 | べんちゃん
旧海軍墓地を出て10分、アレイからすこじま公園駐車場に到着。


呉海軍工廠 職工養成所・工員養成所跡地記念碑(駐車場入り口)


串山の工廠神社階段 防空監視施設




潜水艦桟橋付近


昭和町れんが倉庫群


米軍施設


日曜日で海自の見学があると聞いて自衛隊基地に急いだが急遽中止となっていた。
その手前に米軍施設があり安保体制を身近に感じた。
この後、江田島、倉橋島に向かう。