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遠い旅 ソドンヨ

2010-03-18 22:06:51 | 極東古史考


[恵王(けいおう、生年不詳 - 599年)は、百済の第28代の王(在位:598年 - 599年)。第26代の聖王の次男。諱は季。598年12月に先代の昌王(威徳王)が死去したため即位した。『三国史記』では即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡されたことを記すのみである。

『隋書』百済伝には「昌死、子余宣立、死、子餘璋立。」とあり、昌(威徳王)の子の宣(法王)、その子の璋(武王)と伝えており、恵王は認識されていないようである。『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなった事を知らせるために昌(威徳王)が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という]
ウィキペディアより 再び引用

隋書は
倭の五王のように
百済の王統譜に
過誤が目立つ

中国から見れば辺境の荒ぶる者たちに過ぎない
親子であろうと兄弟であろうと関係ないようだ
書記に詳しい



余昌が威徳王
恵が後の恵王 プヨゲ
百済聖明王の頃
倭に来ていた

欽明天皇16年の頃だ
春2月
百済の王子余昌 王子余恵は倭を訪れ
聖明王が新羅に殺されたことを奏した

17年 余昌に遅れ 余恵春正月帰国を願い出る
本隊の舟師の他に筑紫火君を派遣し 兵1千人と共に
彌弖に守り送る

彌弖は現在の慶尚南道南海島東南端の弥助里と言う

今の全羅南北道が嘗ての任那国であるので
忠清南北道にあった最後の百済の地へ行くには
このルートが妥当だろう

[法王(ほうおう、生年不詳 - 600年)は、百済の第29代の王(在位:599年 - 600年)。先代の恵王の長男。諱は宣、または孝順。599年に恵王の死去に伴い即位した。『隋書』百済伝では昌(第27代威徳王)の子とし、余宣(余は百済王の姓)の名で現れる。

仏教を厚く信仰していた王で、即位年12月に殺生禁止令を出し、民家で育てる鷹をすべて放生するようにして狩りに使われる道具も焼却した。600年には王興寺の建立を開始し、僧侶30人を得度させた。また、旱魃が続いたため、漆岳寺で雨乞いを行った。同年5月に死去し、法王と諡された。]
ウィキペディアより

法王 彼がプヨソン
悪玉に描かれているが実像はどうなんだろう?

あの殺されたアジャ太子 威徳王の長男だが
推古女帝5年4月に倭を訪れ
摂政である聖徳太子とも親しく交流している



余璋 プヨチャン

時代劇であるので
史実に忠実とはいかないだろう

扶余(プヨ)は姓
古の扶余の分かれだ

追記3月18日

俺は残業 妻は通常
であるので 帰宅時間は同じ

また弁当が3割引で208円だった
妻には海老チリソース
自分は きのこのハンバーグ

ワンタンメン88円

妻は あまりにも あまりにもなので
自分用に 菜の花 レタス コーン トマトのサラダを作った

しかし この弁当 利益あるのかな?
昔 弁当屋もやったことがあるので原価はわかる
ほとんどないな

30年ぶりに 歴史に興味がわき始めた
あの当時は 眠るのも惜しいくらいだった

10才年上の右翼の人とどうゆうわけか意気投合して
10年近く資料を集め討論し推察し没頭した

自分と違って皇国史観の人だった
彼は 最後には自費出版し 中国の大学にも招待された
自分はなんとなく興味を失い
彼と離れた

自分は左翼とか右翼とか すじもんとか
世間様からずれている人に興味を持たれた
自分の好みではないのに何故か知り合いになることが多かった

付き合ってみれば
皆 ある種の純粋さを持っていた
世間様がなんと批判しようが
自分一筋
それが気持ちよく感じた

世間様の一般の人々ほど老獪な人たちはいない
計算された良い人 計算された悪 計算されたシニカルを自分は感じてしまう
自分の僻目なのだろうか

ま それはいい

資料は物置に眠っている

今度は忌憚なく 先入観を捨て
事実を拾い上げて楽しむことにしよう

極東の古代史の研究
日本全国を散歩しまくる

これで十分だ
死ぬまでひとり時間を楽しめる
ようやく着地点を見つけたようだ

しかし
疲れた

仕事が忙しい

しかし
暇より忙しいのがいい

明日も頑張ろう







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