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縄文種が生活を営んだ 奈良盆地と大和湖周辺

2018-08-11 04:33:20 | 極東古史考

BC900年頃の奈良盆地は大阪古河内湖と水で繋がっており
湖の周辺部には豊かな湿地帯が広がっていた

近畿地方の古地理に関する調査 国土地理院時報2000No94

BC1300年からBC900年頃の急速な地球寒冷化により人口減少が起き
縄文晩期日本の総人口が7万人程度になった

数人から300人程度の大小取り混ぜて3000ヶ所以上の集落が日本列島に散らばっており
黒曜石や翡翠 骨細工 土器 塩 漆 乾燥した貝や海藻 塩蔵の魚介類などの交易を通じて
集落相互間 細かな相互ネットワークが完成しており
互いの情報伝達は密であった

自然環境が厳しく 集落単独の自給生活は危険を伴うものだった
だから 集落同志の相互依存によって 安全への担保とした

気候変動と文明の崩壊

鬼頭宏氏による国別推定人口がある 
それでは 当時の人口分布をグラフにしてみる



BC900年 西日本
畿内800人 山陰1100人 山陽1000人 四国500人 北九州3000人 南九州3300人 合計9700人程
全て 縄文種である

いや BC900年頃には北九州では既に灌漑式稲作が始まっており 倭種は定着してるはず

それ以前BC1300年には 北九州2400人 南九州7700人 合計1万1百人 これは間違いなく縄文種
BC900年では九州の人口が減って 合計6千3百人
どちらにしても北九州で稲作を始めた倭種は 過大に見積もっても数百人は超えないだろう

熊襲隼人は縄文種の血が濃い 
と同時に 台湾から琉球列島を北上し定着した楚の東夷の流れを汲む亡民の血も濃い
北九州と南九州 それぞれ民族個性が異なる


BC5300年 鬼界アカホヤ火山灰
この噴火により西日本の縄文種はほぼ壊滅したが 東日本に残った縄文種は更に寒冷化の危機を迎える

奈良盆地の橿原遺跡 縄文晩期の土器が出ている
この大洞式系土器は東北地方特有のものであり 多数の土偶も出土している
倭種による稲作もBC600年前後から普及していながら
弥生早期と縄文晩期の土器が混在していると言う特徴がある
倭種と縄文種の共存が この奈良盆地に始まっている
奈良の弥生時代が順調に続いているので 縄文種は倭種の文化を受け入れたのだろう

小山修三氏の遺跡調査からの推定遺跡数をグラフにしてみる
やはり 人口推定と同じパターンを示している

未発掘の遺跡や歴史時代連綿と続いた土地開発で失われてしまった遺跡も沢山あるだろう
実際はもっと多いと考えられるが 現在の調査ではここまでの数字しかあがっていない



BC900年前後 この寒冷期の頃
中国では殷が滅び殷の亡民は陸路 朝鮮半島へ逃亡した
周の膨張により 圧迫された呉越の東夷諸族は
中国沿岸部を北上し山東半島へ
そこに一旦定住し さらに澎湖諸島 遼東半島の南をかすめて 半島の西海岸沿いに南下し
南韓から対馬北九州へと 新天地を求めて北九州へ辿り着いた
彼等が南韓と北九州の倭種である

陸路の箕子朝鮮の東夷系亡民と南中国の呉越の東夷系亡民 
二派の倭種が混在していた

当時 船と言っても 巨大な楼船などあるわけもなく小さな準構造船だ
AD200年頃の船の資料を見る
弥生時代の船

10人乗り 大きくて30人乗り それとて大きな資本力がなくては船を作れないし
10隻程の船群を 資本財を積み 人を載せ 慣れない未知の玄界灘の航海は命がけだったと想像される

BC900年頃からBC100年頃までに散発的な倭の移民があったと思われる

倭種の大量移民なぞ現実的にありえない 当時の技術水準では物理的に不可能
辿り着いたそれぞれの地域で工夫を凝らし 食料の増産で人口増加したと考えるのが妥当だろう

橿原近辺では 弥生早期の土器や灌漑式稲作跡もあるので 縄文種と倭種の共存が成立していた

関東での稲作はBC200年頃なので それまで縄文時代が続き 倭種との共存は起きていない

AD200年頃 農機具に鉄の刃が付き 温暖化の影響もあって米の生産量が飛躍的に増大し
余剰生産物の蓄積が富となり 軍事力による大きな政治集団が 各地域に姿を現し始めた

日本の人口は 60万人程にまで膨れ上がり AD200年頃 日本が歴史時代に入り始めた

もうこの頃には倭種と縄文種の混血が進み
西日本と東日本の違いは混血の度合いが異なるだけに過ぎない

西日本は倭種が優勢であり 東日本は縄文種が優勢 と言う違いが見られる

もう一度 AD200年頃の 人口分布を見る

道とは 北海道の様に 一定の纏まりを持った地域集団と見ていい

やがてヤマトとなる畿内 人口は 3万200人程 
現在の奈良県・京都府中南部・大阪府・兵庫県南東部を合わせた地域は意外と人口がさほどではない
だが 周辺部が7万300人 合計10万と500人

ちなみに 熊野・伊勢は 元々縄文種の勢力地
紀の国の語源は きの國 つまり城の国から来ている 
茨木と同じで 茨の城 いばらきであると同じだ
鈴鹿山系以東は まだ縄文種が勢力を握っていた

この時代前後と思われる崇神天皇が東日本をヤマトと合わせるため四道将軍を派遣したのはこの理由による

あちこちの文献を読むと どうも軍事征圧と言うより 「ことむけやわす」が基本だったらしい
実際の戦闘も多少あったようだが ヤマトの好条件の提案に現地の首長がヤマトと安全保障条約を結んだ
これが 実態らしい

きらびやかで色とりどりの衣装と旗 金属の矛や盾を持った軍隊と輸送部隊で1万人くらい
現地で その地域の支配者である首長と大宴会を開き 珍しい物品をプレゼントする
さらには ヤマトの官位を与え これからは この地はヤマトに属するが実質的支配権は奪わないと約束する
支配者の娘を現地妻にし 現地の支配者と姻戚関係を結ぶ

ヤマトはこうして「ヤマト自治国家連邦」として巨大化してゆく
だが 東日本が縄文種の国であることは変わらない
ヤマト化しない縄文種を蝦夷と呼び始めるのはこの頃からだろう

後の 
新唐書 日本伝
「國 日出ずる所に近し 以って名となす 或いは言う 日本は乃ち小国 倭の併す所となる 故にその号を冒すと」

旧唐書 倭国 日本伝
「日本国は倭国の別種なり 其の國日辺にあるを以って 故に日本を以って名となす、、、
 或いはいう 日本は旧小国 倭国の地を併せたり と」


倭種は 縄文種である東日本を併合し その彼等の号「日本」を自らの号とした

或いは 

日本が倭国を併合し 倭種の貴種を祭事の象徴天皇家とし 自らは政事の実権を持ち 「日本」と号した

蘇我氏 安倍氏 藤原氏の基盤は東日本にある
彼等はヤマト化した蝦夷・毛人と言われる縄文種の軍事豪族集団と見られる
大伴氏 物部氏は倭種の軍事豪族集団 天皇家直属の豪族集団だろう

推定にしか過ぎないが これから注意深く調べてみよう

どちらであるか 今の時点では判断出来ない

どちらにしても 「日の本」と「倭国」は合併し「日本」と名乗ったと言うことだ

倭種は東日本を「日高見の國」と呼んだ 

高橋富雄氏が言う「ひたかみ」つまり 鄙の上 自分達から遠い所 「ひなかみ」
「日高見」から意を汲んで 「ひのもと」となる 漢字を当てて「日本」

この音韻転訛が正しいとすれば

決して 縄文種が自ら言った事ではない



こんな疑問から始まった「日高見の國」


ヤマト化し 中央豪族 地方豪族となった縄文種があった一方
ヤマト化を拒む少数の縄文種は 蝦夷として東北北方 青森にまで追い詰められて行く
ずっと後の出来事だ 奈良飛鳥時代以降の出来事である

AD200年頃 西日本

北九州は4万500人

南九州は6万4千600人

山陰が1万7千7百人

山陽が4万8千9百人

四国 畿内 畿内周辺を合わせると 西日本合計30万2千3百人

東日本を見る

奥羽が3万3千4百人

北陸が2万7百人

関東が9万9千人

関東を除く 東山道が8万5千1百人

関東を除く 東海道が5万4千4百人 東日本合計29万2千6百人

鈴鹿山系を境にして 西日本と東日本に分かれる
西日本は天皇家を輩出する国々
東日本は将軍家を輩出する国々


近世の戦国時代を思い浮かべればいい
織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
この時代は 織田信長の時代に似ている

ヤマトに近い縄文種は織田信長を支持し
ヤマトに遠い縄文種は徳川家康を支持する
ヤマトの覇権を目指したのは同じ
豊臣秀吉は それを繋ぐ役目を果たした

もう一度 例えれば
蘇我入鹿は織田信長
天智天皇は豊臣秀吉になる
その後 歴戦の後
天武天皇が徳川家康と思えばいい
東国勢力の軍事協力を得て天下を治めた

縄文種
朝廷をたて 娘を天皇の后にし外戚となり 臣下に甘んじ 実権を掌握した
同じ 構図だ

名を捨てて実利を取る
よくも悪くも現実主義者 古来から 変わらない
面子を重んじる倭種との違いだ

我々現代日本人は縄文種と倭種 それも3000年近く混血を続けて来た
もはや 区別するなど無意味な作業
と言うより どうでもいい な

でも 歴史経緯は大事な事なので調べを続けよう
これからも 新しい発見は続くと思う 楽しみだ

盆休みに入った

歯痛もようやく収まった
入れ歯が出来上がったし

でも 入れ歯って かなり違和感があるな
でも 慣れの問題
歯を大事にしよう











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