言語学の専門家の論文を読む
満州倭人である可能性が高い扶余
自らを南から満州へ来た亡人と言う
扶余語 高句麗語 百済語の祖系言語を復元できればいいな
亀旨峰 きしほう きしぶ
三国遺事では「所居北龜旨(是峰巒之稱若十朋伏之狀故云也)」
久士布流多気 くし ふる たけ
医巫閭山 いふろ さん
我々が使う漢音は 日本語化された古代中国音
音読みではあるが 漢語は古代に日本語化された当時の中国音に近い日本語
中国でも朝鮮半島でも 現代音は古代音ではない
Americaが亜米利加と表記され 「アメリカ」と日本語化される
閉音節文字が開音節になり
米国人は 日本人が「アメリカ」と言っても 多分何言ってるのか分からないだろう
「ふる」とか「ふろ」の読み方が気になる
なんかありそうなのに 漢籍文献の裏付けが無い
箕子朝鮮
箕子が周から封ぜられたのは盤山を中心とする地域であった
が その後 1000年間文字記録はなく
多分 燕国に圧迫され 朝鮮半島に入った
大河 鴨緑江を国界としたかったのだろう
BC195年 箕子朝鮮に亡命し臣下となっていた燕国人衛満が朝鮮を乗っ取る
箕子朝鮮の王族貴族の一部は馬韓に逃れて 馬韓王になったと言う
定かな記録はない
大体 当時 半島南は辰国で 三韓はまだない
BC108年
この衛満朝鮮は 武帝によって 漢の楽浪郡になる
ここで「朝鮮」の国名は李氏朝鮮まで1000年間 朝鮮半島から消えてしまう
勿論 李氏朝鮮は箕子朝鮮と何の繋がりもない
漢書地理誌
玄菟郡,戶四萬五千六,口二十二萬一千八百四十五。縣三:高句驪,上殷台,西蓋馬。
樂浪郡,戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。縣二十五:朝鮮,俨邯,浿水,含資,黏蟬,遂成,增地,帶方,駟望,海冥,列口,長岑,屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,吞列,東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。
列伝
朝鮮
朝鮮王滿,燕人。自始燕時,嘗略屬眞番、朝鮮,爲置吏築障。秦滅燕,屬遼東外徼。漢興,爲遠難守,復修遼東故塞,至浿水爲界,屬燕。燕王盧綰反,入匈奴,滿亡命,聚党千餘人,椎結蠻夷服而東走出塞,渡浿水,居秦故空地上下障,稍伇屬眞番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡在者王之,都王險。
會孝惠、髙后天下初定,遼東太守即約滿爲外臣,保塞外蠻夷,毋使盜邊;蠻夷君長欲入見天子,勿得禁止。以聞,上許之,以故滿得以兵威財物侵降其旁小邑,眞番、臨屯皆來服屬,方數千里。
傳子至孫右渠,所誘漢亡人滋多,又未嘗入見;眞番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。元封二年,漢使渉何譙諭右渠,終不肯奉詔。何去至界,臨浿水,使馭刺殺送何者朝鮮裨王長,即渡水,馳入塞,遂歸報天子曰「殺朝鮮將」。上爲其名美,弗詰,拜何爲遼東東部都尉。朝鮮怨何,發兵襲攻,殺何。
天子募罪人撃朝鮮。其秋,遣樓船將軍楊僕從齊浮勃海,兵五萬,左將軍荀彘出遼東,誅右渠。右渠發兵距險。左將軍卒多率遼東士兵先縱,敗散。多還走,坐法斬。樓船將齊兵七千人先至王險。右渠城守,窺知樓船軍少,即出撃樓船,樓船軍敗走。將軍僕失其衆,遁山中十餘日,稍求收散卒,復聚。左將軍撃朝鮮浿水西軍,未能破。
天子爲兩將未有利,乃使衞山因兵威往諭右渠。右渠見使者,頓首謝:「願降,恐將詐殺臣;今見信節,請服降。」遣太子入謝,獻馬五千匹,及饋軍糧。人衆萬餘持兵,方度浿水,使者及左將軍疑其爲變,謂太子已服降,宜令人毋持兵,太子亦疑使者左將軍詐之,遂不度浿水,復引歸。山報,天子誅山。
左將軍破浿水上軍乃前至城下,圍其西北。樓船亦往會,居城南。右渠遂堅城守,數月未能下。
左將軍素侍中,幸,將燕,代卒,悍,乘勝,軍多驕。樓船將齊卒,入海已多敗亡,其先與右渠戰,困辱亡卒,卒皆恐,將心慚,其圍右渠,常持和節。左將軍急撃之,朝鮮大臣乃陰間使人私約降樓船,往來言,尚未肯決。左將軍數與樓船期戰,樓船欲就其約,不會。左將軍亦使人求間隙降下朝鮮,不肯,心附樓船。以故兩將不相得。左將軍心意樓船前有失軍罪,今與朝鮮和善而又不降,疑其有反計,未敢發。天子曰:「將率不能前,乃使衞山諭降右渠,不能顓決,與左將軍相誤,卒沮約。今兩將圍城又乖異,以故久不決。」使故濟南太守公孫遂往正之,有便宜得以從事。遂至,左將軍曰:「朝鮮當下久矣,不下者,樓船數期不會。」具以素所意告遂曰:「今如此不取,恐爲大害,非獨樓船,又且與朝鮮共滅吾軍。」遂亦以爲然,而以節召樓船將軍入左將軍軍計事,即令左將軍戲下執縛樓船將軍,並其軍。以報,天子誅遂。
左將軍已並兩軍,即急撃朝鮮。朝鮮相路人、相韓陶、尼谿相參、將軍王夾相與謀曰:「始欲降樓船,樓船今執,獨左將軍並將,戰益急,恐不能與,王又不肯降。」陶、唊、路人皆亡降漢。路人道死。元封三年夏,尼谿相參乃使人殺朝鮮王右渠來降。王險城未下,故右渠之大臣成已又反,復攻吏。左將軍使右渠子長、降相路人子最,告諭其民,誅成已。故遂定朝鮮爲眞番、臨屯、樂浪、玄菟四郡。封參爲澅淸侯,陶爲秋苴侯,唊爲平州侯,長爲幾侯。最以父死頗有功,爲沮陽侯。左將軍征至,坐爭功相嫉乖計,棄市。樓船將軍亦坐兵至列口當待左將軍,擅先縱,失亡多,當誅,贖爲庶人。
で
漢は朝鮮半島を占領し
やっと 朝鮮半島の地理や半島倭人や列島倭人の存在と分布を認識するようになった
玄菟郡は後 高句麗の首都である丸都となった
玄菟郡には漢の高句麗県があり
BC37年 朱蒙は高句麗県の地で国を起こしたので 国名を高句麗とした
漢の玄菟郡はこの後 高句麗によって蚕食されて遼東郡に移動する
郡県を置く所は漢の領土
平壌やソウルを含む朝鮮半島北西部は長い間中国領であった事になる
安定して経営できたのは楽浪郡だけであったが
馬韓 辰韓 弁辰
これら三国の南は海に接していない
現在の全羅南道・慶尚南道地域には
国名のない 半島倭人の小さな首長国群が散開していた
ところで 沖縄
1000年前後 貝塚時代が終わりグスク時代が始まった
グスク時代の人骨は 鎌倉室町時代の人骨と相似している
貝塚時代の人骨はもっと背が低く 全体的に小柄である
グスク時代の人骨は 基本的には 当時の日本人と同じだ
現代沖縄の祖先は 平家の落人だろうか?
南九州からの無名の移住団だろうか?
天孫の舜天氏は 為朝の末とも言われるが 源氏の系統なのだろうか?
どちらにしても 11世紀の列島人の沖縄への移動だ
あれから1000年経過した 神話が作られ 独自文化が出来るのは当たり前だろう
こうやってぼんやり考えたり
漢書や後漢書など読んで暇つぶしにはいいな
歴史は 分からないから面白い
今日の集計
これも現代史の記録なんだな