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卑弥呼時代 畿内ヤマトは

2022-11-05 19:21:39 | 極東古史考
遺跡数の統計グラフ
発掘された数であるので 必ずしも人口とは比例しないが 相関はある

三内丸山遺跡の時代 BC3200年 BC2300年が存在期間該当する
栗を栽培し 竪穴住居 高床住居が混在する
竪穴は冬の住まい 高床は 夏の倉庫兼住居だろう
高床は必ずしも倭人だけの建築物ではない

吉野ヶ里遺跡の集落 古代の城であるが 始まったのはBC4世紀頃から

AD200年の 各地域の遺跡数を見れば 九州の拡大はありえない
先発集団であったが 政治連合地域が小さすぎたようだ

3世紀には 
東は 毛奴国・常陸国・総国
西は 吉備国
北は 越国・出雲国
南は 阿波国

奈良南部・河内の大和川水系の畿内政治集団は 
これら各地の集団と連合を組むほどになっていた

自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。「後漢書」

当時 畿内政権がヤマトと称していたか分からない
狗奴国 紀の国 木の国 毛奴国
そんなんだったかもしれない

この方の論文が分かりやすい

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