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後漢書巻85東夷列伝第75の条 正月休み今日で終わり

2011-01-04 16:58:42 | 極東古史考

1月3日

家でゆっくり

昨日 3人で 歩いて5分の千勝神社にお参りした

今年も波風の少ない日々であって欲しい

 

1月4日 

中国の正史である後漢書は 当たり前であるが今から2000年前の中国人の目で見た記録

范曄(ハンヨウ)撰の後漢書

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E6%9B%84  

歴史を調べてると つい自分の国に身びいきな目で 都合のよいように解釈してしまう

日本人である事をいったん止めて 西洋人の目で見てみよう

 

韓に三種ある

一にいわく 馬韓 二にいわく辰韓 三にいわく弁辰

馬韓は西に位置し54国がある その北は楽浪郡に接し 南は倭と接する

(中国人は海の彼方にあるものを接すとは書かないから 倭が朝鮮半島の南の端っこにあったらしい)

辰韓は東にある12国ほどだ その北は穢狛と接す

弁辰は辰韓の南にある 又(辰韓と同じように)12国ほどだ その南は又(馬韓と同じように)倭と接する

(又 倭だ 馬韓の南 弁辰の南か? て言うと 今の全羅南道と慶尚南道あたりだろうか?)

凡そ78国 百済はその一国だろうか

(百済は まだ諸国の一つだったんだな 新羅もないな )

大国は万余戸 小国は数千家 それぞれ山海に点在しその地合わせて3~400キロ四方ほど

http://blog.goo.ne.jp/54taka2goo2/c/3bbf5ef41b5fe61f701de2f51bfa1fde

三韓の78カ国全部を合わせて多めに見積もって人口は4~50万人か? 

この広さにこの人口であるから 手つかずの自然はいっぱいあったろうな)

韓の東西は海を持って限りと為し これらは皆 古の辰国である

(東西 南を持って限りと為すとあるべきだが 南は海ではないらしい

今の朝鮮半島は嘗て辰国と呼ばれ 朝鮮国は 中国の殷の末である箕氏朝鮮は旧満州今の中国東北地区にあった

また高句麗扶余族は 後の金 清を建てる女直 遠くは粛慎に繋がる満州東胡族の一派だ

遼史によれば契丹族は 満州の平原を 蒙州 紫蒙の野と呼んだ

音がほとんど同じだ 高句麗の始祖 朱蒙の名はこれに関係するのだろうか?

もう一つ 高句麗の高氏は 古の 高辛氏の末との伝説もある

金も清も辰も音はシン 又満州の音はメンチュウ マンジ メンジ メングなどの 女直 靺鞨の読みから来る

渤海の最初の国号は震 東胡族の国号に共通してるのは 「シン」 東胡 蒙古 鮮卑 倭もだが漢字は後から取り入れてるため

基本的に歴史は語り部によって伝わる だから音を辿ると奇妙な共通性が現れる事が多い) 

馬韓は最大である (辰韓も弁辰も)共に馬韓の血筋を辰王とし 月支国を都とする けだし三韓の地の王である

三韓の諸国王達の先祖は 皆 これ馬韓の種の人と言う

馬韓人は畑作(田が水田を意味するのは日本だけである 中国では平らに耕した土地を田と言う 陸稲はあっただろう)や養蚕を知っている

(歴史的論証は無いが水稲の米が常食されるようになったのは百済の頃からとも言われる 

江戸時代東北地方では天候に左右され 米の栽培は不安定であった 

北海道に至っては米の生産が出来るようになったのは品種改良が進んだ昭和になってからだ 

古代の冷涼な韓半島で水稲が可能なのは 南の極一部ではないかと思う)

稲作 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

綿布を作る
(日本で綿が普及し始めたのは15世紀頃 朝鮮半島も14世紀頃 

馬韓から1300年ほど綿の栽培は途絶えたらしい? それとも綿布が中国から輸入されていたのだろうか?)

梨のように大きい栗が出る

長い尾を持つ鶏がいる 尾の長さ5尺(漢代の1尺は23.09cm 約115cmほど)

邑落は雑居し 又城郭がない

(中国は基本的に都市国家であり 一辺が数km 高さ10m以上 幅も10m近い 

板築石造の城郭に囲まれているのが都市であり 国でもある 

その目で見ると国に城郭が無いのは奇異に映るのだろう どうやって敵から防御するのか? と)

土で家を作り その形は円墳墓のようで 出入り口はてっぺんに開いている

(古代東胡族共通の 丸い墳墓のような穴居住宅で 頂上の穴から梯子で出入りする)

跪拝(地面に膝まついて拝礼する 中国の貴人に対しての礼義)を知らない

年上 年下 男女間の礼が無い

(これらも東胡の風俗だ)

金や宝飾 錦や毛繊を知らず 牛馬に乗る事も知らない

ただ 紐で繋いだ玉飾りを重んじ 衣に綴って飾りとし 首にかけ 耳に垂らす

その官 「大率」は被り物をせずむき出しの頭に固く髷を結って 袍と草履を履く

(後の百済の官位16品中 第2品の高官は「達率」と言う 音は同じ 定員は30名 百済はこれを踏襲したのだろうか?

もっとも百済自身の記録は残っておらず 日本書紀 周書 隋書 北史 旧唐書などに散見するものから類推されたもの

日本書紀ではダチソチと読み下している)

(次の文章はよく理解できない 

その人達は勇壮である 

家を作る少年たちは背中の皮に車の楔を通し縄で大木を引っ張る それが我慢して出来るものを一人前とする? 

常に5月を持って畑の境で鬼神を祭る 昼夜飲み会をし 歌を歌い舞い踊る 数10人が繋がって 足をふみならしながら節をつけ舞い踊る 

10月の収穫の祭りも同じである 諸国の村には天君と言う祭りを司る天神がいる 

又ソトを立てる その様子は大木を立て鈴や太鼓を懸け鬼神に仕える)

その南界は倭に近い また刺青するものがいる

(どうやら倭人は 南韓の地にわらわらと居たらしい 

多分交易が目的だろう 

当時は日本も韓国も北朝鮮も無い 

百済も新羅もまだ小さな集落にしか過ぎない 

ゆるい部族連合があっただけだ 

つまり国境と言う概念が希薄で 国と言うのは点であり 今のように面を押さえ厳密な国境がない 

大国といえども人口5万人程が密集して住んでいて その国を離れれば 極端にいえば無人の山野が広がる 

交易の為の細い道があっただけだ)

講談社の「全日本史」による当時の倭

 

BC100~AD100頃の倭

中国から見れば連合国家倭国であろうが 倭人達にとってはおらが国は自分が所属する部族であり 総人口60万ほど

縄文人は山民であり 海洋民であり 刺青 抜歯の風習を持っていた 

甕缶の埋葬はBC2000年前の青森の縄文遺跡で見つかっている 縄文人の埋葬法だ

弥生人と言われる中国大陸山東半島からの移住民が日本に植民したのはBC1000年頃からと思われる

多分 東夷 東胡の亡人であろう 漢字も 暦法も 儒教の礼法と言った中華文化が伝わっていたとは思われず

ただ周礼の礼法の一部が 官位として邪馬台国に伝わっている

北九州が最初の植民地であったかもしれない

やがて南韓と北九州と玄界灘の海を囲む 環玄界灘倭型文化圏が出来 

九州 出雲 吉備 瀬戸内 河内 畿内 東海の 原始的面領域国家が鼎立を始め

古墳期に至り 大和と言う 部族連合型中央集権国家が完成したのだろうと思う

現在の日本国は天武天皇に始まる 聖徳太子の頃でもまだ倭と言える

自分は国家と言うものは 

文字を備え 文字による歴史が編纂され 国民全員の戸籍が完備し徴税が行き渡り 

一つの政権の法律に全ての人々が従う中央集権国家になって初めて国家と呼べると思っている 

部族連合体から絶対君主制中央集権国家へ 封建国家 そして民主国家へ成長して行くものだと

偏見かもしれないが 一党独裁とか世襲制君主 軍部独裁とかの国では国民の自由は限定されている

ヨーロッパや日本が経験してきた 500年も前の政治体制だ 国民の政治成長は段階を負わねばならない

日本もドイツもイタリアも70年前 一度後戻りした 

それくらい 国民は 強くて 自分たちにだけ優しい王様を願うものだ

それくらい 国民は 不遇な国民ほど 強い立派な国家に自分のアイデンティティを重ねやすいものだ

10代の青少年に 大人の義務を課せずに 大人の完全な自由を与えたら 彼らが腕力を持っていたならば どうなるだろう?

他者の自由を認めてこそ自分の自由がある 野放図な自由はありえない

 

さて辰韓

辰韓の老人が言うには 我々は秦の亡人である 苦役を避けて韓国にまっすぐ行ったら馬韓は自分の東界の地を割いて我々にくれた

その言葉遣いは 国を邦と言い 弓を弧 賊を寇 行酒を行觴 相呼ばわるを徒など 秦の言葉に似てる所がある 

それで或いは(辰韓を)秦韓とも言う

城柵 ちゃんとした建物もある

もろもろの 小さな別邑(集落或いは村)には首長がいる 大者は臣智 次 倹側 次…読めない?

土地は肥えていて五穀に適している 蚕桑 かとり絹を作る事を知っている

輿や牛馬に乗る 婚礼は礼を持って行う 道行くものは互いに譲り合う

国には鉄が出る 穢や倭や馬韓は並びてこれを商売す

皆鉄を持って貨幣と為して交易する

庶民は歌舞飲酒鼓や琴を喜ぶ

子が生まれると 石で頭を挟み偏頭にしようとする

(マヤなんかでもある頭の形の変形 七福神の福禄寿のような頭の形にする事 昔シャーマンなどで行われたようだ) 

弁辰について

弁辰と辰韓は雑居している 城郭衣服は共通であるが 言語風俗は異なる所がある

その身長は皆高い 髪は美しく衣服は清潔である

そして法は厳しく その国は倭に近い 故に刺青するものがすこぶる多い

 

倭の条は何十回読んだろう

結論 倭種の勢力下にある場所が倭と呼ばれる倭のテリトリー 

倭国と言う中央集権国家はまだできていない 倭種の半独立国の集合体が倭

倭の西北界が狗邪韓国か これは加羅だ

倭の支配ではない 倭種が小さな国々を作っていた

倭王に従わぬ国も当然あっただろう 部族連合であるから当然とも言える

金印の奴国が倭の極南界

倭種 100余国の一国である邪馬台国の首長を大倭王とする

軍事力ではなく 

国をまとめ統一する為に各国の王から推戴された統一の象徴としての大王

斎王(いつきのひめみこ)に近い存在ではないだろうか?

その法俗厳俊とある 厳しく身を律していたのだろう

どのような人だったのだろうか

 

しかし

 

 

あ~ 疲れてきたなぁ

 

漢字ばっかし 

 

当用漢字少なすぎ

 

IMEパッドで一字探すのに10分もかかるし 載ってないのもあるし

 

は~

 

漢和辞典 漢字源 大辞林 歴史事典総動員だもんな

 

 


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