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遠い旅4 倭人 古朝鮮

2007-03-10 13:05:13 | 極東古史考
この歴史フォルダは 自分の結論のようなものだ 
考証の大事な一部だけを書き記す 
30年近く 少しづつ続けてきた 
アマチュアなりに 日本人の来た道を探す文献調査のまとめになると思う
ブログに載せる図を考え 書き散らかしてきた何冊ものノートから抜粋して
こうして 小文にまとめて行くうち見えてきたこともある
参考文献は中国 韓国の史書を含めて数百冊になる 
出典はできるだけ書くようにしたいが 忘れてしまったものもある
自分の思い込みもあろうが 後の人が直してくれる事を期待する

西伯の武王發 商を滅ぼし周は中原の覇者となり 周朝が始まった
BC1150年

武王2年 BC1148年 箕子を朝鮮に封ず
聖山である医巫閭(いふろ)山麓 古の鮮(xian)水から音を取り
險濆(xian-du)王險(wan-xian)城 箕子朝鮮はここに始まる
箕子封以前 朝鮮国はあった 
箕子封以前は残念ながら伝説しか残っていない
で それは割愛する
 
商は 後 東夷と呼ばれた人たちの国
夷の一集団が 後 倭と呼ばれる人達となり 山東半島から遼東半島へ入り
朝鮮半島へと定住移動を繰りかえし九州へ定着した

当時 弥生草創期 日本には 今の概念の国はなく 
天武帝に至り 大津の皇子と共に国家を完成させていった 長い道のりだった
673年の事である

箕子は殷(商)の紂王の叔父 紂王の暴虐を諌めたが用いられず閉じ込められた
武王はその義を思い 朝鮮に封じた「史記」に詳しくある

夷戎は殷の亡人 狄は夏の亡人 箕子朝鮮は 彼の人の その徳義によって代を重ねたが
後 「史記 朝鮮伝」で 史に現るBC195年

「左伝」に謂う 粛慎 燕 貊 は我が北土である
すでに朝貢国であり属国とみなしてこう言うのだろう

「管子」に謂う 北至る 孤竹に於いて山戎 穢 貊 拘 秦 夏
蛮夷貊狄とは 国敗れて 或いは国を追われ 一旦難を逃れた亡人である
その再興を望み 力をつけ 中原を目指す

孤竹は 後の扶余 後の高句麗の故里である

「古今図書集成」に謂う

李巡 注 
(注とは後世の学者が分析調査し 書籍を勘案して文の正誤を正すものである)
爾雅は元黄 楽浪等をもって 九種の夷と為す
天芋口犮((口偏に犮だが字が無いのでこう記す) 八種の蠻と為す
堯夷 戎史等 六種の戎と為す
月支 穢 貊等 五種の狄と為す 是也
「周礼」にあり

楽浪(ro-lan)既にあり
月支都 (as-tal) 後世の辰国の都 「あした」と同音

守るべき地名は 人々の移動とともに 持ち運ばれ 長い年月とともに 
古朝鮮の「險瀆」(xian-du) は 玄莵(xian-tu) に変化し
「王險城」(wan-xian-chen)は 月支 蓋斯(as -tal)になる

いにしえの辰国は いつしか文字を失い 朧な記憶とともに玄海(xian-hai)を超えて

1995大林氏の講話にあった話だが
古代の人物の名前の尊称のつけ方

特に 九州日向地方の神話に多いのだが
「ヒコホホデミノミコト」 「カムヤマトイワレヒコ」 「ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト」
「ヒメタタライスズヨリヒメ」とかに見られるように
尊称の (日子)彦 (日女)姫 (御言)尊命 神が語頭に来る名前が多い 
中国の羅満氏によれば 中国でも神話的な名前の付け方に同じように2種類ありと言う
黄帝 炎帝のように帝を後ろに持ってくるのを 漢式命名法
帝堯 帝舜のように帝を前に持ってくるのを 越式命名法と言うらしい

このことから考えてみると 
堯 舜は 夷族であろうと思われる

呉 越 ともにweiと読む 倭もweiと読む
中国では 蛮夷にあるいは中華で無い物に 卑字賎字を当てることが多い
weiの音に穢や倭の字を当てたり
tʃurkの音に 狄 拘 夏 突厥 鉄勒 丁零を当てたりしている
(tʃurkはチュルク トルコ族である 東胡はその別れである
 今のトルコの故里は今の満蒙の広大な平原である)
日御子 日巫女 の音に 卑弥呼の字を当てるのは その例の一つだ 


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