この歴史フォルダは 自分の結論のようなものだ
考証の大事な一部だけを書き記す
30年近く 少しづつ続けてきた
アマチュアなりに 日本人の来た道を探す文献調査のまとめになると思う
ブログに載せる図を考え 書き散らかしてきた何冊ものノートから抜粋して
こうして 小文にまとめて行くうち見えてきたこともある
参考文献は中国 韓国の史書を含めて数百冊になる
出典はできるだけ書くようにしたいが 忘れてしまったものもある
自分の思い込みもあろうが 後の人が直してくれる事を期待する
西伯の武王發 商を滅ぼし周は中原の覇者となり 周朝が始まった
BC1150年
武王2年 BC1148年 箕子を朝鮮に封ず
聖山である医巫閭(いふろ)山麓 古の鮮(xian)水から音を取り
險濆(xian-du)王險(wan-xian)城 箕子朝鮮はここに始まる
箕子封以前 朝鮮国はあった
箕子封以前は残念ながら伝説しか残っていない
で それは割愛する
商は 後 東夷と呼ばれた人たちの国
夷の一集団が 後 倭と呼ばれる人達となり 山東半島から遼東半島へ入り
朝鮮半島へと定住移動を繰りかえし九州へ定着した
当時 弥生草創期 日本には 今の概念の国はなく
天武帝に至り 大津の皇子と共に国家を完成させていった 長い道のりだった
673年の事である
箕子は殷(商)の紂王の叔父 紂王の暴虐を諌めたが用いられず閉じ込められた
武王はその義を思い 朝鮮に封じた「史記」に詳しくある
夷戎は殷の亡人 狄は夏の亡人 箕子朝鮮は 彼の人の その徳義によって代を重ねたが
後 「史記 朝鮮伝」で 史に現るBC195年
「左伝」に謂う 粛慎 燕 貊 は我が北土である
すでに朝貢国であり属国とみなしてこう言うのだろう
「管子」に謂う 北至る 孤竹に於いて山戎 穢 貊 拘 秦 夏
蛮夷貊狄とは 国敗れて 或いは国を追われ 一旦難を逃れた亡人である
その再興を望み 力をつけ 中原を目指す
孤竹は 後の扶余 後の高句麗の故里である
「古今図書集成」に謂う
李巡 注
(注とは後世の学者が分析調査し 書籍を勘案して文の正誤を正すものである)
爾雅は元黄 楽浪等をもって 九種の夷と為す
天芋口犮((口偏に犮だが字が無いのでこう記す) 八種の蠻と為す
堯夷 戎史等 六種の戎と為す
月支 穢 貊等 五種の狄と為す 是也
「周礼」にあり
楽浪(ro-lan)既にあり
月支都 (as-tal) 後世の辰国の都 「あした」と同音
守るべき地名は 人々の移動とともに 持ち運ばれ 長い年月とともに
古朝鮮の「險瀆」(xian-du) は 玄莵(xian-tu) に変化し
「王險城」(wan-xian-chen)は 月支 蓋斯(as -tal)になる
いにしえの辰国は いつしか文字を失い 朧な記憶とともに玄海(xian-hai)を超えて
1995大林氏の講話にあった話だが
古代の人物の名前の尊称のつけ方
特に 九州日向地方の神話に多いのだが
「ヒコホホデミノミコト」 「カムヤマトイワレヒコ」 「ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト」
「ヒメタタライスズヨリヒメ」とかに見られるように
尊称の (日子)彦 (日女)姫 (御言)尊命 神が語頭に来る名前が多い
中国の羅満氏によれば 中国でも神話的な名前の付け方に同じように2種類ありと言う
黄帝 炎帝のように帝を後ろに持ってくるのを 漢式命名法
帝堯 帝舜のように帝を前に持ってくるのを 越式命名法と言うらしい
このことから考えてみると
堯 舜は 夷族であろうと思われる
呉 越 ともにweiと読む 倭もweiと読む
中国では 蛮夷にあるいは中華で無い物に 卑字賎字を当てることが多い
weiの音に穢や倭の字を当てたり
tʃurkの音に 狄 拘 夏 突厥 鉄勒 丁零を当てたりしている
(tʃurkはチュルク トルコ族である 東胡はその別れである
今のトルコの故里は今の満蒙の広大な平原である)
日御子 日巫女 の音に 卑弥呼の字を当てるのは その例の一つだ
考証の大事な一部だけを書き記す
30年近く 少しづつ続けてきた
アマチュアなりに 日本人の来た道を探す文献調査のまとめになると思う
ブログに載せる図を考え 書き散らかしてきた何冊ものノートから抜粋して
こうして 小文にまとめて行くうち見えてきたこともある
参考文献は中国 韓国の史書を含めて数百冊になる
出典はできるだけ書くようにしたいが 忘れてしまったものもある
自分の思い込みもあろうが 後の人が直してくれる事を期待する
西伯の武王發 商を滅ぼし周は中原の覇者となり 周朝が始まった
BC1150年
武王2年 BC1148年 箕子を朝鮮に封ず
聖山である医巫閭(いふろ)山麓 古の鮮(xian)水から音を取り
險濆(xian-du)王險(wan-xian)城 箕子朝鮮はここに始まる
箕子封以前 朝鮮国はあった
箕子封以前は残念ながら伝説しか残っていない
で それは割愛する
商は 後 東夷と呼ばれた人たちの国
夷の一集団が 後 倭と呼ばれる人達となり 山東半島から遼東半島へ入り
朝鮮半島へと定住移動を繰りかえし九州へ定着した
当時 弥生草創期 日本には 今の概念の国はなく
天武帝に至り 大津の皇子と共に国家を完成させていった 長い道のりだった
673年の事である
箕子は殷(商)の紂王の叔父 紂王の暴虐を諌めたが用いられず閉じ込められた
武王はその義を思い 朝鮮に封じた「史記」に詳しくある
夷戎は殷の亡人 狄は夏の亡人 箕子朝鮮は 彼の人の その徳義によって代を重ねたが
後 「史記 朝鮮伝」で 史に現るBC195年
「左伝」に謂う 粛慎 燕 貊 は我が北土である
すでに朝貢国であり属国とみなしてこう言うのだろう
「管子」に謂う 北至る 孤竹に於いて山戎 穢 貊 拘 秦 夏
蛮夷貊狄とは 国敗れて 或いは国を追われ 一旦難を逃れた亡人である
その再興を望み 力をつけ 中原を目指す
孤竹は 後の扶余 後の高句麗の故里である
「古今図書集成」に謂う
李巡 注
(注とは後世の学者が分析調査し 書籍を勘案して文の正誤を正すものである)
爾雅は元黄 楽浪等をもって 九種の夷と為す
天芋口犮((口偏に犮だが字が無いのでこう記す) 八種の蠻と為す
堯夷 戎史等 六種の戎と為す
月支 穢 貊等 五種の狄と為す 是也
「周礼」にあり
楽浪(ro-lan)既にあり
月支都 (as-tal) 後世の辰国の都 「あした」と同音
守るべき地名は 人々の移動とともに 持ち運ばれ 長い年月とともに
古朝鮮の「險瀆」(xian-du) は 玄莵(xian-tu) に変化し
「王險城」(wan-xian-chen)は 月支 蓋斯(as -tal)になる
いにしえの辰国は いつしか文字を失い 朧な記憶とともに玄海(xian-hai)を超えて
1995大林氏の講話にあった話だが
古代の人物の名前の尊称のつけ方
特に 九州日向地方の神話に多いのだが
「ヒコホホデミノミコト」 「カムヤマトイワレヒコ」 「ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト」
「ヒメタタライスズヨリヒメ」とかに見られるように
尊称の (日子)彦 (日女)姫 (御言)尊命 神が語頭に来る名前が多い
中国の羅満氏によれば 中国でも神話的な名前の付け方に同じように2種類ありと言う
黄帝 炎帝のように帝を後ろに持ってくるのを 漢式命名法
帝堯 帝舜のように帝を前に持ってくるのを 越式命名法と言うらしい
このことから考えてみると
堯 舜は 夷族であろうと思われる
呉 越 ともにweiと読む 倭もweiと読む
中国では 蛮夷にあるいは中華で無い物に 卑字賎字を当てることが多い
weiの音に穢や倭の字を当てたり
tʃurkの音に 狄 拘 夏 突厥 鉄勒 丁零を当てたりしている
(tʃurkはチュルク トルコ族である 東胡はその別れである
今のトルコの故里は今の満蒙の広大な平原である)
日御子 日巫女 の音に 卑弥呼の字を当てるのは その例の一つだ