古代後期小氷期
弥生後期から奈良時代末まで全世界が寒冷期であった
ゲルマンの大移動やローマ帝国の分裂
中国は五胡十六国時代
全世界が争乱と戦争に明け暮れた時代
ヤマト政権が認識していた国土は
多分 北陸畿内より西の地域で対馬まで
東日本の記述は無い
卑弥呼の邪馬台国と同時期に
ヤマト畿内には巨大前方後円墳がある
邪馬台国地域はヤマトに吸収されてゆく
九州がヤマト化したのは4世紀からだろう
九州最初期の前方後円墳が宮崎に現れた
「古事記」の国産み神話
淡道之穗之狹別嶋 伊豫之二名嶋 隱伎之三子嶋 筑紫嶋 伊伎嶋 津嶋
佐度嶋 大倭豐秋津嶋
吉備兒嶋 小豆嶋 大嶋 女嶋 知訶嶋 兩兒嶋
「日本書紀」の国産み神話
淡路洲 大日本豊秋津洲 伊豫二名洲 筑紫洲 億岐洲 佐度洲 越洲 大洲 吉備子洲 對馬嶋 壹岐嶋
応神天皇の第四皇子仁徳天皇の直系である雄略天皇
雄略天皇5年(461年)
蓋鹵王の弟で 東城王と武寧王の父である昆支王は百済の人質として来日滞在
「隅田八幡神社人物画像鏡」
502年癸未の年八月 日十大王の年
男弟王が意柴沙加の宮におられる時
斯麻(百済武寧王)が長寿を念じて開中費直 穢人今州利の二人らを遣わして
白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る
倭の五王を含む仁徳天皇系の血筋は武烈天皇で途切れる
「日本書紀」では
507年応神天皇第五皇子の直系である継体天皇即位
512年継体天皇の時代 任那を百済に割譲した
527年筑紫磐井の乱が起こり翌年平定 磐井の領土は直轄領屯家となる
562年に至り 残っていた加羅は新羅に併合される
ヤマトは朝鮮半島から手を引いた
「後漢書」25〜220年 後漢の歴史
この時代 後の任那(全羅南道)伽羅(慶尚南道)地域は倭と認識されていた
倭人による小国が沢山あった
勿論 当時中国は 数万人の豪族集団も一つの国と認識していた
完結した同一の部族集団は国と見做されていた
高句驪 在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接
地方二千里 多大山深谷 人隨而為居
東沃沮在高句驪蓋馬大山之東 東濱大海 北與挹婁夫餘 南與濊貊接
其地東西夹 南北長 可折方千里
韓有三種
一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接
凡七十八國,伯济是其一國焉
大者萬餘户 小者數千家 各在山海間 地合方四千餘里 東西以海為限 皆古之辰國也
馬韓最大 共立其種為辰王 都目支國 尽王三韓之地 其諸國王先皆是馬韓種人焉
三韓の東西は海であり 南は倭と接していた
馬韓の南 辰韓の南の弁辰も倭と地続きであった
倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮(BC108) 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
其大倭王居邪馬台國
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也
倭の西北界が拘邪韓國で倭奴國が倭國之極南界とあるので
やはり 倭の領域は北九州と朝鮮半島南部であった
ただし 倭国ではなく 倭連合の領域 倭人が居住する地域を指す
「三国志 魏書」180年頃 〜280年頃の魏・呉・蜀漢の歴史
高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接
都於丸都之下 方可二千里 戶三萬
多大山深谷 無原澤
朱蒙が中国満州東南部に建国した高句麗は
南は朝鮮と濊貊(咸鏡南道〜江原道) 東は沃沮(咸鏡北道周辺)
北は満州夫餘国と接していた
この頃には3万戸 人口15万人程の国に成長していた
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居
其地形東北狹 西南長 可千里 北與挹婁夫餘 南與濊貊接
戶五千 無大君王 世世邑落 各有長帥
其言語與句麗大同 時時小異
漢初 燕亡人衛滿王朝鮮 時沃沮皆屬焉
漢武帝元封二年(BC109) 伐朝鮮 殺滿孫右渠 分其地爲四郡 以沃沮城爲玄菟郡
挹婁在夫餘東北千餘里 濱大海 南與北沃沮接 未知其北所極
其土地多山險
其人形似夫餘 言語不與夫餘句麗同
有五穀 牛 馬 麻布
夫余と高句麗は この頃同じでは無かったようだ
濊南與辰韓 北與高句麗沃沮接 東窮大海 今朝鮮之東皆其地也 戶二萬
昔箕子既適朝鮮 作八條之教以教之 無門戶之閉而民不爲盜
其後四十餘世 朝鮮侯(淮)僭號稱王
陳勝等起 天下叛秦 燕 齊 趙民避地朝鮮數萬口
燕人衛滿 魋結夷服 復來王之
漢武帝伐滅朝鮮 分其地爲四郡 自是之後 胡 漢稍別
無大君長 自漢已來 其官有侯邑君 三老 統主下戶
其耆老舊自謂與句麗同種
濊は朝鮮の東(江原道) 人口約10万人 高句麗と同族
南は辰韓(慶尚北道)北は高句麗・沃沮 東は日本海
辰韓と同じ様に燕・齊・趙の難民が数万人いたようだ
韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓
辰韓者 古之辰國也
3韓全域は帯方郡(黄海道南部 京畿道北部)の南
東西が海で南は倭と接している
やはり朝鮮半島南部(全羅南道と慶尚南道)は倭の勢力圏にあった
馬韓在西
爰襄國 牟水國 桑外國 小石索國 大石索國 優休牟涿國 臣濆沽國
伯濟國 速盧不斯國 日華國 古誕者國 古離國 怒藍國
月支國 咨離牟盧國 素謂乾國 古爰國 莫盧國 卑離國 占離卑國
臣釁國 支侵國 狗盧國 卑彌國 監奚卑離國 古蒲國 致利鞠國 冉路國
兒林國 駟盧國 內卑離國 感奚國 萬盧國 辟卑離國 臼斯烏旦國
一離國不彌國 支半國 狗素國 捷盧國 牟盧卑離國 臣蘇塗國 莫盧國
古臘國 臨素半國 臣雲新國 如來卑離國 楚山塗卑離國 一難國 狗奚國
不雲國 不斯濆邪國 爰池國 乾馬國 楚離國
辰韓在馬韓之東
其耆老傳世 自言古之亡人避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之
有城柵
其言語不與馬韓同 名國爲邦 弓爲弧 賊爲寇 行酒爲行觴
相呼皆爲徒 有似秦人 非但燕 齊之名物也
名樂浪人爲阿殘 東方人名我爲阿 謂樂浪人本其殘餘人
弁辰與辰韓雜居 亦有城郭
衣服居處與辰韓同
言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施灶皆在戶西
「竃を設置するのは東向き、南東向きが大吉で、望みごとが成就する」
日本風の風水だな 中国ではない
其瀆盧國與倭接界
十二國亦有王 其人形皆大
衣服絜清 長髮 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
背が大きく 長髪か
髷を結わない 垂髪
ネイティブアメリカンの風俗だな
そう言えばトーテムポール
天下大将軍・地下女将軍(チャングンピョ)として朝鮮の風俗として残ったようだ
已柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離彌凍國
弁辰古資彌凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁樂奴國 軍彌國
弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戶路國、州鮮國 弁辰狗邪國
弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國。
この瀆盧國(大邱市地域)は倭と接している
勿論 斯盧國もある
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
倭の北岸狗邪韓國(釜山広域市地域)
初期の三韓である韓国地域は全羅北道と慶州北道
三韓は倭種と濊貊の混血集団である
日本は倭種と縄文種の混血集団
沖縄は日本人と縄文人の混血
アイヌは縄文人とオロチョンと古墳人との混血
結構 違いは大きい
この倭の領域の小国家群の中から
部族連合国家である任那国(全羅南道)と伽羅(慶尚南道)の2国が台頭し
ヤマト支配から離れ自治国家として自立を始めるようだ
「周書」535〜581年 西魏・北周両朝の歴史
高麗者 其先出於夫餘
自號曰高句麗 仍以高為氏
其地 東至新羅 西渡遼水二千里 南接百濟 北隣靺鞨千餘里 治平壤城
王族は高氏 中国化されている
427年高句麗は初めて北朝鮮を首都を遷都 平壌を高句麗の首都とする
広開土王の頃 人口は105万「東史補遺」
この頃の倭 学者によって推定値は異なるが人口は推定150万人
飛鳥奈良時代日本が約400万人 新羅が90万人「三国遺事」だから
そんなもんだろう
新羅(慶尚北道)が慶州に都を作り勢力を拡大する
百濟者 其先蓋馬韓之屬國 夫餘之別種 有仇台者 始國於帶方
故其地界東極新羅 北接高句麗 西南俱限大海 東西四百五十里 南北九百餘里
王姓夫餘氏 號於羅瑕 民呼為鞬吉支 夏言竝王也
妻號於陸 夏言妃也
東は新羅 北は高句麗 西と南は大海とある
この時点で朝鮮半島に倭は勿論 任那もない
南斎書 479年〜520年までの南斉の歴史
加羅國 三韓種也
建元元年(479)國王荷知使來獻
詔曰「量廣始登 遠夷洽化 加羅王荷知款關海外 奉贄東遐 可授輔國將軍 本國王」
建元元年(479)進新除「使持節 都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事 安東大將軍」 倭王武號為「鎮東大將軍」
ま 結局 斎は倭の新羅・任那・加羅の支配権を認めたようだ
歴史的には
中国から見た倭の領域と
現代日本人から見た倭領域は微妙に異なる
倭の小国群は 邪馬台国は 日本の一部になった
朝鮮半島から倭の名前が消えたのは512年
任那が百済の領土となる
562年に至り
残っていた加羅も併合され 加羅は新羅の領土となる
朝鮮半島経営から手を引いたヤマトは日本へと変化してゆく
飛鳥奈良時代を経て 列島統一は進んでゆく
日本は縄文人の国でもなく 倭人の国でもない
混血種である我々の日本人の国である
で
混血は現在も進行中である
古代も今も朝鮮半島と関わるといろいろ面倒な事が起こる
触らぬ神に祟り無し 半島は近づいてはならない地域ではある
今日の集計
国民にお願い だけでなんとかなってる
が
日本より悲惨な国は世界に沢山ある
この程度で悲鳴を上げるのはまだ早い
が
医療崩壊が始まっているし
他の病気の重症者にも影響が出ている
ワクチン接種すらトラブル続き
当人宛の 確実接種葉書1枚で済むことなのに
電話予約とかネット予約とかクーポンとか 人員と金の無駄遣いにしかならない
ネットで管理したいのならばもっと完全なシステムを提供してもらいたい