スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
知ってほしいと思い書いています。
開拓団での生活
開拓団では、すべてが馬だった。
畑を耕すのも出掛けるのも。
鞍をつけずに どんごろす をのせ、その上にのるのだが、わたしには馬の背が高すぎて乗れないため 峰さんに抱き上げてもらい乗っていた。
尻が痛くなり 赤くはれていた覚えがある。

満州の記録サイトより写真引用
照男と満男
照男は当時5才だった。
おとなしい子で、あまり記憶に残っておらず申し訳ない。
満男は誕生日が来たと 母が言っていた。
乳牛がいて、毎日乳しぼりをやっていた。毎日 牛乳ずくめ。水のかわりに牛乳を飲み、飯にも汁にも牛乳が入っていて、伝い歩きをしていた満男が みるみるうちに まん丸くなり、可愛くなったのを覚えている。
開拓団の学校
小学校は馬車で通った。
峰さんと二人の時もあれば、村の女の子二人を乗せて行くこともあった。
最初の頃 峰さんが
「しっかり持っていないと橋が落ちるど」と、橋の上を通るたびに言うので、本当かと思って馬車にしがみついていた。
今から思うと、変な話だ。
馬は校庭につないでおく。学校の帰りには、湿地の中で“かえどり”をして 魚をたくさん採った。大きなナマズがいた。
学校の授業は遅れていて わたしは天狗になっていた。
女の子はひとりは坂本といい、同級生だった。
のちに手榴弾で、親と一緒に死んだ。
もうひとりは高村きみちゃんで1級上。
満州から引き揚げて 、市村小学校に一緒に転入した。
のちに青酸カリを飲んで死ぬことになった時、
きみちゃんの親が飲む番になって便所に行き、その次の順番だった わたしの母が飲んで死んだのだ。


他の記録サイトより引用写真

他の記録サイトより引用写真
日本が敗けた
大人たちが 日本は敗けたと話をしていたが、わたしには意味がわからなかった。
それ以来、あきらさんや峰さん、その他の大人が鉄砲を持って、高い乾燥場にあがり警戒をする日が続いていたが、
ある日、『武器を納めよ』と命令がきたらしい。
武装解除は心配だ と、言ってはいたが、
命令だからと、それぞれ家にある武器を開拓団本部に持っていく話、誰が持っていくのかという話をしていた。
たくさんの38式歩兵銃や、性能のいい銃、弾薬を馬車に積んでいる姿を覚えている。
それまでは 家で大人たちが、よく銃の手入れをしていた。
満人が襲ってきたら、と 家の開口部には全部トタンを張り、大切なものは瓶に入れて、家の中の土間やオンドルの中に入れて隠した。
おそらく 日本が敗けたら”満人の襲撃があるかもしれない“という噂が あったのだと思う。
大切なお金は、ひとりひとりに分けて、胴巻きにして腹に巻きつけた。
わたしも持たされていた。