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父の終戦と満州ひきあげ記 2〈開拓団の生活〉

2021-02-26 20:27:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。

肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
知ってほしいと思い書いています。


開拓団での生活



開拓団では、すべてが馬だった。
畑を耕すのも出掛けるのも。


鞍をつけずに どんごろす をのせ、その上にのるのだが、わたしには馬の背が高すぎて乗れないため 峰さんに抱き上げてもらい乗っていた。


尻が痛くなり 赤くはれていた覚えがある。



満州の記録サイトより写真引用



照男と満男

照男は当時5才だった。
おとなしい子で、あまり記憶に残っておらず申し訳ない。
満男は誕生日が来たと 母が言っていた。
乳牛がいて、毎日乳しぼりをやっていた。毎日 牛乳ずくめ。水のかわりに牛乳を飲み、飯にも汁にも牛乳が入っていて、伝い歩きをしていた満男が みるみるうちに まん丸くなり、可愛くなったのを覚えている。



開拓団の学校


小学校は馬車で通った。
峰さんと二人の時もあれば、村の女の子二人を乗せて行くこともあった。


最初の頃 峰さんが
「しっかり持っていないと橋が落ちるど」と、橋の上を通るたびに言うので、本当かと思って馬車にしがみついていた。
今から思うと、変な話だ。
馬は校庭につないでおく。学校の帰りには、湿地の中で“かえどり”をして 魚をたくさん採った。大きなナマズがいた。



学校の授業は遅れていて わたしは天狗になっていた。



女の子はひとりは坂本といい、同級生だった。
のちに手榴弾で、親と一緒に死んだ。
もうひとりは高村きみちゃんで1級上。
満州から引き揚げて 、市村小学校に一緒に転入した。


のちに青酸カリを飲んで死ぬことになった時、
きみちゃんの親が飲む番になって便所に行き、その次の順番だった わたしの母が飲んで死んだのだ。







他の記録サイトより引用写真




日本が敗けた


大人たちが 日本は敗けたと話をしていたが、わたしには意味がわからなかった。


それ以来、あきらさんや峰さん、その他の大人が鉄砲を持って、高い乾燥場にあがり警戒をする日が続いていたが、
ある日、『武器を納めよ』と命令がきたらしい。



武装解除は心配だ と、言ってはいたが、
命令だからと、それぞれ家にある武器を開拓団本部に持っていく話、誰が持っていくのかという話をしていた。



たくさんの38式歩兵銃や、性能のいい銃、弾薬を馬車に積んでいる姿を覚えている。
それまでは 家で大人たちが、よく銃の手入れをしていた。


満人が襲ってきたら、と 家の開口部には全部トタンを張り、大切なものは瓶に入れて、家の中の土間やオンドルの中に入れて隠した。


おそらく 日本が敗けたら”満人の襲撃があるかもしれない“という噂が あったのだと思う。


大切なお金は、ひとりひとりに分けて、胴巻きにして腹に巻きつけた。
わたしも持たされていた。