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ひるがの周辺、めぐりあいの1日

2020-10-04 20:10:06 | 日記

前から秋になるとコキアを見に行きたいと思っていた。

10月4日。色づいたコキアに会いに朝9時、家を出発。

行先はひるがのピクニックガーデン(のはずだった)。

曇り空が少し気になったが主人が「雨は降らない」と、断言するので素直に信じて家を後にした。

高鷲で高速を降りるとHPのアクセスでは書かれていたが、その1つ手前のひるがの高原スマートICのほうが近いだろうとそこで降りたのが、今日の予定をすべて替えた。

降りたはずなのに高速道路が続いている。

おかしい。とりあえず次の荘川で降りた。

その時、12時前。小雨が降り出していた。

お蕎麦屋さんが多いところとみえて家周辺のコンビニの間隔くらいだ。

2件のお蕎麦屋さんを通り越した3件目が際立って賑わっていた。蕎麦好きの主人が見逃すはずがない。即決で入ることにした。

なかなか頑固そうな親爺さんが外食店にしては珍しく検温したり、トランプの悪口を言ったり存在感を醸し出している。

蕎麦にもこだわりがあるに違いないと感じしばし順番を待った。

主人はおろしそばセット、私は源流そばセットを注文。

うーん、確かに美味しい。そばがもちもちしている。

大満足の主人は珍しく食事代を支払ってくれた。機嫌がいいとたまに自腹を切る。

 

外はまだ小雨があたりを湿らせている。

こんな天気の時に濡れる覚悟で、わざわざコキアを見に行くこともないだろう。それに今年は猛暑で、木が小ぶりだという。何年か前に茶臼山で雨に濡れながら色づきの悪い芝桜を見に行き、がっかりしたことがある。

なんだかあの時の二の舞になりそうで、今回は諦めることにした。

ピクニックガーデンを横目に2番候補のひるがの分水嶺公園に行くことにした。隣に湿原公園も続いている。

湿原に入ると人の気配が全くない。歩いていくほどに次々とかわいい植物が目を楽しませてくれた。

ヤマラッキョムラサキツメクサムラサキシキブ

ミゾソバマツムシソウブナシメジ

ナガボノアカワレモコウ

ツリフネソウツリガネニンジン(花)

サワシロギクサラシナショウマ

エゾリンドウアケボノソウ

サラシナショウマ

 

主人と10年近く前、1泊のバスツアーで確か新潟方面の山間部に行ったとき、早朝近くの森を散策したことがある。自動車も人影もなく、ただ自然だけが横たわっている。小さな森に靄がかかり、何とも幻想的だった。

なんて豊かな気持ちになれるんだろう!!自然だけがおおらかに広がり、湿気を帯びた樹木の香りが鼻孔をくすぐる。

 

ぐるっとひとまわりして目印の山小屋風の建物横に戻ってきた。

なんの建物だろう?ふと看板を見るとベーコン小舎グリュンと書かれている。

ちょっと興味を持ってそうろっとドアを開けた。

説明書きによると、添加物0、アンデスのローズソルトだけで味付けしスモークしたベーコンとハム、鶏むね肉の燻製が売られていた。添加物0というのが気に入り、京都の母、2人の息子夫婦、家遣いの分を買ったら、ベーコンを1塊おまけしてもらった。

うーん、なんて今日は出たとこ勝負のラッキーな1日だったんだろう!!

予定通りピクニックガーデンに行っていたら、経験できなかったに違いない。

明日は私の赤い洋服を着る誕生日。

ちょっとうまく出来過ぎてはいまいかと心地よい疲れを感じた。

 

 

 


2020年夏の思い出ー桑名宗社鍛錬打ち始め式ー村正

2020-09-30 12:59:45 | 日記

お彼岸を過ぎ、10月の声を聞くころになるとさすがに風が爽やかになり、過ごしやすくなる。

近年はお彼岸を何日か過ぎて、やっと夏の終わりを感じる。

暑さ寒さも彼岸まで…と幼いころから聞き慣れているが、もうすぐこの言い回しも忘れ去られてしまうのではないか。

 

数年前からこの時季になると猛暑の夏を思い出す習慣がついてきた。

つらつらと今年の夏を振返る。コロナ禍で三密を避け、人がほとんど行かないような湧き水巡りをした。ていうか、主人が行くのを私はくっついて行っただけなのだが…

でも例外のところが1ヵ所ある。

三重県桑名市の桑名宗社(春日神社)。

そこで行われた鍛錬打ち始め式に、気温37℃を超える中参加した。

桑名宗社は県指定文化財の歴史的にも極めて貴重な、奉納刀村正を2口所蔵している。

村正といえば徳川家も恐れた妖刀として有名。

太平洋戦争下、桑名宗社に伝わる村正に漆を施し、刀を守るため神社外に疎開させた。

戦後、この令和の時代まで漆は剥がされることはなかったが、漆を取り除き地刃を研ぎ上げる令和の御大典事業が行われた。(桑名宗社のHPから抜粋)

以上のことはNHKの特集でも放映された。さらにネットで調べると宝刀村正写し奉納プロジェクトとしてクラウドファンディングとして紹介されていた。

私は即決で支援を申し込み、鍛錬打ち始め式の招待を受けたという次第だ。

3月に予定されていたのが2度の延期で、8月に開催された。

連日の猛暑で、外出する行為に危険さえ感じられたが、折角のご招待。鍛錬打ちなど、滅多に経験できることではないので、いつものように主人に運転してもらい出掛けた。

猛暑で人通りがほとんどない街中で、神社の周辺だけが渋滞しており、境内も賑わっていた。

つきあってもらったお礼の意味もあり、手打ちするのは主人に頼んでいたが、受付がすませて順番が来る間際になったところで、「せっかくの記念になるから、やっぱりお前が打て」と急に言ってきた。

30~50代の女性の参加が多く、みんな火花が飛び散ることも気にせず打っているので、じゃあ、私もと、意を決した。

最初に聴いた打ち出しを始めるときの作法を思い出し、まず一礼してから大鎚を持ち、切り株の上で3度打つ。

次からが本番だ。窯から出てきたばかりの鋼を大鎚で3度叩き、大鎚を元の場所に置き、最後に一礼という手順。

私はちょっと緊張をほぐすため空打ちと本打ちの間、腰を下ろして鋼が窯から出てくるのを待った。

その姿が目に留まったらしく、刀職人の方から「今まで火打ちされたことがありますか」と意外な言葉を受けた。

「腰を下ろして待つのは、正式な作法です。びっくりしました」と思わぬことを言われた。

「いえ、楽にして待ってようと思っただけです」と言い、数秒後に「しまった!余計なことを言わなきゃよかった」と後悔…その場で、にこっと微笑むだけで私の印象が変わっただろうに…

刀は太古の昔から神にささげる宝物だったので、作る段階から人間は腰を低くして見下げてはいけないという作法があったのだろうかと想像を巡らせた。

神社の方に写真を撮っていただき、主人には動画を回してもらい、ちょっと照れくさかったが無事に終わった。

三重放送の中継でマイクを向けられたが、歯切れが悪い口調でしゃべったので、きっとボツになっただろう。

最後に宝物館で本物の村正を見て宮司さんの解説を聴き、漆黒の村正を紹介したNHKのビデオを再び見た。

ゲーム等の影響もあり、刀剣ブームと言われて久しい。

日本を象徴する美術工芸品の頂きともいえる刀。

恐ろしくもあり、妖しげでもあり美しくもある刀を伝承する職人さん方に敬意の念を抱き、神社を後にした。

追記:境内の片隅で売っていたカラマンシージュース(シークアーサーの8倍のビタミンC)がおいしかった


映画「ミッドウェー」

2020-09-28 11:25:34 | 日記

初めてブログを投稿します。

 

コロナ禍のためしばらく映画からご無沙汰していた。

スケジュール帳で調べると、2月に「1917命をかけた伝令」を見て以来、7ヵ月ぶりだ。

そういったら前回も戦争もの。

戦争ものの映画、特に戦闘シーンを売りにする映画は、私の勝手な想像だが、男性のほうが多く見るのじゃないかと思う。

今回見た「ミッドウェー」もまさに見せ場は戦闘シーン。

情報戦のシーンも時間を割いていたが、やはり映画の醍醐味からいくと、視覚、聴覚を揺さぶる戦闘シーンは圧倒的だ。

見る映画の9割方は日本映画でジャンルはヒューマンものが多い中で、洋画で戦闘シーンが見せ場なのは初めて。

感想はいろいろあるが、まず体に悪かった。

轟音と過激な戦闘シーンに体がもっていかれるような錯覚に陥り、しばらく食欲がわかなくなった。

「もう殺し合いはやめて!!」と心の中で叫んでいた。

主人に聞くと、平然とした声で「まあ、あんなもんやろと思てた」とのこと。

太古の昔、狩りを担当していた男性と近隣住民の和を担当していた女性のDNAの違いを強く感じる。

家に帰ってから私は頭の中で鳴りやまぬ轟音を打ち消すため、初秋の虫の声が鳴り響く愛知用水路をウォーキングに行った。

それでもやはり映画を思い出す。

アメリカの戦争もんってどこか明るい。

ブラックユーモアーも交えるし、ジョークだって忘れない。戦争ものに限ったことではないのだが…

日本の戦争ものだとこうはいかない。クスッとするシーンなどほとんどない(ような気がする)

それに驚いたことに米国では戦争の際、働きがいいと上官からいきなり等級をあげられるのだ。

個人プレーが良かったのでご褒美を与えましょうということか。

日本なら結果オーライでもたいがいは、運がよかっただけでチームプレイを今後乱さないように、なんてくぎを刺されかねない。

アメリカの戦争ものはどこかからっと乾いたところがあるが、乾湿で分けると日本のは湿っぽい。

勝てば官(乾)軍?! 国民性の違いも大いにあるだろう。

 

数年前、「永遠の0」を見て太平洋戦争のことをもっと知りたいと思うようになった。

テレビでもその関係のドキュメンタリーなんかがあると、大概は見るようにしている。

毎年、私の知らなかった戦争時のことが放映され、新事実が明かされる。

1945年終戦を迎え、私が生まれたのはその15年後だ。

15年の経過といえば、その当時今の家に引っ越してきたのが、15年前だった。15年の経過が身近に感じられた。その時初めて戦争が遠い昔のことではないことを思い知ったのだ。

15年の間に日本は目覚ましい復興を遂げ、私が生まれた1960年代は高度成長期だ。当たり前に感じていた何の不自由もない生活がなんとありがたいことだったのかと思い知らされる。

そして今度は、戦争の事実を次の世代に引き継ぐことが大切だと見終わっていつも思うのだ。