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秋の夜長ー私の編み物歴

2020-11-11 15:13:11 | 日記

 朝晩は暖房が恋しくなるまでに寒くなってきた。

私の好きな編み物の季節、到来!

とはいえ、編み物という手間のかかる手仕事は年々敬遠されるようになって久しい。

今や、セーターなど編む人はごくごく少数派。小物の編み方を扱った本が、昔よりずっと多い。

時間をかけて肩を凝らせて編まなくても、安くて、軽くて、ジャブジャブ洗えるセーターがあふれかえって売られている。

昭和初期のもののない時代では細い毛糸で、女性たちが夜なべ(という言葉自体、今は使わない!)をし、編んだセーターが貴重なものだった。

大人が着なくなったセーターをほどいて、子供のセーターにリメイクしたりして、大切に毛糸を再利用していた。

 

母はそんな時代に兄姉を育てた。

母はその母(私の祖母)の手先の器用さを受け継いだ。

祖母は手元を見ずに人の顔を見ておしゃべりしながら、編み物をしたそうだ。

叔母が小学生の頃の先生が、手編みの達者な祖母のことを聞きつけ、編み物を教えてほしいと訪ねて来たと母から何度か聞かされた。

母も兄や姉や私の幼いころ、セーターを何枚か編んだ。

兄と姉は年子で私は姉の7歳下なので、多少世の中の情勢は違っている。

兄や姉の幼いころ、セーターを手編みするのは生活の一部だったが、私の成長期の頃の手編みは世の中で1枚しかないものを作る贅沢なおしゃれの対象だった。

兄や姉の4,5歳の頃のモノクロ写真と私が中学の時、母に編んでもらったセーターを着てのカラー写真を比べたら、一目瞭然だ。

 

母と姉は晩秋の頃になると毎年のように手編みをやりだした。

小さいころからの見慣れた光景なので、幼心に「秋は手編みをするものなのだ」と私の頭の中に刷り込まれた。

 

私が小学1年生か2年生のころ、私も何か手を動かしたくなり、訳もなく鎖編を何本も色を違えて長々と編み、母たちの仲間に入ったような誇らしい気持ちになった。編んだ鎖編みを輪にしてあやとりで遊んだ。最初に覚えた「ブリッジ」は今まだ作れるだろうか…

それから秋になると飽きもせずに鎖編みをしていたが、そのうち、違う形のものを編んでみたくなり、鎖編みを基にでたらめに編んで、丸い形を作った記憶がある。長い紐ではなく、面積のある形が無茶苦茶でも出来上がった時の喜びは遠い記憶として私の頭の中に埋もれている。

そのうちかぎ針編みでは飽き足らず、二本針に挑戦したくなった。

表目と裏目の組み合わせでいろんな模様が編めるのに夢中になった。

近くの毛糸屋さんではじめて買ったピンクのアクリル毛糸で縄編みを入れ長方形に編んだものをひざ掛けだと言って母にプレゼントしたのが私の初めての作品だ。10年近く前、家を改築した時まで押入れの奥にそのひざ掛けはしまってあった。

そして高校1年のとき、赤い毛糸をベースに白茶や白緑の絡み毛糸を2本どりにしたトックリの2目ゴム編みのセーターを初めて編み、手編みセーターデビューした。

45年以上たった今でもその色合い、手触り、デザインははっきりと覚えている。

そのころ京都の公立高校は私服登校で、何回かこのセーターを着て行った。

 

それからというもの、毎年秋になれば恒例のようにセーターやカーデガンをシーズン中、2,3枚は編んでいた。

高2の頃、大河ドラマで「黄金の日々」が放映されていて、石川五右衛門役だった亡根津甚八のファンになった。

彼のコンサートに行った際、ひそかに編んでいた青色セーターをプレゼントした。そんな若かりし日の気恥ずかしい思い出もある。

年々編み物のデザインは複雑な模様編みや編み込み模様をするようになった。飽き性の私は単純な編地を編んでいると眠くなり、いやになってくるのだ。

毎年秋になるのが楽しみで、今年はどんなデザインのニットを編もうかと書店で、新しく出版されたニットの本をめくり、その中で、2枚ほど編んでいた。

ニット界の貴公子と言われた広瀬光治氏の気品のあるデザイン、対称的にキリっとしたデザインの素敵な戸田恵梨香さん、フェアアイルの色合いがなんとも絶妙な黒ゆきこさん… 本を見ているだけでも幸せな時間が流れていった。

 

やがて結婚し、主人のセーター(だったと思う?!)を編んだのを最後に妊娠、出産、育児で、10年以上編み針を持つことはなくなった。

 クニュールニット  ニットチュニック

それから何年くらいたっただろうか…

ネットで見かけたセーターのデザインに一目惚れした。ユニオンウールという世界の毛糸を通販しているサイトで、約20年ぶりに編みたい気持ちに灯がともったように感じた。

それからというもの、凝った模様編みのセーターを数枚、コットン糸のかぎ針編みも数枚、円座にはまったこともあり、友人や親せきにも10枚くらいは編み、プレゼントした。

 コットンニット

20代の頃は素敵なデザインのニットを着たいという気持ちが先行して編み物をした。

最近ではネットからの情報で、ブリオッシュ編みだの英文パターンで編むだのと刺激されて編んでみたくなる。

編み方のコツなんかもYou Tubeで山のように見つかり、それを試したくなる。

街の毛糸屋さんは見なくなったが、ネットでどんな毛糸でも手に入る。

昨年は全体が白樺編みのセーターを約5ヶ月もかけて編み上げた。前後見ごろを別々に編むと端糸の処理に時間がかかるので、脇下まで輪編みし、表目だけを見て編めるようにした。一つのパーツで、裏編みするときは編み進める方向を左から右に編み、一切、裏編みしないで最後まで編んだ。

私の独自の編み方はどこを探しても出ていなかった。編むのにはとっても楽しかったが、出来上がったサイズが大きくなりすぎて息子に着てもらうことにした。

 

さて今年は昨年ピンタレストで見かけたアラベスク調の編み込みセーターに挑戦している。

思い出すのは、20代のころ多色の総編み込み模様のセーターを編み上げ、襟元が少し歪んだもののお気に入りの1枚になったセーター。1段に2色の糸を模様に沿って替えていくのだが、左手の指の糸のかけ方を自己流で左手の人差し指と中指にかけ、その時はスムーズに編めていた。今回も同じように編もうとしたが、なぜかうまくいかない。

その話を姉にすると、ニッティングリングというものに行き当たったが、スムーズに編めない。いろいろ試してみた結果、百均で売っている綿コーティングの太ゴムを人差し指に二重に巻き、二本の毛糸を分ける編み方に落ち着いた。最初のつくり目が慣れない編み方のせいか、5回ほど編み直し、ようやく編み込み模様、10段くらいのところを編んでいる。

今のニットのデザインも数十年前のデザインもさほど変化はない。でもネットで調べたら、新しい編地やきれいに仕上げるコツ、編み物ブログなんかがすぐに見ることができ、どれも試してみたくなる。

1ヵ月に1度会う姉にもよく編み物をして、編み物談議に花を咲かせている。

 

休日の誰もいないリビングでする静かな編み物時間は至福のひとときだ。時々ふと母が横にいるような気がする。

まだ、改築する前の隙間風の多かった京都の実家。寒い冬の夜でも編み物をしていたらポカポカと体が暖まった。

心も、そして時間までも編み物は温めてくれる気がする。

 

 

 


10月に想うこと(秋明菊編)

2020-10-15 10:44:07 | 日記

 庭の秋明菊が満開を迎えた。

今年は猛暑の時期が長かったせいか、1ヵ月ほど遅い。

 貴船菊

20年近く前に京都の貴船神社で咲き乱れているその花を初めて見たとき、一目惚れした。

色はピンクや白がおもで、種類が意外に多い。

シュウメイギク ルフィア

家に咲いているのは”ルフィア”という種類。ピンクの濃淡の5枚の花弁で(額が花弁化したもの)花弁の長さがまちまちで、濃いピンクの花弁は短く、薄ピンクのそれは長い。歪な形をしているがそれがまた個性的に思える。

5人家族だったので(うち2人は結婚した)5枚の花弁を5人の個性に見立てて、いとおしく思えた。太陽にその身を向けている姿がなんともいじらしく、明るく笑ってるように見える。

早い年だと8月中旬に開花宣言をする。大体、お彼岸の頃が満開という年が多い。

主人の父の命日と重なるので、なんだか感慨深く満開になると、私の心まで染められるようだ。

彼岸花も艶やかだが毒があるせいか、負のイメージもつきまとう。かたや秋明菊はどこまでも明るく、陰のイメージは感じない。

毎年初めて咲いた花を写真に収め、ファミリーと高校時代の友達のライングループに送る。

毎年決まって、「私の好きな秋明菊が咲きました」のコメント入り。

それから3~4週間して今度は「満開になりました」との報告。

毎年同じことを2、3年続けているので、定期便のようだ。

「またか…」、「毎年変わり映えもせずに…」と内心思っているかもしれないが、私にとっては日常の中のささやかなニュースだったり、励みだったりする。毎年、心優しく、何人かが返信して話につき合ってもらえるのが、また嬉しい。

今年はブログにまで書いて、僅かでも日本中のどこの誰かも知れない方に読んでもらえたら、嬉しさも一入だ


今年を振り返って

2020-10-13 12:25:14 | 日記

今年も残り2か月余り。

このお正月にこの一年でやってみたい(挑戦したい)ことを考えて手帳に書き留めた。

・名古屋、堀川の屋形船乗船-----サムライクルーズ

・長良川でラフティング(昨年ネパールでパラグライダーを経験したので、空の次は川のアドベンチャー)

ところが早くも2月の時点で二つともコロナ禍でアウト。望みは限りなく0に近くなった。

でも、何もしなかったわけではない。いろいろ新しい初めての体験を結構がんばった。(私にしては…)

5月の連休の時はタブレットを新調した。7インチのおばあさんタブレット(動作がものすごく遅い)をスマホ+10インチタブレットの二つ使いに替えた。両方の初期設定とライン等のアプリの設定、加えて姉の勧めでシムカードもラインモバイルに換え、速く快適にネットを楽しめ、通信料も主人と2人で千円安くできた。

クロームキャストにも繋げ、当然の流れでプライムビデオを喜んで見ている。

全くのアナログ派の私は、IT関連の作業をするときは拒否反応から毎回、いまだに心臓がドキドキする。でもだれにも頼れない。仕方なくグーグルやユーチューブを先生にして調べまくり、サポートセンターに電話をしまくり、何とか使えるようになる。世の中には親切に事細かく解説してくれる人がなんと多いことかと、そのたびに感謝して、繋がった時の喜びで小躍りするくらいだ。

そのほかには漫画嫌いだったのが、大人向け(古代歴史もの)コミックに出会う機会があり、ヤフオクで買ったりして、趣味の域が広がった。

通勤時にはユーチューブの音声のみで、武田鉄矢の今朝の三枚おろしや、好きな桂文珍さんの落語を聞いて、渋滞のイライラをほとんどなくしている。おかげでモバイル通信量が契約のギガ数では足りなくなってきた。

新しくしたといえば、冷蔵庫。20年使っていたとは思いもよらず、最新の冷蔵庫の4倍の電気代を払っていたと知った時、ちょっとショックだった。

エディオンで下見だけのつもりが、ジャパネットたかたで今日広告に出ていた価格よりさらに安くすると聞き、即決。野菜室も今まで通りの真ん中にあり、乾燥が防げる設計になっているそうだ。中に入っているものも見つけやすく、大満足 店頭価格より5万近く安く買えた

数年前に一度挫折したブログ投稿も再挑戦して、これで6作目を数える。

そろそろ気温も下がってきたので、何十年かぶりに編み込み模様のセーターも編もうと、試し編みを始めている。

うーん、自分でいうのもなんだが、なかなか精力的な1年を過ごせた。

さて、毎年12月末に発表される今年の漢字一文字。

私の漢字一文字も考えてみた。

・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・「!!

なんと単純!!

でも、シンプル イズ ベスト!!!

 


秋に想うこと

2020-10-12 13:19:28 | 日記

今年もはや、10月中旬。

残すところ、あと2ヶ月半。

事務の仕事をしていると、毎年10月になるこれから年末にかけての仕事の算段を立て始める。

給与事務の集大成の年末調整が待っている!!この仕事がなければ秋になるこの時季、枯葉を見ながら物思いにふけ、読書を楽しみ、ハロウィンの頃はかぼちゃのお菓子なんぞ作り、11月になれば結婚記念日をみんなで祝い、12月の声を聞くやクリスマス、お正月の用意に身を染める…なんて、幸せを絵に描いたような毎日を送るなんて妄想するが、毎年、年賀状の絵柄を決め、印刷するのに精いっぱいだ。

でも、今年でそんな仕事中心の年末も最後になる。

来年3月末で定年を迎え、すでに大半の仕事の引継ぎも順調で、信頼できる後継者に恵まれたことは幸せだ。

 

先週、還暦の誕生日で、家族からお祝いのメッセージをもらい、主人からは私の好きなピンクとレッドがベースのかわいい花束を貰った。

結婚した2人の息子たちからは毎年4人それぞれに、ハッピーバースデイのラインが来る。娘からは誕生日前後の数日間、夕食を作ってもらい、これがまた何とも嬉しい!!

いがみ合い、嫁姑のいさかえが絶えなく、最悪、殺人事件まで犯す家族まであるこの世の中、ファミリーが仲良く、誕生日を祝ってもらえることは、何の幸せにも代えがたい宝物のように思える。

今年は次男夫婦に長男もできた。名前は凱士(かいと)。

姉の初孫ができたときは、たまに家にお喋りに行くと、孫自慢ばかり聞かされていた。

孫ができるとあんなふうになるのかなあ…くらいにしか思わなかった。

ところがどっこい、姉と同じ立場になると、姉の気持ちがよーく理解できた。

とにかく孫はかわいい。無条件にかわいい。何をしていてもかわいい。どこの赤ちゃんより凱士は優れていると思い、おばあちゃんバカが甚だしい。

3人の子供を産んで育てたときとは、かわいさの質が別格だ。

この話の続きは別の機会に書くとして、この少子化の時代、どこの家庭であれ子供が生まれるのは日本国民としてはありがたいことだと思う。

次男とこから、週に最低一度は動画や写真が送ってくる。凱士フィーバーが冷めやらぬ中、次なる朗報は長男夫婦が家を建てるという。何もこのコロナ禍にわざわざどんなリスクが襲い掛かるやも知れないというのに…

「なにも、こんな時期に~」と息子に忠告してはみたが、彼の決意はすでに固まっていた。

7月中旬に地鎮祭に参加し、棟上式も終わり、予定では来年1月に引っ越しできるという。その間に、長男の家にもコウノトリが知らせを告げ、来年4月に出産予定とのこと。朗報は、続くときには続くものか…

あまり続くとなんだか反動が恐ろしい。慣れることはたやすく、ありがたみが当たり前のように思えてしまう。がたいがい次に、ちょっと悲しかったり、腹立たしかったり、悔しかったりのことが起きる。

人生の浮き沈みが極端にならないように小さい山と谷でバランスをとっているようだ。

 


追悼、エディ・ヴァン・ヘイレン

2020-10-08 22:06:06 | 日記

10月6日。

ヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンが昇天した。

享年65歳。

1984年5週にわたり全米トップを記録した”ジャンプ”は、ロックファンならずとも有名。

私が24歳のころこの曲を初めて聞いたときは、体の芯を突き抜けるような感覚を覚えた。

ところがギターだけでなく、キーボードも演奏していたと初めて知った。

一体、どんな人物だったのだろう?

1955年、オランダ、アムステルダムで生まれる。父はクラリネット、ピアノ他複数の楽器奏者。子供時代はピアノを習う。

1962年カリフォルニア州に移住。船で運んだピアノを船上で演奏したという。(ヤフーニュースより抜粋)

彼にとっては音楽が人生のすべてだったのだろう。音楽で生計を立て、音楽によって成長し、尊敬された人生。

ギタリストになってからは右手でギターの弦をたたく、ライトハンド奏法をやってのける。

ギタリスト、音楽プロデューサーの野村義男氏によると、このライトハンド奏法は間違ったギターの使い方とのことだが、当時ギタリストを目指すものは彼の弾き方に夢中になったという。

さらに同氏は「彼の偉業はジミ・ヘンドリックスに匹敵する」とまで言う。(朝日新聞デジタルより抜粋)

それまで誰も聞いたことがない特殊奏法はまだある。

一つの音を超高速で弾く「ハミングバード・ピッキング」さらにギターなのにバイオリンやオルガンのような音を出す「バイオリン奏法」

ギターの演奏に飽き足らず、寄せ集めの材料でオリジナルギターを作ったり、アンプの電圧を独自に下げて抜けのいいヘビーサウンドを作ったりと音のためなら電気技術も操る魔術を持っていたかのようだ。

そして異常ともいわれる無類のリズム感はプロでも完全コピーが不可能と言われる神業だ。

彼のギター魂は黒人、白人の壁も超える。あのマイケル・ジャクソンの「今夜はビートイット」のギターソロはエディ・ヴァン・ヘイレンだ。しかもノーギャラで引き受けたという。人種の壁に音楽で挑もうとしたかのようだ。

以上、産経新聞からの抜粋だが、最後に次のように結んでいる。

”ロック界のスティーブ・ジョブズ”

彼の手作りギターは「フランケンギター」(人道人間フランケンシュタインに因む)と呼ばれ、アメリカの音楽文化を変えたギターとして、スミソニアン博物館に寄贈されている。

息子でベーシストのウォルフガング・ヴァン・ヘイレンにも尊敬された。

在りし日のギター演奏は笑いながら楽しそうに写真に納まっている。他のギタリストで笑いながら弾いている姿は、見たことがない。よほど演奏に余裕があり、エンジョイしていたのだろう。

生前最後の演奏を動画で見たが、やはりその顔は微笑みを浮かべ”ジャンプ”が世に鳴り響いていたころのいたずらっぽい少年の面影を残していた。

最期は息子のウォルフガング、妻、前妻、兄でドラマーのアレックスに看取られて息を引き取ったという。

 

20~25歳のころ聞いた音楽が、生涯その人に根付くと聞いたことがある。まさに”ジャンプ”は私の心に根付いた。元気がないとき、活を入れたいとき、”ジャンプ”を聴きたくなる。そしてリプレイする。

 

エディ・ヴァン・ヘイレンは伝説になろうとしている。