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日本人はなぜうまう行くかー10-14-七沢賢治

2020-12-31 12:33:25 | 日記
十章-情報の取り入れ方と「神」の門番

さて、ここまでの各章では今現在、世の中で起こっている問題と、その問題を解決することnなるかもしれない「網羅性」という日本文化の特徴、そして日本語の特徴について書いていきました。今の世の中の問題は情報の多さと、二項対立の視点であると書いているわけですから、そのふたつを解決する必要があります。ここからは、情報の多さと二項対立の視点をどのように解決する可能性があるのかを書いていきます。まず最初は、今の世の中で行われている情報の取り込み方についてです。

被造物と魔女裁判

本書の冒頭にも書いたように、今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代です。なぜなら、入ってくる情報の量が幾何数的に増えているからです。では日本や他の国ではどのような形で情報の吸収や整理がされているのでしょうか。大雑把にいうと、日本以外の文明の人たちの知識の取り入れ方というのは先ほども書いたように、目の前に現われた情報・知識に対して「この知識は良い知識である」とか「この知識は悪い知識である」というように割り振りをする傾向が強いようです。

この根本にあるのは一神教的な自然神学であり、その文化は「唯一のかみ神が創造者であり、神以外のすべては神による被造物である」という思想の上に成り立っています。この思想の下では人間はかみ神から見たと気には価値の低い存在であり、その存在が知識を取り込む時にはかみ神から頂いた知識いがい以外はなるべく自分の中に入れないほうがいいということになります。その結果、神から来たちしき知識以外のもの、たとえば悪魔やされに類するものから来た知識は自分の中から叩きださなければならないという発想が生まれてくるのは自然な流れなのかもしれません。こうなると、かみ神と悪魔という二項対立の中に落ち込んでしまいますが、その結果が中世の魔書裁判といった出来事につながっていったのだと考えられるわけです。

知識を取り入れるということに関して言えば、被造物だる人間は常に情報や知識に対する門番を必要とすることになるということでもあります。情報や知識が自分の手元にとどく届くまでにはいろんな門番がいて、それらの門番が「これは神から来たかどうか?」という観点で情報や知識を選別していきます。その結果、手元にとどく届く情報の数は格段に少なくなり、しかも偏ったものになる。だからあたらしい新しい情報やちしき知識は吸収しにくい。というよりも、そもそも情報や知識が入ってこないわけですから、そもそも吸収できないとも言えます。現在もある特定の国ではこれらの情報整理が公然と行われているわけです。

「よりよい国」がはらむ危険性

ところでこのような情報の検閲をしていくと政治学という学問がなくなります。なぜなら政治学というのは、支配するための学問です。もちろん、より良い国を作るためにはどうすればいいのかを考えるのが政治学ですが、見逃しがちなポイントは「より良い国」と言った時に、誰にとってより良いのかという主語が抜けていることです。諸外国を見るまでもなく、現在の日本でも同じようなことが起こっています。自民党や民主党という政党はありますが、基本的に日本の政治は完了がコントロールしやすい構造になるようになっています。このような情報の検閲を行っていくと政治学という学問がなくなることは確かです。なぜなら、政治学をまなばせると学ばせると、革命につながる可能性が出てくるからです。情報を検閲しているものにとって、これは不都合です。少し話が脱線しましたが、情報の検閲を行っている国では政治学はなくなる、と覚えておくといいと思います。

「知識の門番」

さて、情報や知識に対しる門番を置くようになると、新しい情報や知識を吸収しにくくなるだけではなくて、新しい情報や知識を発信することも妨げられます。その分かりやすい例は「それでも地球は回っている」と言わざるをえなかったガリレオに見ることができます。

情報や知識の検閲という必要性は、一神教神学から出てきています。いわば、神学が情報や知識の番人であるということです。それに反発する形で生まれたのがルターによる宗教改革や、ピューリタニズムです。簡単に言えば、カトリックが規定する神学によって自分たちに入ってくる情報やちしき知識が制限されるのは嫌だ!という反発と、それにともなう運動です。その結果、カトリックの世界に住んでいた人たちが、アメリカに行ったり、そのほかの地域に移住していったりして、世界中にちらばっていった。つまり、カトリックの教会の影響力から少しでも離れようとしたわけです。ところが、その移住先での信仰の対象はというと、やっぱり唯一の創造神になってしまった。するとここでも人々は創造主によって作られた被造物になる。そうすると、形は変わるけれど、内容も多少は変わるかもしれないけれど、情報や知識の門番が必要になってくることになります。このようなことが起こっていたわけです。

色が変わった「色眼鏡」

こうして結局、神学から抜けられなかった人類は、この百何十年かの間にあたらしい新しい動きをはじめます。それが共産主義です。この共産主義のもとになっているのは哲学ですが、てつがく哲学は唯一絶対である存在としての神を否定するところから始まる学問です。これまでの神学にきてい規定された生活ではなく、神学に規定されない生活を送るために哲学をそのよりどころにしようとしたわけです。神を否定したわけですから、もう神による情報や知識の検閲は存在しません。神の知識もなければ、悪魔の知識もなくなる。では、人々が自由に情報や知識にアクセスできるようになったかというと、そうではありません。今度は「神」の影響を入れないようにする門番が登場することになります。それが共産主義というフィルターで、簡単に言えば「共産主義の知識以外のものは受け付けない」ということになった。

結局、色眼鏡の色は変わったけれど、依然として色がついている状態のままということになった。それが今の段階です。共産主義はロシアでは終焉を迎え、中国でも解体されつつあります。北朝鮮だけがまだ共産主義の色を濃く残しているわけですが、知識の閉鎖状態を作っていることが見て取れます。

もちろんこれは、支配階層が支配の及ぶ基幹を長くするためにとっている方策といえます。わたし私は北朝鮮を非難するつもりは毛頭ありませんから、ここでのお話しはあくまでも情報や知識の取り入れ方についての例だとご理解ください。実際に、北朝鮮の共産主義に限らず、今でもキリスト教世界では、信者に対して他の宗教の教義の話を聞いてはならないなどという説教がまかりとおっていますが、これも情報や知識の番人を置くという形態のひとつです。目的はもちろん、教会の支配が及ぶ期間や範囲を拡大・継続するためです。このような状態ですので、一神教を文化の土台にしている国や神を否定する哲学を文化の土台にしている国では情報や知識が入りにくいということは言えると思います。

個人の中にある制限

このような国では、情報や知識というものは、吸収する対象ではなく、ある権力階層から分配されるもおという捉え方が的を射ているかもしれません。もちろん、現代はインターネットなどの登場によって、個人がさまざまな情報にアクセスできるようになっていますから、私が言うような制限はないのではないかと思われる方もいらっしゃることでしょう。

しかし、大切なことは、情報や知識に対しうる色眼鏡は、個人の中にあるということです。言葉を変えれば洗脳されていると言ってもいいかもしれません。情報や知識を受け取る前の個人を洗脳しているというのはどういうことかというと、ある情報やちしき知識が目の前に現われた時に「これは悪魔の情報だ」などというレッテルを貼るということを見せていくということです。幼いころからその様子を見ていた子供が大人になった時に、それらの経験から自由になることは本当にむずかしい。というのも、そもそも、自分がそのような色眼鏡をかけていることにさえ氣付かないからです。ある意味でいうと、自由というものがまったくないと言えるかもしれません。そしてこの状況は、今の日本にも当てはまります。もちろん、情報自体は比較的自由に入ってきます。たとえば科学的な知識などというものは比較的自由に手にすることができる。ところが、その情報に対する評価ということに関して言うと、そんなに自由があるわけではない。

たとえば、原子力発電所の安全性、もしくは危険性に関する情報は、日本という国の運営上、都合のいいような形で発表されるわけです。「これぐらいのレベルの放射線量なら安全です」というような情報ですね。ところが、その数値を別の国の発表と照らし合わせてみるとものすごく危険だと評価されていたりする。もちろん、このように他の国の発表内容と比較してみることができれば、「何が本当か分からないな」という疑問を持つこともできるかもしれません。疑問を持つことができれば、その疑問を解消するために自分で調査をしてみることもできるかもしれない。しかし、ただ国の発表を聞いているだけという人も多いのです。そうなると、確かに情報や知識にはアクセスできるけれど、それらの情報やちしき知識を自分の中に取り入れることはできていないということになる。ロシアの事例で言うと、プーチン大統領が情報を操作したという報道がされていたことがありますが、社会が情報化すればするほど情報の統制が行われていると考えて間違いはないのかと思います。

十一章-日本人の情報吸収法

さて、前章では今の世の中の大多数の人が行っている情報の取り入れ方をご紹介しました。一神教にもとづく基づく文化であれ、共産主義に基づく文化であれ、情報にたいして情報に対してなんらかの「番人」をおいて情報を統制しながら取り入れていく。このような情報への接し方をご紹介したわけですが、この「番人」とはあるいみ意味、予断だと言えるかもしれません。

予断とは脳の働き

予断とは分かりやすく言うと、やかんを見た時に「このやかんには水がたくさん入っているから重いはずだ」と思う。
するとそのやかんを持ち上げる時には、うんと力を入れることになります。ところが、そのやかんに水がほとんど入っていなかったとすると、ひょいっと持ち上がってしまって、逆に持ち上がりすぎて中身がこぼれてしまったりすることがある。
別の例でいうと、とても小さなリンゴしか採れない国があります。その地域に行って日本のリンゴを見せながら「これはリンゴです」と言うと、そんなはずがないと言われてしまう。その国の人々にとってのリンゴとは、親指と人差し指で丸を作ったくらいの大きさの果物なのです。リンゴはちいさい小さいものであるはずだと思い込んでいるから、その思い込みとhあちがった違った情報が入ってきた時にそれを受け入れられない。これらの例はなんらかの対象物に対して、最初に予断を持ってしまうことによる害だと言えます。さて、人間の脳の働きという観点からみると、やかんやリンゴに対する態度と同じことが知識に対して起こる可能性がたかい高いわけです。

そのような理由からか、哲学者のカントは知識を取り込む方法を論ずるときには、人間は先見的な利かいというものgあるというおkとを前提に考えていたようです。また、そこに誰かや何かが存在しても自分にはそのひと人やモノが存在するという情報を取り込まないというか、その情報を拒否するということもあります。たとえば、自分が一番苦手な人が道の向こうを歩いている時に、その人がみえない見えないというようなことが起こります。見てもみえない見えない。観ないのではなく、見えていないのだということを、著名な心理学者である島崎敏樹さんという方がおっしゃっています。

信仰のない日本人

さて、あたらしい新しい情報・知識に対してあらかじめ予断を持ちがちだというのは人間であれば誰しも同じではあるわけですが、日本人について言うと比較的予断を持ちにくい傾向があるようです。これはおそらく日本人には信仰心がないからだと言えます。もちろん、日本の中にもさまざまな宗教を信仰している方はいらっしゃいますが、国民全体を見た時には特に信仰の対象となっている宗教は見当たりません。日本のことを仏教徒の国だと考える研究者も多いですが、実際にその文化を見てみるとインドなどの仏教国とはまったく違う文化をはぐくんでいます。つまり、日本人にとっての仏教は信仰の対象ではなく、知識としての学問なのではないでしょうか。これと同じことをその著書「文明の衝突」で有名な政治学者サミュエル・ハンティントンも言っています。日本人は仏教文化ではないと。彼の文明論が言うにはアジアは仏教文明であるけれど、日本は仏教文明ではないと。

もちろん道を歩いていて道端でお地蔵さんに手を合わせて拝んでいるおばあさんを見かけることがあります。けれど、あれは仏教を信仰しているがゆえのこうい行為ではないというのです。なぜなら、特定の御地蔵さんだけに手をあわせる合わせるわけではないからです。そこにヒエラルキーは存在しない。というか、彼女は仏教のヒエラルキーの中に組み込まれていないということです。もちろん、日本人が「大いなる力」とでもいう、ある種神秘的な力をまったく信じてないというような意味でこれまでの文章を書いているわけではありません。ただ、特定のなんかについて、それだけを信じるという文化が日本にはほとんど見受けられない。あえて言えば、これも信じるし、あれも信じるというか、これもあるし、あれもあるという感覚を持っていると言えるのではないかと思います。つまり、「宗教が文明の基点になっていない」ということです。だからお地蔵さんがあれば手を合わせるし、じんじゃに行けば神様に手を合わせる。たとえば、雨乞いをする時には雨を降らせてくれるなら誰でもいい。結果として雨を降らせてくれた人に感謝しようとする。けっこう結構、功利主義的な面があるわけです。こういう前提がにほんじんにはある。そして、このぜんてい前提が知識を吸収したり整理したりする時にも出てきているように感じます。

価値知友率的な「漂わせ方」

たとえばあたらしい新しい情報・知識が出てきた時に日本人が無意識に考えているのは、それをどうやって自分のまわりに漂わせるかということです。そのあたらしい情報や知識を自分の中にすぐ取り入れるということでもない。
もちろん、それらのあたらしい新しい情報や知識について整理がついた後でそれらを活用する時には自分の中に取り入れますが、最初から取り入れるわけではない。まずあたらしい新しい情報や知識を自分のまわりに漂わせる。これは拒否したり遠ざけようとしないということです。かといって取り入れもしない。まさに漂わせるわけです。そしてその次にまねてみる。実際に目にした内容を自分で真似てやってみるということがおこります起こります。真似てみるというのは、まず判断を棚上げにしてやってみるということです。別の言葉でいうと言うと、価値中立的であると言えます。

というのも、日本人はまず情報や知識に対して価値を決めないという傾向があります。つまり、これはいいとか悪いとかを決めないということです。そのうえで、まずはそれがどういうものかを実験的に取り入れてみるという方法をとるわけです。そうやって、あたらしく新しくあらわれた表れた情報やちしき知識を全部自分のまわりに漂わせておく。つまり、全部の情報を集めているわけです。この時点で網羅が起こります。すべての情報が網羅されているという状態になるわけです。整理はされていないかもしれないけど、全部の情報が網羅されている状態。この時点ではまだ整理がされていませんから、さまざまな情報がアトランダムに漂っているだけです。
そしてそのあとに、それらの新しい情報や知識の中で分ける。つまり「分類」です。たとえば、文化人類学者の川喜多二郎さんがデータをまとめるために考案したKJ法も分類の方法です。そして分類するためには網羅していなければならない。ですので川喜多さんがKJ法を考案できた背景には、日本人ならではの「情報の網羅」があったのだと思われます。

一方で、一神教という宗教が文化の基点になっている国では、このような網羅は起こりえません。なぜなら、情報が入ってくる段階で「この情報は神から来たものか」「そうではないのか」と言うフィルターをっけてしまっているからです。それらの文化では、情報は現れた瞬間に裁判や審問にあうわけです。その時点でもう、価値中立的ではない。それらの文化では、一神教ん信仰の対象となっている存在がもっとも高い存在です。ですので、審問を無事に通過した情報も、その存在の下にひっつくしか道がない。つまり、審問にあって弾かれはしなかったとしても、高い存在に比べて価値がないものとして、たかい高い存在の下に置かれることになるわけです。それが2000年間の人類の進化がおくれた遅れた理由だと思います。

「新しい情報」のとらえ方

話を戻しますと、日本人はあたらしい新しい情報や知識を分類した後は、自分たちが持っている既存の情報や知識と照らし合わせるということをするようです。もうすでに分類済みの既存のちしき知識があるから、今度は新しい情報や知識をそれらの既存の情報・知識と照らし合わせる。その結果、既存の情報や知識と同じ分類に入るとみなされたものはその分類の中にくくられます。既存の情報やちしき知識とは一緒にできないとみなされたものは、新しいものとして、自分たちにはどのように活用できるかを考える対象としてそのまま漂わされるわけです。私たちはそういうことを普段からやっている。

ここで大切なのは、価値が中立的にとらえられているかどうか、ということです。情報や知識を中立的井とらえるがゆえに漂わせることができて、漂わせることができるがゆえに分類の余地が出てきて、分類するがゆえに既存のカテゴリに合うものと合わないものがちゃんと分って、合わないものについては、またそこからさらに、「これは要らない」と捨てるのではなくて、何かに使えないかなあというふうに考えて応用していく。これが日本人があたらしい新しい情報や知識に出会った時の反応です。

まとめると、日本人が新しい情報や知識を吸収し、整理し、活用する時の独特なやり方というのは、まず漂わせる。次にまねてみる、まねる時に、同時い頭の中で分類が起こっていく。そうやって分類したものを既存の分類にてらし照らし合わせてみる。そして既存の分類に入っていかないものについては、またそこで、果たして何に使えるのかというのをもう少し掘り下げてみる。そうやって掘り下げていった結果、また分類が起こってきて、最終的には既存の分類の中に落ち着くかもしくはあたらしいカテゴリとして定着する。こういう流は日本人に独特のやり方だと思います。

十二章-「漏れなく、欠けなく、重複なく」」

さて、前章では日本人があたらしい情報や知識に接した時に何をしているのかをご紹介してきました。この章では、「網羅性」という日本人の情報への接し方についてくわしく掘り下げてみたいと思います。

コンピューターの役割

今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代だと書きました。その理由は情報の量が幾何級的に増えているからです。しかも、人間の脳の中に入れ込める情報の量は、いかに天才でもそんなにたくさんの知識を詰め込むことはできません。もちろん、情報知識の詰め込み方にも色々な方法がありますが、基本的には情報や知識の核の偊や整理はコンピューターの役割になってきています。というわけで、コンピューターが今、知識事務機化しているわけですが、コンピューターが知識事務機化する時には、コンピュータに情報をより合理的に、早くいれる入れることができればよりたくさんのデータベースができるということになります。なぜコンピュータの話をしているかというと、ある意味コンピュータというものは「知識」に対して正直な存在だからです。入力された内容が理解不能なものだと、動けない。そんな特性を持っているのがコンピュータであり、その特性から今の世の中の問題の解決策を引き出せるように感じるのです。

コンピュータに知識を入れる

私は以前、ナレッジモデル研究所というかいしゃ会社を作ったことがあります。企業向けにコンピュータソフトを開発する会社です。コンピュータの中に入るソフトウェアというものは、基本的にはデジタルナレッジなんですね。コンピュータの発達段階でいうと、最初の頃は記録と演算を中心にしていた計算事務機として開発されていた。それが今から20年くらい前にコンピュータの中に知識を入れるというテーマが出てきたわけです。その時にコンピュータの中に知識を入れる時には、どのようにしたらいいんだろうかということを考えた。そうした時に、ひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している状態が必要dあということに行きつきました。
ひとつの言葉が複数の意味に解釈されたり、もしくは同じ意味を表すために複数の言葉があったりすると、コンピュータはうまく処理ができなくなるからです。

オーダーメイドのソフトウェア屋さん

ところが、実際にはひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している言葉集のようなデータベースのようなものはなかったわけです。いまもそういうものは見かけないけれど。この会社はビジネス向けの、特に会社全体を網羅するためのシステムを作る会社でしたから、ビジネスに関する知識をコンピュータに入れ込んで、そのちしき知識が動くように装置かすることが目的になる。

ところがビジネスに関する知識というと、経済学の言葉もあれば会計学の言葉もある。税務の言葉もあるという具合に、いろんな学問がいっしょくたになっているわけです。それは今も変わりません。そういうものを全部整理しないとコンピュータの中にうまく入り込めない。仮に入れ込んだとしてもまったく運用ができなくなるわけです。ですので、そういうものを全部整理して、辞書をつくらないといけないということになりました。ところが当時のソフトウェア会社のほとんどは、こういうことには目を向けなかった。当時は6000社~7000社のソフトウェア会社がありましたが、彼らはこういう整理をするのではなく、個別の会社の中で使われている個別の言葉と個別の意味のセットを使ってシステムを開発していまいました。いわば完全いオーダーメイドです。ただ、このオーダーメイド方式にすると、時間や手間はかkるし、いったん出来上がった後にもたとえば自分たちのグループ会社でつかい使いまわそうと思ってもそれもできないということになる。実際には今も大して変わっていないようですが、当時開発されたシステムの中で完全に運用の軌道に乗ったしすてむシステムはほとんどなかったようです。
それを裏付ける発現としてこのような論文があります。これは米国のITプロジェクトのコンサルティング企業であるスタンディッシュ・グループが1994年に発表した論文の冒頭部分です。「橋は、通常期間内に予算内で架けられ、そして崩れないことを前提としています。これに反して、ソフトウェアは、指定期間内に、あるいは、予算内にできることはまずありません。さらに、出来上がったものは必ず故障します」このような状態がまかり通っていたわけです。

ビジネス現場の「言文一致運動」

いずれにしてもわたし私たちはソフトウェア会社でしたから、ソフトウェアで利益を出さなければならない。そのために、莫大な手間と時間をかけてオーダーメイドのソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間に大量にソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間で大量にソフトウェアを作るにはどうすればいいかを考えていきました。その結論がひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応しているビジネス用語の辞書を作り、その辞書を基にシステムをくみ上げることでした。ポイントは、言文一致運動と同じです。ビジネスの活動の要素をどの業種の会社でも使えるような普遍的な言葉で表現する。もともとビジネスn流は基本的にはどんあ業種や業態でも同じわけです。消費税率も同じですし、法人の確定申告書の帳票も必要祖Y類も基本的には同じです。準拠している会社法も同じ。ところが、用語が違うからまさか同じものだとは思われていないだけなのだと思います。

ところで私たちがやったことは、ビジネス用語や経済学用語を網羅していきながら、それぞれの言葉についてのひとつの言葉につき、ひとつの意味だけが対応する辞書を作るという作業でした。同じ意味なのに複数の言葉があるケースでは、ひとつの言葉を残して後は削る。ひとつの言葉で複数の意味を持たせられている言葉がある時には、それぞれの意味に合うような言葉を増やしてあげる。

このようなことをしていきました。こうして、漏れがなく、重複もなく、かつすべてが網羅されている状態を作っていったわけですが、私たちが目にする知識(ナレッジ)を、この「漏れなく、じゅうふく重複なく、かつすべてが網羅されている」状態にすること、そして、それらの用語をさまざまな言葉に置き換えても運用できる基本的な体系を作ることをナレッジモデリングと呼ぶようになりまいsた。

このような研究の結果としてできあがった出来上がったシステムは、短期大量、超高速、高品質といううたい文句で、主に売上高一兆円以上の大企業に向けた当時の私たちの主力製品になりましたが、この「漏れなく、欠けなく、重複なく」すべてが網羅されている状態を作れることこそ、日本語の特性であり、日本人のかのうせい可能性だと思うようになったわけです。

以降の章ではこのナレッジモデリングの考え方を具体的に活用する方法を見ていきます。

13章-「ナレッジ憲章と知識の性質」

さて、ここからは知識(ナレッジ)を「漏れなく、重複なくすべてが網羅されている」状態にするナレッジモデリングの考え方について書いていきます。

共有知識とナレッジ憲章

まず、知識を扱う際には、ちしき知識そのものの性質そそのちしき知識の使い方のふたつを考える必要があります。細かく分ければもっと分けられるのですが、大きく分けるとふたつという意味です。全体像から言うと、多くの人にとって必要な知識というようなものは、やっぱり長い時間をかけて人類が作り上げた文化の成果なのです。

そういう知識のことを共有知識と言っているわけですが、この共有知識が出来上がるまでには結構な時間がかかっている。それで知識を考える時nは、共有知識に対して固有知識というものが出てくる。誰もが自由に使える「共有」に対して、特定の人や個人に属する「固有」という概念ですね。私は知識を扱う時には、この共有と固有の区別をすることが大切だと考えます。だからこそ、知識を扱うナレッジモデリングの研究を進めるにあたって、ナレッジ憲章というものを設けたわけです。この「ナレッジ憲章」というのは、簡単に言うと特定の人や団体が編み出した固有知識は、それらの人や団体への経緯を表しながら活用しましょうということです。これからの時代にはこういう倫理が必ず必要になると思いました。なぜなら、どんな知識であれ、最初は固有知識からスタートするはずだからです。最初は個人が考える。その固有知識をみんなで使い分けるよういなって、それが共有知識になっていく。ところが、共有知識になろうとなるまいと、最初にさおれらの知識を編み出した特定の個人や団体の役割は尊重されなければいけないはずなのに、そうはならない場合がある。だからこそ、特許や意匠登録音ようなものが必要になるとも言えます。このことの大切さをわすれない忘れないように、また関連するいろいろな方々と私たちとの間でこの倫理を共有できるようにするために、このナレッジ憲章を作ったわけです。


シャーペンとシャープペンシル

さて、固有知識が共有化されていくという過程についてですが、これはその過程の中で知識に対する変化が起こるということでもあります。つまりその知識を表す言葉が固有名詞から普通名詞になっていく。たとえば今私たちが何気なく「そこのシャーペン取って」というようなことを言っていますが、このシャーペンとはシャープペンシルの略語です。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープといいう会社が開発した筆記用具だったわけです。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープという会社が開発した筆記具だったわけです。ところが、その筆記具の構造と同じ構造を持った筆記具がいろいろなメーカーから発売されるようになった。

しかし消費者はそれあの筆記具をひっくるめて、それがシャープ社製であろうと、トンボ社製であろうと、ゼブラ社製であろうとシャーペンという名前で呼んだわけです。このシャーペンという呼び方は、すでにこの時点でシャープが作ったシャープペンシルとも別のものになっています。
これはシャープペンシルといいう固有名詞がシャーペンという固有名詞に変わり、シャーペンという固有名詞が普通名詞になっていったということです。この仮定を経て固有知識は共有知識になる。普通名詞になるということはまた、知識が共有化されるということでもあります。こうした過程を経て、知識はモデリングされていくのです。逆に言うと、固有知識がみんなに使われるようになるためには、みんなに合意される必要があるということです。たとえば科学の新発見というものがあります。
けれども、その新しい知識はしばらくの間は科学者たちの間でしか通用しない知識として扱われる。科学者といったって、もしもその知識が宇宙科学に関する知識だったとしたら、自然科学を専攻している科学者にとっては通用しないでしょう。心理学の知識も同じですね。精神病理を研究している学者たちの間では通用するけれど、精神病患者をケアしている病院のスタッフには通じない知識というものもある。つまり、固有の知識というのはごくごく限られた人たちの間でしか通用しない知識だとも言えるわけです。

共有知識と固有知識の境目

こうした、ごくごく限られた人たちの間でしか通用しなかった知識が先に書いた過程を経て共有知識になっていくわけですが、共有知識と固有父氣を分ける境目は、多数決ではありません。つまり、これはその知識を使う人が多いから共有知識で、すくない少ないから固有知識であるという切り分けをすればいいということでもない。共有知識と固有知識を分ける境目は、その知識に対してみんが共有する対象ですよという合意があるかないかということです。そしてこの合意に至るまでには、その知識が既存の知識体系のなかでどの場所を占めるのかということが決まらないとならない。この知識は既存の知識体系のどこかにはまるのか。もしくはまったくあたらしい新しい知識体系の要素として既存の知識体系にくっつくのか。このような観点でちしき知識を見て、漏れがなく、かといって重複があるわけでもなく、すべてが網羅されている状態にすること。

私はこの整理の作業のことをナレッジモデリングと呼んでいます。ですので、ある知識がモデリングされる、つまり既存の知識体系のなかでどの一を占めるのかが確定されるまでには、ある程度の時間がかかることもお多いです。知識が網羅され、分類され、体系化される。その結果の合意によって固有知識が共有知識になる。そのようにとらえていただくといいと思います。ところで、この合意というものは、目に見える形で行われるわけではありません。たとえば、先に書いたシャープペンシルの例でいえば、「ある特定のこの種の構造を持った筆記具のことをシャーペンと呼ぼうね」というはなし話が消費者個人個人の間で起こったわけではありません。ただなんとなく、そういう構造の筆記具のことをシャーペンと呼ぶようになった。ですので知識をこゆうちしき知識から共有知識に変えていく時の合意というものは、なんとなく行われる。つまり、暗黙知として行われるプロセスである時も多いと言うことができると思います。

ナレッジ憲章

一方で、固有知識を意識的に共有化する取り組みというものもあります。たとえばある種のノウハウを書籍として出版するというのもそういった取り組みのひとつです。

テレビやラジオで誰かが何かの話をするというのも、これも大きな目で見れば、固有知識を意識的に共有化する取り組みだといえます。このようにして固有知識を共有化していこうとするときには考えるべき大切なポイントがあります。それは、その固有知識は共有化するべきものなのかどうかということです。たとえば、ノウハウといったようなちしき知識を考えてみます。この場合、なんらかの成果が出たからこそ、そのちしき知識がノウハウとして認識されるわけです。しかし、その成果はたまたま出た成果なのかもしれません。この場合には、この知識(ノウハウ)には再現性がないことになります。

この場合、この知識をみんなで共有することには意味がないはずです。というのも、何かをうまくやるためのノウハウであるはずなのに、そのノウハウを使ってもせいかが出ないというおかしなことが起こるからです。一方で、体系化されたノウハウ、つまり再現性のあるノウハウというものはみんなで共有する価値があるのかもしれません。なぜなら、そのノウハウを使うことで、特定の成果を得るというプロセスが誰にでも際限できるからです。もちろん、このようなノウハウが共有知識かしていく際には、当初にこのノウハウを考え出した特定の人物や団体に対して敬意が祓われる必要があることは言うまでもありません。このように知識というものは、普遍的にみんなが使えるもの、共有できるものになって初めて社会の中で役に立ち始めるとも言えます。私たちがつくったナレッジ憲章ではそのことを表現しています。ナレッジ憲章自体は全部で5つの項目から成り立っているのですが、ここでは該当する部分だけを抜き出してみます。

第二条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第三条ー共有知識の生成
共有知識では、人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに生成するものである。
第四条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、共有知識を最大限に活用できる製品サービスの提供に努める。

やはりここでのポイントは固有知識と共有知識との分類にあります。固有知識を大事にするということも必要だし、その固有知識が集まって共有知識になるわけだから、共有知識を使うためにはそのあたりの倫理性を忘れてはんらないということです。簡単に言うと、もともと固有知識は個人から生まれるものであるし、合意なしには共有知識になりえない。そして共有知識が出来上がった時に初めて、それを活用できる製品やサービスが生まれるということです。

知識の性質その1「即時移転性」

ここからは知識の性質について考えてみましょう。知識の性質ということで言えば大まかに分けて5つの性質があると考えています。まずひとつめは、知識というものは「即時移転性である」ということです。これは情緒ちしき知識などでもそうですが、知識は目に見えないものまで含めた広い範囲を持っているということでもあります。

たとえば、起こっている相手がいるとします。その相手が「私は怒っている」という情報を発信する前から、その人の周囲にいる人にはその人が怒っていることが伝わっている。これが知識(情報)の即時移転性です。言語としての情報が発信されていないにも関わらず、言語としての情報が伝えようとしていた情報がすでに周囲に伝わっている。こういうことが起こっている。

これは場の空気を読むとか読まないおtかいうものと同じですね。場の空気が読めるということはーそして、この場のくうき空気を読む能力は日本という社会では特に重要視されるわけですが^-其の場になんらかの情報がすでに漂っているということを意味します。何もないところで何か読み取ることはできないわけですから。このように、情報というものは目にみえない見えないものまで含めた範囲で伝わっていく。つまり移転していくということです。今、私は情報と書きましたけど、知識も同じです。大量のちしき知識が、即時に移転していく。日本には殺し文句という言葉がありますが、あれは言葉で本当に人を殺してしまうことができるということです。なぜそんなことができるのかというと、言葉という情報・知識の陰にものすごく大量の情報や知識が隠されていて、それが瞬時にその相手に伝わるからです。たとえば裁判で「あなたは死刑です」という判決文が発表される前に容疑者が自殺をしてしまう。これもある意味、情報・知識の即時移転性によるものだと考えられます。逆に言えば、この即時移転性があるからこそ、ふとした言葉で人が生き返ることもある。これは文字通り生き返るわけです。鬱々と何も希望がないようなところで生きていた人が、ある言葉を投げかけられたことによって突然生き生きとくらし暮らし始める。これは人を活かす情報・ちしき知識が即時に伝わったからです。情報・知識の中身になる大量の要素が、相手の脳に移転しているということです。しかもこの移転が即時に行われる。言語情報も非言語情報も、移転する時には瞬時に移転する。これが即時性ということです。

知識の性質その2「平等性」

知識・情報の特性として次にあげられるのが「平等性」です。これは、すべての人に同じ知識や情報が与えられているということです。つまり、あなたは白人だからこの情報が受け取れないとか、あなたは黒人だからこれは受け取れないとか、そういうことはない。平等というのは情報である以上、誰もが手にできる。もちろん各層とすることはできるけど、最終的には隠しきれなくなる。その結果、最終的にはみんながそれを手にすることになる。おもしろいことに同じことが聖書の記載のなかにも出てきます。「灯明を升の下に置くことはできない」という部分です。これは、灯明、つまりろうそくを弁の下に置くことはできない。つまり、知識や情報を隠すことはできないと言っているわけです。当たり前といえば当たり前ですけれど、この平等性があるからこそ知識や情報を網羅することができる。使用する言語が違う人々の間でもナレッジモデリングのシステムが活用できる理由はここにあります。

知識の性質その3「公開性」

次にあげられるちしき知識・情報の特性は「公開性」です。知識や情報というものは開かれているということですね。
これはどういうことかというと、ちしき知識や情報は隠そうとしても隠せないということでもあります。いったん知識や情報が形をとると、それは発生源からどんどん離れていこうとする。離れていこうとするというとちしき知識や情報に医師があるかのように受け止められるかもしれませんが、私がいいたい言いたいことは、いったんちしき知識や情報が形をとると、それは発生源とは別個の存在として存在をしはじめるということです。

別個の存在ですから、なんらかの存在がその存在をコントロールしようとしてもコントロールできない。その性質としてちしき知識・情報は発生源から離れて独り歩きしていくわけです。つまり、ある意味、知識や情報はそれ自体が発振器のようなものであるとも言えると思います。たとえば言葉というような形で発信か発信されないかに関わらず、そのちしき知識や情報は常に外部に向けて発信されている。これはその知識や情報が持つ固有の振動数が、常に世の中のあらゆる存在と共振しているということでもあります。この性質は、最初に書いた知識・情報の「即時移転性」とも関連していますが、まずは、知識・情報の性質として、1回を取ったら、もうそれはその形あるものとしての発生源とは関係ないところで存在してしまうということを覚えておかれるといいと思います。そうして発生源とは関係がないものとして存在しているからこそ、誰かがどれだけ引き止めようとしてもむずかしい。この性質によって、誰もがそのちしき知識や情報にアクセスできるという平等性も担保されているわけです。

知識の性質その4「自由性」

次に挙げられる特性は「自由性」です。これは知識や情報はどこへでも自由に飛び歩くということです。たとえば、文章を書く時に、文章の中のどこにでも知識や情報を入れ込んで使えるということですね。文章や話し言葉の中のどこにでもちしき知識や情報を入れ込むことができる。知識情報といったほうが分かりやすいかもしれませんが。つまり、知識や情報は、どこで活用しようがその活用を制限されることはない。それを別の文章でなく、言葉で使おうとしてもかまわないし、話し言葉でつあkって合っても書き言葉で使っても構わない。もともとその知識や情報が生まれたところとはまったく違う文脈で使うことすらできる。これを私は知識・情報の自由性と呼んでいます。

知識の性質その5「結合性」

さて、知識・情報の性質の5番目は「結合性」です。知識の結合性とはどのようなことかというと、ちしき知識や情報の内容をバラバランに分解することができるということです。そういうことができるからこそ、まったくべつのちしき知識とちしき知識や情報と情報をくつけることもできる。バラバラにして、分解してつなぎ直すことができるということですね。もちろん内容をバラバラにしたまま、全然違う文脈でつかう使うことすらできる。これは知識・情報の自由性とも重なる部分があります。ある意味で、知識・情報の自由性と知識・情報の結合性は対の概念だと言えます。同じように、知識・情報の公開性と知識・情報の平等性も終になっている。このような性質を持ったものが知識であり、情報であると、わたし私は考えています。

知識が織り成す文化

今、知識と情報には「即時移転性」、「平等性」、「公開性」、「自由性」、「結合性」という5つの性質があるというお話をしました。知識や情報というものは基本的に言語を使って表現されることが多いものです。そして、言語を使って織りなしたもののことを私たちは文化と呼びます。そうすると、ちしき知識や情報をつかんだり、活用したりするということはそのまま、文化を織っていく行為だということができると思います。その文化という織物がどのようなものになっていくかは、私たちそれぞれがどのようにちしき知識や情報をとらえ、位置づけ、解釈し、活用するかによって決まる。その意味でも「漏れなく、重複なく、すべてを網羅する」というナレッジモデリングの考え方は役にたつのではないかと考えています。ところで少々話が戻りますが、知識・情報おn性質としての銃声と結合性があるために、ある知識や情報が別のあるちしき知識や情報と結びつくことがあります。そのようにしてある知識が別の知識とつながると、結果としてまったく別のちしき知識が出来上がります。そうなった時には今度は新しく出来上がった知識の活用方法、運用方法に問題が起こる可能性がある。一番大きな問題が起こるのは、その新しい知識を使って相手の一番の弱点をつく突くというような使い方がされる場合です。先ほども書きましたように、知識・情報の即時移転性によって、殺し文句で本当に人を殺してしまうこともできると書きましたが、既存の知識とは違うあたらしい新しい知識ができた時には、まだそのちしき知識をどのように使えばいいかという合意がとれていません。すると、意図するかしないかは別として、ある種の悪意とともに知識を使うこともできる。悪意がなかったにも関わらず、その知識を使った結果、誰かに害を及ぼすこともあると思います。もちろん、反対のことも言えます。たとえば、あたらしい新しい知識を使って、誰かの命を生き生きとさせることもできます。

ではあたらしい新しい知識や情報を手に入れた時に、大切なことは何かというと、それは倫理性だと思うのです。実際に知識や情報を使う時の実践倫理といいますか、ちしき知識や情報を使う時のための倫理的なガイドラインが必要になる。これは既存の知識と既存の知識がくっついてあたらしい新しい知識が出来上がった時に限った話ではありません。既存の知識や情報を活用する時にも大切なポイントになる。つまり、知識を使うと気にりんりせい倫理性というものを前提にしなければなりませんよということです。ところがここでまた別の問題が出てきます。それは、倫理性といっても、絶対的な倫理はどこにもないのではないかという問題です。たとえば、これまでの科学知識からは倫理性が生まれなかったわけですが、それはなぜかということを考える必要があると思うのです。私は、これまでの科学知識から倫理性が生まれなかったのは、それらの知識が二項対立を土台にした文化から生まれていたからだと考えています。二項対立がある場所では、倫理性というものは生れにくい。というのも、お互いに対立している陣営の片方では倫理的とされていることが、対立している他方の陣営では倫理的ではないとされるということが起こるからです。そもそも、同じ倫理規範を共有できるのであれば対立はしないわけですから、この「何をもって倫理的とするか」というテーマについての対立は、二項対立の世界では絶対に起こるのです。いわば、倫理性に対する永久的な闘争が起こる。では知識や情報を活用するtめの倫理性はどのように確保すればいいのか。私はこれを可能にするのが「階層性の視点」の導入だと思っています。ここで、階層性の視点とは何かということをご理解いただくために、逆に二項対立の世界では何が起こっているのかを説明してみたいと思います。

二項対立とは、異なるふたつの要素が対立している関係です。その内容は神と悪魔でもいいし、神学と哲学でもいい。
キリスト教とイスラム教という対立でもいいわけですが、ふたつの要素がお互いに対立している状況です。これはいわば、平面的な関係であると言えます。どちらを上と呼んでもいいですが、いずれにしてもその概念が対立しているもう一方の概念は同じ平面上にある。
仮にどちらかを上、どちらかをしたと呼んだとしても、やっぱりその2点は同じ平面の上にあるわけです。
そしてお互いが対立しているわけですから、どちらかにとって倫理的である内容は、他方にとっては倫理的ではないということになります。この二項対立を上下という平面上でとらえたものが共産主義の哲学です。つまり、社会には上部構造と下部構造というか、支配と被支配の関係があるから、それを転換しなければならないという発想です。

宗教的な対立も構図は同じです。

私たちの宗教は正しいけれど、あなたたちの住協は間違っているという考え方。これも上下という平面上でお互いの関係をとらえている。さらにいうと、宗教の中身自体にも、一神教では上下の関係の中につなぎとめられている。つまり、神は全であるが、悪魔は悪であるというとらえ方です。上下とういう言葉を聞くと、そこに階層があるのではないかと思われがちですが、実際にはあるふたつの項目が平面の上で対立しているだけです。だから、その関係をいくらひっくり替えそうとしたところで、結局、構図は変わらない。そのいい例が、共産主義です。共産主義はそれまでの「神学に規定された暮らし」をひっくり替えそうという試みです。つまり、創造主である神と被造物である人間という関係をひっくり替えそうとしたわけです。そのために革命を起こし、支配と被支配の関係をひっくり返した。その結果どうなったかというと、共産主義という哲学とその哲学によって縛られる人間というかんけい関係が出来上がった。神学に規定されていた暮らしが、哲学によって規定される暮らしに変わっただけ。言葉は変わっていますが、社会が二項対立の構造から成り立っているということはまったく変わっていないことがお分かりいただけると思います。

階層性と視点の高さ

一方、階層性とは、平面ではなく3次元で物事をとらえるという性質です。つまり、支店に高さがある状態だと言ってもいい。二項対立の場合には、いいか悪いかという判断しかできないです。たとえば、それは私にとっていい内容なのかそれとも悪い内容なにかという判断です。そこに高さという視点が入ってくるとどうなるかというと、視界が少し広くなる。つまり、「私」にとって良い内容かどうか、という視点が少し広がって、たとえば「私の家族」にとって良いかどうかという判断の基準が持てる。
もう少し視点が広がると、「私たちの国」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。
もう少し視点が広がると、「私たちの地球」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。つまり、当事者としての「私」ではなく、観察者としての「私」が登場するわけです。その場の状況にどっぷり浸かっている主体としての私ではなくて、客観的に観察している、観察者の私がいると倫理性を持ちやすくなります。なぜならば、何をもって良しとするかという判断の基準の中に「私」の都合だけでなく他者の都合も含まれるようになるからです。これは今までの西洋的な、一神教的なパラダイムから見ると、まったく別世界です。今までの西洋的なパラダイムの代表は、アインシュタインを代表とする科学です。その科学では「光より速いものはない」とされていました。ところが、現代になって「光より速いものが存在する」という可能性が実証されてきた。光りより速いものがなければ光を客観的に観察することはできません。ある意味、光は光である状態のまま止まった時間の中に存在する。しかし、光よりも速いものがあれば、光は止まった時間の中には存在できなくなります。つまり、光が動き出せば、光より速いものはその動きを認識することができる。つまり、その対象が神であれ光であれ、観察者の視点はそれまで絶対的な存在だとされていたものを、全体の中のひとつの要素にしてしまうわけです。ここにある意味、今の世の中の問題の根源dえある「二項対立の構造」を崩壊させることができる可能性があるのだと思います。

観察者の意志と不確定性原理

それが絶対的な存在である限りにおいては、その存在は絶対です。絶対的でないものは、たとえば絶対的な存在である神に対する人間は、絶対的であるもの、この場合で言えば神に服従しなければならない。しかし、それがひとつの要素になってしまえば、人はそこから自由になる可能性を手に入れることができる。実際に、量子力学の発達によって、観察者の意志・視点が実験の結果を左右することが実証されてきました。これは簡単に言うと、すべてのものをありのままに観察することはできないということです。ありのままに観察できないということは、その観察対象は絶対的な存在ではないということになります。こういったことが科学的に証明されてきた。ハイゼンベルクの不確定性原理でも同じことが言われています。

つまり、「物事の本当の姿を見ることはできないよ」または「観察者と監察される者というのは、切り話しては存在しえないですよ」ということです。そうすると、絶対的な存在の言うことを聞こうとするのではなくて、自分が物事をどのように観察するかということが大切なポイントだということがおのずから明らかになってきます。観察するということ自体が、物事の中に階層性を持ち込むこtこでもある。階層性を持ち込めば、二項対立のしばりから自由になれる。私はこのように考えています。さて、知識の使い方に戻ります。先ほど、知識を使う時には倫理性というガイドラインが絶対に必要であるというお話をしました。この「倫理性」を確保するためには二項対立の視点から脱け出す必要がある。二項対立から脱け出すとは観察者の視点を持つということです。観察者の立場に立てば、倫理性を持つ余地が出てくるからです。とはいっても完全な倫理性が出てくるわけではありませんから、毎回毎回状況に合わせて観察するということが必要でしょうし、それができれば、知識をより良く活用できるのではないかと考えています。

ナレッジ憲章

ナレッジソフト株式会社は、21世紀のあたらしい新しいちしき知識時代を点棒し、その知識社会の形成に貢献するtめ、次のような指針を定める。

第1条ー人間存在の全肯定
人間一人ひとりの存在を尊び、活きいきと生きるということを感謝し、あらゆるものに支えられているtおいうことに基づき、より良い社会の実現を目指して活動する。
第2条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第3条ー共有知識の生成
共有知識では、人と人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに、生成するものである。
第4条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、きゅゆう知識を最大限に活用できる製品・サービスの提供に努める。
第5条ー企業・成員の本義
知識支援型経営システムの提供を通じて、顧客企業の付加価値向上に寄与することを本義とする。

付則
この憲章は、1,997年7月1日から実施する。

日本人はなぜうまくいくかー5-9-七沢賢治

2020-12-31 09:14:39 | 日記
五章 日本の文化と日本の立地と「日本的システム」

前章で「日本全体の文化としては、公のほうというか、自分の利ばかり見ていない、社会的な利を見た文化が備わっている」のかもしれないと書きました。繰り返しになりますが、これはもちろん人種的な優劣の話ではなく、逆に言えば、日本人はそのような文化をもたなければ持たなければ生き残っていけない環境にあったのあと考えられるということです。この章ではその背景についてみていきます。

「島国」という立地の制約

まず、このテーマを考える時に前提となるのは、日本が島国であるということです。島国の中で暮らしていると、何千年というスパンで見ると同じ近親が交配する可能性が高いわけです。そうすると、どうしても種の劣性いでんが起こってしまう。それを避けるためには、島国の外からの遺伝子を入れるのが一番いいという経験からくる知識があったのだと推察されます。

実際に韓国では今も、男女が結婚する時に10代くらい前までさかのぼって、お互いに近親関係がなかった、つまり遠い親戚ではないかということをチェックする文化が残っています。それだけ昔の文化におっては近親交配の危険性が知れ渡っていたということかもしれません。さて、そのような観点から見ると、日本人にとっては外からやってくるものは一種の神の助け、「神助」のようnあものとしてとらえられていたのだと考えられます。つまり、外から来たものを受け容れる余地が非常に高かった。なぜならば、東アジアの片隅の島国に外から人がやってくるということはめったにないことだっただろうからです。だからこそ、外から人がやってきた時にはとても大事にしたと考えられます。そういう文化があったから、何か新しいものが現れた時にそれを排除するという選択肢が育つ余地がなかったのかもしれません。島国であったがゆえに外から来たものは拒否しない。拒否しないがゆえに観察する機会を得る。観察しているとまねる機会が出てくる。そして真似てみると利益があった。この一連の行動は、ある意味、とても学問的なプロセスだと言えます。

つまり、日本人はあるいみ意味で忠実的に人の風習や、その連中の様子を観察することをしていた可能性があるということですが、この手法は今、エスノロジーと呼ばれる民族学や、フォークロアと呼ばれる民俗学、さらには人類学という学問淤手法でもあります。いずれにしても日本独特の知識の吸収法のベースには、島国という日本の立地条件があると言えるのではないかと考えています。

日本式「怨念操作法」

とはいえ、日本に対立という概念がないわけではありません。実際、神話的にも神武天皇意向には対立概念が入ってくる。つまり、戦争のはなし話が出てくるようになるわけです。もちろんそれ以前にも対立はあったとは思いますが、おそらく神武天皇のとき時からそういうものを受け入れたんですね。それがはっきりと神話に現れている。ただ、そうして対立概念を持ち込みつつも、日本人は対立概念をメインにしなかった。

その代わりに対立概念にもとづく基づく争いの中で起こった「怨念」といったものを解消する操作をするようになったわけです。それは慰霊というような儀式の形をとったりします。これは西洋の悪魔祓いというようなものとはまったく違う概念です。静養の悪魔祓いは、悪いものを叩き出すという考え方です。もちろんこれは一神教的な神々に基づいての考え方になります。ところが日本の場合はそうではない。

日本の場合には、怨念などといった一見自分たちに害を及ぼしそうな、いわゆる「悪い」ものに対しても、それを理解して慰めるというアプローチをとるわけです。「そこにあるもの」を「ないもの」にしようとするのではなく、「あるもの」は「あるもの」として受け入れて、その代わりにその「在り方」を変えてもらおうとするわけですね。一方、二項対立の世界では悪いものは永遠に悪いということになる。すると、ゾロアスター教のように、悪いものをどんどん倒していくという発想になったり、あるいは悪魔を1000年の間閉じ込めるといったような発想になっていかざるをえないわけです。ところが日本ではたとえ悪いものを見たとしても、それが絶対的な悪だとは見ない。たとえば「泥棒にも三分の理」という言葉があったりします。これは泥棒をするにも何かの理由があってやっているんだという「理解」です。泥棒に対して「お前は悪だ」と断罪することをしないんですね。

その証拠に、たとえば都から左遷されて失意の下でなくなった菅原道真を、亡くなった後に神様としてまつったりもするわけです。だから対立という概念がないわけじゃないけど、そんなに強くない。日本人はそういう態度で情報に対しても接していると考えられます。だから、全部の情報を自分の中に置くことができる。もしも一神教的な二項対立の概念を持っていたrた、全部の情報を自分の中に置くことはできないです。どうしても「悪」というものを自分の外に叩き出そうとする、もしくは最初から入れないようにしようとする。しかし、先ほどの「泥棒にも三分の理」ではありませんが、日本人には「絶対的な悪」という概念がない。もっと簡単に言うと、受け入れられないものがないわけです。ですので、たとえば任侠の世界でも一宿一飯の恩義というか、ちゃんと仁義を切れば受け入れてもらえるという伝統があった。情報に対しても最初からはねつけるのではなく、まず受け入れる。もちろん最初から自分の中に取り入れることはしないかもしれないけれど、まずはそこに置いてみる。しばらくそこに置いておいて「じゃあちょっと見てみますか」という感じで観察する。そのけっか結果、自分にとって役に立つものであればあっさり取り入れていく。これが日本人の特性だと思うのです。ある意味で、「日本的システム」だと言ってもいい。このようなシステムは島国という日本の立地から生み出されたものなのかもしれません。

6章- 「音」の多い言語

さて、前章では島国という立地が日本の文化に与えたであろう影響について書きました。
その中で、日本的なシステムについても紹介しましたが、このにほんてき的システムと連動するものとして、
日本語にもやっぱり他の言語にはない特性がある。たとえば苗代清太郎さんなんかも、そういう研究を続けられた方です。私がいろいろと教えていただいた小笠原孝次先生もいろいろと日本語について研究されていらっしゃいました。
さまざまな方がさまざまな切り口で日本語の特性を研究していらっしゃいますが、ここでは私が考える日本語の特性を書いてみようと思います。

「音」の多い言語

私が考える日本語の特徴のひとつですが、まずその音の多さが挙げられると思います。漢音や呉音が入ってくることによってひとつの漢字にふたつの音がつくようになったというのもその現象のひとつです。もともと日本では外から来たものをそのまま受け入れようとする風潮があったようです。言語に対してもそのような受け入れ方をしてきたことが見て取れる。たとえばある時期にネパール地方から250人ほどの冶金技術者が入ってきたことがあります。
するとその冶金技術の言葉をみんな取り入れていった。「たたら」だとか「やりかんあ」だとかいう細かい実用語を自分たちの言語にしていったわけです。

こういうことをやってきたから、日本語の語彙はどんどんどんどん増えていった。同時に語彙にあわせた合わせた発音も整備されていくわけです。清音だけではなく濁音や半濁音もこのようにして出来上がったのだと考えられます。ただし、なぜ他の言語で同じことが起らなかったのかということについては定かな確証はありません。ひとつ考えられる可能性は、前の章に書いたように、島国という国の地理的なとくせい特性から、外から来たものをそのまま受け入れてみるという風潮が形成されていたのかもしれないということです。

いずれにしても、音が増えるという現象は今でも起こっているげんざい現在進行中の出来事です。たとえば数十年前には「う」に濁点がついた文字なんていうものは見かけたことがなかったわけです。ところが今では、パソコンで変換しても出てくるぐらいになっている。「あ」に濁点がついた文字もある。文字があるということはそこに発音も付属しているということです。こういう「文字」と「それに対応した音」は今ではもう普通に使われているわけです。

これはつまり今もなお日本語を形成する文字と音とが増えていっているということです。一方で、他の言語、たとえばあるふぁべっとアルファベットの文字数が現行の26文字から27文字に増えたといような話は聞いたことがありません。ですので、今もなおその中に取り込まれる文字やそれらの文字に対応した音が増え続けているというのは日本語の特性だと思います。これだけ多くの文字というか音があるからこそ、外国から来た情報をそのまま記述や口述できるのかもしれないし、外国から来た情報をそのまま記述や口述しようとしたからこそ音が増えていったのかもしれません。鶏が先か卵が先かという理論はあると思いますが、実際に日本語には物事を描写するための多くの文字とそれらの文字に智王する音があるということは言えると思います。

言葉の寿命は一万年?

ところで、日本語尾音が増えた別の要因としては日本語が母音を主体にいsた言語だったからであるという理由も考えられます。母音を主体にした言語というのは世界的にも珍しくて、日本語のほかには古代ポリネシア語とレプチャ語ぐらいです。これらの言語は母音主体の言語であるという共通点だけでなく、また別の共通点も持っています。それはこれらの言語が使われ続けた期間です。大体、言語の寿命は1万年と言われていますが、言語学者たちの研究によるとこれらの「母音主体」の言語は1万年を超えて使われ続けてきていると言われています。母音主体の言語と、その寿命にはなんらかの関係があるのかもしれません。いずれにしてもこれらの「母音を主体にした言語」というのは、母音と子音とマトリックスで音ができているために、新しい音を作りやすいという性質を持っている。日本語もその恩恵を受けているということは間違いないと思われます。ただい音の公正要素である母音の数、子音の数だけ見ると、日本語の母音は5つであり、子音として言語学者の間で最低限の同意が得られているものは8つしかありません。

論理的に考えればアルファベットは26文字ありますから、そこから日本語の母音に対応する5文字を引くと、計算上はアルファベットは21個の子音を持っているということになります。これは日本語が持つ子音の数、8個よりもはるかに多い。にもかかわらず、日本語はアルファベットとは比べ物にならないくらい多くの音を持っている。これはおそらく、日本語が階層構造になっているからだと思うのです。つまり、片仮名語50音と平仮名語50音、そのほかの言葉50音という具合に複数の言語が重なり合っているものは日本語だと考えられるわけです。このように考えると日本語に多くの音があることの理由がなんとなく理解できるかもしれません。

言語の原種

母音優位の言語ということで言うと、また別の特徴も見えてきます。それは語彙の古さです。先ほど、日本語は通常、言語の寿命と言われている1万年を超えて使い続けられているというお話を書きました。すると当然、語彙も古いものが残っているかのうせい可能性が高くなる。語彙が古いということは、それだけ昔の、ちょうど言語の原種にちかい近いようなもの、発音が残っていると言ってもいいと思うんですね。そういうものを言語素と呼んでいるわけですが、ヤコブソンという言語学者によると14の音があるとされています。そしてこの14音の中には今日本で母音と呼ばれている「アイウエオ」が入っている。母音ということで言うと、万葉集のころには母音は今の5音ではなく8音あったのかもしれないという研究もあります。万葉の漢字を調べると日本語はどうも80音ぐらいから成り立っていたのではないかと。そういう内容は考古学的な研究の中にはあるわけですが、だから逆に古代のほうがたくさんの母音も、たくさんの子音も使っていたのではないかという研究もあります。言葉の起源については言語学者の中でも見解が分かれることが多いものですが、ひとつの知識としてご紹介しておきます。

「800の情緒語」と「同音異議語」

さて、このように日本語には他の言語よりも音が多いという特徴がありました。ところがその一方で、音が多いにもかかわらず不思議な現象も起こっています。それは、日本語には同じ音の組合せでちがう違う意味を表す同音異議語がとてもたくさんあるということです。これだけ音が多いのですから、まったく違う意味をひとつの言葉で言い表す必要はないはずです。なぜならひとつひとつの意味に対して違う言葉を作っていけばいいからです。それなのに、実際にはとてもたくさんの同音異議語がある。では日本人は言葉を作り出すのが下手だったのか。

私にはそうは思えません。なぜなら、日本語には少なく見積もっても8000の情緒を表す語彙があるからです。情緒に関してはすごく細かく、ひとつひとつの情緒に対応するような単語を生み出している。すごく細かいところに1個1個の言葉を当てはめているという細やかさがあるにも関わらず、まったく正反対の意味をわざわざひとつの言葉に込めるということもしている。つまり、表現が細かくできるにもかかわらず、表現を細かくしない。たとえば気候が「暑い」というのと、紙が「厚い」というのと、お湯が「熱い」というのとを違う言葉にしてもいいはずなのに、そうはしていないのです。

その理由は確かに分かりませんが、しかし、そのけっか結果、「どのように」あついかということで感情擁護が増えたのだろうと考えられます。日本人は「どのように」という情報を膠着語を使うことでくっつけていく傾向があります。その結果、情緒を表す言葉は8000個にもなったと言えるのかもしれません。これも最初のもともとの言葉が分かれていれば、増やす必要はなかったかもしれないですが、このような構造になった理由はやはり、日本人が階層性を持って言語をとらえていたからだということになるかもしれません。このような特徴を持つ日本語ですがどのようにしてできあがってきたのか。次章では日本語の成り立ちについて書いてみることにします。

第七章 「パリ」と「ぱり」と「Paris]

前章では日本語の特徴として、その音の多さについて書きました。この章では日本語の成り立ちについて書いてみようと思います。

言語による情報共有

まず、その文字から見ると、歴史的には感じで日本語を表記していた時期があります。当て感じのよういして感じで日本語を表記していたわけです。そういう時代には、文章を書く主な目的は文化の導入だったわけで、このような当て感じを使って文章を残していたのは主に男性だったわけですね。その後、女性も文章を書くようになった。これは紀貫之の土佐日記の中に「男の人がする日記を女の私も書いてみようかな」という表現が出てくることからも分るように、ひかくてき比較的早い段階から起こっていたようです。
(紀貫之自身は男性でしたか)

ちなみに、言語を学ぶということはある意味で情報を共有するということです。ですので、日本人という民族は早い段階で女性にも情報の共有を開始した民族であると言えるかもしれません。
この動きが明治になると一氣に花開く。言文一致運動という運動が起こって、話し言葉をそおんまま文章に表記できるような形になって、書き言葉の不空がさらに加速したということです。そのような流れで次第に感じかな混じり文というものが主流になっていった。その結果、外国語に由来する音を片仮名に変えて、もともとの言葉が持っている音やひびき響き、そしてそのニュアンスを残しながら情報共有を図っていくというようなことができたのではないかと考えられるわけです。また当て漢字を使い始めた時点でも、感じを感じとして使う用法もあったと思われます。そうでなければ、漢文は読み解けません。

つまり、ひとつの漢字を感じとして使うこともあれば、その感じを当て字として使う場合もあった。
このことから推察すれば、おそらく日本ではどこかから外国の言葉が目の前に現われた時には、最初はそのまま外国の言語を取り入れていたのだろうと思われます。中国語とかインド語とか、そういうものもそのまま話していたのではないかと。たとえば聖徳太子は7人の話を同時に聴くことができたという記述が残っていますが、これは彼が7か国語を自在に操ったことを意味しているという説もあるわけです。同じ瞬間い7人の話を聞き分けるといよりも、7か国語をつかい使いこなせたと解釈するほうが現実的だと思えます。

もちろん外国から外国の言葉は入ってくる以前には日本に土着の言葉もあったはずです。帝紀や国記というものはそういった日本の固有の言語で書かれていたという説もありますが、貞香ではありません。確かな部分だけを言うと、感じという文字が入ってきて、その感じを使って文章を記述するよういなったということでしょうか。先ほど、当て漢字を使って文章を残していたのは主に男性だったと書きましたが、これにしても男性のすべてが文章を残していたとは考えにくい。じっさい実際、紀貫之からずっと構成になってから生まれた豊臣秀吉も母親とやり取りをする手紙はすべて平仮名や片仮名で描かれている。坂本竜馬も同じです。

そういう簡単な文字を使って母親や姉と手紙のやりとりをしている。だから当初、当て漢字を使ったような文章を書いていた人というのは、男性だり、かつ知識を記録することが役割だった書記官や宗教家だけだったのではないかと思われます。それがそのあたりの農家のおじさんや女性たちに広がっていったのは、平仮名や片仮名があったからとも言えるかもしれません。和歌という文化のあとおしもうひとつ、書き言葉が庶民の間に広がっていった理由には、和歌という文化があったことが挙げられるとおもいます思います。じっさい実際、今原罪でも女の人は文字なんて習わなくていいと言って、女性に読み書きを教えない国があります。ところが日本では早い段階から女性が読み書きをし初めていた。

これは身分の上下などに縛られず、和歌を詠うことに関しては自由だったという伝統があったからかもしれません。
いずれにしても多くの人が今の日本語のように感じや仮名が混ざった文章を書くようになったのは主に明治の言文いっち一致運動以降だと思われます。もともとは話し言葉と書き言葉を一致させようという運動だったわけですが、この運動によってまさに猫もしゃくしも文字が読めるようになっていった。そこから樋口一葉とか、そういう女性の作家なんかもどんどん出てくるわけです。もちろんその当時もまだ女性がものを書くということに対して禁忌というか、タブーもあったけれど、それを押して、だんだん女性が小説を書いたりするようになるわけです。

言文一致運動があったからこそ、ローマ文字の言葉をそのままの発音で表現するようにもなったと考えられます。
これはある意味で言うと、外国から入ってきた言葉について、そのもとの文化のにおいを残しながら表記する方法だとも言えると思うのです。たとrば「パリ」という年の名前を書く時に、平仮名で「ぱり」と書くよりも片仮名で「パリ」と書いたほうが雰囲気が残ります。片仮名で「パリ」と書くよりもローマ字で「PARIS」と書いたほうがより糞に氣が残る。もちろんこれはローマ字が読めさえすればということですが。これは私見ですが、どうも日本人にhあもともとの雰囲気を残そうとしたがる気質があるというかありのまま純粋に受け入れたいという傾向があるように感じます。

8章-「日本の母国語」と「韓国の母国語」

母国語思考

このところ日本人がノーベル賞を取ることが続きました。それを見て、韓国の学者がうらやましがっていたという話があります。ノーベル賞を取ったことをうらやましがったのではなくて、母国語で思考ができることをうらやましがったという話です。もちろん、それぞれの国の人はそれぞれの国の言葉で思考をするのが一番わかりやすいわけですし、韓国にも韓国語という母国語がある。

では何をそんなにうらやましがったかというと、日本語は外国語を自分の言葉の文脈の中に自由自在に入れ込むことができるという、その特性をうらやましがったというんです。

この背景には、今、韓国が自国の文化を売り出ししているということがあるわけですが、その時にたとえば学問的な分野だとノーベル賞受賞者が何人いるというような話になるわけです。その時に韓国ではノーベル賞を取った人数が少ない。一方で日本は結構立て続けにノーベル賞受賞者が出ている。実際、これまでにノーベル賞を受賞した人数で言うと、韓国が1名、日本が17名になっている(巻末資料1参照)その差はなんだとなった時に、日本は母国語で思考ができるからだということになったようです。簡単に言うと、母国語の中に英語の単語を入れても日本語として意味が通じるということですね。

これは日本語の特性を考えていくときに、とても大切なポイントだとおもいます思います。たとえばこの話の例で言うと、ノーベル賞の受賞者の数がポイントになっていますが、受賞者の数が全然違うからといっても私には両者の間に学術的に差があるとは思えないのです。もしも能力に大差がないのであれば、なぜ、このような差が出てくるのか。そういうことを考えていった時に、この学者が指摘したように学問的な思考をする時のツールである言語に差があるのではないかと考えると筋が通る。

つまり日本人は理論物理学や化学といった学問を母国語と使って考えることができるけれど、韓国の人がぶつりがく物理学や化学を考える際には英語で考えなければならない。こう考えていくと、確かに件の学者の発現はもっともなことなのかもしれません。もちろん、今の学術界では多くのばあい場合、論文は英語で書かれることになります。その意味で、最終的には思考を英語に落とし込む必要があるわけですが、そうやって最終的に英語に落とし込むまでの間の思考期間を日本人は日本語で考えることができる。具体的には、日本語には外国語をそのまま文章の中に取り入れてしまえるという特性があるということです。

「私はコーヒーが飲みたい」

詳細については後述しますが、たとえば日本語の文書で「わたし私はコーヒーが飲みたい」と言う文章は、「私は珈琲が飲みたい」とも書けますし、「わたしはcoffeeが飲みたい」とも書けるということです。もちろん、オリジナルな言葉はcoffeeです。このオリジナルな言葉を翻訳する時に、当て漢字を使うと珈琲になります。また、オリジナルな言葉を翻訳する時に、表音文字で表すと珈琲になります。これらの表記があることで、日本語は比較的容易にオリジナルの言葉を自国の言葉に変換することができる。だからこそ、異国の文化を自国語で考えられるのではないかと考えています。その証拠に今、コンピューターシステム開発の現場に行くとシステムエンジニアを言われる人たち、もちろん彼らは日本人ですが、彼らが話している言葉のほとんどは片仮名語です。そしてそれらの片仮名語は英語を基にしている。しかも発音もオリジナルの英語に結構近い発音になっているわけです。彼らはその片仮名語を日本語として扱っている。日本語がシステム開発の分野で一時期世界をけん引する状況にまでなった理由は、オリジナルの英語を母国語の日本語に変換して使いこなせたからなのかもしれません。いずれにしても、新しいことを思考したりする場合には自分の国の言葉、母国語で思考できるとより優位であることは間違いないと思います。

表現が細かくなればなるほど

第6章でも書きましたが、日本語には物事を表現するための文字とそれらに対応する音が多いという特性もあります。
表現する文字とそれらに対応する音が多いからこそ、オリジナルの言葉いろいろな表現法で表現できるとも言えます。
それだけ文字が多いからこそ、細やかな表現もできる。先にも書いた情緒を表す言葉が8000語あるという事実も、人の心情、情緒というものをとても細かくとらえていけるということの現れだと感じます。表現が細かくなればなるほど、細部に氣が付くことができる可能性は高まりますが、このようなところにも日本人が物理学賞とに偏ってノーベル賞を受賞している理由があるのかもしれません。

なぜなら現代の物理学や化学はとても細かな領域の小さな小さな差を見つけ出すための学問という傾向を持っているからです。科学という分野で言えば、日本人には、物事とをひっつけ合わせる方法論を見つけ出す能力に長けているという特性がありそうです。これは科学の領域でもありますが、実際に、日本の合金技術は世界的に見てトップレベルであると言われています。詳細は後述しますが、あるものと、それとは違った別のものをくっつけるという思考は、二項対立の考え方からは生れません。まったく違うもの同士をひとつのものとして融和させるには、それらのものを階層性をもって眺める能力が必要になる。二項対立の概念を土台にした問題が広がっている原題の社会では、この「階層性をもって物事を眺める」ことができる能力がそれらの問題の解決策として役に立つのかもしれません。

第8章- 言霊とは何か?

さて、ここまで日本語の成り立ちとその特徴について考察してきました。その他で日本語の特徴といえば、子音と母音とがきれいなマトリックスになっていることでしょうか。これは宣教師として日本にやってきたアメリカ人ジャーム素・カーチス・ヘボンによって発見されたことです。ヘボンは1959年に来日したわけですが、日本最初の和英辞典の編集者でもあります。1867年に印刷が完了したこの和英辞典「和英語林集成」の中でヘボンが使ったローマじがいわゆる「ヘボン式ローマ字」といわれるものですが、このヘボン式ローマ字は、日本語をあたらしい新しい光を当てたものだと言えると思います。

表記が違えば

それまでは日本語はいろは歌にダウ丈されるように50音から成り立つ言語として存在していましたが、ヘボンがヘボン式ローマ字を発明したことによって、日本語の音が単なる50音ではなく5つの母音といくつかの子音との組み合わせで成り立っていることが明らかになったからです。「表記が違えば違う言語ができたようなもの」という考え方から言えば、ヘボンはまったくあたらしい新しい言語を発明したということになります。もちろん、ヘボン自身はあくまでも英語と日本語を対応させるための方法としてヘボン式ろーまローマ字を考えたはずであり、自らがまさかあたらしい新しい言語を発明したとは思っていなかったとおもいます思いますが。

この「新言語」の搭乗によって、日本語のかのうせい可能性は大きく広がったと感じますが、それについての詳細は第15章にくわしく記します。ここで大切だと思われることは、ヘボン式ローマ字を発明したヘボンにせよ、日本のことを「言霊のさきはふ国」と評した山上憶良にせよ、日本語(もしくは日本の文化)が日本人に認識されるきっかけとなったのは海の外から来た外国人だったということです。すでに身近にあるものをにんしき認識することはむずかしいものです。それが日常的に使われているものであればあるほど、そのむずかしさは増していきます。日常何気なく使っている言葉というのは、その最たるものだと思います。だからこそ、その「いつも使っている言葉」の特性を知ることnは意義がある。その意味でも古事記や日本書紀にも記載のある「常世の国」という考え方、つまり外から来るものには価値があるという考え方は非常に的を射ていると言えるかもしれません。

山上憶良と言霊

ここで、「言霊のさきはふ国」という言葉をご紹介しましたが、日本語について語ろうとするとどうしても「言霊」という概念に出会うことになります。そもそも「言霊」という言葉を最初に使ったのは山上憶良という人物です。つまりそれまで日本に暮らしていた人々の中には「言霊」という概念はなかったわけです。では憶良は何を見て、何を感じ、「言霊」という表現にたどり着いたのか。

山上憶良は朝鮮半島からの渡来人だったという説が有力です。おそらく彼が母国で使っていた言葉と、日本で聞いた言葉が明らかに違うと感じたからこそ、わざわざ「言霊」という言葉を使ったのだと思います。私が推察するに、彼が感じたものは、言葉とその言葉が表現する対象がぴったり合っているなぁという感嘆だったのではないかと思うのです。「ああ。うまく表現しているなぁ」「うまい言い方があるもんだなぁ」こうした簡単が憶良に「言霊」という言葉を想起させたのではないか。これは現代の話ですが、京都にいくと「ほっこりする」という言葉が使われています。標準語で言うと「ほっとする」とか「安らげる」などの意味がちかい近い言葉ですが、やはり「ほっこり」とした感覚は「ほっこり」という言葉でしか表現できないものだと思うのです。この「感覚」と「言葉」がぴったり合った感じを憶良は日本語の中に感じたのではないでしょうか。ましてや彼は和歌で物事を表現することを学んでいましたから、よけいに言葉の力を感じたのかもしれません。

言霊は神秘か

ところで、私が伯家神道という神道の修行体系を修めていることからか多くの方々が私を尋ねてくださいます。
その際に「言霊」についての質問をいただくことも多いのですが、多くの方が「言霊」という言葉に何か神秘的な意味を持たせているように感じます。いわゆる信仰的なとらえ方とでも言えるでしょうか。たとえば、ある言葉を言ったらその内容が実現する。もしくは、良い言葉をはっすると発すると良いことが起こり、悪い言葉を発すると悪いことが起こる。これが「言霊」という言葉が指す意味だと理解されているようです。ただ、私にとって、この「言霊」という言葉を最初に使った山上憶良という人物に思いをはせてみた時に、その言葉に信仰的なものや神秘に対する姿勢というものをかんじる感じることはむずかしいのです。

私は「言霊」という言葉が指す内容はそのような神秘的であったり、信仰的であったりするものではないと思っています。それどころか、「言霊」という言葉を神秘的なもの、もしくは信仰的なものとして見ることで、言葉が持っている力を自分が使いこなすことを妨げているのではないかとさえ思っています。だから「言霊」についての質問を頂いた時にはそのようなお話しをするのですが、みなさん、なんだか腑に落ちないような顔をされます。

なんだか、もっと心性なものだと思っていたのに、なんてことを言うんだ、というような感じですが、それだけ「言霊」という言葉に信仰的な意味を持たさせているのが今の状態なのかもしれないなと思っています。もちろん、対象とぴったり合った言葉をつかう使うことは、物事をスムーズに進めるために役に立ちます。これはわたし私がここ数年にわたって行っている実験からも確認できていることです。その意味では、言葉のつかい使い方次第で良いことが起こったり、物事が実現したりするという言い方もできるわけですが、ただ、それはある意味で科学的なアプローチです。このアプローチ、つまりモノやコトとそれらのモノやコトを表現する言葉がぴったり合っていることによって物事がどうしてスムーズに進むのかということについては第17章でくわしくお話ししようとおもいます思います。ここでは私が決して言霊を神秘的なものとしてとらえているわけではないことをご理解しただければとおもいます。
そして、あなたが言霊を使いこなすことを望まれるのであれば、そのカギは、言霊に対する信仰にあるわけでもなく、言霊を神聖なものとして扱うことにあるわけでもないという理解をしていただければよいのではないかと感じます。

童謡に感じる聖歌のかおり

ところで、今、外国で日本語に対して「なんてきれいなんでしょう」というような評価が増えています。たとえば、歌手の由紀さおりさんが歌う日本の童謡が外国でものすごく人気があったりします。私はあれはメロディーがいいのではなくて、彼女が発声する日本語の音に対する評価だと思うのです。というのも、昔、明治維新のころに西洋の音楽が日本に入ってきたわけですが、その時に日本人は音楽取調掛というものを作っていたんですね。

その音楽取調掛が今の東京芸大の音楽科になっています。その音楽取調掛で何をやっていたのかというと、西洋から入ってきた音楽を日本人がきちんと演奏しているかどうか、もしくは歌詞をきちんと訳しているかをチェックしていた。つまり西洋音楽というものを純粋に受け入れようとする取り組みをしていたわけです。もともと日本の知識の受け入れ方というのは、まず相手のものをそのまま受け入れるということをやりますから、ここでも音楽に対して同じことをしようとしたんですね。簡単に言うと、その当時にすでに日本にあった音楽、たとえば民謡や浪曲なんかと西洋の音楽が混ざってしまわないように、ごっちゃにされてしまわないようにしようとしたということです。

取り調べの対象には演奏の仕方もありましたが、歌詞をどのように日本語に訳しているかについても厳しくチェックしたわけです。なるべくオリジナルの歌詞の意味を壊さないように、忠実に訳そうとした。その時に訳語の参考にされたのが、わたし私が調べた範囲では西洋の讃美歌や聖歌だった。今でもその時に翻訳された動揺が日本で歌われていますが、この歌詞の響きの中には当時の西洋の讃美歌や聖歌の響きが残っているわけですね。だから西洋の人は由紀さおりさんが動揺を歌うと、そこに讃美歌や聖歌の響きを感じるのかもしれません。だから感動する。

それはある意味で今の西洋のせかい世界が讃美歌や聖歌の世界を失っている表れかもしれないと私は思っています。いずれにせよ、日本語が海外で評価されつつあるというのは日本人が日本語を見直すきっかけとしてはとてもいい傾向だとも感じます。もちろん国内でも「声に出して読みたい日本語」というような本がベストセラーになっています。要するに日本の語を音のきれいさをもう1回再認識しましょう、というような運動が日本で起こっていますけど、そういう国内の動きと合わせて、国外で起こっている流れというか、日本語を日常的に使わない人たちからの日本語に対する評価というのを見ていくと、より速く日本語の特性をつかめるかもしれない。外国人であった山上憶良やヘボンが日本語にあたらしい新しい光を当ててくれたように。私はそう感じています。

第9章- 情報の取り入れ方と「神」の門番

さて、ここまでの各章では今現在、世の中で起こっている問題と、その問題を解決することnなるかもしれない「網羅性」という日本文化の特徴、そして日本語の特徴について書いていきました。今の世の中の問題は情報の多さと、二項対立の視点であると書いているわけですから、そのふたつを解決する必要があります。ここからは、情報の多さと二項対立の視点をどのように解決する可能性があるのかを書いていきます。まず最初は、今の世の中で行われている情報の取り込み方についてです。

被造物と魔女裁判

本書の冒頭にも書いたように、今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代です。なぜなら、入ってくる情報の量が幾何数的に増えているからです。では日本や他の国ではどのような形で情報の吸収や整理がされているのでしょうか。大雑把にいうと、日本以外の文明の人たちの知識の取り入れ方というのは先ほども書いたように、目の前に現われた情報・知識に対して「この知識は良い知識である」とか「この知識は悪い知識である」というように割り振りをする傾向が強いようです。この根本にあるのは一神教的な自然神学であり、その文化は「唯一のかみ神が創造者であり、神以外のすべては神による被造物である」という思想の上に成り立っています。

この思想の下では人間はかみ神から見たと気には価値の低い存在であり、その存在が知識を取り込む時にはかみ神から頂いた知識いがい以外はなるべく自分の中に入れないほうがいいということになります。その結果、神から来たちしき知識以外のもの、たとえば悪魔やされに類するものから来た知識は自分の中から叩きださなければならないという発想が生まれてくるのは自然な流れなのかもしれません。こうなると、かみ神と悪魔という二項対立の中に落ち込んでしまいますが、その結果が中世の魔書裁判といった出来事につながっていったのだと考えられるわけです。

知識を取り入れるということに関して言えば、被造物だる人間は常に情報や知識に対する門番を必要とすることになるということでもあります。情報や知識が自分の手元にとどく届くまでにはいろんな門番がいて、それらの門番が「これは神から来たかどうか?」という観点で情報や知識を選別していきます。その結果、手元にとどく届く情報の数は格段に少なくなり、しかも偏ったものになる。だからあたらしい新しい情報やちしき知識は吸収しにくい。というよりも、そもそも情報や知識が入ってこないわけですから、そもそも吸収できないとも言えます。現在もある特定の国ではこれらの情報整理が公然と行われているわけです。

「よりよい国」がはらむ危険性

ところでこのような情報の検閲をしていくと政治学という学問がなくなります。なぜなら政治学というのは、支配するための学問です。もちろん、より良い国を作るためにはどうすればいいのかを考えるのが政治学ですが、見逃しがちなポイントは「より良い国」と言った時に、誰にとってより良いのかという主語が抜けていることです。諸外国を見るまでもなく、現在の日本でも同じようなことが起こっています。自民党や民主党という政党はありますが、基本的に日本の政治は完了がコントロールしやすい構造になるようになっています。このような情報の検閲を行っていくと政治学という学問がなくなることは確かです。なぜなら、政治学をまなばせると学ばせると、革命につながる可能性が出てくるからです。情報を検閲しているものにとって、これは不都合です。少し話が脱線しましたが、情報の検閲を行っている国では政治学はなくなる、と覚えておくといいと思います。

「知識の門番」

さて、情報や知識に対しる門番を置くようになると、新しい情報や知識を吸収しにくくなるだけではなくて、新しい情報や知識を発信することも妨げられます。その分かりやすい例は「それでも地球は回っている」と言わざるをえなかったガリレオに見ることができます。情報や知識の検閲という必要性は、一神教神学から出てきています。いわば、神学が情報や知識の番人であるということです。それに反発する形で生まれたのがルターによる宗教改革や、ピューリタニズムです。簡単に言えば、カトリックが規定する神学によって自分たちに入ってくる情報やちしき知識が制限されるのは嫌だ!という反発と、それにともなう運動です。その結果、カトリックの世界に住んでいた人たちが、アメリカに行ったり、そのほかの地域に移住していったりして、世界中にちらばっていった。つまり、カトリックの教会の影響力から少しでも離れようとしたわけです。ところが、その移住先での信仰の対象はというと、やっぱり唯一の創造神になってしまった。するとここでも人々は創造主によって作られた被造物になる。そうすると、形は変わるけれど、内容も多少は変わるかもしれないけれど、情報や知識の門番が必要になってくることになります。このようなことが起こっていたわけです。

色が変わった「色眼鏡」

こうして結局、神学から抜けられなかった人類は、この百何十年かの間にあたらしい新しい動きをはじめます。それが共産主義です。この共産主義のもとになっているのは哲学ですが、てつがく哲学は唯一絶対である存在としての神を否定するところから始まる学問です。

これまでの神学にきてい規定された生活ではなく、神学に規定されない生活を送るために哲学をそのよりどころにしようとしたわけです。神を否定したわけですから、もう神による情報や知識の検閲は存在しません。神の知識もなければ、悪魔の知識もなくなる。では、人々が自由に情報や知識にアクセスできるようになったかというと、そうではありません。今度は「神」の影響を入れないようにする門番が登場することになります。それが共産主義というフィルターで、簡単に言えば「共産主義のちしき知識以外のものは受け付けない」ということになった。結局、色眼鏡の色は変わったけれど、依然として色がついている状態のままということになった。それが今の段階です。

共産主義はロシアでは終焉を迎え、中国でも解体されつつあります。北朝鮮だけがまだ共産主義の色を濃く残しているわけですが、知識の閉鎖状態を作っていることが見て取れます。もちろんこれは、支配階層が支配の及ぶ基幹を長くするためにとっている方策といえます。わたし私は北朝鮮を非難するつもりは毛頭ありませんから、ここでのお話しはあくまでも情報や知識の取り入れ方についての例だとご理解ください。実際に、北朝鮮の共産主義に限らず、今でもキリスト教世界では、信者に対して他の宗教の教義の話を聞いてはならないなどという説教がまかりとおっていますが、これも情報や知識の番人を置くという形態のひとつです。
目的はもちろん、教会の支配が及ぶ期間や範囲を拡大・継続するためです。このような状態ですので、一神教を文化の土台にしている国や神を否定する哲学を文化の土台にしている国では情報や知識が入りにくいということは言えるとおもいます思います。

個人の中にある制限

このような国では、情報や知識というものは、吸収する対象ではなく、ある権力階層から分配されるもおという捉え方が的を射ているかもしれません。もちろん、現代はインターネットなどの登場によって、個人がさまざまな情報にアクセスできるようになっていますから、私が言うような制限はないのではないかと思われる方もいらっしゃることでしょう。しかし、大切なことは、情報や知識に対しうる色眼鏡は、個人の中にあるということです。言葉を変えれば洗脳されていると言ってもいいかもしれません。情報や知識を受け取る前の個人を洗脳しているというのはどういうことかというと、ある情報やちしき知識が目の前に現われた時に「これは悪魔の情報だ」などというレッテルを貼るということを見せていくということです。



幼いころからその様子を見ていた子供が大人になった時に、それらの経験から自由になることは本当にむずかしい。
というのも、そもそも、自分がそのような色眼鏡をかけていることにさえ氣付かないからです。ある意味でいうと、自由というものがまったくないと言えるかもしれません。そしてこの状況は、今の日本にも当てはまります。もちろん、情報自体は比較的自由に入ってきます。たとえば科学的な知識などというものは比較的自由に手にすることができる。ところが、その情報に対する評価ということに関して言うと、そんなに自由があるわけではない。たとえば、原子力発電所の安全性、もしくは危険性に関する情報は、日本という国の運営上、都合のいいような形で発表されるわけです。

「これぐらいのレベルの放射線量なら安全です」というような情報ですね。ところが、その数値を別の国の発表と照らし合わせてみるとものすごく危険だと評価されていたりする。もりとん、このように他の国の発表内容と比較してみることができれば、「何が本当か分からないな」という疑問を持つこともできるかもしれません。疑問を持つことができれば、その疑問を解消するために自分で調査をしてみることもできるかもしれない。しかし、ただ国の発表を聞いているだけという人も多いのです。そうなると、確かに情報や知識にはアクセスできるけれど、それらの情報やちしき知識を自分の中に取り入れることはできていないということになる。ロシアの事例で言うと、プーチン大統領が情報を操作したという報道がされていたことがありますが、社会が情報化すればするほど情報の統制が行われていると考えて間違いはないのかと思います。





なぜ日本人はうまくいくか?-1-4章-七沢賢治

2020-12-31 07:53:42 | 日本人はなぜうまくいくか
「なぜ日本人はうまくいくか?」


そう聞かれても答えにつまる方は多いとおもいます思います。そもそも、何に対してうまくいくのか?
本当にうまくいくのか?この本を手に取られたあなたはそんなことを思っていらっしゃるのかもしれません。
私はある意味の確信をもって、日本人はうまくいくと思っています。
リーマンショックやサブプライム問題、テロの欧州など。今、ビジネスの現場、文化、教育の分野などで
戦後の日本がお手本としてきた欧米式の方法論が崩壊しつつあるように見受けられます。
翻って国内を見てみれば、欧米式のやり方をお手本としてきている間に、これまでの日本の背骨ともいうべき”日本式のやり方”もあらゆる分野で忘れ去られてしまっているように感じます。

お手本とするモデルも崩れ、ふと氣がつけばこれまでに築いてきた土台もなくなっていた。
このような一見発砲ふさがりに見える現在の日本で、正体につながる糸口はないのか。

山梨県甲府市にある私の居宅にまでわざわざ訪ねてきてくださる方々の多くは、それぞれのテーマこそ違えど、みなさん、将来につながる糸口を探そうとされていらっしゃるように感じます。
それらの方々から頂いた質問に私がお答えしている内容が、
それらの方々それぞれにとって満足のいくものであるかどうかは、
正直なところ、私には正確には把握できません。

しかしならが、頂いたすべての質問に対して、私のこれまでの経験や研究の成果を基に最大限の回答をしようと心掛けてきましたし、その試みはこれからも私に質問を投げかけて下さる方がいらっしゃる限り続けていくことになると思います。

本書はそのような方々から頂いた質問の内容や、これまでに私が複数の企業さんにご提供してきたコンサルティングの内容をひも解いてご提供するものです。ごくごく簡単に言うと、日本人がうまくいく理由は、その言語の特性とその言語を形ふくった文化の中にあります。とはいえ、それは日本人の人種的な優位性を意味するものではありません。そもそも、人種的に優れている、もしくは劣っているというような考え方が今の世の中の問題の土壌になっているのですから、日本人がうまくいく根拠をその土壌に求めたところで成果を得ることはおぼつかないでしょう。

このような、今の世の中の問題の土壌になっている考え方のことを「二項対立」といいます。
持てるものと持たざるもの、善なるものと悪なるもの、豊かなものとまずしい貧しいものなどなど、二項対立の対象項目となりうる要素は数え上げればきりがないほどです。本書ではこの二項対立についても紙面を割いてくわしく説明しています。

なぜならば、その内容を知るだけでも、その枠組みから自由になる可能性が開けると考えるからです。また、日本語の可能性を語る時には必ずついてまわる「言霊」という言葉が指す内容についても、私なりの考察を入れています。
この目的も、いわゆる「言霊」というものの力を、多くの人が活用できればそれらの人たちの生活が実り豊かになると考えるからです。

ただし、おおよそ神秘的な話にはならないことをあらかじめお断り申し上げておきます。
なぜなら「言霊」という言葉が指す内容はなんら神秘的なものではなく、ましてや信仰の対象でもなく、
ただただその内容を知りさえすればすべての人がごくごく普通に使いこなせる、論理的なものだからです。

一報で、日本語にはほかの言語にはない特性があることも確かです。ただしこれも日本語がほかの言語よりも優れているという意味ではありません。それはただ、日本語には他の多くの言語にはない特性が確かにある
というだけのこと。そして、その特性によって今の社会が直面しているさまざまな問題が解決する可能性が高いというだけのことです。

本書では日本語が持つ他の言語にはない特性をどう使えばいいのかについても説明していきます。本書の目的は「あなたの暮らしを豊かにするための具体的なヒント」をご提供することです。その豊かさはあなた自身の中に生まれるものもあるでしょうし、あなたがビジネスマンであれば仕事の現場で出てくる豊かさも
あると思います。あまりに範囲を広げ過ぎても具体的に役に立つ内容にはならないと思いますので、
そこはテーマをあなたの暮らしを豊かにすることに絞って書いていきたいと思います。

ところで私にはどうも研究者氣質のようなものが強いらしく、どうしてもむずかしい表現をしてしまいがちなところがあります。ですので特に氣をつけて、分かりやすい言葉で描くように心がけましたが、それでも分かりにくいところがることを考えて、巻末にはあなたの理解を助けるかもしれない参考書籍をご紹介してあります。ぜひ、本書とあわせてご活用ください。ところで近年、あちこちで日本語の美しさが

取り上げます。その中で単なる日本語の美しさ(優れた特性)だけではなく、実際に実生活に使える道具として、どのように日本語をつかい使いこなせるのか、この本があなたの暮らしに、実際に役に立つことを願っています。

第一章-なぜ日本人はうまくいくのか?

ビジネスの現場、文化、教育の分野などで千五お手本にしてきた欧米式の方法論が立ち行かなくなり、ふと氣がつけばこれまでに築いてきた”日本式のやり方”という土台もなくなっていた。このような一見八方ふさがりに見える現在の日本で、将来につながる糸口はないのか。そのような観点でこの本を書いてきました。ここで最後に日本人がうまくいく可能性についてぜんたいてき全体的な考察をしてみようと思います。

日本人にとっての「いのち」

さて、日本人がうまくいく可能性というテーマで考えると、その可能性を支えているのは、その文化の中に物事を網羅しようという性質があるおとと、網羅するべき対象それぞれに対してぴったり合った表現擁護を持っていることだと思います。他の言語では、網羅しようと思ってもぴったりの言葉がない。ぴったりの言葉がない物事は思考の対象から抜け落ちてしまうわけです。なぜぴったりの言葉がない物事は思考の対象から抜け落ちてしまうわけです。なぜぴったりの言葉がないかというと、自分たちは被造物であって、創造主によって造られた人間が何を持ち、何を感じるかは創造主がすべて決めるのだという思想が根底にあるからだと考えられます。

つまり、ぴったりの言葉を自分で探すということをしないわけです。そうではなくて、神から与えられる呼び名を持っている。ところが日本では「いのち」というものが神からつくられたという発想がありません。日本ひと人にとっての「いのち」とはおのずからわいてきたものであり、誰かに創られた被造物ではない。
おそらくこの考え方は日本人が自然を観察するところから得られたのではないかと思われます。
細菌がわく様子を見てというか、食物が発酵する様子などを見ながら、命はおのずからわいてくるのだという結論に至ったのではないかというのが私の推測です。もちろん、一神教の世界に住む人も食物が発酵する様子や細菌がわく様子は見ていたと思いますが、それによって命がおのずからわいてくるとは考えなかった。おそらく、これは仮説ですが、一神教を土台とする文化にとっては、発酵の様子や細菌は忌み嫌うものであって観察対象ではなかったのだろうと思われます。もちろん、「忌み嫌う」という選択をする際には一神教の教義というか、「神」という情報や知識の番人の影響があったはずです。
ところで、実際に日本人が食物の発光する様子から命の発生に思いをはせたのかどうかは今の私には知る由もありませんが、日本という国でこれだけ多くの発酵食品が作られていることも、日本の文化の根柢を探るうえでヒントになるのかもしれません。

「穢れ」を流す多支都速川

さて、日本人には観察対象を網羅しようとする傾向があり、物事を網羅する時にそれぞれの物事にぴったり合った言葉もあるというお話をしてきました。それに加えて、日本人には「流す」という意思がある。これは誰かに主導権を取ってもらおうという考え方ではなくて、自分で主導権を取ろうという意志の現れだとも考えられます。もうひとつ、この「流す」という意志に関しては大切なことがあります。
これは誰かに主導権を取ってもらおうという考え方ではなくて、自分で主導権を取ろうという意志の表れだとも考えられます。もうひとつ、この「流す」という意志に関しては大切なことがあります。実は、水というのは50センチ流れると寄与待ってしまう。これは科学です。逆に、水が一ヵ所にとどまっていると腐ってくる。これも科学です。ですので、水が流れるということは、清まるということと同じ意味なのです。ここでは話は再び日本の「祓い」の儀式に戻りますが、大祓いの祝詞の中には罪や穢れを流す神々が出てきます。それらの神々によって罪や穢れは多支都速川の瀬から海に流されていく。海に出た罪や穢れは、さらに沖に流されていく。

最終的に罪や穢れは海の底にまで流されていき、そこでそれらの罪や穢れを全部引き受けて決してしまう神が現れる。これらの表現から分ることは、日本人は昔から各種の自然の働きを神と呼んでいたということです。
つまり、ここでも日本人というのは観察者だったと言えると思うのです。自然の働きをつぶさに観察しながら、自分が認識する自然の範囲を超えず拡大していく。日本人という人種はそういうおとをやってきていたのではないかと思います。

神はサイコロをふらないのか?

今の物理学ではこの「観察者」という存在がクローズアップされています。つまり、観察者の意志によって実験の結果が変わるということが証明されているわけです。これはアインシュタイン以来の科学を揺り動かす、ものすごい衝撃です。ある意味ではこれまでの物理学に限界が訪れたとも言えます。というのも、アインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言いました。つまり、人間の意志で物事の結果が変わったりすることはないと言ったわけです。ところが今では、観察者の意志によって実験の結果が変わることが証明されてしまった。となると、神はサイコロをふりまくっていることになります。
観察者の意志で結果が変わるというのは、物理学にとってアインシュタインが1955年に亡くなって以来の新しいパラダイムです。
これまでは神が決めていて、人はそれに従うだけだと考えられていた部分で、人が主導権を持つことができると分かったわけです。こうなった時に、観察者というのはものすごい力を持つわけですが、日本にはその観察者という文化が根付いている。これはこれから私たちがあたらしい新しい時代を暮らしていく中での大きな利点だと思います。ではなぜ日本人が観察者でありえたのかということですが、私はこれは島国という日本のちりてき地理的条件の産物だと思っています。先にも書きましたように、日本は島国であるがゆえに、外国から来たものを受け容れやすい文化があったと思われます。受け入れやすいとも言えるし、排除できないとも言えますが、いずれにしてもその結果、観察の対象をゆっくり見る時間ができた。

観察によって語彙も増えることになった。島国という特性はまた、みんなのことを考えなければいけないという制約条件も生み出します。するとまた相手のことを観察したりする。その結果、以心伝心というコミュニケーション法や、あるいは空気を読みながら生きるという必要性とその必要性を満たすための能力がついたりしたのではにかと思います。つまり脳の機能が非常に広がった。
コミュニケーションの能力が高度になったおちうことだとおもいます思います。

転換期を迎えたパラダイム

話は戻りますが、日本人は物事を網羅して、流して、消すという概念がある。
いわば意志を持った観察者であることが、日本人の特性になるわけです。
それは同時に科学の最先端が行き着いたところでもあります。
一神教的な土台を持つ今までの科学は量子力学が登場したことによってその限界をさらけ出しています。

その限界のひとつが「光より速いものがない」と言われていたにもかかわらず、ニュートリノというもの、光よりもほんのわずかだけども速いものがあるのではないかということが分かったことです。おそらくこれで、一神教を土台にした科学に終止符が打たれるのではないか。私はそのように感じています。

もちろん、それはこれまでの一神教を土台にした科学の功績を無視することではありません。
ただ単に、パラダイムがあたらしい新しい転換期を迎えたというだけのことだと思うのです。
というのも、今や膜宇宙であったり、ヒッグス粒子であったりというものが実証されようとしつつあります。
そうなると宇宙の成り立ちについても明らかになるかもしれません。もしくはブラックホールとホワイトホールとワームホールの関係が証明される時が来るかもしれない。
これらのテーマを今の科学にあてはめて解釈し直すこともできるし、ちょっと前のパラダイムで解釈し直すこともできる。これはひょっとすると、天動説から地動説に変わるぐらいの変化かもしれません。すると、この変化に抵抗を感じる人も出てきてはおかしくない。

それはしごく当然のことだと思うのです。けれどおそらくですが、日本人にはこの新しい転換にたいする転換に対する抵抗が比較的少ないのでhないかとも思うわけです。

というのも、日本は八百万の神々がいるとされている国です。当然、物事を受け容れる際の受け入れの余地は大きい。なぜなら日本人は自分たちのことを被造物だとは思っていない、意志ある観察者の集団なのですから。

さて、現存する日本最古の歴史書といわれる古事記では、最初に登場する神を天之御中主と呼んでいます。そしてそれはおのずから出てきたかみ神であると書かれています。
神すらもおのずからかわいてきたと考える思考の枠組み。
そういう枠組みを土台にしているがゆえに、日本の文化には今のの二項対立をひっくり返せる可能性がある。
しかも、何か悪いことが起こったとしても、それを網羅して、流して、そして決してしまおうという意思さえある。
この意味で、今、世の中が二項対立に端を発する問題を抱えている時代には日本人の感覚が役に立つのではないかという氣がしています。

第二章-情報量について

今は今までのやり方が世の中で通用しなくなってきている時代です。なぜかと言うと、情報量がすごく増えてきたから。つまり、知識の量が飽和に達しているということが世界的な問題になっています。もちろんこれまでにも大航海時代などで、突然、ひと人が手にする情報の量が増えた時期がありました。印刷技術が発達して、多くの印刷物を手にすることができるようになったじだい時代にも同じことがありました。しかし、現代のそれは、情報量の桁がちがいます。例えばコンピューター用語だと2万語ぐらいあたらしい新しい用語があって、しかもその周辺言葉も含めると10万とかそういう単位になる。その結果、コンピューター用語の専門化であるシステムエンジニアやプログラマーでさえもそれらの情報を扱いきれなくなっている。把握ができないということですよね。しかもこれと同じことがほかの分野でも起こっている。たとえば医学にしても同じ。情報がたくさんありすぎて、専門家ですら追いつけない。これは日本もアメリカもイギリスも同じです。どこの国であるかにかんけい関係なく、情報量が増えすぎている。ですので今は、それらの情報を一回整理しなければならない時に来ているとは思います。

二項対立

ところで今の世の中で起こっているもんだい問題の原因にはまったく別のものもあります。
今の世の中のスタンダードは欧米のやり方になっているわけですが、その破綻を象徴したのがリーマンショックとサブプライム問題です。もともとリーマンショックもサブプライム問題も金融に関する問題です。そして、金融は金融工学という学問を根拠にして動いているわけですが、実は金融工学の中身は物理学です。金融工学という学問は、物理学の理論を使って考えられている。この学問と使って利益を上げようとする取り組みが金融になるわけですが、

リーマンショックもサブプライム問題も、進化した最先端の学問の内容をその他の分野に応用していく際に、りんりせい倫理性がなかったことから引き起こされた問題だと言えると思います。

倫理性がないとはどういうことかというと、自分たちが儲けることが唯一の視点になっていたということです。よりたくさんのものを得ようとする取り組みがメインになれば、必ず売り抜けて儲けようという意思が出てきます。その意思を多くの人が持った上でこぞって儲けを上げようとした。そのけっか結果、仕組みが破綻してしまったと言えると思います。では、なぜ自分たちが儲けることが唯一の視点になったのか。これは単純い個人の欲望に氣血すればいい話ではないと思います。なぜならば、自分たちが儲けることが唯一の視点になるということは、自分以外の人は儲けなくてもいいという意味でもあるからです。
なぜこのような思考がまかり通るのか。
わたし私はその背景には、一神教神学に基づいた文化があると考えています。一神教神理学とは文字通り、ひとつの神をその他のものと区別するかみ神学です。つまり、すべてのものを「神」か、「それ以外」かに分けてとらえる思考です。そしてこれは宗教ですから、この神学を信じている者は正しくて、この神学を信じない者は正しくないという結論が出てきます。この論理を突き止めていくと、「わたし私たちは正しい。あなたたちは間違っている」という理屈が出てくる。このように考えられるからこそ、自分たちはたくさん儲けていいという動機づけが出てくる。その結果、よりたくさんのものを得ようとする取り組みがメインになり、多くの人がこぞって自分の儲けを上げようとした。そのため、仕組みが破綻してしまったという象徴がリーマンショックであり、サブプライム問題だったと理解しています。

ちょっとしたまとめ

多すぎると情報と、二項対立の文化の域妻い。このふたつが今の社会のさまざまな問題の出所だとすると、
問題の解決策は、情報の処理の方法と二項対立の考え方をどう転換するかということになると思います。ではどのように転換していけばいいのか。その流を探るために、次の第二章と第三章ではそれぞれの問題をもう少し掘り下げてみたいと思います。

第二章 増えすぎた情報の問題点

先ほど私は、いま世界では知識の量が飽和に達しているということが問題いなっていると書きました。ですので今は、それらの情報を一回整理しなければならない時に来ていると考えているわけですが、それはなぜでしょうか。

なぜなら今、情報の内容を他の人に伝えることができなくなっているからです。先ほど、コンピュータ用語の例を出して、コンピューターの専門家でさえ、自分の専門領域についての情報を把握しきれなくなっている現状をご紹介しました。では、こういった情報を世間一般の人に伝える必要が出てきた時にはどうなるのでしょうか?専門家の中だけでかろうじて意味が通じるような情報を、専門外の人に伝えようとするともうそれは不可能に近いわけです。たとえば原子力についての知識であれば、原子力の専門化はかろうじて分るけど、それをどうやって一般の人に伝えるかというと、もはや方法がない。

しょうがないから、専門家の間でなんとか通じているようなその知識をそのまま伝えるというようなことをしてしまう。そうすると、だいこんらんが起こります。かといって、知識を提供しないわけんはいかないこともある。なぜなら、ちしき知識がないと最低限の定義すらできなくなるからです。当然、知識に対する欲求もつよまり強まりますから、知識を隠しておくわけにはいかなくなるのです。そのような理由から専門化がちしき知識を提供したとしても、一般の人にはその知識が何を指すのかがりかい理解できない。たとえば放射能汚染という問題があるけれど、なにをもって「汚染されている」と判断すればいいのかという定義がどこにあるのかが分からなければ一般の人はますます混乱するだけです。そして今、そういう事態が起こっている。具体的に言うと、日本の原子力安全・保安院が提示している「これくらいだったら安全です」という放射線量と、諸外国、たとえばドイツが提示している安全な放射線量の値がものすごく違ったりするわけです。
すると、何を信じていいのか分からなくなる。当然、混乱します。混乱するだけでなく、情報の発信源に対しても不信感が生まれます。するとますますちしき知識を得ようとして、ますますバラバラな情報にさらされることになる。その結果ますます混乱していく。今、このような悪循環が日本のみならず、世界中のいたるところで見受けられます。要するに基準がなくなっているわけです。これは知識の混乱だと言ってもいいと思うのです。

現代のバベルの塔

基準がないと何が問題かというと、関連する人たちの間で共通のコンセンサスが得られなくなります。つまり言葉が通じないのです。これはまさにバベルの塔の再来です。基準値が統一されていなくて、いろいろな基準がいろいろなところで発表されるからスタンダードなんてない。だからダブル・スタンダードになっていう。すると、そこには不安や不信感が生まれてきます。こなるともう、まっとうなコミュニケーションは成り立ちません。

先ほどの放射能汚染の話で言えば、こちらの人は100という単位が汚染の開始基準だと言っていて、あちらの人は300だという。たとえば今の測定値が200だったとすると、300が開始基準だという人は「まだ大丈夫だよ」という。けれど100が開始基準だという人は「全然大丈夫じゃないよ!」と言う。今はこのようなコミュニケーションがなりたたない成り立たないという問題が起こっているわけです。これは言語が分からないということと同じことです。だから、私はバベルの塔の再来だというお話をするわけですね。そして、このコミュニケーションが成り立たないという問題がさらに「対立」という問題を生んでいくわけです。

「コミュニケーション」と「対立」の構図

それは、お互いにコミュニケーションができない相手というのは自分にとっての味方だとは思えないからです。その結果、「私とあのひと人はちがう違う」といった対立の概念が生まれます。そうするおt、強いものが弱いものにたいして者に対して自分の言うことを聞かせるという覇権主義的な思考が出てくるわけです。もともとは政治的な覇権主義から始まるのかもしれませんが、それがそのうちに経済的な覇権主義にすり替わっていったりします。

これは知識のデバイスが、政治のデバイスや経済のデバイスになっていくということです。それとは別に、コミュニケーションがとれないという現象は、社会構造の硬直化も引き起こします。ものすごく簡単に言うと、たとえば他人とのコミュニケーションができないから、誰からが何かの悩みを持ったとしても、誰に話しても話しが通じない。話が通じないから、話ができなくなる。これも硬直化の一つです。こうなると、悩みの解決の糸口がなくなるから、にっちもさっちもいかなくなる。コミュニケーションができないという悩みも、もともとの悩みの上に付加されるわけですから、二重、三重の悩みを抱えることになりかねない。じっさい実際、ビジネスの現場ではこのような理由でにっちもさっちもいかなくなっていいる企業さんんもおおい多いですし、彼らがアドバイスを求めているコンサルタントさんも同じような悩みを抱えていたりしますから、いわば八方ふさがりのような状況になっているのが現状だと思います。

ナレッジガバメントの可能性

そういう状況ではあるのですけれど、今はインターネトがそれらの問題に対する解決策を提供しているようにも見受けられます。つまり、隣にいる人と話が通じないから、目に見える相手とはもうはなし話しが通じないから、目にみえない見えない誰かとネットで繋がって話をするようになっているということです。これは新しい国家ができつつあるというふうにもとらえられると思います。今までは話が通じる人間同士がコミュニティーをつくっていて、それが国だったわけですが、国の定義が変わりつつあると言ってもいいかもしれません。というのも、今までの国家というものはいわゆる対面的なコミュニケーションがかのうであるという事実によってその存在が担保されていた部分があるわけです。ところが今や隣に住んでいる人とは話が通じない。けれどネットの中であれば話が通じる人間が見つかる。こうなるとネットが宗教化するようなことが起こってくる。

このまま流が進んでいけば、

ナレッジガバメントというか、どんな知識を共有できるあということを基準にしたあたらしい新しい国家体系が形成されるかもしれません。そのような国家体系が形成されたときには、実際に目の前にいておなじ国にいるように見える人がいるけれども、実はその人は違う国の国民だということにもなりかねない。逆に住んでいる場所は違うけれど、共通のコミュニケーション方法を持っている人とは自由にコミュニケーションがとれる。実際にこういう状況が起こりつつあるわけです。つまり、同じ日本に住んていても、それぞれ違う考え方でも共存できるというような世界をつくらざるをえなくなってくるともいえます。

「国家」の未来

そうなったときに、今の国家はどうなるか。要するに戦争でもって国土や文化を奪うこと自体が不可能になりますから、物理的な国土という物差しを使って国家を判断することはできなくなるのではないかとおもいます。ここでご紹介したようなナレッジガバメントがいよいよ動きだした際には、おなじ国に住んでいても話が通じないという問題は今よりも顕著になるはずです。その時には、お互いの間の共通言語を見つける取り組みというか、もうちょくせつ直接やり鳥をすることはほぼ不可能になっているわけですから、いわば間接的にコミュニケーションをとる方法が必要になる。

とたえば、どんなナレッジガバメントに属する人でも理解できるような知識データーベースがあって、違うナレッジガバメントに属する人とコミュニケーションをしたいと思った時には、一かいそのちしき知識データベースという共通言語にアクセスして、そこからコミュニケーションを図るというようなことも起こってくるかもしれません。その前提で言えばこの知識データベースの出来不出来がものすごく大切になってくる。つまり、漏れがなく、重複もなく、かつすべてを網羅している知識データーベースの必要性です。逆に言えば、そのような形で情報を一回整理しなければ、もう立ちいかなくなっているのが今の社会だと言えます。

第三章 二項対立の問題点

第1章で、リーマンショックやサブプライム問題が起こった背景には、

一神教を根拠にした二項対立の構図があると書きました。ここでは一神教と二項対立との関係についてお話をしたいと思います。


一神教神学による「情報のとらえ方」

一神教神学とは文字通り、ひとつの神とその他のものとを区別する神学です。別の言葉で言えば、すべてのものを「神」か、「それ以外」かに分けてとらえる思考です。当然、情報のとらえ方にもこの思考が反映される。つまり、情報をとらえるときにはまず、その発信元はどこなのかということがポンとになるということです。その情報は神から来た情報なのか、悪魔的な情報なのかという分別がある。
そして、この分別というか人為的な判断があるということが問題を作りだすわけです。というのも一神教的な土台を持った文化ではどうしても創造者という概念を強調した世界観が出てきます。要するに神から来た情報は受け入れ、それ以外は排除するという世界観です。そうすると結果として、排他的なオペレーションが起こってくる。それがエスカレートすることによって戦争状態が起こりやすくなるわけです。それは今の世界情勢を見ても明らかです。もちろん表向きの理由はいろいろありますが、すべての戦争・内線の根底にあるのは「私たちは正しいけれど、あなたたちはまちがって間違っている」という思想であり、その思想を支えているのは、「自分達は神の側にいる」という信念だということが見て取れると思います。その一方で、企業や国が、エネルギーや、各種の原材料、そして食料などを私的に奪うということが合法的に行われています。これは一種の横取りですが、それを正当化するようにみせる見せる

制度や権力を構築しているわけです。これは一種の悪魔的な世界観と言えるかもしれない。いい例が金融工学です。金融工学は基本的には物理学の公式を使って行います。
そして最先端の公式を知っている者から、そんな公式はまったく知らないという者へと方法論が降りていく。進んだ科学から遅れた科学に、方法論を下ろしていくというやり方ですね。一見するとちしき知識があるものが知識のないものを助けているように見えますが、実はそこでは情報の操作が行われている。どんな操作かというと「もともと最先端の公式を知っている者に最先端い利益が返ってくるように設計された方法論」を降ろしていくという操作です。別に方法論を受け取る相手の利益を考えて方法論を降ろすのではなくて、降ろした先から自分のところに水が戻って来るように考えて方法論を降ろす。我田引水的な情報操作と言えるかもしれません。

これはちょうど原爆の開発の時に起こったことに近いです。もともと核分裂によるエネルギー抽出の研究には平和利用のためというお題目がついていました。ところがふたを開けてみると人を殺すための道具として使われることになっていた。今も同じようなことが起こっています。クリーンなエネルギーを生み出すために必要ですというお題目のもとで世界中で原子力発電所が増えていきましたが、ふたを開けてみれば非常に危険な存在になっていった。

もちろん科学や化学情報というものを活用していくこと自体にはまったく問題がないのですけれど、その最終目的が自己の利益になっているということが現在のさまざまな問題を作っているように感じます。そしてこの、自己の利益を最大化したいという欲求の裏にはやはり二項対立の構造が見えるわけです。「私は正しいけれど、あなたは間違っている」これが基本的なに拘置率の構図ですが、私はただしいけれどあなたは間違っていると思うからこそ、自分だけが利益を得ることに負い目も感じないし、むしろ率先してそれを行おうとするわけです。この構図には情報の出所がどこにあるかは問題ではありません。神という存在の公の存在だとされていますが、いわゆうる宗教闘争の中では神といえどもそれは行使でいえば私の存在としてつかわれています。つまり相手は間違っていて自分はただしいから相手のことは滅ぼしてしまって構わないというような考え方です。だからイスラム教徒ユダヤだったり、プロテスタントとカトリックだったりがそれぞれ原理主義に立ち戻って争っているというようなことになるわけです。当人は公と私との闘いだと思っているけれど、実際には私と私の闘いになっているわけです。結局、、神から来た情報と言われようが、悪魔的な情報だと言われようが、その両方が問題をひきおこしているのだと考えることができると思います。

第四章 日本人がうまくいく可能性



さて、前章までに、今、世界で起こっているさまざまな問題の土壌となっているとおもわれる思われる内容についてお話をしてきました。

このような状況の中で、
私たち日本人がうまくやっていく、幸せに暮らしていく可能性はないのか?
その可能性があるとしたらどういうところにその可能性が見つけられるのか?

この章ではこれらのことを検討してみたいと思います。ただその時に、ひとつ間違ってはならないことがあります。それは日本人がうまくいく方法といっても、それは「日本人だからうまくいくのだ」というような理解をしてはならないということです。

なぜならば、「日本人だから」というような考え方はあるいみ意味、人種差別の土台になるからです。倫理的に差別が良いことではないといういみ意味もありますが、もっとたいせつ大切なことはもしも「日本人だからうまくいくんだ!」というようなオミを持ってしまうと、その思いそのものがあなたの首を絞めることになるということです。つまり、せっかくわれわれ日本人が持っている今の問題に対する解決策を使いこなせなくなるのです。これからはしばらくはひょっとすると「日本人の優位性」についての記述と取られかえなにような文章が出てきますが、そのあたりはこの冒頭の内容を思いだしながら、価値痛率的に読んでいただければと思います。それでは始めましょう。

網羅する力

され、これまでの確証でお話ししてきた「今、せかい世界ではっせい発生しているさまざまなも問題」と「情報の吸収、せいり整理、活用のやり方」にはもちろん大きな関係があるわけです。飽和に達した情報量そのものが問題になっているからでもあり、情報を吸収する際に二項対立の概念を持ち込んでしまっていることがもんだい問題でもあるからです。さて、これからの問題をかいけつ解決する方法を日本人が持っているとしたら、その鍵はなんなのでしょうか?もちろんわたし私はこの内容をお伝えするためにこの本を書いているわけですから、そのカギは確かにあると確信しています。そして、そのカギとhあずばり「もうらせい網羅性」です。つまり、良いことも悪いことも網羅するという性質です。

今の世の中を見てみると、ここ3000年ぐらいの間の社会の在り方というものは、罪とかケガレとか、もしくはカルマだとか、そういう「よくないもの」を消そうとしてきた社会であったように見受けられます。キリスト教的に言えば、人間のガン剤を解消しようと呂治勲できた期間となるのかもしれません。要するに「よくないもの」を消してしまえば、良くなるのではないかという仮定の下で動いてきた社会だと言えます。そして「よくないもの」を消すためにある種の修行とか、生き方の作法のようなものがあって、それらの修行や作法を通して現在をつくナウ、あるいはカルマを解消するという考えがありました。そして、そういうやり方によって、ある程度は社会がうまくいっていた。

ところが、よくよく見ていくとそれらの概念をつくったがゆえに不幸になっているところもあるわけです。たとえば現在という考え方でいくと、人間というのはどうしようもない存在だということになる。だから何回も何回も修行してもやっぱり良い社会にならないという結論にたどり着いてしまうこともある。
いずれにしても、そのような社会には、その現在やカルマ、もしくは罪や穢れをまとめて解決しますよというような「宣言」は見当たりません。もちろんよりよい社会を目雑ためのスローガンはあります。たとえば自由、平等、博愛などという言葉を目にすることはある。宗教でそのようなことを謳っているところもあるし、

たとえば自分たちのビジネスポリシーとしてそういう内容を掲げている企業もあります。けれど、そのような内容が実現したためしはない。これは、表向きにはそれらの内容を目指していますとはいいつつも、その根本にはにこうたいりつてき対立的な思考があるからだと言えるかもしれません。第3章でもお話ししましたが、二項対立とは「よいもの」と「よくないもの」の対立であり、その対立があるがゆえに、世の中をよくするためには「よくないもの」を叩き出さなければならないという理論になります。こうなると、自分自身が現在という「よくないもの」を背負った存在になりますから、心の平安というものは感じられなくなる。なぜなら、いつ自分が「よくないもの」として世の中から叩き出されるかもしれないという恐怖が、日常生活の中に付きまとうからです。その結果が、さまざまな問題として世の中に現れているとも言えるのではないかと、私は思うのです。

「祓い」という概念

これに対して日本にはちょっと違った世界観があります。それは何かというと「祓い」という概念です。この概念を持っている国は日本だけだと思いますが、「祓い」という神事の中で日本人は、神の穢れさえ祓うと宣言しているのです。一神教の神学にとっては神が汚れるということはありえない概念ですが、日本では神さえも汚れることが前提になっています。これは神話にくわしく書いてあることです。神話ではまた、神は「天つ神」と「国つ神」とに分類されているわけですが、日本には「天つ神を祓う言葉」と「国つ神を祓う言葉」というものが別々に存在します。それがいわゆる「大祓い」と「祓い」です。内容はというと、いろんな罪を列挙していって、

最後に「それらは消えます」という言葉で結ぶ。
つまり「よくないもの」をこれでもかというぐらいに列挙していって、最後に「それらは消える」と宣言するわけです。実は古来からこの宣言をすることが天皇の役割でした。天皇がある言葉を宣言することを宣命と言うわけですが、簡単に言うと「祈る」ということです。考えうるだけの罪をすべて羅列していって、「それらは消えます」ということを宣言する。天皇の本来の役割はそういうところにあったわけです。だからこそ神事の中で天皇は「天つ神」になる。ところで、「祓い」とは構造的に考えられた作法だと言うことができます。まず最初に「祓い」の儀式をして、次に「大祓い」の儀式をする。ここには構造があるのです。そして、これらの作法に現れているのが日本人の意識といいますか、

天皇を中心とした朝廷の意識だった。ここで、言葉に慣れていらっしゃらない方もいると思うので補足をしますが「穢れを祓う」というのは簡単に言うと「穢れを消す」ということです。この「穢れを消す」という概念と、「原罪を解消する」という概念は似ているように感じられるかもしれません。ただ決定的に違うのは「消す」という宣言があるかどうかということです。一神教の文化の中には現在を解消するための方法としてさまざまな修行などがあるとはいっても、どの方法も直接的に「原罪」に働きかけるものではありません。なんらかの善行をした結果、げんざい現在が解消されるという論理はありますが、これはつまり間接的な働きかけです。
直接的に現在に働きかけるわけではなくて、
間接的に現在に働きかけているわけです。
間接的な働きかけですから、自分の行為によって
原罪が解消されたのか、それとも解消なかったのかを当人が確認するすべはありません。

それに加えて、こういった一神教の文化の中には「原罪を解消する」もしくは「あなたは許された」というような宣言はどこにも見当たらない。ただし「悪いことをしたら、こういうふうに断罪しますよ」という宣言はあります。その結果どうなるか。自分にが原罪があると考える人たちにとっては「あなたの原罪は消えます」と言う宣言がないものだから、自分の原罪が少しでも消えたのかどうか、常に不安になります。しかも「解消します」という宣言はあるわけですから、断罪されることばかり恐れることになるわけです。

今、一神教を文化の土台にしている国同士の争い、戦争というものが目に付きますが、その根本にはこのような「断罪に対する恐れ」があるのかもしれません。一方で、日本ではどうかというと、明らかに「穢れを消す」という記載や宣言がある。たとえば大祓いの神事で使われる祝詞を見ると、そこには多くの罪や穢れが列挙されています。

ここで列挙されている罪の内容は当時の時代に即したものですので、必ずしも現代の罪とは一致しないかもしれませんが、ポイントはこれでもかというくらいに罪を列挙しているということです。つまり、罪を網羅しようと試みているわけです。嫌なことも汚いことも網羅しようとしている。だから、「糞戸も許許太久の罪」という表現になります。許許太久とはもろもろという意味です。具体的に列挙できるものは全部列挙した上で、列挙しきれなかったものについては「許許太久の罪」という表現の中にすべて含めてしまっている。そのあとで「それらのつみ罪や穢れをいっぺんに解消します」「解消されました」という宣言をして祝詞が終わりす。

つまり日本人はこれらのものを「消します」という宣言をする意志的なエネルギーを持っているということです。この意志を持てるかどうかということは文化としてはとても大きなことだと思いまう。そして、日本にはその意志をもつことが出来る文化、その意志を持っていたがゆえに出来上がった文化であったということがこれらの神事から読み取れると思うのです。それに加えて、日本には「水に流す」という概念があります。これも、「よくないこと」を見ずに流そうと言う意志があるということです。こういった内容が普通の言葉として通用している。これはすごいことだと思います。なにがあっても恨まない。罪、咎、穢れなどとは言いますが、それをとがめないのです。というのも、とがめること自体がつみ罪なんだという発想があるからです。ここに私は、日本人がうまくいく可能性があるのではないかと感じています。つみ罪をすべて網羅する。そして、それを流す。この二つの外苑はセットです。まず網羅ができないと流せもしない。網羅しただけではそれらの罪について知っているだけで終わってしまう。だから「網羅して」「流す」という文化があることは日本人にとってとても頼もしいことだと思います。また、このような可能性のある言葉を、文章の中に入れ込める言語というのは世界にはない。ここに日本人が世の中でうまくやっていくための可能性があると考えています。

第5章 日本の文化と日本の立地と「日本的システム」

神をとるか、悪魔をとるかちなみに、一神教の世界では、水に流そうというような言葉はありません。というよりも、そもそも「水に流す」という概念がない。概念がないから当然、言葉もないわけです。だから、全部の罪が許せなくなる。一神教の協議の下ではサタンとか悪魔という存在を赦すことはできません。なぜなら二項対立の世界にいるからです。

神をとるか、悪魔をとるか。そのどちらかの選択しかないのであり、そして、二項対立の世界では、相手と対立して打ち倒す必要が出てくる。そのように理解できると思います。さて、二項対立ということでいうと、一神教の下ではひと人は、二項対立があるがゆえに裁かれることを畏れているということにもなります。なぜならば、良いものと悪いものは自分の外にある。そして、被造物である自分は誰か別の存在によって裁かれるそんざい存在になる。なにせ、自分で罪や穢れを流すという宣言はできないわけです。そうなると、誰かが自分の罪や穢れを流してくれるのを待つしかない。神が流してくれればいいですが、もしも仮に悪魔によって流されたら・・・。その結果、どっちに行くのか分からない不確かな状況の中で暮らさざるをえなくなっているのかもしれません。

「流す」という意志

ところが、日本人の場合は文化としては誰かが流してくれるのを待つわけではなくて、自分で勝手に「流します」と言える概念を持っている。こうなると二項対立にはまらなくてもいい可能性が出てきます。私はこれは文明の転換だと思っています。こういう概念、つまり、二項対立から抜け出る概念、二項対立に飲み込まれない概念を持っているところに日本人の可能性があると思うのです。とはいえ、今の日本を見てみると、日本もどっぷりと二項対立の世界に浸ってしまっているように見受けられます。

その理由のひとつは、大祓いに代表されるような網羅する作業をしなくなったことが挙げられると思います。もちろん、昔の時代にしてもそれぞれの個々人が罪を網羅する作業をしていたとは思いません。ただし、大祓いを重んじていた朝廷や天皇の存在によって、世の中の風潮としてそのような空氣があったはずです。それが今はなくなってしまった。その結果、どっぷりと二項対立の世界の中に浸ってしまっているように見受けられるようになったのかもしれません。では、本当に日本も二項対立の世界に浸ってしまったのか?というと、そうではないようです。

その証拠に、2011年3月11日の東日本大震災が起こった時にもまったく略奪や暴動が起こらなかった。他の国ではあの規模の災害があった時に、あれだけ人々が整然と、お互いに配慮しながら生活するということは考えられないわけです。だから各国メディアが日本の様子を取り上げた。これはつまり、今の日本を表から見ていると、誰かからでもうばって奪ってでも自分が豊かになりたいと思っているひとたちばかりがあふれている社会に見えるけれども、実は根柢には以前として、網羅して流すという文化が息づいていたということだと思います。なぜなら、第14章でくわしくお話ししますが、網羅する作業は同時に相手に対する配慮を呼び起こす作業でもあるからです。おそらく、日本人のDNAの中に文化遺伝子として、物事に対するそういう態度が定着しているのでしょう。だからそれは否定しても否定しても出てきてしまう。戦後60年くらいの間には、日本人は世界からエコノミックアニマルとかいろいろと言われてきましたけど、その根本はまったく変わっていなかったということが東日本大震災で確認されたということだと思います。

革命と維新の違い

ところで、二項対立という概念がほとんどない日本では、革命というものが起こりません。革命というのは命を革めると書きますが、これは相手の命を絶つということです。これに対して、維新は単に体制を新しくするという意味です。だから日本では維新は起こるけれど、革命は起きなかった。薩長が戦った蛤御門の変にしても、二項対立から起こっているものではなかったわけです。

だからこそ、相手は滅ぼしてしまうというような結果にhあならなかった。もっと昔の話で言えば、中臣鎌足が蘇我入鹿の首をとってしまう。しかしその時にぜんめんてき全面的な戦争にはならなかった。あくまでもトップのレベルのやり取りで収支する。だから「やあやあ、われこそは」といった一騎打ちの文化になったのだと思います。それも考えてみれば当然で、日本は島国ですから、そこに暮らしている人々は系図をさかのぼっていくとみんな親戚同士になるわけです。

だから対立したとしても親戚同士で全面的に争うわけにはいかない。だから、「じゃあ代表が出て一騎打ちしよう」という話になる。もし仮に自分たちの代表が一騎打ちをして負けたとしても、みんな親戚ですから相手に全部を奪われることはない。勝った側も相手からすべてを奪おうとはしないわけですね。土地を持っている人が負けて土地はうばわれる奪われるかもしれないけれど、命までは奪われない。

新しい人が首領になるけど、あなたのものは奪いませんよということになる。これが日本の伝統的な兵法だった。兵法というか合意ですね。ところがヨーロッパの占術というか戦略論が入ってくるとこれが変わってしまうわけです。たとえばポルトガルから鉄砲が入ってきて織田信長がそれを使い始める。すると皆殺しにしたりするわけです。そうなるとものすごいひんしゅくを買うわけです。「あいつはとんでもないやつだ」と。新しい先方ではあったけれども、文化的には受け入れられない。ところがこのみんな殺してしまうということを今でもやっている国がほとんどです。命を切ってころして殺してしまうわけです。革命が起こるか、維新が起こるか。そこに文化が現れるのだと思います。

ところでこのような文化を織り成す遺伝子のことをミームと呼びますが、これは普通利己的な遺伝子と言われている。ところが実際はそうではないわけです。これは文化の遺伝子ですから。
利己的な文化の中では利己的な文化遺伝子が形成されるでしょうし、公を大切にする文化の中では公を優先する文化遺伝子が形成されるだけのことだと思います。そして日本全体の文化としては、公のほうというか、自分の利ばかり見ていない、しゃかいてき社会的な利を見た文化が備わっていると言えるかもしれないと思います。もちろん、これは人種的な優劣の話ではなく、逆にいえば言えば、日本人はそのような文化を持たなければ生き残っていけない環境にあったのだと言えると思います。次章ではその背景についてみていきます。