十章-情報の取り入れ方と「神」の門番
さて、ここまでの各章では今現在、世の中で起こっている問題と、その問題を解決することnなるかもしれない「網羅性」という日本文化の特徴、そして日本語の特徴について書いていきました。今の世の中の問題は情報の多さと、二項対立の視点であると書いているわけですから、そのふたつを解決する必要があります。ここからは、情報の多さと二項対立の視点をどのように解決する可能性があるのかを書いていきます。まず最初は、今の世の中で行われている情報の取り込み方についてです。
被造物と魔女裁判
本書の冒頭にも書いたように、今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代です。なぜなら、入ってくる情報の量が幾何数的に増えているからです。では日本や他の国ではどのような形で情報の吸収や整理がされているのでしょうか。大雑把にいうと、日本以外の文明の人たちの知識の取り入れ方というのは先ほども書いたように、目の前に現われた情報・知識に対して「この知識は良い知識である」とか「この知識は悪い知識である」というように割り振りをする傾向が強いようです。
この根本にあるのは一神教的な自然神学であり、その文化は「唯一のかみ神が創造者であり、神以外のすべては神による被造物である」という思想の上に成り立っています。この思想の下では人間はかみ神から見たと気には価値の低い存在であり、その存在が知識を取り込む時にはかみ神から頂いた知識いがい以外はなるべく自分の中に入れないほうがいいということになります。その結果、神から来たちしき知識以外のもの、たとえば悪魔やされに類するものから来た知識は自分の中から叩きださなければならないという発想が生まれてくるのは自然な流れなのかもしれません。こうなると、かみ神と悪魔という二項対立の中に落ち込んでしまいますが、その結果が中世の魔書裁判といった出来事につながっていったのだと考えられるわけです。
知識を取り入れるということに関して言えば、被造物だる人間は常に情報や知識に対する門番を必要とすることになるということでもあります。情報や知識が自分の手元にとどく届くまでにはいろんな門番がいて、それらの門番が「これは神から来たかどうか?」という観点で情報や知識を選別していきます。その結果、手元にとどく届く情報の数は格段に少なくなり、しかも偏ったものになる。だからあたらしい新しい情報やちしき知識は吸収しにくい。というよりも、そもそも情報や知識が入ってこないわけですから、そもそも吸収できないとも言えます。現在もある特定の国ではこれらの情報整理が公然と行われているわけです。
「よりよい国」がはらむ危険性
ところでこのような情報の検閲をしていくと政治学という学問がなくなります。なぜなら政治学というのは、支配するための学問です。もちろん、より良い国を作るためにはどうすればいいのかを考えるのが政治学ですが、見逃しがちなポイントは「より良い国」と言った時に、誰にとってより良いのかという主語が抜けていることです。諸外国を見るまでもなく、現在の日本でも同じようなことが起こっています。自民党や民主党という政党はありますが、基本的に日本の政治は完了がコントロールしやすい構造になるようになっています。このような情報の検閲を行っていくと政治学という学問がなくなることは確かです。なぜなら、政治学をまなばせると学ばせると、革命につながる可能性が出てくるからです。情報を検閲しているものにとって、これは不都合です。少し話が脱線しましたが、情報の検閲を行っている国では政治学はなくなる、と覚えておくといいと思います。
「知識の門番」
さて、情報や知識に対しる門番を置くようになると、新しい情報や知識を吸収しにくくなるだけではなくて、新しい情報や知識を発信することも妨げられます。その分かりやすい例は「それでも地球は回っている」と言わざるをえなかったガリレオに見ることができます。
情報や知識の検閲という必要性は、一神教神学から出てきています。いわば、神学が情報や知識の番人であるということです。それに反発する形で生まれたのがルターによる宗教改革や、ピューリタニズムです。簡単に言えば、カトリックが規定する神学によって自分たちに入ってくる情報やちしき知識が制限されるのは嫌だ!という反発と、それにともなう運動です。その結果、カトリックの世界に住んでいた人たちが、アメリカに行ったり、そのほかの地域に移住していったりして、世界中にちらばっていった。つまり、カトリックの教会の影響力から少しでも離れようとしたわけです。ところが、その移住先での信仰の対象はというと、やっぱり唯一の創造神になってしまった。するとここでも人々は創造主によって作られた被造物になる。そうすると、形は変わるけれど、内容も多少は変わるかもしれないけれど、情報や知識の門番が必要になってくることになります。このようなことが起こっていたわけです。
色が変わった「色眼鏡」
こうして結局、神学から抜けられなかった人類は、この百何十年かの間にあたらしい新しい動きをはじめます。それが共産主義です。この共産主義のもとになっているのは哲学ですが、てつがく哲学は唯一絶対である存在としての神を否定するところから始まる学問です。これまでの神学にきてい規定された生活ではなく、神学に規定されない生活を送るために哲学をそのよりどころにしようとしたわけです。神を否定したわけですから、もう神による情報や知識の検閲は存在しません。神の知識もなければ、悪魔の知識もなくなる。では、人々が自由に情報や知識にアクセスできるようになったかというと、そうではありません。今度は「神」の影響を入れないようにする門番が登場することになります。それが共産主義というフィルターで、簡単に言えば「共産主義の知識以外のものは受け付けない」ということになった。
結局、色眼鏡の色は変わったけれど、依然として色がついている状態のままということになった。それが今の段階です。共産主義はロシアでは終焉を迎え、中国でも解体されつつあります。北朝鮮だけがまだ共産主義の色を濃く残しているわけですが、知識の閉鎖状態を作っていることが見て取れます。
もちろんこれは、支配階層が支配の及ぶ基幹を長くするためにとっている方策といえます。わたし私は北朝鮮を非難するつもりは毛頭ありませんから、ここでのお話しはあくまでも情報や知識の取り入れ方についての例だとご理解ください。実際に、北朝鮮の共産主義に限らず、今でもキリスト教世界では、信者に対して他の宗教の教義の話を聞いてはならないなどという説教がまかりとおっていますが、これも情報や知識の番人を置くという形態のひとつです。目的はもちろん、教会の支配が及ぶ期間や範囲を拡大・継続するためです。このような状態ですので、一神教を文化の土台にしている国や神を否定する哲学を文化の土台にしている国では情報や知識が入りにくいということは言えると思います。
個人の中にある制限
このような国では、情報や知識というものは、吸収する対象ではなく、ある権力階層から分配されるもおという捉え方が的を射ているかもしれません。もちろん、現代はインターネットなどの登場によって、個人がさまざまな情報にアクセスできるようになっていますから、私が言うような制限はないのではないかと思われる方もいらっしゃることでしょう。
しかし、大切なことは、情報や知識に対しうる色眼鏡は、個人の中にあるということです。言葉を変えれば洗脳されていると言ってもいいかもしれません。情報や知識を受け取る前の個人を洗脳しているというのはどういうことかというと、ある情報やちしき知識が目の前に現われた時に「これは悪魔の情報だ」などというレッテルを貼るということを見せていくということです。幼いころからその様子を見ていた子供が大人になった時に、それらの経験から自由になることは本当にむずかしい。というのも、そもそも、自分がそのような色眼鏡をかけていることにさえ氣付かないからです。ある意味でいうと、自由というものがまったくないと言えるかもしれません。そしてこの状況は、今の日本にも当てはまります。もちろん、情報自体は比較的自由に入ってきます。たとえば科学的な知識などというものは比較的自由に手にすることができる。ところが、その情報に対する評価ということに関して言うと、そんなに自由があるわけではない。
たとえば、原子力発電所の安全性、もしくは危険性に関する情報は、日本という国の運営上、都合のいいような形で発表されるわけです。「これぐらいのレベルの放射線量なら安全です」というような情報ですね。ところが、その数値を別の国の発表と照らし合わせてみるとものすごく危険だと評価されていたりする。もちろん、このように他の国の発表内容と比較してみることができれば、「何が本当か分からないな」という疑問を持つこともできるかもしれません。疑問を持つことができれば、その疑問を解消するために自分で調査をしてみることもできるかもしれない。しかし、ただ国の発表を聞いているだけという人も多いのです。そうなると、確かに情報や知識にはアクセスできるけれど、それらの情報やちしき知識を自分の中に取り入れることはできていないということになる。ロシアの事例で言うと、プーチン大統領が情報を操作したという報道がされていたことがありますが、社会が情報化すればするほど情報の統制が行われていると考えて間違いはないのかと思います。
十一章-日本人の情報吸収法
さて、前章では今の世の中の大多数の人が行っている情報の取り入れ方をご紹介しました。一神教にもとづく基づく文化であれ、共産主義に基づく文化であれ、情報にたいして情報に対してなんらかの「番人」をおいて情報を統制しながら取り入れていく。このような情報への接し方をご紹介したわけですが、この「番人」とはあるいみ意味、予断だと言えるかもしれません。
予断とは脳の働き
予断とは分かりやすく言うと、やかんを見た時に「このやかんには水がたくさん入っているから重いはずだ」と思う。
するとそのやかんを持ち上げる時には、うんと力を入れることになります。ところが、そのやかんに水がほとんど入っていなかったとすると、ひょいっと持ち上がってしまって、逆に持ち上がりすぎて中身がこぼれてしまったりすることがある。
別の例でいうと、とても小さなリンゴしか採れない国があります。その地域に行って日本のリンゴを見せながら「これはリンゴです」と言うと、そんなはずがないと言われてしまう。その国の人々にとってのリンゴとは、親指と人差し指で丸を作ったくらいの大きさの果物なのです。リンゴはちいさい小さいものであるはずだと思い込んでいるから、その思い込みとhあちがった違った情報が入ってきた時にそれを受け入れられない。これらの例はなんらかの対象物に対して、最初に予断を持ってしまうことによる害だと言えます。さて、人間の脳の働きという観点からみると、やかんやリンゴに対する態度と同じことが知識に対して起こる可能性がたかい高いわけです。
そのような理由からか、哲学者のカントは知識を取り込む方法を論ずるときには、人間は先見的な利かいというものgあるというおkとを前提に考えていたようです。また、そこに誰かや何かが存在しても自分にはそのひと人やモノが存在するという情報を取り込まないというか、その情報を拒否するということもあります。たとえば、自分が一番苦手な人が道の向こうを歩いている時に、その人がみえない見えないというようなことが起こります。見てもみえない見えない。観ないのではなく、見えていないのだということを、著名な心理学者である島崎敏樹さんという方がおっしゃっています。
信仰のない日本人
さて、あたらしい新しい情報・知識に対してあらかじめ予断を持ちがちだというのは人間であれば誰しも同じではあるわけですが、日本人について言うと比較的予断を持ちにくい傾向があるようです。これはおそらく日本人には信仰心がないからだと言えます。もちろん、日本の中にもさまざまな宗教を信仰している方はいらっしゃいますが、国民全体を見た時には特に信仰の対象となっている宗教は見当たりません。日本のことを仏教徒の国だと考える研究者も多いですが、実際にその文化を見てみるとインドなどの仏教国とはまったく違う文化をはぐくんでいます。つまり、日本人にとっての仏教は信仰の対象ではなく、知識としての学問なのではないでしょうか。これと同じことをその著書「文明の衝突」で有名な政治学者サミュエル・ハンティントンも言っています。日本人は仏教文化ではないと。彼の文明論が言うにはアジアは仏教文明であるけれど、日本は仏教文明ではないと。
もちろん道を歩いていて道端でお地蔵さんに手を合わせて拝んでいるおばあさんを見かけることがあります。けれど、あれは仏教を信仰しているがゆえのこうい行為ではないというのです。なぜなら、特定の御地蔵さんだけに手をあわせる合わせるわけではないからです。そこにヒエラルキーは存在しない。というか、彼女は仏教のヒエラルキーの中に組み込まれていないということです。もちろん、日本人が「大いなる力」とでもいう、ある種神秘的な力をまったく信じてないというような意味でこれまでの文章を書いているわけではありません。ただ、特定のなんかについて、それだけを信じるという文化が日本にはほとんど見受けられない。あえて言えば、これも信じるし、あれも信じるというか、これもあるし、あれもあるという感覚を持っていると言えるのではないかと思います。つまり、「宗教が文明の基点になっていない」ということです。だからお地蔵さんがあれば手を合わせるし、じんじゃに行けば神様に手を合わせる。たとえば、雨乞いをする時には雨を降らせてくれるなら誰でもいい。結果として雨を降らせてくれた人に感謝しようとする。けっこう結構、功利主義的な面があるわけです。こういう前提がにほんじんにはある。そして、このぜんてい前提が知識を吸収したり整理したりする時にも出てきているように感じます。
価値知友率的な「漂わせ方」
たとえばあたらしい新しい情報・知識が出てきた時に日本人が無意識に考えているのは、それをどうやって自分のまわりに漂わせるかということです。そのあたらしい情報や知識を自分の中にすぐ取り入れるということでもない。
もちろん、それらのあたらしい新しい情報や知識について整理がついた後でそれらを活用する時には自分の中に取り入れますが、最初から取り入れるわけではない。まずあたらしい新しい情報や知識を自分のまわりに漂わせる。これは拒否したり遠ざけようとしないということです。かといって取り入れもしない。まさに漂わせるわけです。そしてその次にまねてみる。実際に目にした内容を自分で真似てやってみるということがおこります起こります。真似てみるというのは、まず判断を棚上げにしてやってみるということです。別の言葉でいうと言うと、価値中立的であると言えます。
というのも、日本人はまず情報や知識に対して価値を決めないという傾向があります。つまり、これはいいとか悪いとかを決めないということです。そのうえで、まずはそれがどういうものかを実験的に取り入れてみるという方法をとるわけです。そうやって、あたらしく新しくあらわれた表れた情報やちしき知識を全部自分のまわりに漂わせておく。つまり、全部の情報を集めているわけです。この時点で網羅が起こります。すべての情報が網羅されているという状態になるわけです。整理はされていないかもしれないけど、全部の情報が網羅されている状態。この時点ではまだ整理がされていませんから、さまざまな情報がアトランダムに漂っているだけです。
そしてそのあとに、それらの新しい情報や知識の中で分ける。つまり「分類」です。たとえば、文化人類学者の川喜多二郎さんがデータをまとめるために考案したKJ法も分類の方法です。そして分類するためには網羅していなければならない。ですので川喜多さんがKJ法を考案できた背景には、日本人ならではの「情報の網羅」があったのだと思われます。
一方で、一神教という宗教が文化の基点になっている国では、このような網羅は起こりえません。なぜなら、情報が入ってくる段階で「この情報は神から来たものか」「そうではないのか」と言うフィルターをっけてしまっているからです。それらの文化では、情報は現れた瞬間に裁判や審問にあうわけです。その時点でもう、価値中立的ではない。それらの文化では、一神教ん信仰の対象となっている存在がもっとも高い存在です。ですので、審問を無事に通過した情報も、その存在の下にひっつくしか道がない。つまり、審問にあって弾かれはしなかったとしても、高い存在に比べて価値がないものとして、たかい高い存在の下に置かれることになるわけです。それが2000年間の人類の進化がおくれた遅れた理由だと思います。
「新しい情報」のとらえ方
話を戻しますと、日本人はあたらしい新しい情報や知識を分類した後は、自分たちが持っている既存の情報や知識と照らし合わせるということをするようです。もうすでに分類済みの既存のちしき知識があるから、今度は新しい情報や知識をそれらの既存の情報・知識と照らし合わせる。その結果、既存の情報や知識と同じ分類に入るとみなされたものはその分類の中にくくられます。既存の情報やちしき知識とは一緒にできないとみなされたものは、新しいものとして、自分たちにはどのように活用できるかを考える対象としてそのまま漂わされるわけです。私たちはそういうことを普段からやっている。
ここで大切なのは、価値が中立的にとらえられているかどうか、ということです。情報や知識を中立的井とらえるがゆえに漂わせることができて、漂わせることができるがゆえに分類の余地が出てきて、分類するがゆえに既存のカテゴリに合うものと合わないものがちゃんと分って、合わないものについては、またそこからさらに、「これは要らない」と捨てるのではなくて、何かに使えないかなあというふうに考えて応用していく。これが日本人があたらしい新しい情報や知識に出会った時の反応です。
まとめると、日本人が新しい情報や知識を吸収し、整理し、活用する時の独特なやり方というのは、まず漂わせる。次にまねてみる、まねる時に、同時い頭の中で分類が起こっていく。そうやって分類したものを既存の分類にてらし照らし合わせてみる。そして既存の分類に入っていかないものについては、またそこで、果たして何に使えるのかというのをもう少し掘り下げてみる。そうやって掘り下げていった結果、また分類が起こってきて、最終的には既存の分類の中に落ち着くかもしくはあたらしいカテゴリとして定着する。こういう流は日本人に独特のやり方だと思います。
十二章-「漏れなく、欠けなく、重複なく」」
さて、前章では日本人があたらしい情報や知識に接した時に何をしているのかをご紹介してきました。この章では、「網羅性」という日本人の情報への接し方についてくわしく掘り下げてみたいと思います。
コンピューターの役割
今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代だと書きました。その理由は情報の量が幾何級的に増えているからです。しかも、人間の脳の中に入れ込める情報の量は、いかに天才でもそんなにたくさんの知識を詰め込むことはできません。もちろん、情報知識の詰め込み方にも色々な方法がありますが、基本的には情報や知識の核の偊や整理はコンピューターの役割になってきています。というわけで、コンピューターが今、知識事務機化しているわけですが、コンピューターが知識事務機化する時には、コンピュータに情報をより合理的に、早くいれる入れることができればよりたくさんのデータベースができるということになります。なぜコンピュータの話をしているかというと、ある意味コンピュータというものは「知識」に対して正直な存在だからです。入力された内容が理解不能なものだと、動けない。そんな特性を持っているのがコンピュータであり、その特性から今の世の中の問題の解決策を引き出せるように感じるのです。
コンピュータに知識を入れる
私は以前、ナレッジモデル研究所というかいしゃ会社を作ったことがあります。企業向けにコンピュータソフトを開発する会社です。コンピュータの中に入るソフトウェアというものは、基本的にはデジタルナレッジなんですね。コンピュータの発達段階でいうと、最初の頃は記録と演算を中心にしていた計算事務機として開発されていた。それが今から20年くらい前にコンピュータの中に知識を入れるというテーマが出てきたわけです。その時にコンピュータの中に知識を入れる時には、どのようにしたらいいんだろうかということを考えた。そうした時に、ひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している状態が必要dあということに行きつきました。
ひとつの言葉が複数の意味に解釈されたり、もしくは同じ意味を表すために複数の言葉があったりすると、コンピュータはうまく処理ができなくなるからです。
オーダーメイドのソフトウェア屋さん
ところが、実際にはひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している言葉集のようなデータベースのようなものはなかったわけです。いまもそういうものは見かけないけれど。この会社はビジネス向けの、特に会社全体を網羅するためのシステムを作る会社でしたから、ビジネスに関する知識をコンピュータに入れ込んで、そのちしき知識が動くように装置かすることが目的になる。
ところがビジネスに関する知識というと、経済学の言葉もあれば会計学の言葉もある。税務の言葉もあるという具合に、いろんな学問がいっしょくたになっているわけです。それは今も変わりません。そういうものを全部整理しないとコンピュータの中にうまく入り込めない。仮に入れ込んだとしてもまったく運用ができなくなるわけです。ですので、そういうものを全部整理して、辞書をつくらないといけないということになりました。ところが当時のソフトウェア会社のほとんどは、こういうことには目を向けなかった。当時は6000社~7000社のソフトウェア会社がありましたが、彼らはこういう整理をするのではなく、個別の会社の中で使われている個別の言葉と個別の意味のセットを使ってシステムを開発していまいました。いわば完全いオーダーメイドです。ただ、このオーダーメイド方式にすると、時間や手間はかkるし、いったん出来上がった後にもたとえば自分たちのグループ会社でつかい使いまわそうと思ってもそれもできないということになる。実際には今も大して変わっていないようですが、当時開発されたシステムの中で完全に運用の軌道に乗ったしすてむシステムはほとんどなかったようです。
それを裏付ける発現としてこのような論文があります。これは米国のITプロジェクトのコンサルティング企業であるスタンディッシュ・グループが1994年に発表した論文の冒頭部分です。「橋は、通常期間内に予算内で架けられ、そして崩れないことを前提としています。これに反して、ソフトウェアは、指定期間内に、あるいは、予算内にできることはまずありません。さらに、出来上がったものは必ず故障します」このような状態がまかり通っていたわけです。
ビジネス現場の「言文一致運動」
いずれにしてもわたし私たちはソフトウェア会社でしたから、ソフトウェアで利益を出さなければならない。そのために、莫大な手間と時間をかけてオーダーメイドのソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間に大量にソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間で大量にソフトウェアを作るにはどうすればいいかを考えていきました。その結論がひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応しているビジネス用語の辞書を作り、その辞書を基にシステムをくみ上げることでした。ポイントは、言文一致運動と同じです。ビジネスの活動の要素をどの業種の会社でも使えるような普遍的な言葉で表現する。もともとビジネスn流は基本的にはどんあ業種や業態でも同じわけです。消費税率も同じですし、法人の確定申告書の帳票も必要祖Y類も基本的には同じです。準拠している会社法も同じ。ところが、用語が違うからまさか同じものだとは思われていないだけなのだと思います。
ところで私たちがやったことは、ビジネス用語や経済学用語を網羅していきながら、それぞれの言葉についてのひとつの言葉につき、ひとつの意味だけが対応する辞書を作るという作業でした。同じ意味なのに複数の言葉があるケースでは、ひとつの言葉を残して後は削る。ひとつの言葉で複数の意味を持たせられている言葉がある時には、それぞれの意味に合うような言葉を増やしてあげる。
このようなことをしていきました。こうして、漏れがなく、重複もなく、かつすべてが網羅されている状態を作っていったわけですが、私たちが目にする知識(ナレッジ)を、この「漏れなく、じゅうふく重複なく、かつすべてが網羅されている」状態にすること、そして、それらの用語をさまざまな言葉に置き換えても運用できる基本的な体系を作ることをナレッジモデリングと呼ぶようになりまいsた。
このような研究の結果としてできあがった出来上がったシステムは、短期大量、超高速、高品質といううたい文句で、主に売上高一兆円以上の大企業に向けた当時の私たちの主力製品になりましたが、この「漏れなく、欠けなく、重複なく」すべてが網羅されている状態を作れることこそ、日本語の特性であり、日本人のかのうせい可能性だと思うようになったわけです。
以降の章ではこのナレッジモデリングの考え方を具体的に活用する方法を見ていきます。
13章-「ナレッジ憲章と知識の性質」
さて、ここからは知識(ナレッジ)を「漏れなく、重複なくすべてが網羅されている」状態にするナレッジモデリングの考え方について書いていきます。
共有知識とナレッジ憲章
まず、知識を扱う際には、ちしき知識そのものの性質そそのちしき知識の使い方のふたつを考える必要があります。細かく分ければもっと分けられるのですが、大きく分けるとふたつという意味です。全体像から言うと、多くの人にとって必要な知識というようなものは、やっぱり長い時間をかけて人類が作り上げた文化の成果なのです。
そういう知識のことを共有知識と言っているわけですが、この共有知識が出来上がるまでには結構な時間がかかっている。それで知識を考える時nは、共有知識に対して固有知識というものが出てくる。誰もが自由に使える「共有」に対して、特定の人や個人に属する「固有」という概念ですね。私は知識を扱う時には、この共有と固有の区別をすることが大切だと考えます。だからこそ、知識を扱うナレッジモデリングの研究を進めるにあたって、ナレッジ憲章というものを設けたわけです。この「ナレッジ憲章」というのは、簡単に言うと特定の人や団体が編み出した固有知識は、それらの人や団体への経緯を表しながら活用しましょうということです。これからの時代にはこういう倫理が必ず必要になると思いました。なぜなら、どんな知識であれ、最初は固有知識からスタートするはずだからです。最初は個人が考える。その固有知識をみんなで使い分けるよういなって、それが共有知識になっていく。ところが、共有知識になろうとなるまいと、最初にさおれらの知識を編み出した特定の個人や団体の役割は尊重されなければいけないはずなのに、そうはならない場合がある。だからこそ、特許や意匠登録音ようなものが必要になるとも言えます。このことの大切さをわすれない忘れないように、また関連するいろいろな方々と私たちとの間でこの倫理を共有できるようにするために、このナレッジ憲章を作ったわけです。
シャーペンとシャープペンシル
さて、固有知識が共有化されていくという過程についてですが、これはその過程の中で知識に対する変化が起こるということでもあります。つまりその知識を表す言葉が固有名詞から普通名詞になっていく。たとえば今私たちが何気なく「そこのシャーペン取って」というようなことを言っていますが、このシャーペンとはシャープペンシルの略語です。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープといいう会社が開発した筆記用具だったわけです。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープという会社が開発した筆記具だったわけです。ところが、その筆記具の構造と同じ構造を持った筆記具がいろいろなメーカーから発売されるようになった。
しかし消費者はそれあの筆記具をひっくるめて、それがシャープ社製であろうと、トンボ社製であろうと、ゼブラ社製であろうとシャーペンという名前で呼んだわけです。このシャーペンという呼び方は、すでにこの時点でシャープが作ったシャープペンシルとも別のものになっています。
これはシャープペンシルといいう固有名詞がシャーペンという固有名詞に変わり、シャーペンという固有名詞が普通名詞になっていったということです。この仮定を経て固有知識は共有知識になる。普通名詞になるということはまた、知識が共有化されるということでもあります。こうした過程を経て、知識はモデリングされていくのです。逆に言うと、固有知識がみんなに使われるようになるためには、みんなに合意される必要があるということです。たとえば科学の新発見というものがあります。
けれども、その新しい知識はしばらくの間は科学者たちの間でしか通用しない知識として扱われる。科学者といったって、もしもその知識が宇宙科学に関する知識だったとしたら、自然科学を専攻している科学者にとっては通用しないでしょう。心理学の知識も同じですね。精神病理を研究している学者たちの間では通用するけれど、精神病患者をケアしている病院のスタッフには通じない知識というものもある。つまり、固有の知識というのはごくごく限られた人たちの間でしか通用しない知識だとも言えるわけです。
共有知識と固有知識の境目
こうした、ごくごく限られた人たちの間でしか通用しなかった知識が先に書いた過程を経て共有知識になっていくわけですが、共有知識と固有父氣を分ける境目は、多数決ではありません。つまり、これはその知識を使う人が多いから共有知識で、すくない少ないから固有知識であるという切り分けをすればいいということでもない。共有知識と固有知識を分ける境目は、その知識に対してみんが共有する対象ですよという合意があるかないかということです。そしてこの合意に至るまでには、その知識が既存の知識体系のなかでどの場所を占めるのかということが決まらないとならない。この知識は既存の知識体系のどこかにはまるのか。もしくはまったくあたらしい新しい知識体系の要素として既存の知識体系にくっつくのか。このような観点でちしき知識を見て、漏れがなく、かといって重複があるわけでもなく、すべてが網羅されている状態にすること。
私はこの整理の作業のことをナレッジモデリングと呼んでいます。ですので、ある知識がモデリングされる、つまり既存の知識体系のなかでどの一を占めるのかが確定されるまでには、ある程度の時間がかかることもお多いです。知識が網羅され、分類され、体系化される。その結果の合意によって固有知識が共有知識になる。そのようにとらえていただくといいと思います。ところで、この合意というものは、目に見える形で行われるわけではありません。たとえば、先に書いたシャープペンシルの例でいえば、「ある特定のこの種の構造を持った筆記具のことをシャーペンと呼ぼうね」というはなし話が消費者個人個人の間で起こったわけではありません。ただなんとなく、そういう構造の筆記具のことをシャーペンと呼ぶようになった。ですので知識をこゆうちしき知識から共有知識に変えていく時の合意というものは、なんとなく行われる。つまり、暗黙知として行われるプロセスである時も多いと言うことができると思います。
ナレッジ憲章
一方で、固有知識を意識的に共有化する取り組みというものもあります。たとえばある種のノウハウを書籍として出版するというのもそういった取り組みのひとつです。
テレビやラジオで誰かが何かの話をするというのも、これも大きな目で見れば、固有知識を意識的に共有化する取り組みだといえます。このようにして固有知識を共有化していこうとするときには考えるべき大切なポイントがあります。それは、その固有知識は共有化するべきものなのかどうかということです。たとえば、ノウハウといったようなちしき知識を考えてみます。この場合、なんらかの成果が出たからこそ、そのちしき知識がノウハウとして認識されるわけです。しかし、その成果はたまたま出た成果なのかもしれません。この場合には、この知識(ノウハウ)には再現性がないことになります。
この場合、この知識をみんなで共有することには意味がないはずです。というのも、何かをうまくやるためのノウハウであるはずなのに、そのノウハウを使ってもせいかが出ないというおかしなことが起こるからです。一方で、体系化されたノウハウ、つまり再現性のあるノウハウというものはみんなで共有する価値があるのかもしれません。なぜなら、そのノウハウを使うことで、特定の成果を得るというプロセスが誰にでも際限できるからです。もちろん、このようなノウハウが共有知識かしていく際には、当初にこのノウハウを考え出した特定の人物や団体に対して敬意が祓われる必要があることは言うまでもありません。このように知識というものは、普遍的にみんなが使えるもの、共有できるものになって初めて社会の中で役に立ち始めるとも言えます。私たちがつくったナレッジ憲章ではそのことを表現しています。ナレッジ憲章自体は全部で5つの項目から成り立っているのですが、ここでは該当する部分だけを抜き出してみます。
第二条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第三条ー共有知識の生成
共有知識では、人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに生成するものである。
第四条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、共有知識を最大限に活用できる製品サービスの提供に努める。
やはりここでのポイントは固有知識と共有知識との分類にあります。固有知識を大事にするということも必要だし、その固有知識が集まって共有知識になるわけだから、共有知識を使うためにはそのあたりの倫理性を忘れてはんらないということです。簡単に言うと、もともと固有知識は個人から生まれるものであるし、合意なしには共有知識になりえない。そして共有知識が出来上がった時に初めて、それを活用できる製品やサービスが生まれるということです。
知識の性質その1「即時移転性」
ここからは知識の性質について考えてみましょう。知識の性質ということで言えば大まかに分けて5つの性質があると考えています。まずひとつめは、知識というものは「即時移転性である」ということです。これは情緒ちしき知識などでもそうですが、知識は目に見えないものまで含めた広い範囲を持っているということでもあります。
たとえば、起こっている相手がいるとします。その相手が「私は怒っている」という情報を発信する前から、その人の周囲にいる人にはその人が怒っていることが伝わっている。これが知識(情報)の即時移転性です。言語としての情報が発信されていないにも関わらず、言語としての情報が伝えようとしていた情報がすでに周囲に伝わっている。こういうことが起こっている。
これは場の空気を読むとか読まないおtかいうものと同じですね。場の空気が読めるということはーそして、この場のくうき空気を読む能力は日本という社会では特に重要視されるわけですが^-其の場になんらかの情報がすでに漂っているということを意味します。何もないところで何か読み取ることはできないわけですから。このように、情報というものは目にみえない見えないものまで含めた範囲で伝わっていく。つまり移転していくということです。今、私は情報と書きましたけど、知識も同じです。大量のちしき知識が、即時に移転していく。日本には殺し文句という言葉がありますが、あれは言葉で本当に人を殺してしまうことができるということです。なぜそんなことができるのかというと、言葉という情報・知識の陰にものすごく大量の情報や知識が隠されていて、それが瞬時にその相手に伝わるからです。たとえば裁判で「あなたは死刑です」という判決文が発表される前に容疑者が自殺をしてしまう。これもある意味、情報・知識の即時移転性によるものだと考えられます。逆に言えば、この即時移転性があるからこそ、ふとした言葉で人が生き返ることもある。これは文字通り生き返るわけです。鬱々と何も希望がないようなところで生きていた人が、ある言葉を投げかけられたことによって突然生き生きとくらし暮らし始める。これは人を活かす情報・ちしき知識が即時に伝わったからです。情報・知識の中身になる大量の要素が、相手の脳に移転しているということです。しかもこの移転が即時に行われる。言語情報も非言語情報も、移転する時には瞬時に移転する。これが即時性ということです。
知識の性質その2「平等性」
知識・情報の特性として次にあげられるのが「平等性」です。これは、すべての人に同じ知識や情報が与えられているということです。つまり、あなたは白人だからこの情報が受け取れないとか、あなたは黒人だからこれは受け取れないとか、そういうことはない。平等というのは情報である以上、誰もが手にできる。もちろん各層とすることはできるけど、最終的には隠しきれなくなる。その結果、最終的にはみんながそれを手にすることになる。おもしろいことに同じことが聖書の記載のなかにも出てきます。「灯明を升の下に置くことはできない」という部分です。これは、灯明、つまりろうそくを弁の下に置くことはできない。つまり、知識や情報を隠すことはできないと言っているわけです。当たり前といえば当たり前ですけれど、この平等性があるからこそ知識や情報を網羅することができる。使用する言語が違う人々の間でもナレッジモデリングのシステムが活用できる理由はここにあります。
知識の性質その3「公開性」
次にあげられるちしき知識・情報の特性は「公開性」です。知識や情報というものは開かれているということですね。
これはどういうことかというと、ちしき知識や情報は隠そうとしても隠せないということでもあります。いったん知識や情報が形をとると、それは発生源からどんどん離れていこうとする。離れていこうとするというとちしき知識や情報に医師があるかのように受け止められるかもしれませんが、私がいいたい言いたいことは、いったんちしき知識や情報が形をとると、それは発生源とは別個の存在として存在をしはじめるということです。
別個の存在ですから、なんらかの存在がその存在をコントロールしようとしてもコントロールできない。その性質としてちしき知識・情報は発生源から離れて独り歩きしていくわけです。つまり、ある意味、知識や情報はそれ自体が発振器のようなものであるとも言えると思います。たとえば言葉というような形で発信か発信されないかに関わらず、そのちしき知識や情報は常に外部に向けて発信されている。これはその知識や情報が持つ固有の振動数が、常に世の中のあらゆる存在と共振しているということでもあります。この性質は、最初に書いた知識・情報の「即時移転性」とも関連していますが、まずは、知識・情報の性質として、1回を取ったら、もうそれはその形あるものとしての発生源とは関係ないところで存在してしまうということを覚えておかれるといいと思います。そうして発生源とは関係がないものとして存在しているからこそ、誰かがどれだけ引き止めようとしてもむずかしい。この性質によって、誰もがそのちしき知識や情報にアクセスできるという平等性も担保されているわけです。
知識の性質その4「自由性」
次に挙げられる特性は「自由性」です。これは知識や情報はどこへでも自由に飛び歩くということです。たとえば、文章を書く時に、文章の中のどこにでも知識や情報を入れ込んで使えるということですね。文章や話し言葉の中のどこにでもちしき知識や情報を入れ込むことができる。知識情報といったほうが分かりやすいかもしれませんが。つまり、知識や情報は、どこで活用しようがその活用を制限されることはない。それを別の文章でなく、言葉で使おうとしてもかまわないし、話し言葉でつあkって合っても書き言葉で使っても構わない。もともとその知識や情報が生まれたところとはまったく違う文脈で使うことすらできる。これを私は知識・情報の自由性と呼んでいます。
知識の性質その5「結合性」
さて、知識・情報の性質の5番目は「結合性」です。知識の結合性とはどのようなことかというと、ちしき知識や情報の内容をバラバランに分解することができるということです。そういうことができるからこそ、まったくべつのちしき知識とちしき知識や情報と情報をくつけることもできる。バラバラにして、分解してつなぎ直すことができるということですね。もちろん内容をバラバラにしたまま、全然違う文脈でつかう使うことすらできる。これは知識・情報の自由性とも重なる部分があります。ある意味で、知識・情報の自由性と知識・情報の結合性は対の概念だと言えます。同じように、知識・情報の公開性と知識・情報の平等性も終になっている。このような性質を持ったものが知識であり、情報であると、わたし私は考えています。
知識が織り成す文化
今、知識と情報には「即時移転性」、「平等性」、「公開性」、「自由性」、「結合性」という5つの性質があるというお話をしました。知識や情報というものは基本的に言語を使って表現されることが多いものです。そして、言語を使って織りなしたもののことを私たちは文化と呼びます。そうすると、ちしき知識や情報をつかんだり、活用したりするということはそのまま、文化を織っていく行為だということができると思います。その文化という織物がどのようなものになっていくかは、私たちそれぞれがどのようにちしき知識や情報をとらえ、位置づけ、解釈し、活用するかによって決まる。その意味でも「漏れなく、重複なく、すべてを網羅する」というナレッジモデリングの考え方は役にたつのではないかと考えています。ところで少々話が戻りますが、知識・情報おn性質としての銃声と結合性があるために、ある知識や情報が別のあるちしき知識や情報と結びつくことがあります。そのようにしてある知識が別の知識とつながると、結果としてまったく別のちしき知識が出来上がります。そうなった時には今度は新しく出来上がった知識の活用方法、運用方法に問題が起こる可能性がある。一番大きな問題が起こるのは、その新しい知識を使って相手の一番の弱点をつく突くというような使い方がされる場合です。先ほども書きましたように、知識・情報の即時移転性によって、殺し文句で本当に人を殺してしまうこともできると書きましたが、既存の知識とは違うあたらしい新しい知識ができた時には、まだそのちしき知識をどのように使えばいいかという合意がとれていません。すると、意図するかしないかは別として、ある種の悪意とともに知識を使うこともできる。悪意がなかったにも関わらず、その知識を使った結果、誰かに害を及ぼすこともあると思います。もちろん、反対のことも言えます。たとえば、あたらしい新しい知識を使って、誰かの命を生き生きとさせることもできます。
ではあたらしい新しい知識や情報を手に入れた時に、大切なことは何かというと、それは倫理性だと思うのです。実際に知識や情報を使う時の実践倫理といいますか、ちしき知識や情報を使う時のための倫理的なガイドラインが必要になる。これは既存の知識と既存の知識がくっついてあたらしい新しい知識が出来上がった時に限った話ではありません。既存の知識や情報を活用する時にも大切なポイントになる。つまり、知識を使うと気にりんりせい倫理性というものを前提にしなければなりませんよということです。ところがここでまた別の問題が出てきます。それは、倫理性といっても、絶対的な倫理はどこにもないのではないかという問題です。たとえば、これまでの科学知識からは倫理性が生まれなかったわけですが、それはなぜかということを考える必要があると思うのです。私は、これまでの科学知識から倫理性が生まれなかったのは、それらの知識が二項対立を土台にした文化から生まれていたからだと考えています。二項対立がある場所では、倫理性というものは生れにくい。というのも、お互いに対立している陣営の片方では倫理的とされていることが、対立している他方の陣営では倫理的ではないとされるということが起こるからです。そもそも、同じ倫理規範を共有できるのであれば対立はしないわけですから、この「何をもって倫理的とするか」というテーマについての対立は、二項対立の世界では絶対に起こるのです。いわば、倫理性に対する永久的な闘争が起こる。では知識や情報を活用するtめの倫理性はどのように確保すればいいのか。私はこれを可能にするのが「階層性の視点」の導入だと思っています。ここで、階層性の視点とは何かということをご理解いただくために、逆に二項対立の世界では何が起こっているのかを説明してみたいと思います。
二項対立とは、異なるふたつの要素が対立している関係です。その内容は神と悪魔でもいいし、神学と哲学でもいい。
キリスト教とイスラム教という対立でもいいわけですが、ふたつの要素がお互いに対立している状況です。これはいわば、平面的な関係であると言えます。どちらを上と呼んでもいいですが、いずれにしてもその概念が対立しているもう一方の概念は同じ平面上にある。
仮にどちらかを上、どちらかをしたと呼んだとしても、やっぱりその2点は同じ平面の上にあるわけです。
そしてお互いが対立しているわけですから、どちらかにとって倫理的である内容は、他方にとっては倫理的ではないということになります。この二項対立を上下という平面上でとらえたものが共産主義の哲学です。つまり、社会には上部構造と下部構造というか、支配と被支配の関係があるから、それを転換しなければならないという発想です。
宗教的な対立も構図は同じです。
私たちの宗教は正しいけれど、あなたたちの住協は間違っているという考え方。これも上下という平面上でお互いの関係をとらえている。さらにいうと、宗教の中身自体にも、一神教では上下の関係の中につなぎとめられている。つまり、神は全であるが、悪魔は悪であるというとらえ方です。上下とういう言葉を聞くと、そこに階層があるのではないかと思われがちですが、実際にはあるふたつの項目が平面の上で対立しているだけです。だから、その関係をいくらひっくり替えそうとしたところで、結局、構図は変わらない。そのいい例が、共産主義です。共産主義はそれまでの「神学に規定された暮らし」をひっくり替えそうという試みです。つまり、創造主である神と被造物である人間という関係をひっくり替えそうとしたわけです。そのために革命を起こし、支配と被支配の関係をひっくり返した。その結果どうなったかというと、共産主義という哲学とその哲学によって縛られる人間というかんけい関係が出来上がった。神学に規定されていた暮らしが、哲学によって規定される暮らしに変わっただけ。言葉は変わっていますが、社会が二項対立の構造から成り立っているということはまったく変わっていないことがお分かりいただけると思います。
階層性と視点の高さ
一方、階層性とは、平面ではなく3次元で物事をとらえるという性質です。つまり、支店に高さがある状態だと言ってもいい。二項対立の場合には、いいか悪いかという判断しかできないです。たとえば、それは私にとっていい内容なのかそれとも悪い内容なにかという判断です。そこに高さという視点が入ってくるとどうなるかというと、視界が少し広くなる。つまり、「私」にとって良い内容かどうか、という視点が少し広がって、たとえば「私の家族」にとって良いかどうかという判断の基準が持てる。
もう少し視点が広がると、「私たちの国」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。
もう少し視点が広がると、「私たちの地球」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。つまり、当事者としての「私」ではなく、観察者としての「私」が登場するわけです。その場の状況にどっぷり浸かっている主体としての私ではなくて、客観的に観察している、観察者の私がいると倫理性を持ちやすくなります。なぜならば、何をもって良しとするかという判断の基準の中に「私」の都合だけでなく他者の都合も含まれるようになるからです。これは今までの西洋的な、一神教的なパラダイムから見ると、まったく別世界です。今までの西洋的なパラダイムの代表は、アインシュタインを代表とする科学です。その科学では「光より速いものはない」とされていました。ところが、現代になって「光より速いものが存在する」という可能性が実証されてきた。光りより速いものがなければ光を客観的に観察することはできません。ある意味、光は光である状態のまま止まった時間の中に存在する。しかし、光よりも速いものがあれば、光は止まった時間の中には存在できなくなります。つまり、光が動き出せば、光より速いものはその動きを認識することができる。つまり、その対象が神であれ光であれ、観察者の視点はそれまで絶対的な存在だとされていたものを、全体の中のひとつの要素にしてしまうわけです。ここにある意味、今の世の中の問題の根源dえある「二項対立の構造」を崩壊させることができる可能性があるのだと思います。
観察者の意志と不確定性原理
それが絶対的な存在である限りにおいては、その存在は絶対です。絶対的でないものは、たとえば絶対的な存在である神に対する人間は、絶対的であるもの、この場合で言えば神に服従しなければならない。しかし、それがひとつの要素になってしまえば、人はそこから自由になる可能性を手に入れることができる。実際に、量子力学の発達によって、観察者の意志・視点が実験の結果を左右することが実証されてきました。これは簡単に言うと、すべてのものをありのままに観察することはできないということです。ありのままに観察できないということは、その観察対象は絶対的な存在ではないということになります。こういったことが科学的に証明されてきた。ハイゼンベルクの不確定性原理でも同じことが言われています。
つまり、「物事の本当の姿を見ることはできないよ」または「観察者と監察される者というのは、切り話しては存在しえないですよ」ということです。そうすると、絶対的な存在の言うことを聞こうとするのではなくて、自分が物事をどのように観察するかということが大切なポイントだということがおのずから明らかになってきます。観察するということ自体が、物事の中に階層性を持ち込むこtこでもある。階層性を持ち込めば、二項対立のしばりから自由になれる。私はこのように考えています。さて、知識の使い方に戻ります。先ほど、知識を使う時には倫理性というガイドラインが絶対に必要であるというお話をしました。この「倫理性」を確保するためには二項対立の視点から脱け出す必要がある。二項対立から脱け出すとは観察者の視点を持つということです。観察者の立場に立てば、倫理性を持つ余地が出てくるからです。とはいっても完全な倫理性が出てくるわけではありませんから、毎回毎回状況に合わせて観察するということが必要でしょうし、それができれば、知識をより良く活用できるのではないかと考えています。
ナレッジ憲章
ナレッジソフト株式会社は、21世紀のあたらしい新しいちしき知識時代を点棒し、その知識社会の形成に貢献するtめ、次のような指針を定める。
第1条ー人間存在の全肯定
人間一人ひとりの存在を尊び、活きいきと生きるということを感謝し、あらゆるものに支えられているtおいうことに基づき、より良い社会の実現を目指して活動する。
第2条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第3条ー共有知識の生成
共有知識では、人と人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに、生成するものである。
第4条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、きゅゆう知識を最大限に活用できる製品・サービスの提供に努める。
第5条ー企業・成員の本義
知識支援型経営システムの提供を通じて、顧客企業の付加価値向上に寄与することを本義とする。
付則
この憲章は、1,997年7月1日から実施する。
さて、ここまでの各章では今現在、世の中で起こっている問題と、その問題を解決することnなるかもしれない「網羅性」という日本文化の特徴、そして日本語の特徴について書いていきました。今の世の中の問題は情報の多さと、二項対立の視点であると書いているわけですから、そのふたつを解決する必要があります。ここからは、情報の多さと二項対立の視点をどのように解決する可能性があるのかを書いていきます。まず最初は、今の世の中で行われている情報の取り込み方についてです。
被造物と魔女裁判
本書の冒頭にも書いたように、今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代です。なぜなら、入ってくる情報の量が幾何数的に増えているからです。では日本や他の国ではどのような形で情報の吸収や整理がされているのでしょうか。大雑把にいうと、日本以外の文明の人たちの知識の取り入れ方というのは先ほども書いたように、目の前に現われた情報・知識に対して「この知識は良い知識である」とか「この知識は悪い知識である」というように割り振りをする傾向が強いようです。
この根本にあるのは一神教的な自然神学であり、その文化は「唯一のかみ神が創造者であり、神以外のすべては神による被造物である」という思想の上に成り立っています。この思想の下では人間はかみ神から見たと気には価値の低い存在であり、その存在が知識を取り込む時にはかみ神から頂いた知識いがい以外はなるべく自分の中に入れないほうがいいということになります。その結果、神から来たちしき知識以外のもの、たとえば悪魔やされに類するものから来た知識は自分の中から叩きださなければならないという発想が生まれてくるのは自然な流れなのかもしれません。こうなると、かみ神と悪魔という二項対立の中に落ち込んでしまいますが、その結果が中世の魔書裁判といった出来事につながっていったのだと考えられるわけです。
知識を取り入れるということに関して言えば、被造物だる人間は常に情報や知識に対する門番を必要とすることになるということでもあります。情報や知識が自分の手元にとどく届くまでにはいろんな門番がいて、それらの門番が「これは神から来たかどうか?」という観点で情報や知識を選別していきます。その結果、手元にとどく届く情報の数は格段に少なくなり、しかも偏ったものになる。だからあたらしい新しい情報やちしき知識は吸収しにくい。というよりも、そもそも情報や知識が入ってこないわけですから、そもそも吸収できないとも言えます。現在もある特定の国ではこれらの情報整理が公然と行われているわけです。
「よりよい国」がはらむ危険性
ところでこのような情報の検閲をしていくと政治学という学問がなくなります。なぜなら政治学というのは、支配するための学問です。もちろん、より良い国を作るためにはどうすればいいのかを考えるのが政治学ですが、見逃しがちなポイントは「より良い国」と言った時に、誰にとってより良いのかという主語が抜けていることです。諸外国を見るまでもなく、現在の日本でも同じようなことが起こっています。自民党や民主党という政党はありますが、基本的に日本の政治は完了がコントロールしやすい構造になるようになっています。このような情報の検閲を行っていくと政治学という学問がなくなることは確かです。なぜなら、政治学をまなばせると学ばせると、革命につながる可能性が出てくるからです。情報を検閲しているものにとって、これは不都合です。少し話が脱線しましたが、情報の検閲を行っている国では政治学はなくなる、と覚えておくといいと思います。
「知識の門番」
さて、情報や知識に対しる門番を置くようになると、新しい情報や知識を吸収しにくくなるだけではなくて、新しい情報や知識を発信することも妨げられます。その分かりやすい例は「それでも地球は回っている」と言わざるをえなかったガリレオに見ることができます。
情報や知識の検閲という必要性は、一神教神学から出てきています。いわば、神学が情報や知識の番人であるということです。それに反発する形で生まれたのがルターによる宗教改革や、ピューリタニズムです。簡単に言えば、カトリックが規定する神学によって自分たちに入ってくる情報やちしき知識が制限されるのは嫌だ!という反発と、それにともなう運動です。その結果、カトリックの世界に住んでいた人たちが、アメリカに行ったり、そのほかの地域に移住していったりして、世界中にちらばっていった。つまり、カトリックの教会の影響力から少しでも離れようとしたわけです。ところが、その移住先での信仰の対象はというと、やっぱり唯一の創造神になってしまった。するとここでも人々は創造主によって作られた被造物になる。そうすると、形は変わるけれど、内容も多少は変わるかもしれないけれど、情報や知識の門番が必要になってくることになります。このようなことが起こっていたわけです。
色が変わった「色眼鏡」
こうして結局、神学から抜けられなかった人類は、この百何十年かの間にあたらしい新しい動きをはじめます。それが共産主義です。この共産主義のもとになっているのは哲学ですが、てつがく哲学は唯一絶対である存在としての神を否定するところから始まる学問です。これまでの神学にきてい規定された生活ではなく、神学に規定されない生活を送るために哲学をそのよりどころにしようとしたわけです。神を否定したわけですから、もう神による情報や知識の検閲は存在しません。神の知識もなければ、悪魔の知識もなくなる。では、人々が自由に情報や知識にアクセスできるようになったかというと、そうではありません。今度は「神」の影響を入れないようにする門番が登場することになります。それが共産主義というフィルターで、簡単に言えば「共産主義の知識以外のものは受け付けない」ということになった。
結局、色眼鏡の色は変わったけれど、依然として色がついている状態のままということになった。それが今の段階です。共産主義はロシアでは終焉を迎え、中国でも解体されつつあります。北朝鮮だけがまだ共産主義の色を濃く残しているわけですが、知識の閉鎖状態を作っていることが見て取れます。
もちろんこれは、支配階層が支配の及ぶ基幹を長くするためにとっている方策といえます。わたし私は北朝鮮を非難するつもりは毛頭ありませんから、ここでのお話しはあくまでも情報や知識の取り入れ方についての例だとご理解ください。実際に、北朝鮮の共産主義に限らず、今でもキリスト教世界では、信者に対して他の宗教の教義の話を聞いてはならないなどという説教がまかりとおっていますが、これも情報や知識の番人を置くという形態のひとつです。目的はもちろん、教会の支配が及ぶ期間や範囲を拡大・継続するためです。このような状態ですので、一神教を文化の土台にしている国や神を否定する哲学を文化の土台にしている国では情報や知識が入りにくいということは言えると思います。
個人の中にある制限
このような国では、情報や知識というものは、吸収する対象ではなく、ある権力階層から分配されるもおという捉え方が的を射ているかもしれません。もちろん、現代はインターネットなどの登場によって、個人がさまざまな情報にアクセスできるようになっていますから、私が言うような制限はないのではないかと思われる方もいらっしゃることでしょう。
しかし、大切なことは、情報や知識に対しうる色眼鏡は、個人の中にあるということです。言葉を変えれば洗脳されていると言ってもいいかもしれません。情報や知識を受け取る前の個人を洗脳しているというのはどういうことかというと、ある情報やちしき知識が目の前に現われた時に「これは悪魔の情報だ」などというレッテルを貼るということを見せていくということです。幼いころからその様子を見ていた子供が大人になった時に、それらの経験から自由になることは本当にむずかしい。というのも、そもそも、自分がそのような色眼鏡をかけていることにさえ氣付かないからです。ある意味でいうと、自由というものがまったくないと言えるかもしれません。そしてこの状況は、今の日本にも当てはまります。もちろん、情報自体は比較的自由に入ってきます。たとえば科学的な知識などというものは比較的自由に手にすることができる。ところが、その情報に対する評価ということに関して言うと、そんなに自由があるわけではない。
たとえば、原子力発電所の安全性、もしくは危険性に関する情報は、日本という国の運営上、都合のいいような形で発表されるわけです。「これぐらいのレベルの放射線量なら安全です」というような情報ですね。ところが、その数値を別の国の発表と照らし合わせてみるとものすごく危険だと評価されていたりする。もちろん、このように他の国の発表内容と比較してみることができれば、「何が本当か分からないな」という疑問を持つこともできるかもしれません。疑問を持つことができれば、その疑問を解消するために自分で調査をしてみることもできるかもしれない。しかし、ただ国の発表を聞いているだけという人も多いのです。そうなると、確かに情報や知識にはアクセスできるけれど、それらの情報やちしき知識を自分の中に取り入れることはできていないということになる。ロシアの事例で言うと、プーチン大統領が情報を操作したという報道がされていたことがありますが、社会が情報化すればするほど情報の統制が行われていると考えて間違いはないのかと思います。
十一章-日本人の情報吸収法
さて、前章では今の世の中の大多数の人が行っている情報の取り入れ方をご紹介しました。一神教にもとづく基づく文化であれ、共産主義に基づく文化であれ、情報にたいして情報に対してなんらかの「番人」をおいて情報を統制しながら取り入れていく。このような情報への接し方をご紹介したわけですが、この「番人」とはあるいみ意味、予断だと言えるかもしれません。
予断とは脳の働き
予断とは分かりやすく言うと、やかんを見た時に「このやかんには水がたくさん入っているから重いはずだ」と思う。
するとそのやかんを持ち上げる時には、うんと力を入れることになります。ところが、そのやかんに水がほとんど入っていなかったとすると、ひょいっと持ち上がってしまって、逆に持ち上がりすぎて中身がこぼれてしまったりすることがある。
別の例でいうと、とても小さなリンゴしか採れない国があります。その地域に行って日本のリンゴを見せながら「これはリンゴです」と言うと、そんなはずがないと言われてしまう。その国の人々にとってのリンゴとは、親指と人差し指で丸を作ったくらいの大きさの果物なのです。リンゴはちいさい小さいものであるはずだと思い込んでいるから、その思い込みとhあちがった違った情報が入ってきた時にそれを受け入れられない。これらの例はなんらかの対象物に対して、最初に予断を持ってしまうことによる害だと言えます。さて、人間の脳の働きという観点からみると、やかんやリンゴに対する態度と同じことが知識に対して起こる可能性がたかい高いわけです。
そのような理由からか、哲学者のカントは知識を取り込む方法を論ずるときには、人間は先見的な利かいというものgあるというおkとを前提に考えていたようです。また、そこに誰かや何かが存在しても自分にはそのひと人やモノが存在するという情報を取り込まないというか、その情報を拒否するということもあります。たとえば、自分が一番苦手な人が道の向こうを歩いている時に、その人がみえない見えないというようなことが起こります。見てもみえない見えない。観ないのではなく、見えていないのだということを、著名な心理学者である島崎敏樹さんという方がおっしゃっています。
信仰のない日本人
さて、あたらしい新しい情報・知識に対してあらかじめ予断を持ちがちだというのは人間であれば誰しも同じではあるわけですが、日本人について言うと比較的予断を持ちにくい傾向があるようです。これはおそらく日本人には信仰心がないからだと言えます。もちろん、日本の中にもさまざまな宗教を信仰している方はいらっしゃいますが、国民全体を見た時には特に信仰の対象となっている宗教は見当たりません。日本のことを仏教徒の国だと考える研究者も多いですが、実際にその文化を見てみるとインドなどの仏教国とはまったく違う文化をはぐくんでいます。つまり、日本人にとっての仏教は信仰の対象ではなく、知識としての学問なのではないでしょうか。これと同じことをその著書「文明の衝突」で有名な政治学者サミュエル・ハンティントンも言っています。日本人は仏教文化ではないと。彼の文明論が言うにはアジアは仏教文明であるけれど、日本は仏教文明ではないと。
もちろん道を歩いていて道端でお地蔵さんに手を合わせて拝んでいるおばあさんを見かけることがあります。けれど、あれは仏教を信仰しているがゆえのこうい行為ではないというのです。なぜなら、特定の御地蔵さんだけに手をあわせる合わせるわけではないからです。そこにヒエラルキーは存在しない。というか、彼女は仏教のヒエラルキーの中に組み込まれていないということです。もちろん、日本人が「大いなる力」とでもいう、ある種神秘的な力をまったく信じてないというような意味でこれまでの文章を書いているわけではありません。ただ、特定のなんかについて、それだけを信じるという文化が日本にはほとんど見受けられない。あえて言えば、これも信じるし、あれも信じるというか、これもあるし、あれもあるという感覚を持っていると言えるのではないかと思います。つまり、「宗教が文明の基点になっていない」ということです。だからお地蔵さんがあれば手を合わせるし、じんじゃに行けば神様に手を合わせる。たとえば、雨乞いをする時には雨を降らせてくれるなら誰でもいい。結果として雨を降らせてくれた人に感謝しようとする。けっこう結構、功利主義的な面があるわけです。こういう前提がにほんじんにはある。そして、このぜんてい前提が知識を吸収したり整理したりする時にも出てきているように感じます。
価値知友率的な「漂わせ方」
たとえばあたらしい新しい情報・知識が出てきた時に日本人が無意識に考えているのは、それをどうやって自分のまわりに漂わせるかということです。そのあたらしい情報や知識を自分の中にすぐ取り入れるということでもない。
もちろん、それらのあたらしい新しい情報や知識について整理がついた後でそれらを活用する時には自分の中に取り入れますが、最初から取り入れるわけではない。まずあたらしい新しい情報や知識を自分のまわりに漂わせる。これは拒否したり遠ざけようとしないということです。かといって取り入れもしない。まさに漂わせるわけです。そしてその次にまねてみる。実際に目にした内容を自分で真似てやってみるということがおこります起こります。真似てみるというのは、まず判断を棚上げにしてやってみるということです。別の言葉でいうと言うと、価値中立的であると言えます。
というのも、日本人はまず情報や知識に対して価値を決めないという傾向があります。つまり、これはいいとか悪いとかを決めないということです。そのうえで、まずはそれがどういうものかを実験的に取り入れてみるという方法をとるわけです。そうやって、あたらしく新しくあらわれた表れた情報やちしき知識を全部自分のまわりに漂わせておく。つまり、全部の情報を集めているわけです。この時点で網羅が起こります。すべての情報が網羅されているという状態になるわけです。整理はされていないかもしれないけど、全部の情報が網羅されている状態。この時点ではまだ整理がされていませんから、さまざまな情報がアトランダムに漂っているだけです。
そしてそのあとに、それらの新しい情報や知識の中で分ける。つまり「分類」です。たとえば、文化人類学者の川喜多二郎さんがデータをまとめるために考案したKJ法も分類の方法です。そして分類するためには網羅していなければならない。ですので川喜多さんがKJ法を考案できた背景には、日本人ならではの「情報の網羅」があったのだと思われます。
一方で、一神教という宗教が文化の基点になっている国では、このような網羅は起こりえません。なぜなら、情報が入ってくる段階で「この情報は神から来たものか」「そうではないのか」と言うフィルターをっけてしまっているからです。それらの文化では、情報は現れた瞬間に裁判や審問にあうわけです。その時点でもう、価値中立的ではない。それらの文化では、一神教ん信仰の対象となっている存在がもっとも高い存在です。ですので、審問を無事に通過した情報も、その存在の下にひっつくしか道がない。つまり、審問にあって弾かれはしなかったとしても、高い存在に比べて価値がないものとして、たかい高い存在の下に置かれることになるわけです。それが2000年間の人類の進化がおくれた遅れた理由だと思います。
「新しい情報」のとらえ方
話を戻しますと、日本人はあたらしい新しい情報や知識を分類した後は、自分たちが持っている既存の情報や知識と照らし合わせるということをするようです。もうすでに分類済みの既存のちしき知識があるから、今度は新しい情報や知識をそれらの既存の情報・知識と照らし合わせる。その結果、既存の情報や知識と同じ分類に入るとみなされたものはその分類の中にくくられます。既存の情報やちしき知識とは一緒にできないとみなされたものは、新しいものとして、自分たちにはどのように活用できるかを考える対象としてそのまま漂わされるわけです。私たちはそういうことを普段からやっている。
ここで大切なのは、価値が中立的にとらえられているかどうか、ということです。情報や知識を中立的井とらえるがゆえに漂わせることができて、漂わせることができるがゆえに分類の余地が出てきて、分類するがゆえに既存のカテゴリに合うものと合わないものがちゃんと分って、合わないものについては、またそこからさらに、「これは要らない」と捨てるのではなくて、何かに使えないかなあというふうに考えて応用していく。これが日本人があたらしい新しい情報や知識に出会った時の反応です。
まとめると、日本人が新しい情報や知識を吸収し、整理し、活用する時の独特なやり方というのは、まず漂わせる。次にまねてみる、まねる時に、同時い頭の中で分類が起こっていく。そうやって分類したものを既存の分類にてらし照らし合わせてみる。そして既存の分類に入っていかないものについては、またそこで、果たして何に使えるのかというのをもう少し掘り下げてみる。そうやって掘り下げていった結果、また分類が起こってきて、最終的には既存の分類の中に落ち着くかもしくはあたらしいカテゴリとして定着する。こういう流は日本人に独特のやり方だと思います。
十二章-「漏れなく、欠けなく、重複なく」」
さて、前章では日本人があたらしい情報や知識に接した時に何をしているのかをご紹介してきました。この章では、「網羅性」という日本人の情報への接し方についてくわしく掘り下げてみたいと思います。
コンピューターの役割
今は情報知識をいかに取り込むかが大きなテーマになっている時代だと書きました。その理由は情報の量が幾何級的に増えているからです。しかも、人間の脳の中に入れ込める情報の量は、いかに天才でもそんなにたくさんの知識を詰め込むことはできません。もちろん、情報知識の詰め込み方にも色々な方法がありますが、基本的には情報や知識の核の偊や整理はコンピューターの役割になってきています。というわけで、コンピューターが今、知識事務機化しているわけですが、コンピューターが知識事務機化する時には、コンピュータに情報をより合理的に、早くいれる入れることができればよりたくさんのデータベースができるということになります。なぜコンピュータの話をしているかというと、ある意味コンピュータというものは「知識」に対して正直な存在だからです。入力された内容が理解不能なものだと、動けない。そんな特性を持っているのがコンピュータであり、その特性から今の世の中の問題の解決策を引き出せるように感じるのです。
コンピュータに知識を入れる
私は以前、ナレッジモデル研究所というかいしゃ会社を作ったことがあります。企業向けにコンピュータソフトを開発する会社です。コンピュータの中に入るソフトウェアというものは、基本的にはデジタルナレッジなんですね。コンピュータの発達段階でいうと、最初の頃は記録と演算を中心にしていた計算事務機として開発されていた。それが今から20年くらい前にコンピュータの中に知識を入れるというテーマが出てきたわけです。その時にコンピュータの中に知識を入れる時には、どのようにしたらいいんだろうかということを考えた。そうした時に、ひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している状態が必要dあということに行きつきました。
ひとつの言葉が複数の意味に解釈されたり、もしくは同じ意味を表すために複数の言葉があったりすると、コンピュータはうまく処理ができなくなるからです。
オーダーメイドのソフトウェア屋さん
ところが、実際にはひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応している言葉集のようなデータベースのようなものはなかったわけです。いまもそういうものは見かけないけれど。この会社はビジネス向けの、特に会社全体を網羅するためのシステムを作る会社でしたから、ビジネスに関する知識をコンピュータに入れ込んで、そのちしき知識が動くように装置かすることが目的になる。
ところがビジネスに関する知識というと、経済学の言葉もあれば会計学の言葉もある。税務の言葉もあるという具合に、いろんな学問がいっしょくたになっているわけです。それは今も変わりません。そういうものを全部整理しないとコンピュータの中にうまく入り込めない。仮に入れ込んだとしてもまったく運用ができなくなるわけです。ですので、そういうものを全部整理して、辞書をつくらないといけないということになりました。ところが当時のソフトウェア会社のほとんどは、こういうことには目を向けなかった。当時は6000社~7000社のソフトウェア会社がありましたが、彼らはこういう整理をするのではなく、個別の会社の中で使われている個別の言葉と個別の意味のセットを使ってシステムを開発していまいました。いわば完全いオーダーメイドです。ただ、このオーダーメイド方式にすると、時間や手間はかkるし、いったん出来上がった後にもたとえば自分たちのグループ会社でつかい使いまわそうと思ってもそれもできないということになる。実際には今も大して変わっていないようですが、当時開発されたシステムの中で完全に運用の軌道に乗ったしすてむシステムはほとんどなかったようです。
それを裏付ける発現としてこのような論文があります。これは米国のITプロジェクトのコンサルティング企業であるスタンディッシュ・グループが1994年に発表した論文の冒頭部分です。「橋は、通常期間内に予算内で架けられ、そして崩れないことを前提としています。これに反して、ソフトウェアは、指定期間内に、あるいは、予算内にできることはまずありません。さらに、出来上がったものは必ず故障します」このような状態がまかり通っていたわけです。
ビジネス現場の「言文一致運動」
いずれにしてもわたし私たちはソフトウェア会社でしたから、ソフトウェアで利益を出さなければならない。そのために、莫大な手間と時間をかけてオーダーメイドのソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間に大量にソフトウェアを開発するよりも、工業生産的な方法で短期間で大量にソフトウェアを作るにはどうすればいいかを考えていきました。その結論がひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応しているビジネス用語の辞書を作り、その辞書を基にシステムをくみ上げることでした。ポイントは、言文一致運動と同じです。ビジネスの活動の要素をどの業種の会社でも使えるような普遍的な言葉で表現する。もともとビジネスn流は基本的にはどんあ業種や業態でも同じわけです。消費税率も同じですし、法人の確定申告書の帳票も必要祖Y類も基本的には同じです。準拠している会社法も同じ。ところが、用語が違うからまさか同じものだとは思われていないだけなのだと思います。
ところで私たちがやったことは、ビジネス用語や経済学用語を網羅していきながら、それぞれの言葉についてのひとつの言葉につき、ひとつの意味だけが対応する辞書を作るという作業でした。同じ意味なのに複数の言葉があるケースでは、ひとつの言葉を残して後は削る。ひとつの言葉で複数の意味を持たせられている言葉がある時には、それぞれの意味に合うような言葉を増やしてあげる。
このようなことをしていきました。こうして、漏れがなく、重複もなく、かつすべてが網羅されている状態を作っていったわけですが、私たちが目にする知識(ナレッジ)を、この「漏れなく、じゅうふく重複なく、かつすべてが網羅されている」状態にすること、そして、それらの用語をさまざまな言葉に置き換えても運用できる基本的な体系を作ることをナレッジモデリングと呼ぶようになりまいsた。
このような研究の結果としてできあがった出来上がったシステムは、短期大量、超高速、高品質といううたい文句で、主に売上高一兆円以上の大企業に向けた当時の私たちの主力製品になりましたが、この「漏れなく、欠けなく、重複なく」すべてが網羅されている状態を作れることこそ、日本語の特性であり、日本人のかのうせい可能性だと思うようになったわけです。
以降の章ではこのナレッジモデリングの考え方を具体的に活用する方法を見ていきます。
13章-「ナレッジ憲章と知識の性質」
さて、ここからは知識(ナレッジ)を「漏れなく、重複なくすべてが網羅されている」状態にするナレッジモデリングの考え方について書いていきます。
共有知識とナレッジ憲章
まず、知識を扱う際には、ちしき知識そのものの性質そそのちしき知識の使い方のふたつを考える必要があります。細かく分ければもっと分けられるのですが、大きく分けるとふたつという意味です。全体像から言うと、多くの人にとって必要な知識というようなものは、やっぱり長い時間をかけて人類が作り上げた文化の成果なのです。
そういう知識のことを共有知識と言っているわけですが、この共有知識が出来上がるまでには結構な時間がかかっている。それで知識を考える時nは、共有知識に対して固有知識というものが出てくる。誰もが自由に使える「共有」に対して、特定の人や個人に属する「固有」という概念ですね。私は知識を扱う時には、この共有と固有の区別をすることが大切だと考えます。だからこそ、知識を扱うナレッジモデリングの研究を進めるにあたって、ナレッジ憲章というものを設けたわけです。この「ナレッジ憲章」というのは、簡単に言うと特定の人や団体が編み出した固有知識は、それらの人や団体への経緯を表しながら活用しましょうということです。これからの時代にはこういう倫理が必ず必要になると思いました。なぜなら、どんな知識であれ、最初は固有知識からスタートするはずだからです。最初は個人が考える。その固有知識をみんなで使い分けるよういなって、それが共有知識になっていく。ところが、共有知識になろうとなるまいと、最初にさおれらの知識を編み出した特定の個人や団体の役割は尊重されなければいけないはずなのに、そうはならない場合がある。だからこそ、特許や意匠登録音ようなものが必要になるとも言えます。このことの大切さをわすれない忘れないように、また関連するいろいろな方々と私たちとの間でこの倫理を共有できるようにするために、このナレッジ憲章を作ったわけです。
シャーペンとシャープペンシル
さて、固有知識が共有化されていくという過程についてですが、これはその過程の中で知識に対する変化が起こるということでもあります。つまりその知識を表す言葉が固有名詞から普通名詞になっていく。たとえば今私たちが何気なく「そこのシャーペン取って」というようなことを言っていますが、このシャーペンとはシャープペンシルの略語です。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープといいう会社が開発した筆記用具だったわけです。そしてシャープペンシルというのはもともと、シャープという会社が開発した筆記具だったわけです。ところが、その筆記具の構造と同じ構造を持った筆記具がいろいろなメーカーから発売されるようになった。
しかし消費者はそれあの筆記具をひっくるめて、それがシャープ社製であろうと、トンボ社製であろうと、ゼブラ社製であろうとシャーペンという名前で呼んだわけです。このシャーペンという呼び方は、すでにこの時点でシャープが作ったシャープペンシルとも別のものになっています。
これはシャープペンシルといいう固有名詞がシャーペンという固有名詞に変わり、シャーペンという固有名詞が普通名詞になっていったということです。この仮定を経て固有知識は共有知識になる。普通名詞になるということはまた、知識が共有化されるということでもあります。こうした過程を経て、知識はモデリングされていくのです。逆に言うと、固有知識がみんなに使われるようになるためには、みんなに合意される必要があるということです。たとえば科学の新発見というものがあります。
けれども、その新しい知識はしばらくの間は科学者たちの間でしか通用しない知識として扱われる。科学者といったって、もしもその知識が宇宙科学に関する知識だったとしたら、自然科学を専攻している科学者にとっては通用しないでしょう。心理学の知識も同じですね。精神病理を研究している学者たちの間では通用するけれど、精神病患者をケアしている病院のスタッフには通じない知識というものもある。つまり、固有の知識というのはごくごく限られた人たちの間でしか通用しない知識だとも言えるわけです。
共有知識と固有知識の境目
こうした、ごくごく限られた人たちの間でしか通用しなかった知識が先に書いた過程を経て共有知識になっていくわけですが、共有知識と固有父氣を分ける境目は、多数決ではありません。つまり、これはその知識を使う人が多いから共有知識で、すくない少ないから固有知識であるという切り分けをすればいいということでもない。共有知識と固有知識を分ける境目は、その知識に対してみんが共有する対象ですよという合意があるかないかということです。そしてこの合意に至るまでには、その知識が既存の知識体系のなかでどの場所を占めるのかということが決まらないとならない。この知識は既存の知識体系のどこかにはまるのか。もしくはまったくあたらしい新しい知識体系の要素として既存の知識体系にくっつくのか。このような観点でちしき知識を見て、漏れがなく、かといって重複があるわけでもなく、すべてが網羅されている状態にすること。
私はこの整理の作業のことをナレッジモデリングと呼んでいます。ですので、ある知識がモデリングされる、つまり既存の知識体系のなかでどの一を占めるのかが確定されるまでには、ある程度の時間がかかることもお多いです。知識が網羅され、分類され、体系化される。その結果の合意によって固有知識が共有知識になる。そのようにとらえていただくといいと思います。ところで、この合意というものは、目に見える形で行われるわけではありません。たとえば、先に書いたシャープペンシルの例でいえば、「ある特定のこの種の構造を持った筆記具のことをシャーペンと呼ぼうね」というはなし話が消費者個人個人の間で起こったわけではありません。ただなんとなく、そういう構造の筆記具のことをシャーペンと呼ぶようになった。ですので知識をこゆうちしき知識から共有知識に変えていく時の合意というものは、なんとなく行われる。つまり、暗黙知として行われるプロセスである時も多いと言うことができると思います。
ナレッジ憲章
一方で、固有知識を意識的に共有化する取り組みというものもあります。たとえばある種のノウハウを書籍として出版するというのもそういった取り組みのひとつです。
テレビやラジオで誰かが何かの話をするというのも、これも大きな目で見れば、固有知識を意識的に共有化する取り組みだといえます。このようにして固有知識を共有化していこうとするときには考えるべき大切なポイントがあります。それは、その固有知識は共有化するべきものなのかどうかということです。たとえば、ノウハウといったようなちしき知識を考えてみます。この場合、なんらかの成果が出たからこそ、そのちしき知識がノウハウとして認識されるわけです。しかし、その成果はたまたま出た成果なのかもしれません。この場合には、この知識(ノウハウ)には再現性がないことになります。
この場合、この知識をみんなで共有することには意味がないはずです。というのも、何かをうまくやるためのノウハウであるはずなのに、そのノウハウを使ってもせいかが出ないというおかしなことが起こるからです。一方で、体系化されたノウハウ、つまり再現性のあるノウハウというものはみんなで共有する価値があるのかもしれません。なぜなら、そのノウハウを使うことで、特定の成果を得るというプロセスが誰にでも際限できるからです。もちろん、このようなノウハウが共有知識かしていく際には、当初にこのノウハウを考え出した特定の人物や団体に対して敬意が祓われる必要があることは言うまでもありません。このように知識というものは、普遍的にみんなが使えるもの、共有できるものになって初めて社会の中で役に立ち始めるとも言えます。私たちがつくったナレッジ憲章ではそのことを表現しています。ナレッジ憲章自体は全部で5つの項目から成り立っているのですが、ここでは該当する部分だけを抜き出してみます。
第二条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第三条ー共有知識の生成
共有知識では、人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに生成するものである。
第四条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、共有知識を最大限に活用できる製品サービスの提供に努める。
やはりここでのポイントは固有知識と共有知識との分類にあります。固有知識を大事にするということも必要だし、その固有知識が集まって共有知識になるわけだから、共有知識を使うためにはそのあたりの倫理性を忘れてはんらないということです。簡単に言うと、もともと固有知識は個人から生まれるものであるし、合意なしには共有知識になりえない。そして共有知識が出来上がった時に初めて、それを活用できる製品やサービスが生まれるということです。
知識の性質その1「即時移転性」
ここからは知識の性質について考えてみましょう。知識の性質ということで言えば大まかに分けて5つの性質があると考えています。まずひとつめは、知識というものは「即時移転性である」ということです。これは情緒ちしき知識などでもそうですが、知識は目に見えないものまで含めた広い範囲を持っているということでもあります。
たとえば、起こっている相手がいるとします。その相手が「私は怒っている」という情報を発信する前から、その人の周囲にいる人にはその人が怒っていることが伝わっている。これが知識(情報)の即時移転性です。言語としての情報が発信されていないにも関わらず、言語としての情報が伝えようとしていた情報がすでに周囲に伝わっている。こういうことが起こっている。
これは場の空気を読むとか読まないおtかいうものと同じですね。場の空気が読めるということはーそして、この場のくうき空気を読む能力は日本という社会では特に重要視されるわけですが^-其の場になんらかの情報がすでに漂っているということを意味します。何もないところで何か読み取ることはできないわけですから。このように、情報というものは目にみえない見えないものまで含めた範囲で伝わっていく。つまり移転していくということです。今、私は情報と書きましたけど、知識も同じです。大量のちしき知識が、即時に移転していく。日本には殺し文句という言葉がありますが、あれは言葉で本当に人を殺してしまうことができるということです。なぜそんなことができるのかというと、言葉という情報・知識の陰にものすごく大量の情報や知識が隠されていて、それが瞬時にその相手に伝わるからです。たとえば裁判で「あなたは死刑です」という判決文が発表される前に容疑者が自殺をしてしまう。これもある意味、情報・知識の即時移転性によるものだと考えられます。逆に言えば、この即時移転性があるからこそ、ふとした言葉で人が生き返ることもある。これは文字通り生き返るわけです。鬱々と何も希望がないようなところで生きていた人が、ある言葉を投げかけられたことによって突然生き生きとくらし暮らし始める。これは人を活かす情報・ちしき知識が即時に伝わったからです。情報・知識の中身になる大量の要素が、相手の脳に移転しているということです。しかもこの移転が即時に行われる。言語情報も非言語情報も、移転する時には瞬時に移転する。これが即時性ということです。
知識の性質その2「平等性」
知識・情報の特性として次にあげられるのが「平等性」です。これは、すべての人に同じ知識や情報が与えられているということです。つまり、あなたは白人だからこの情報が受け取れないとか、あなたは黒人だからこれは受け取れないとか、そういうことはない。平等というのは情報である以上、誰もが手にできる。もちろん各層とすることはできるけど、最終的には隠しきれなくなる。その結果、最終的にはみんながそれを手にすることになる。おもしろいことに同じことが聖書の記載のなかにも出てきます。「灯明を升の下に置くことはできない」という部分です。これは、灯明、つまりろうそくを弁の下に置くことはできない。つまり、知識や情報を隠すことはできないと言っているわけです。当たり前といえば当たり前ですけれど、この平等性があるからこそ知識や情報を網羅することができる。使用する言語が違う人々の間でもナレッジモデリングのシステムが活用できる理由はここにあります。
知識の性質その3「公開性」
次にあげられるちしき知識・情報の特性は「公開性」です。知識や情報というものは開かれているということですね。
これはどういうことかというと、ちしき知識や情報は隠そうとしても隠せないということでもあります。いったん知識や情報が形をとると、それは発生源からどんどん離れていこうとする。離れていこうとするというとちしき知識や情報に医師があるかのように受け止められるかもしれませんが、私がいいたい言いたいことは、いったんちしき知識や情報が形をとると、それは発生源とは別個の存在として存在をしはじめるということです。
別個の存在ですから、なんらかの存在がその存在をコントロールしようとしてもコントロールできない。その性質としてちしき知識・情報は発生源から離れて独り歩きしていくわけです。つまり、ある意味、知識や情報はそれ自体が発振器のようなものであるとも言えると思います。たとえば言葉というような形で発信か発信されないかに関わらず、そのちしき知識や情報は常に外部に向けて発信されている。これはその知識や情報が持つ固有の振動数が、常に世の中のあらゆる存在と共振しているということでもあります。この性質は、最初に書いた知識・情報の「即時移転性」とも関連していますが、まずは、知識・情報の性質として、1回を取ったら、もうそれはその形あるものとしての発生源とは関係ないところで存在してしまうということを覚えておかれるといいと思います。そうして発生源とは関係がないものとして存在しているからこそ、誰かがどれだけ引き止めようとしてもむずかしい。この性質によって、誰もがそのちしき知識や情報にアクセスできるという平等性も担保されているわけです。
知識の性質その4「自由性」
次に挙げられる特性は「自由性」です。これは知識や情報はどこへでも自由に飛び歩くということです。たとえば、文章を書く時に、文章の中のどこにでも知識や情報を入れ込んで使えるということですね。文章や話し言葉の中のどこにでもちしき知識や情報を入れ込むことができる。知識情報といったほうが分かりやすいかもしれませんが。つまり、知識や情報は、どこで活用しようがその活用を制限されることはない。それを別の文章でなく、言葉で使おうとしてもかまわないし、話し言葉でつあkって合っても書き言葉で使っても構わない。もともとその知識や情報が生まれたところとはまったく違う文脈で使うことすらできる。これを私は知識・情報の自由性と呼んでいます。
知識の性質その5「結合性」
さて、知識・情報の性質の5番目は「結合性」です。知識の結合性とはどのようなことかというと、ちしき知識や情報の内容をバラバランに分解することができるということです。そういうことができるからこそ、まったくべつのちしき知識とちしき知識や情報と情報をくつけることもできる。バラバラにして、分解してつなぎ直すことができるということですね。もちろん内容をバラバラにしたまま、全然違う文脈でつかう使うことすらできる。これは知識・情報の自由性とも重なる部分があります。ある意味で、知識・情報の自由性と知識・情報の結合性は対の概念だと言えます。同じように、知識・情報の公開性と知識・情報の平等性も終になっている。このような性質を持ったものが知識であり、情報であると、わたし私は考えています。
知識が織り成す文化
今、知識と情報には「即時移転性」、「平等性」、「公開性」、「自由性」、「結合性」という5つの性質があるというお話をしました。知識や情報というものは基本的に言語を使って表現されることが多いものです。そして、言語を使って織りなしたもののことを私たちは文化と呼びます。そうすると、ちしき知識や情報をつかんだり、活用したりするということはそのまま、文化を織っていく行為だということができると思います。その文化という織物がどのようなものになっていくかは、私たちそれぞれがどのようにちしき知識や情報をとらえ、位置づけ、解釈し、活用するかによって決まる。その意味でも「漏れなく、重複なく、すべてを網羅する」というナレッジモデリングの考え方は役にたつのではないかと考えています。ところで少々話が戻りますが、知識・情報おn性質としての銃声と結合性があるために、ある知識や情報が別のあるちしき知識や情報と結びつくことがあります。そのようにしてある知識が別の知識とつながると、結果としてまったく別のちしき知識が出来上がります。そうなった時には今度は新しく出来上がった知識の活用方法、運用方法に問題が起こる可能性がある。一番大きな問題が起こるのは、その新しい知識を使って相手の一番の弱点をつく突くというような使い方がされる場合です。先ほども書きましたように、知識・情報の即時移転性によって、殺し文句で本当に人を殺してしまうこともできると書きましたが、既存の知識とは違うあたらしい新しい知識ができた時には、まだそのちしき知識をどのように使えばいいかという合意がとれていません。すると、意図するかしないかは別として、ある種の悪意とともに知識を使うこともできる。悪意がなかったにも関わらず、その知識を使った結果、誰かに害を及ぼすこともあると思います。もちろん、反対のことも言えます。たとえば、あたらしい新しい知識を使って、誰かの命を生き生きとさせることもできます。
ではあたらしい新しい知識や情報を手に入れた時に、大切なことは何かというと、それは倫理性だと思うのです。実際に知識や情報を使う時の実践倫理といいますか、ちしき知識や情報を使う時のための倫理的なガイドラインが必要になる。これは既存の知識と既存の知識がくっついてあたらしい新しい知識が出来上がった時に限った話ではありません。既存の知識や情報を活用する時にも大切なポイントになる。つまり、知識を使うと気にりんりせい倫理性というものを前提にしなければなりませんよということです。ところがここでまた別の問題が出てきます。それは、倫理性といっても、絶対的な倫理はどこにもないのではないかという問題です。たとえば、これまでの科学知識からは倫理性が生まれなかったわけですが、それはなぜかということを考える必要があると思うのです。私は、これまでの科学知識から倫理性が生まれなかったのは、それらの知識が二項対立を土台にした文化から生まれていたからだと考えています。二項対立がある場所では、倫理性というものは生れにくい。というのも、お互いに対立している陣営の片方では倫理的とされていることが、対立している他方の陣営では倫理的ではないとされるということが起こるからです。そもそも、同じ倫理規範を共有できるのであれば対立はしないわけですから、この「何をもって倫理的とするか」というテーマについての対立は、二項対立の世界では絶対に起こるのです。いわば、倫理性に対する永久的な闘争が起こる。では知識や情報を活用するtめの倫理性はどのように確保すればいいのか。私はこれを可能にするのが「階層性の視点」の導入だと思っています。ここで、階層性の視点とは何かということをご理解いただくために、逆に二項対立の世界では何が起こっているのかを説明してみたいと思います。
二項対立とは、異なるふたつの要素が対立している関係です。その内容は神と悪魔でもいいし、神学と哲学でもいい。
キリスト教とイスラム教という対立でもいいわけですが、ふたつの要素がお互いに対立している状況です。これはいわば、平面的な関係であると言えます。どちらを上と呼んでもいいですが、いずれにしてもその概念が対立しているもう一方の概念は同じ平面上にある。
仮にどちらかを上、どちらかをしたと呼んだとしても、やっぱりその2点は同じ平面の上にあるわけです。
そしてお互いが対立しているわけですから、どちらかにとって倫理的である内容は、他方にとっては倫理的ではないということになります。この二項対立を上下という平面上でとらえたものが共産主義の哲学です。つまり、社会には上部構造と下部構造というか、支配と被支配の関係があるから、それを転換しなければならないという発想です。
宗教的な対立も構図は同じです。
私たちの宗教は正しいけれど、あなたたちの住協は間違っているという考え方。これも上下という平面上でお互いの関係をとらえている。さらにいうと、宗教の中身自体にも、一神教では上下の関係の中につなぎとめられている。つまり、神は全であるが、悪魔は悪であるというとらえ方です。上下とういう言葉を聞くと、そこに階層があるのではないかと思われがちですが、実際にはあるふたつの項目が平面の上で対立しているだけです。だから、その関係をいくらひっくり替えそうとしたところで、結局、構図は変わらない。そのいい例が、共産主義です。共産主義はそれまでの「神学に規定された暮らし」をひっくり替えそうという試みです。つまり、創造主である神と被造物である人間という関係をひっくり替えそうとしたわけです。そのために革命を起こし、支配と被支配の関係をひっくり返した。その結果どうなったかというと、共産主義という哲学とその哲学によって縛られる人間というかんけい関係が出来上がった。神学に規定されていた暮らしが、哲学によって規定される暮らしに変わっただけ。言葉は変わっていますが、社会が二項対立の構造から成り立っているということはまったく変わっていないことがお分かりいただけると思います。
階層性と視点の高さ
一方、階層性とは、平面ではなく3次元で物事をとらえるという性質です。つまり、支店に高さがある状態だと言ってもいい。二項対立の場合には、いいか悪いかという判断しかできないです。たとえば、それは私にとっていい内容なのかそれとも悪い内容なにかという判断です。そこに高さという視点が入ってくるとどうなるかというと、視界が少し広くなる。つまり、「私」にとって良い内容かどうか、という視点が少し広がって、たとえば「私の家族」にとって良いかどうかという判断の基準が持てる。
もう少し視点が広がると、「私たちの国」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。
もう少し視点が広がると、「私たちの地球」にとって良いかどうかという判断の基準が持てます。つまり、当事者としての「私」ではなく、観察者としての「私」が登場するわけです。その場の状況にどっぷり浸かっている主体としての私ではなくて、客観的に観察している、観察者の私がいると倫理性を持ちやすくなります。なぜならば、何をもって良しとするかという判断の基準の中に「私」の都合だけでなく他者の都合も含まれるようになるからです。これは今までの西洋的な、一神教的なパラダイムから見ると、まったく別世界です。今までの西洋的なパラダイムの代表は、アインシュタインを代表とする科学です。その科学では「光より速いものはない」とされていました。ところが、現代になって「光より速いものが存在する」という可能性が実証されてきた。光りより速いものがなければ光を客観的に観察することはできません。ある意味、光は光である状態のまま止まった時間の中に存在する。しかし、光よりも速いものがあれば、光は止まった時間の中には存在できなくなります。つまり、光が動き出せば、光より速いものはその動きを認識することができる。つまり、その対象が神であれ光であれ、観察者の視点はそれまで絶対的な存在だとされていたものを、全体の中のひとつの要素にしてしまうわけです。ここにある意味、今の世の中の問題の根源dえある「二項対立の構造」を崩壊させることができる可能性があるのだと思います。
観察者の意志と不確定性原理
それが絶対的な存在である限りにおいては、その存在は絶対です。絶対的でないものは、たとえば絶対的な存在である神に対する人間は、絶対的であるもの、この場合で言えば神に服従しなければならない。しかし、それがひとつの要素になってしまえば、人はそこから自由になる可能性を手に入れることができる。実際に、量子力学の発達によって、観察者の意志・視点が実験の結果を左右することが実証されてきました。これは簡単に言うと、すべてのものをありのままに観察することはできないということです。ありのままに観察できないということは、その観察対象は絶対的な存在ではないということになります。こういったことが科学的に証明されてきた。ハイゼンベルクの不確定性原理でも同じことが言われています。
つまり、「物事の本当の姿を見ることはできないよ」または「観察者と監察される者というのは、切り話しては存在しえないですよ」ということです。そうすると、絶対的な存在の言うことを聞こうとするのではなくて、自分が物事をどのように観察するかということが大切なポイントだということがおのずから明らかになってきます。観察するということ自体が、物事の中に階層性を持ち込むこtこでもある。階層性を持ち込めば、二項対立のしばりから自由になれる。私はこのように考えています。さて、知識の使い方に戻ります。先ほど、知識を使う時には倫理性というガイドラインが絶対に必要であるというお話をしました。この「倫理性」を確保するためには二項対立の視点から脱け出す必要がある。二項対立から脱け出すとは観察者の視点を持つということです。観察者の立場に立てば、倫理性を持つ余地が出てくるからです。とはいっても完全な倫理性が出てくるわけではありませんから、毎回毎回状況に合わせて観察するということが必要でしょうし、それができれば、知識をより良く活用できるのではないかと考えています。
ナレッジ憲章
ナレッジソフト株式会社は、21世紀のあたらしい新しいちしき知識時代を点棒し、その知識社会の形成に貢献するtめ、次のような指針を定める。
第1条ー人間存在の全肯定
人間一人ひとりの存在を尊び、活きいきと生きるということを感謝し、あらゆるものに支えられているtおいうことに基づき、より良い社会の実現を目指して活動する。
第2条ー固有知識の尊重
固有知識はその発生者に属するものであり、尊重されなければならない。
第3条ー共有知識の生成
共有知識では、人と人などのコミュニケーションによって、固有知識が合意されるところに、生成するものである。
第4条ー共有知識の活用
顧客企業がその経営活動において、きゅゆう知識を最大限に活用できる製品・サービスの提供に努める。
第5条ー企業・成員の本義
知識支援型経営システムの提供を通じて、顧客企業の付加価値向上に寄与することを本義とする。
付則
この憲章は、1,997年7月1日から実施する。