それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子著 朝日出版社
3章 第一次世界大戦 日本が抱いた主観的な挫折
第一次世界大戦は、1914年から1918年迄の約4年にわたるセルビア・イギリス・フランス・ロシアなどの連合軍と、オーストリア・ドイツ・トルコ等の同盟国との世界的規模の戦争である。連合軍は勝利したが、この戦争の結果、ヨーロッパでは、ロシアではロマノフ王朝が崩壊し、その後、ロシア革命によりソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が誕生し、ドイツではホーエンツォレルン王朝、オーストリアではハプスブルク帝国がなくなり、長い伝統を持っていた三つの王朝が崩壊し、それぞれ共和制国家となった。そして、第一次世界大戦全体で、戦死者約1千万人、戦傷者2千万人、膨大な数の戦傷者が出たことで、再び戦乱が起きないように。1920年国際連盟が設立された。日本は、第一次世界大戦では戦死者1,250名。天皇を中心とした立憲君主制による統治はゆるぎなかった。
1914年第一次世界大戦が始まると、日本はドイツに対して宣戦布告を行い、南洋諸島のドイツ領の島々(ヤールート、ポナベ、トラック、ヤップ、サイパン等)を占領、中国大陸においてもドイツ領であった青島を攻略する。戦勝であった日本は、第一次世界大戦後パリ会議を経てヴェルサイユ条約で、山東半島の経済的利権と南洋諸島を獲得し、南樺太、朝鮮半島、長春から旅順、台湾等と含め大きな領土を持つようになった。対アメリカ、対中国、対ソ連に対し戦略的利益に合致する帝国が築かれて行った。
日本の第一次世界大戦参戦に対し、英国は日英同盟の名目で、日本の参戦を断っていた。アメリカも日本の第一次世界大戦参戦に対して反対する立場を取った。戦争が終わり、1919年パリ講和会議が始まると日本は批判の対象となった。
山東問題に関し、日本は中国に還付する目的で山東に出兵したのに、二十一ヵ条要求を袁世凱に突き付け、山東に関する条約をでっち上げたと非難された。そして、ドイツから奪ったのに日本のものにしてしまったと、世界・中国から非難された。また、このパリ講和会議の開催中に、朝鮮半島では三・一独立運動がおこり、朝鮮半島全体に広がった。日本の植民地支配からの独立を求める大衆的な示威運動である。日本は軍隊も動員して弾圧した。資料により数字が異なるが、約200万人がこの運動に参加し、死傷者7500名、負傷者が15000名に登ると言われる。この事も日本批判の対象となったのである。
パリ講和会議での参加者の横顔として、加藤教授はイギリスの経済学者ケインズの著書「講和の経済的帰結」を紹介している。その著作では、ドイツからの賠償金について言及している。各国は、イギリス・フランスを含めアメリカから、1985年迄続く天文学的な借金をしていた。ケインズは、ドイツから取り立てる賠償貴の減額とアメリカに対するイギリス・フランスの返済条件緩和を主張した。加藤教授はケインズの言う通りに、ドイツに寛容な賠償額を課せば1929年の世界大恐慌も起きなかったかも知れないと主張する。
パリ講和会議後のヴェルサイユ条約に基づき、アメリカのウィルソン大統領の提案で、世界初の国際平和維持機構である国際連盟が設立されたが、モンロー主義的な考えが強いアメリカ議会からアメリカの参加承認が取れなかった。議会からのウィルソン大統領批判は、ヴェルサイユ条約は、中国を犠牲にして山東半島に対する日本の要求を全て呑んだ不当な条約であり、日本は山東を植民地同様に支配すると批判し、ヴェルサイユ条約に調印するためにウィルソン大統領は日本に妥協したと、大統領批判が日本に及ぶことになった。
日本人は「戦争」を選んで行く道を続けることになる。
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