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スミス・マルクス・ケインズ よみがえる危機の処方箋 ウルリケ・ヘルマン著 

2023-07-21 22:56:49 | 日記

スミス・マルクス・ケインズ よみがえる危機の処方箋 ウルリケ・ヘルマン著

第4章 資本主義を分析した共産主義者 

   江戸時代 享保期(1716年~1736年)頃、江戸の人口は100万人を超えたと言われている。1800年頃、北京の人口が90万、ロンドンが86万、パリが54万と言われるので、江戸は江戸時代中期には世界的に見ても北京やロンドンを超えるほどの人口を抱える「大江戸」と呼ぶにふさわしい巨大都市であった。」(都立図書館HP大江戸メトロポリス)

   本書によると、1849年頃ロンドンの人口は250万人を擁する世界最大の都市であった。同年、そのロンドンにマルクスはプロイセンから追放され亡命して来た。当時、ロンドンは世界で圧倒的に大きな都市であった。ヨーロッパではパリの人口は100万人と言われロンドンに次に人口の多い都市であった。イギリスは、産業革命により世界的覇権を確立していた。

   カール・マルクスは、1818年プロイセン王国領のトリーアで生まれた。マルクス家は代々ユダヤ教のラビ(宗教的指導者)を務めていた。マルクスは、1835年ボン大学入学 (法学)。当時のボンの人口は1万4千人程度(トリ―アとほぼ同じ)。1836年ベルリン大学に移る、1841年学位取得後トリーア帰郷。(参考1846年ベルリンの人口は33万人(娼婦1万人、犯罪者1.2万人、女中1.8万人、職工2万人、貧困児童0.6万人、乞食0.4万人、受刑者0,2万人)1842年ボンへ移住し『ライン新聞』参加。しかし、翌年プロイセンの圧力により発禁となる。この頃社会問題がマルクスの視界となる。1843年パリに移住し翌年「独仏年誌」発刊。共産主義思想を確立して行く。階級闘争が不可避であることを確信し、プロレタリアートを発見。エンゲルスとの共同研究が始まる。1845年フランス政府の圧力によりベルギー王都ブリュッセルへ移住。その頃蔓延していた貧困に加え凶作で全ヨーロッパは飢餓の危機に直面していた。1847年 恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生。24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)。2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった。

   1848年2月革命直前、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」(共著)をロンドンで刊行。<岩波文庫版解説P.105-6>『共産党宣言』冒頭の一節。『一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。―共産主義という妖怪が。古いヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる、法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲。‥‥共産主義はすでに、すべてのヨーロッパ強国から一つの力と認められている‥‥』

   1849年マルクスはプロイセンから追放されロンドンに移住。人口250万人を擁する世界最大の都市を持つイギリスであっても、労働者階級の貧困の実体は深刻であった。1840年のリバプールでの健康統計では、上位層の平均寿命は35歳、商人・恵まれた職人の平均寿命は22歳、労働者・使用人階級の平均寿命は15歳程度であった。

   マルクスは、1867年「資本論-経済学批判」刊行。1885年「資本論第2巻」刊行。資本論は当初全三冊からなる4巻構成になるはずであった。第二冊では資本の習慣過程(第2巻)と資本の総過程の形成(第3巻)が、第三冊目(第4巻)理論の歴史が扱われる予定であった。しかし、マルクスはマルクスからマルクス主義へと変遷していった。

    現在、テクノロジーの進化が急速に進んでいる。第4次産業革命 AI/IOT 技術が改革する Society5.0 の時代である。デジタル革新=デジタル技術とデータの活用が進むことで、個人の生活や行政、産業構造、雇用などを含めて社会のあり方が大きく変わることに直面している。しかし、市民の分断化・貧困層の問題等歴史は繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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