自分というものは、しっかり掴まえていないとふわふわと何処かへ飛んで行ってしまう風船のようなもの。
そうです、心があちらこちらをふわふわとさ迷うということは誰もが経験します。
風船がふわふわと揺れ動くことは止められなくても、木の枝にでも結んでおけば何処かに飛んで行ったりはしません。
木の枝は神が用意した、飛ぶのに疲れた鳥の為の止まり木ですが、自分という風船を繋ぎ止めておく為にも利用することが出来ます。
神の栄光を思う時、心はあちらこちらとさ迷うことを止めます。
自身の禍福に対する懸念がある時、心は動揺しますが神を思うことは動揺の無い心の状態を作り出します。
ゆっくりと油を垂らすと一筋の糸のようになりますが、それが、心が動揺していない状態に喩えられます。
油は固まってしまっている訳ではないのですが、固定されているように見えます。
心が頑固で融通が効かないのは、氷が固まっているようなものです。
心も愛の温もりを失えば冷えて固まった氷のようになります。
愛は善悪正邪に拘らず美醜優劣にも拘らず人の心を温めて溶かすことができます。
何故なら、悪人や邪な人こそ神聖な愛に目覚める必要があるからです。
イエスもブッダも悪人や邪な人に救いの手を差しのべることを躊躇しませんでした。
このような聖なる人が身をもって示した真実こそが私達の真の信仰、真の道徳なのです。
“誰もが皆、真の信仰に目覚め、真の道徳を実践することが出来ますように、私達を高めてください”
“神よ仏よと崇め奉りながら、自らを卑下すること、仲間を卑下することを止めさせてください”
“愛の力を侮らないでください、決して愛を賤しめないでください、愛を好み愛に生きてください”