羊の見る夢

霊性。

風船のように。

2023-09-03 08:21:56 | 日記
自分というものは、しっかり掴まえていないとふわふわと何処かへ飛んで行ってしまう風船のようなもの。

そうです、心があちらこちらをふわふわとさ迷うということは誰もが経験します。

風船がふわふわと揺れ動くことは止められなくても、木の枝にでも結んでおけば何処かに飛んで行ったりはしません。

木の枝は神が用意した、飛ぶのに疲れた鳥の為の止まり木ですが、自分という風船を繋ぎ止めておく為にも利用することが出来ます。

神の栄光を思う時、心はあちらこちらとさ迷うことを止めます。

自身の禍福に対する懸念がある時、心は動揺しますが神を思うことは動揺の無い心の状態を作り出します。

ゆっくりと油を垂らすと一筋の糸のようになりますが、それが、心が動揺していない状態に喩えられます。

油は固まってしまっている訳ではないのですが、固定されているように見えます。

心が頑固で融通が効かないのは、氷が固まっているようなものです。

心も愛の温もりを失えば冷えて固まった氷のようになります。

愛は善悪正邪に拘らず美醜優劣にも拘らず人の心を温めて溶かすことができます。

何故なら、悪人や邪な人こそ神聖な愛に目覚める必要があるからです。

イエスもブッダも悪人や邪な人に救いの手を差しのべることを躊躇しませんでした。

このような聖なる人が身をもって示した真実こそが私達の真の信仰、真の道徳なのです。

“誰もが皆、真の信仰に目覚め、真の道徳を実践することが出来ますように、私達を高めてください”

“神よ仏よと崇め奉りながら、自らを卑下すること、仲間を卑下することを止めさせてください”

“愛の力を侮らないでください、決して愛を賤しめないでください、愛を好み愛に生きてください”


誉れ。

2023-09-02 22:23:43 | 日記
メー プリヨー ナラハ(私にとって大切な人です)と神様から言って貰えることは人間にとって誉れとなることです。

スッカ ドゥッカ
サメクルットヴァー
ラッバラッバウ
ジャヤージャヤーウ

人は幸福と悲しみ、利益と損失、勝利と敗北において平等な心を保つべきである。

ーバガヴァッド ギーター。

スッカ(幸せも)
ドッカ(不幸も)
サメクルットヴァー(等しいものという思いを為せ)
ラッバラッバウ(得ること失うこともまた)
ジャヤージャヤーウ(勝つこと負けることもまた)

命(いのち)

美味しさは料理の命。
人格は人間の命。

他者にとっての美味しい人間になりなさいというのが、神様の命じるところ。

自分の人間性を他者に楽しんで貰えるようになることが、各々の望みであるべきです。

神様にも楽しんで貰うべきだし、神の現れであるそれぞれの人にも楽しんで貰うべきです。

私を味わい私を楽しんでください。
私の人格を味わい私の人格を楽しんでください。
私の人間性を味わい私の人間性を楽しんでください。

そのようなことを願い、その願いを実現するべく努力します。





心の有り様。

2023-09-02 20:13:44 | 日記
心の中には輪廻する六道の全てが具わっている。

これは、大乗の教えですが、実際、私達が世界と呼んでいるものは、自分自身の心の世界の投影に過ぎません。

無気力な人にとって世界は無味乾燥した何の魅力も無い退屈な世界であり、修羅の気の強い人にとって世界は正に戦いの場であり修羅闘杖の修羅場です。しからば人間は六道に属して居ても唯一六道から離脱する可能性のある存在です。
人間は内に六道を具していながら、六道輪廻を乗り越えて菩提(悟り)を求め、衆生(人びと)への憐れみの思いを起こさなければなりません。

何故ならお釈迦様はそれ故に仏陀と成られたからです。

世界が平和であるのは、心の内に平和を保つことの出来る人がいるからです。仏の教えにも忍耐し侮辱に堪え忍ぶ心の鎧を身に纏いなさいとあります。

その為には、心の奥深くに何かしら神聖なものを受け保っている必要があります。

それ故、信仰の内に倫理道徳を確立し神仏への道を勇気凛々、正々堂々と力強く歩むことは、一切の神、一切の仏が義とすることです。

倫理道徳を聖化することは至高のダルマです。

人間は罪から解放されるまでは道徳性を至高の神として崇めなければなりません。

真実、ダルマ、平和、非暴力、聖なる愛は、人間が崇め奉るべき五柱の神です。

一体全体、人間意外のどのような生き物がこの宇宙に於いてこのような神達を崇め奉るでしょう?

崇敬はその対象と同等になるか、その対象を越えるまでは続けられなければなりません。

私達が進歩向上することは神仏のお心に叶うばかりか、神仏の尊さを証しするものです。

私達の堕落は神仏のお心を痛めるばかりでなく、真実神仏を侮辱するものです。







事実。

2023-09-02 10:04:30 | 日記
事実とは、その時何が起こったのかということではなくて、その時自分がどう感じどう思ったのかということを述べることです。

事実を述べるというのは、経験や体験を述べることであり、経験や体験は記憶の中に集積された主観的印象に他ならないからです。

私はこのようなことを見たとか、私はこのようなことを聞いたということは可能ですが、そのよう記憶の真偽は、記憶を伝達された聞き手のハートに委ねられています。

“この人が言うのだからきっと本当のことに違いない”とか、“こんなやつの言うことなど到底信じることが出来ない”とかの聞き手の判断は、話し手のハートの純粋さの如何によります。

事実によって人を説得することは出来ません。
その事実を語る人の人格や人間性によって人は説得されます。

警察官や裁判官は説諭をする権限を法律によって認められています。

彼らは職務の執行として説諭をすることが認められているのです。

説諭とは善悪正邪に対する主観を述べて、こんこんと教え諭すことに他なりません。

警察官や裁判官にはそのような社会的役割までもが期待されています。

彼らは罪を犯す可能性がある人、罪を犯した人に、直接接触するからです。

説諭をすることによって、彼ら自身もまた罪の汚れから免れるからです。







意識。

2023-09-01 21:04:43 | 日記
意識とは遍満し浸透しているブラフマン(至高の神)の至福に満ちた平安。

見つめあい、同じ方向を見る心理的必然性はないにもかかわらず、母親と赤ちゃんとは恰も一体のものであるかのように行動する。
知性が未発達で自分の行動を客観視できない赤ちゃんが、母親と見つめあうことが出来るのは、人間は生まれながらにして肉体や心を越えて意識を拡げ他者の意識と融合することが出来る能力を有しているからだ。

私の身体とか私の心とか、あなたの身体とかあなたの心とか言うのは身体や心は所有物だからだ。

然し、意識は何者にも所有されない。
生命も何者にも所有されず、神性も何者にも所有されず、アートマも何者にも所有されない。

愛とはそのようなものとして理解されるべきものだし、意識もまたそのようなものとして理解されるべきものだ。

それは、エゴが介在する余地の無いものだし、欲望を持つことも無いものだ。

母親と赤ちゃんは、意識が至福であることを予見させる良い例だ。