羊の見る夢

霊性。

神への捧げ物。

2023-09-01 08:36:09 | 日記
“神様、私の思いと言葉と行いを神への捧げ物として相応しいものにしてください”。

私の拙い祈りが神との絆を結ぶことになりますように。

お心のままにお導きください。

神の愛で愛せますように。

神の愛に仕える僕にしてください。


心を込めて話す。

2023-08-31 01:39:24 | 日記
もし、神様が目の前に居て“何でも話してごらん!”と言ったなら、あなたにしてもさぞかし心を込めて話すことでしょう。

これが本来の“話す”ということなのです。

お釈迦様が言葉を慎むと言ったのも、この本来の“心を込めて話すことが出来る為に”ということなのです。

お釈迦様もイエス様も必要な時には、幾らでも饒舌に話すことが出来ました。

単に饒舌に話したのではなく、“心を込めて”饒舌に巧みに懇切丁寧に話したのです。

私達も話す必要がある時には、誰に対しても心を込めて話します。

井戸を掘る人は水脈を堀当てるまで諦めずに堀続けます。

心を込めて話すのは、相手の人の心の底の愛の水脈を堀当てる為なのです。

自分の全人格を賭けた真実の思いで優しく温かい言葉を掛けなければなりません。

それは、神への祈りと全く同質のものでなければなりません。

神に向き合う時のように、相手の人に真摯に向き合わなければなりません。

愛の泉が噴き出せば、それは涙となって目から溢れ出します、嗚咽となって喉から溢れ出します。

愛は万人の内に内在しているからです。

丁度、神が万人の内に内在しているように。




アルピタム(神に捧げる気持ち)。

2023-08-30 23:09:39 | 日記
バリに支払う税金は自分自身を神に捧げる気持ちです。

神は雨を降らせ、太陽を輝かせていますが、このようなことに対して人間は、感謝こそすれ、如何なる義務も負って居ると考えて居ません。

実際は、人間は神に対して自分自身を捧げるという義務を負っています。

これが、人間がバリに対して支払う税金として神が認めて居る人間の義務です。

納税の義務は神に対しても有るのです。

それは、お金ではなく徳や善行や献身という形で支払われる神への納税の義務です。

神を喜ばせたいという気持ちは尊いものです。
然し、その為には神がどんなことに喜ぶのかを知らなければなりません。

他者の苦しみを取り除くこと以上に神を喜ばせることは他に有りません。

その為の犠牲であり、献身であり、奉仕です。

神に自分自身を捧げるというのはそういうことです。

神の救済を願って自分自身は何もしないのであれば、それは信仰ではありません。

自身が救われる最も簡単な方法は神の労働者になることなのです。

イエスは喩えをもって神の労働者の真理を語りました。

何時でも神が降臨するときには、神の為に働く者が呼び求められます。

どのような理由によってでも神の為に働きたいと思う者には正当な代償が支払われます。

今は当にそのような機会が与えられている時代なのです。



神秘。

2023-08-30 22:16:38 | 日記
神はあらゆる意味に於いて神秘ですが、とりわけ人間の存在が神の神秘の中で最大の神秘です。

宇宙を創った神は、その神の創造物を賛美し賛嘆し愛でる者が必要だと考えて最後に人間を創りました。

然し、それに留まらす、人間の神秘はあらゆる現象の背後におられる神の存在に気付き神を賛美し神を愛することが出来る点にあります。

動物達は、人間を崇敬し人間に憧れを抱いていますが、それにも増して、人間は神に崇敬を抱き、神に憧れています。

人間は神の愛の資質に恵まれているのです。

だからこそ、神への憧れに身を焦がすのです。

一人一人の人間が神の現し身だと考えて、誰に対してもプリヤ デーヴァ(愛しき神)に対するのと同様の礼拝を捧げなければなりません。

思いを慎み、言葉を慎み、身を慎み、柔順で柔和になり、へりくだることを学ばなければなりません。

礼拝合掌は元はと言えばインドの習慣ですが、それは元来、内なる魂を神として礼拝合掌することから始まったものです。

生身の神を礼拝合掌することは稀なことでも、生きている人間を生身の神として礼拝合掌することならば、何時でも、何処でも、誰にでも出来ることなのです。

人の内に神を見、人の表に現れた神の性質を愛でることは、とても素晴らしい霊性の修行になります。

自動車を運転する人の意識が自動的に安全な運転に集中しているように、霊性の修行をする人の意識も自動的に神を愛することに集中しているようでなければなりません。

それこそ、師から学ぶべきことであり、全身全霊を傾けて会得すべきことなのです。


思考、感情、創造。

2023-08-30 20:51:47 | 日記
人は絶えず、色々なことを考えたり感じたりしている。

それは、言って見れば料理を食べてその味を味わっているようなものだ。

実際、私達は経験を味覚や嗅覚や触覚や視覚や聴覚などに例える。

甘い恋、爽やかな目覚め、清々しい朝などと言う。

五感、感情、思考、想像、が清浄で汚れが無いならば、私達の日々の現実を創造して行く営みも、清浄で汚れが無い。

私達は理由もなく苦しんでいると思っているが、その場合、理由は忘れてしまっている過去の行いの中にあるのだ。

何を食べたか忘れてしまって居ても、げっぷの臭いまで消えて無くなってしまう訳ではないようなものだ。