誰が何を言っても、微笑みを絶やさずに顔色を変えないでいます。
何が起きても、微笑みを絶やさずに顔色を変えないでいます。
一切を行っているのは、神であり、神が私達に悪い事をする筈が無いと思っているからです。
神のように生きたいと願う時に、私達の心はブレークスルーに向かって動き始めます。
神への信頼は、闇雲に信じ込もうとすることによってではなくて、一つ一つの小さな体験の積み重ねによって育まれます。
然し、かつてアウシュヴィッツに収用されたユダヤ人の中には、信仰を失い神を呪う程の苦しみに苛まれた者も居ました。
このような人達に対しては、何が起きようとも、それはあなたにとって良い事なのです!と言うことは出来ません。
救出に向かうことが出来ないのなら、せめても苦しむ人の魂の安寧のために祈ることが偉大な同情心を持つ者の為すことです。
清らかな祈りは、血を吐くような絶望にうちひしがれた瀕死の魂をも抱き留める、天使の腕(かいな)に異なりません。
善悪正邪は私達の行動如何にかかっているのですから、私達は善行と正しい行いによってしか、神の信頼を勝ち得ることは出来ないのです。
神は善悪を超越した真理の神であるかも知れませんが、それなら私達は一体どんな者なのか?と自らに問わなければなりません。
様々な罪や過ちにまみれていながら、自らが神に比肩する者のように振る舞ってはなりません。
高慢(キリスト教)、増上慢(仏教)、は共に地獄に堕ちる大罪だとされています。
私達がする事が、私達が何者であるかを示しています。
存在と行動が相反するなら、私達の魂は引き裂かれてしまいます。
行動が善と徳に彩られている者が邪悪な罪人の筈がありません。
また、邪悪な振る舞いをする者が清らかな魂の筈がありません。
人は誰でも、自らの行いによって、自身を浄化したり汚染したりしているのです。
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