近年、 街的な地域への進出が目立つ種類の1つ。
ヒヨドリとは、 種の分類では、 鳥『類』 → スズメ『目』までが同じなだけで 『科』が違って、 関係は かなり遠め。
それとは関係ない部分では、 ヒヨドリも 高度成長期頃に 短期間で街に進出した経緯があるところに 類似感が発生したような展開。
イソヒヨドリが 街暮らしで 基本パターンとして好むのは、
ショッピングモールなんかによくあるイメージの 広い屋外駐車場・・・
工場によくある “何の場所”とも 特には表し難いような、 草も少ない砂利地・・・
そういう、 無機質な印象の平坦で広い空間を 上から見渡せる場所。
...だったが、 最近では ますます数が増えて、 もう 環境には関係なく 住宅地でも どこにでも「いるのが当然」になっている。
元々の自然な捕食行動とは違う手法で ゴミを漁ったりするところも、 街の事情に順応した要素か。
とてもよく鳴く鳥。
声質は 澄んだ高音で、 抑揚がある“いかにも囀り”といった感じの “美声”中心。
・・・とはいえ、 声量が かなり大きくて、 あまり季節性もなく、 朝早くからも鳴く。
群れなくて 個体数の密度は低くても、 オスもメスも鳴くので 結構な“音”の発生源になっている。
頻繁に近くにいられると 「迷惑」という感じ方もありそう。

オス成鳥は“青い鳥”、 でも、 カワセミと比べると 暗めというか 鈍い色調。
街にいる個体は、 たいていどこでも、 見る機会の殆どは 人工物との組み合わせになる。
これも、 背景は建物で、 鳥以外は 人工物。

至近距離に来た メスか 幼鳥。
元々は 岩場での保護色だっただろうが、 コンクリートなどの人工物でも 紛れる状況が 結構多い。
引きの解像感では 眼全体が“黒目”のようでも、 アップでは“白目”っぽい部分が見える。
顔立ちは 結構 鋭い印象?
ヒヨドリとは、 種の分類では、 鳥『類』 → スズメ『目』までが同じなだけで 『科』が違って、 関係は かなり遠め。
それとは関係ない部分では、 ヒヨドリも 高度成長期頃に 短期間で街に進出した経緯があるところに 類似感が発生したような展開。
イソヒヨドリが 街暮らしで 基本パターンとして好むのは、
ショッピングモールなんかによくあるイメージの 広い屋外駐車場・・・
工場によくある “何の場所”とも 特には表し難いような、 草も少ない砂利地・・・
そういう、 無機質な印象の平坦で広い空間を 上から見渡せる場所。
...だったが、 最近では ますます数が増えて、 もう 環境には関係なく 住宅地でも どこにでも「いるのが当然」になっている。
元々の自然な捕食行動とは違う手法で ゴミを漁ったりするところも、 街の事情に順応した要素か。
とてもよく鳴く鳥。
声質は 澄んだ高音で、 抑揚がある“いかにも囀り”といった感じの “美声”中心。
・・・とはいえ、 声量が かなり大きくて、 あまり季節性もなく、 朝早くからも鳴く。
群れなくて 個体数の密度は低くても、 オスもメスも鳴くので 結構な“音”の発生源になっている。
頻繁に近くにいられると 「迷惑」という感じ方もありそう。

オス成鳥は“青い鳥”、 でも、 カワセミと比べると 暗めというか 鈍い色調。
街にいる個体は、 たいていどこでも、 見る機会の殆どは 人工物との組み合わせになる。
これも、 背景は建物で、 鳥以外は 人工物。

至近距離に来た メスか 幼鳥。
元々は 岩場での保護色だっただろうが、 コンクリートなどの人工物でも 紛れる状況が 結構多い。
引きの解像感では 眼全体が“黒目”のようでも、 アップでは“白目”っぽい部分が見える。
顔立ちは 結構 鋭い印象?

その中では、 動的な写真の期待に確実性が高めで 重宝する種類。
何故か 電線などに“とまる”機会が 妙に少なく感じる。
シーズン初期ほど顕著で、 1ヶ月とか2ヶ月とか経つにつれて、 とまる頻度が だんだん増えていく印象もある、が・・・
そこは、 すっかり見慣れきった後になってから “とまり”で 種名の証拠写真...では、 自慢には使えなそうな事情も x x x
飛翔を捉えられるイメージを持てないと、 被写体として意識を向ける機会が少ない種類かも。


向かう先に具体的な目標物を見つけているわけではなくて飛び回っている中での旋回、といった感じ。
ツバメというと“燕尾服”の形と思い込んでいると、 静止画では ツバメのイメージを感じ難い種類かも?
でも、 機敏に飛び回る動きは いかにもツバメの仲間。

経験的な感覚では、 獲物か...他の個体か... 明確な標的に向かって行っている時に見られる “視線”と“表情”。
鳥は、 眼球を殆ど動かせないといった構造的に 顔の変化が少ない点で「表情には出ない」という考え方もありそうだが・・・
上の2コマとは、 動きの形や 顔の向きの違いだけではない “視線”と“表情”の印象が かなり違うのでは?
高空で遠いので 超望遠でも種類は判別できないが... カモメの類の群れ。
渡り鳥が移動する季節には 時々見られる、 馴染みある情景。

瞬時に正確には数え切れない群れは、 手早い概算の数え方を知らないと、 現実とは違いすぎる規模に肥大させた印象で見られがち。
『何万もの大群が!』と騒がれるのが、 現実は 500とか 200程度...どころか 50以下だったりですら 定番パターン x x x
こういう V字の編隊なら、 広く知られている“いかにも”なので、 個々の形状は見えていなくても 鳥をイメージし易いだろう。
その反面、 “いかにも”な象徴的イメージは、 全てを それ『だけ』に画一化した空想が『知識』として信じられていがち。
現実は そんなに単純なはずもなく、 規則性がある隊列にはならずに 雑然と飛び回っている時もある、のだが・・・
明瞭な隊列になっていないと 『鳥の群れとは特徴が全く違う』として『鳥ではない証拠』と思われたりもする...らしい x x x
順光側の高空を飛ぶ白い鳥は、 翼の下面が広く見えているところに光が当たるタイミングだけ 特に明るく見える。
これは 当然、 はばたきの動きで 規則的っぽくても不規則に変化する。
鳥と解っていれば 何でもないこと、というより、 むしろ“いかにも”鳥らしさが解り易く表れている要素、なのだが・・・
先に“人工物”的な飛行物体と思い込んでいると、 不可解に『回転』とか『合図』しているように見えたりもする...らしい x x x
旋回したりして、 正面や真後ろの 見える物が薄い角度や、 灰色の背中側が向くと、 背景の空に埋もれて 見え難くなる。
見えているものが 角度次第で 急に目立たなくなるのは、 自然物でも人工物でも 普段から日常に多々あること、なのだが・・・
これも また、 なぜか 『突然消え去った』とか『瞬間移動』みたいな話に飛躍したり x x x
そんなあれこれが複合して 錯覚と空想を積み重ねた高揚で 『UFO映像』になったりも x x x
“未確認○○”とは、 実際の素性を「確認」しないでいれば 何でも ずっと『未確認』としていられるので...
説明がつかない不可解な設定を積み重ねた空想を膨らませて 不思議な世界に思いを馳せるのはご自由だろうが・・・
リアルな見識でも、 超常的な“何か”の実在を期待するのでも、 どこにでもある平凡な状況の事実を知るのが賢明なのは同じはず。
更に一段と蛇足ながら...
写真や動画では、 「点」のように小さすぎるでもなくて 「鳥」とも違う、 輪郭が鮮鋭な“人工物”の形に写ることもある。
真円、ラグビーボール風、リング、多角形(三角形, 四角形, 五角形, ...)とかの、 機械的に精密な円弧や直線で構成された形。
もちろん 作為的なことは一切なくて、 写そうとする時点のモニター(ファインダー)で その形が見えていたりする ライブ感も。
これを、 カメラの基礎知識がないと 『不思議な形の飛行物体を鮮明に写した』と信じがち...らしい、が・・・
そういうのが “謎めいた映像を見せるテレビ番組”なんかでも 『謎の飛行物体』みたいに表されて出てきたりもする、が・・・
カメラの基礎知識があれば、 輪郭が鮮鋭でも 被写体の形が写っているのではない 単なる「ピンボケ」なのは 一目瞭然に判ること。
「写界では小さな物のピンボケ像」という点では、 オカルト的な解釈なら『オーブ』と称されるものと同じ、でもあり x x x
“テレビ番組”の点では、 映像を扱うテレビ局で 誰もカメラの基礎知識もない・・・のでは 不自然すぎる話。
ピンボケ、ゴースト(幽霊さん...ではない)、ブレ、・・・原理も広く知られた“古典芸能”的な定番が 現代にも頻出するが...
そこは、 本当には事情を知らないはずがなくても、 明らかに違う設定のお噺でも 伝聞や疑問形で使うのが『SHOW』での趣向 x x x
渡り鳥が移動する季節には 時々見られる、 馴染みある情景。

瞬時に正確には数え切れない群れは、 手早い概算の数え方を知らないと、 現実とは違いすぎる規模に肥大させた印象で見られがち。
『何万もの大群が!』と騒がれるのが、 現実は 500とか 200程度...どころか 50以下だったりですら 定番パターン x x x
こういう V字の編隊なら、 広く知られている“いかにも”なので、 個々の形状は見えていなくても 鳥をイメージし易いだろう。
その反面、 “いかにも”な象徴的イメージは、 全てを それ『だけ』に画一化した空想が『知識』として信じられていがち。
現実は そんなに単純なはずもなく、 規則性がある隊列にはならずに 雑然と飛び回っている時もある、のだが・・・
明瞭な隊列になっていないと 『鳥の群れとは特徴が全く違う』として『鳥ではない証拠』と思われたりもする...らしい x x x
順光側の高空を飛ぶ白い鳥は、 翼の下面が広く見えているところに光が当たるタイミングだけ 特に明るく見える。
これは 当然、 はばたきの動きで 規則的っぽくても不規則に変化する。
鳥と解っていれば 何でもないこと、というより、 むしろ“いかにも”鳥らしさが解り易く表れている要素、なのだが・・・
先に“人工物”的な飛行物体と思い込んでいると、 不可解に『回転』とか『合図』しているように見えたりもする...らしい x x x
旋回したりして、 正面や真後ろの 見える物が薄い角度や、 灰色の背中側が向くと、 背景の空に埋もれて 見え難くなる。
見えているものが 角度次第で 急に目立たなくなるのは、 自然物でも人工物でも 普段から日常に多々あること、なのだが・・・
これも また、 なぜか 『突然消え去った』とか『瞬間移動』みたいな話に飛躍したり x x x
そんなあれこれが複合して 錯覚と空想を積み重ねた高揚で 『UFO映像』になったりも x x x
“未確認○○”とは、 実際の素性を「確認」しないでいれば 何でも ずっと『未確認』としていられるので...
説明がつかない不可解な設定を積み重ねた空想を膨らませて 不思議な世界に思いを馳せるのはご自由だろうが・・・
リアルな見識でも、 超常的な“何か”の実在を期待するのでも、 どこにでもある平凡な状況の事実を知るのが賢明なのは同じはず。
更に一段と蛇足ながら...
写真や動画では、 「点」のように小さすぎるでもなくて 「鳥」とも違う、 輪郭が鮮鋭な“人工物”の形に写ることもある。
真円、ラグビーボール風、リング、多角形(三角形, 四角形, 五角形, ...)とかの、 機械的に精密な円弧や直線で構成された形。
もちろん 作為的なことは一切なくて、 写そうとする時点のモニター(ファインダー)で その形が見えていたりする ライブ感も。
これを、 カメラの基礎知識がないと 『不思議な形の飛行物体を鮮明に写した』と信じがち...らしい、が・・・
そういうのが “謎めいた映像を見せるテレビ番組”なんかでも 『謎の飛行物体』みたいに表されて出てきたりもする、が・・・
カメラの基礎知識があれば、 輪郭が鮮鋭でも 被写体の形が写っているのではない 単なる「ピンボケ」なのは 一目瞭然に判ること。
「写界では小さな物のピンボケ像」という点では、 オカルト的な解釈なら『オーブ』と称されるものと同じ、でもあり x x x
“テレビ番組”の点では、 映像を扱うテレビ局で 誰もカメラの基礎知識もない・・・のでは 不自然すぎる話。
ピンボケ、ゴースト(幽霊さん...ではない)、ブレ、・・・原理も広く知られた“古典芸能”的な定番が 現代にも頻出するが...
そこは、 本当には事情を知らないはずがなくても、 明らかに違う設定のお噺でも 伝聞や疑問形で使うのが『SHOW』での趣向 x x x
水鳥は、 見られる殆どの時間は、 浮いているだけ、泳いでいるだけ、のようなもの。
それ以上の“特別な何か”があるシーンは、 そう滅多には逢えないから特別なわけで、 そうそう都合良くは写せないのが必然で...


鳥写真では、 特に何かが起きる期待はない平凡な状況を 用途はないとわかりながらシャッターを切っているのは 多くあること。
「こんなのを写しても、 使えるような写真にはならないですけどね...」
・・・、 経験的に、 正反対に取り違えられるのが まぁ とてもとても多いので、 一応・・・
これは、 何でも闇雲に延々と連写し続けていて『使えるコマがあっても ほんの一部だけ』なのとは、 根本的に違うもののこと。
もちろん、 鳥を構図内に入れられない、でもないのだが、 自称『世界屈指の超絶テクニック』の残念自慢さんほど これが定番。
ご勝手に ご自身を祀り上げるにはご都合が良い “撮影に『成功』できるなんて期待できない”と聞こえてしまうようで x x x
超々初歩も修めないままでは、 写真の価値は ありがたがられる種名の威光に縋るしかないだけが全てでいるのが 類型。
だから、 ありがたがられる各種の情報を訊き回って 一瞬でも先に駆けつけるのを一律一斉に競い合う繰り返しだけに終始しがち。
そして、 種名を叫んで“証拠写真”を見せられさえすれば、 もう目的は完遂。
『鳥が写っている』級の 僅かすぎる単語だけでの短文が当てはまりさえすれば 撮影に『成功』した満願成就でいられる 言葉遊び...
『鳥を写す』ことに『成功』したから もう『全てを知り尽くして 全てを極めきった』と証明し合っていられる、 お幸せな世界観...
対話AIのような機械なら、 「現実」を見ることも知ることもできないから、 他者の文言にぶら下がるのを重ねるしかできない。
類似性で拾った文言から 多く称される寄せ集めを なんとなくそれっぽく並べた『知ったかぶりの言葉遊び』といったところ?
それは、 「現実」を見られる“人”が物事を判断して理解する“知能”とは別物... のはずなのだが・・・
「現実」は、 称される文言の多数決で測れるとは限らない。
多数が『優れている』と自称しているのと横並びなら、 それこそが 誰にでもできる『平易平凡』の証明そのものなのに・・・??


視覚的な評価で “ただ写っているだけ”の「平凡な写真」というのは、 形、光、背景、...多面の複合が 幅広く充分に揃ったもの。
それが写せるのは、 状況全体の中で見れば 僅かしかない、 空間的にも 時間的にも ピンポイントの組み合わせが揃った瞬間だけ。
だから、 鳥写真の極致のつもりで 華々しい文言での盛大な自慢で飾りつけて見せ回られがちなものでもあり。
前記事までの幾つかとも繋がりつつ・・・
写真は、 現にある状況しか写せないもので、 動きで変化していく中の瞬間は 実際に見えてからカメラを構えたのでは 写せない。
用途がなくても写すのは、 体裁が整うタイミングを なるべく少ないコマ数で狙い撃ちした精度を確認する ゲームのような感覚。
体裁良く捉えられていても、 無駄なコマを多く使っているのでは、 状況が見えていない証明の 残念ポイント。
もちろん、 『○○が△△している』式で文言に置き換えて“いかにも”な単語を叫べさえすれば喜ぶ言葉遊びゲームではない。
そして、 これは、 自然の3次元空間での、 様々に変化する“まだ起きていない状況”に対応する リアル超多次元ゲーム。
無思考な偶然で立った場所から カメラ操作だけの3D映像シューティングとしてしかプレイできないのが ありがちだが・・・
与えられる状況を より効果が高く活かせるように行動できるのも プレイ要素。
それには、 写真の知識と技術も、 自分の行動でも状況が変わる鳥への“接し方”の知識と実践できる技術も、の複合が必要。
だから、 鳥がいる所に後から割り込んで追い散らして、 周りを巻き添えにしてまで わざわざ自爆し続ける迷惑さんも 定番で・・・
でも、 それを適切にできるのは、 ただ写ってさえいれば『成功』でいられるのではない意識があれば、 必然に必須の たかが基礎。
初歩を修めていれば 「できて当然」前提の平常テンションで、 仮に写し逃しても悔やむこともなくての 軽~いお遊びでの残物... も、 他方では 自身が元凶で滅多に手にできないのが 極致の『成功』に見えて 超~ぉハイテンションの狂喜乱舞で自慢...
鳥写真の情景は、 超々初歩の有無で この大差になるもの。
「できて当然」の人は、 軽微な減点を 自嘲でボヤいたりしても、 状況なりの最良に写せたところで 喜んだりはしない。
それが、 自身のレベルが低すぎると、 周りは 誰も一度すら成功できないほどものこと、と信じて 優越感に満たされていられる。
真っ先に ありがたがられる種類に群がるのは、 写すニーズが“話題性が高いネタを手早く作る”だけなら 安直に発想するだろう。
でも、 話題に挙げる口実に使えさえすれば目的達成...だけではない、 写真自体への欲があるなら・・・
まして、 もし、 将来性では より向上した鳥写真に進んでいきたい『つもり』でいるなら・・・
それは、 どんな些細なことでも“何かをできるようになった経験”があるなら 陥るとは考え難い 稚拙な発想。
その“何か”は、 幼児の“お砂遊びでのあれこれ”レベルでも用を成し得るほどの 超~ぉ簡単すぎる話でしかない、のだが・・・
あらゆる何をやっても 永久に一切の例外なく稚拙すぎるお方は、 より稚拙なほど 自身を際限なく過大評価していられるもの。
だから、 どこに首を突っ込んでも、 同じ残念ぶりがご自慢でいられる同類さん同士だけで称え合う集いとしか関われない。
もちろん、 ずっと入り口の外にいるまま 何でも優越感を満喫してお幸せでいられ続けても、 それ『だけ』なら、 それぞれの自由。
でも、 自身の中では有頂天でいる『だけ』には留まれずに、 残念な幻想を 外の世界にまで持ち出してしまうのが 定番パターン。
誰かが何かをしたのが見える度に、 その概要や 聞こえた単語の断片だけを大きなお声で叫んで、 それを何にでも一律に
『私が先に』 『私だけが』 『私が教えてあげた』
に付け替えた妄想世界に暮らして 実在しない恩を押し売りする、 どこででも無数に纏わりついてきてしまう アレの類 x x x
見えたものを解る知能がないから、 解らないこと自体が解らずに、 たった1つ2つの単語を口走れば もう全て解っているつもり...
それが 実年齢での幼児なら 将来がある成長の過程として 微笑ましく見れる言動... でも、 幼児でなければ 意味も違う。
だから、 わざわざ、 自ら、 ますます明確に 異口同音の同類さん同士だけとしか関われなくする言動に励み続ける循環。
一応・・・、 ここでいう“関わり”は、 福祉的配慮で“ご挨拶”はしてもらえる 世の中の優しさでの社交儀礼は別にして、の話。
まず、 簡単すぎる たかが初歩中の初歩、 たかが基本中の基本こそ重要なのは、 何事でも同じ。
簡単すぎることも知らず、できずのままでは、 ご熱心に あちこち駆け回っても、 簡単に得られて当然の成果も手にできない。
これでは、 その時間と労力の殆どを無駄にし続ける・・・ だけなら 残念さん相応の自業自得、だけで済むのだが・・・
鳥写真では、 無知な行動で追い散らし回って 周りまで巻き添えにする迷惑に励み続けている愚かな現実にも気付けない惨事にも。
その後になって 先人さんから写せる方法を訊き出そうと 厚顔無恥に同好の繋がりを気取って交友を画策しても、 もう既に・・・
当然、 それも 自業自得の“自己責任”。
もっとも...
知的面が幼児仕様のまま現在に至っている事情だから、 世では簡単すぎるほどものことは 想像すらしようもないのだろうが。
それ以上の“特別な何か”があるシーンは、 そう滅多には逢えないから特別なわけで、 そうそう都合良くは写せないのが必然で...


鳥写真では、 特に何かが起きる期待はない平凡な状況を 用途はないとわかりながらシャッターを切っているのは 多くあること。
「こんなのを写しても、 使えるような写真にはならないですけどね...」
・・・、 経験的に、 正反対に取り違えられるのが まぁ とてもとても多いので、 一応・・・
これは、 何でも闇雲に延々と連写し続けていて『使えるコマがあっても ほんの一部だけ』なのとは、 根本的に違うもののこと。
もちろん、 鳥を構図内に入れられない、でもないのだが、 自称『世界屈指の超絶テクニック』の残念自慢さんほど これが定番。
ご勝手に ご自身を祀り上げるにはご都合が良い “撮影に『成功』できるなんて期待できない”と聞こえてしまうようで x x x
超々初歩も修めないままでは、 写真の価値は ありがたがられる種名の威光に縋るしかないだけが全てでいるのが 類型。
だから、 ありがたがられる各種の情報を訊き回って 一瞬でも先に駆けつけるのを一律一斉に競い合う繰り返しだけに終始しがち。
そして、 種名を叫んで“証拠写真”を見せられさえすれば、 もう目的は完遂。
『鳥が写っている』級の 僅かすぎる単語だけでの短文が当てはまりさえすれば 撮影に『成功』した満願成就でいられる 言葉遊び...
『鳥を写す』ことに『成功』したから もう『全てを知り尽くして 全てを極めきった』と証明し合っていられる、 お幸せな世界観...
対話AIのような機械なら、 「現実」を見ることも知ることもできないから、 他者の文言にぶら下がるのを重ねるしかできない。
類似性で拾った文言から 多く称される寄せ集めを なんとなくそれっぽく並べた『知ったかぶりの言葉遊び』といったところ?
それは、 「現実」を見られる“人”が物事を判断して理解する“知能”とは別物... のはずなのだが・・・
「現実」は、 称される文言の多数決で測れるとは限らない。
多数が『優れている』と自称しているのと横並びなら、 それこそが 誰にでもできる『平易平凡』の証明そのものなのに・・・??


視覚的な評価で “ただ写っているだけ”の「平凡な写真」というのは、 形、光、背景、...多面の複合が 幅広く充分に揃ったもの。
それが写せるのは、 状況全体の中で見れば 僅かしかない、 空間的にも 時間的にも ピンポイントの組み合わせが揃った瞬間だけ。
だから、 鳥写真の極致のつもりで 華々しい文言での盛大な自慢で飾りつけて見せ回られがちなものでもあり。
前記事までの幾つかとも繋がりつつ・・・
写真は、 現にある状況しか写せないもので、 動きで変化していく中の瞬間は 実際に見えてからカメラを構えたのでは 写せない。
用途がなくても写すのは、 体裁が整うタイミングを なるべく少ないコマ数で狙い撃ちした精度を確認する ゲームのような感覚。
体裁良く捉えられていても、 無駄なコマを多く使っているのでは、 状況が見えていない証明の 残念ポイント。
もちろん、 『○○が△△している』式で文言に置き換えて“いかにも”な単語を叫べさえすれば喜ぶ言葉遊びゲームではない。
そして、 これは、 自然の3次元空間での、 様々に変化する“まだ起きていない状況”に対応する リアル超多次元ゲーム。
無思考な偶然で立った場所から カメラ操作だけの3D映像シューティングとしてしかプレイできないのが ありがちだが・・・
与えられる状況を より効果が高く活かせるように行動できるのも プレイ要素。
それには、 写真の知識と技術も、 自分の行動でも状況が変わる鳥への“接し方”の知識と実践できる技術も、の複合が必要。
だから、 鳥がいる所に後から割り込んで追い散らして、 周りを巻き添えにしてまで わざわざ自爆し続ける迷惑さんも 定番で・・・
でも、 それを適切にできるのは、 ただ写ってさえいれば『成功』でいられるのではない意識があれば、 必然に必須の たかが基礎。
初歩を修めていれば 「できて当然」前提の平常テンションで、 仮に写し逃しても悔やむこともなくての 軽~いお遊びでの残物... も、 他方では 自身が元凶で滅多に手にできないのが 極致の『成功』に見えて 超~ぉハイテンションの狂喜乱舞で自慢...
鳥写真の情景は、 超々初歩の有無で この大差になるもの。
「できて当然」の人は、 軽微な減点を 自嘲でボヤいたりしても、 状況なりの最良に写せたところで 喜んだりはしない。
それが、 自身のレベルが低すぎると、 周りは 誰も一度すら成功できないほどものこと、と信じて 優越感に満たされていられる。
真っ先に ありがたがられる種類に群がるのは、 写すニーズが“話題性が高いネタを手早く作る”だけなら 安直に発想するだろう。
でも、 話題に挙げる口実に使えさえすれば目的達成...だけではない、 写真自体への欲があるなら・・・
まして、 もし、 将来性では より向上した鳥写真に進んでいきたい『つもり』でいるなら・・・
それは、 どんな些細なことでも“何かをできるようになった経験”があるなら 陥るとは考え難い 稚拙な発想。
その“何か”は、 幼児の“お砂遊びでのあれこれ”レベルでも用を成し得るほどの 超~ぉ簡単すぎる話でしかない、のだが・・・
あらゆる何をやっても 永久に一切の例外なく稚拙すぎるお方は、 より稚拙なほど 自身を際限なく過大評価していられるもの。
だから、 どこに首を突っ込んでも、 同じ残念ぶりがご自慢でいられる同類さん同士だけで称え合う集いとしか関われない。
もちろん、 ずっと入り口の外にいるまま 何でも優越感を満喫してお幸せでいられ続けても、 それ『だけ』なら、 それぞれの自由。
でも、 自身の中では有頂天でいる『だけ』には留まれずに、 残念な幻想を 外の世界にまで持ち出してしまうのが 定番パターン。
誰かが何かをしたのが見える度に、 その概要や 聞こえた単語の断片だけを大きなお声で叫んで、 それを何にでも一律に
『私が先に』 『私だけが』 『私が教えてあげた』
に付け替えた妄想世界に暮らして 実在しない恩を押し売りする、 どこででも無数に纏わりついてきてしまう アレの類 x x x
見えたものを解る知能がないから、 解らないこと自体が解らずに、 たった1つ2つの単語を口走れば もう全て解っているつもり...
それが 実年齢での幼児なら 将来がある成長の過程として 微笑ましく見れる言動... でも、 幼児でなければ 意味も違う。
だから、 わざわざ、 自ら、 ますます明確に 異口同音の同類さん同士だけとしか関われなくする言動に励み続ける循環。
一応・・・、 ここでいう“関わり”は、 福祉的配慮で“ご挨拶”はしてもらえる 世の中の優しさでの社交儀礼は別にして、の話。
まず、 簡単すぎる たかが初歩中の初歩、 たかが基本中の基本こそ重要なのは、 何事でも同じ。
簡単すぎることも知らず、できずのままでは、 ご熱心に あちこち駆け回っても、 簡単に得られて当然の成果も手にできない。
これでは、 その時間と労力の殆どを無駄にし続ける・・・ だけなら 残念さん相応の自業自得、だけで済むのだが・・・
鳥写真では、 無知な行動で追い散らし回って 周りまで巻き添えにする迷惑に励み続けている愚かな現実にも気付けない惨事にも。
その後になって 先人さんから写せる方法を訊き出そうと 厚顔無恥に同好の繋がりを気取って交友を画策しても、 もう既に・・・
当然、 それも 自業自得の“自己責任”。
もっとも...
知的面が幼児仕様のまま現在に至っている事情だから、 世では簡単すぎるほどものことは 想像すらしようもないのだろうが。
“白”主体から 一転、 “黒”主体...

飛ぶ鳥が『写っている』だけで良いのなら、 少なからずの種類は 相応の機材さえ使えば 誰にでも写せる時代、とはいえ・・・
好条件で写すには、 “状況なりの動き”で “光との関係”も速く変化し続ける組み合わせに対応する必要がある。
その複合が良く揃うタイミングが 実際に見える前に判断して行動できる感覚も、 重要なスキルの1つ。
黒っぽい被写体を 質感がある写真に捉えるには、 中間的な色調と比べて、 光の扱いに難しさがある。
これは、 光が少し悪かったのも 明瞭に判断できることでもある。
そこがシビアな被写体で 良い光が“見える”ようになれれば、 少々ルーズでも影響が軽い種類は もっと簡単にできるようになる。
そして、 シビアで難しい...といっても、 カラスほどタイトではない、 ほどほどの加減で 手が届き易い。
光の扱いの部分でのスキル上達への“水先案内”をしてくれるように使える種類、ともいえそう。

飛ぶ鳥が『写っている』だけで良いのなら、 少なからずの種類は 相応の機材さえ使えば 誰にでも写せる時代、とはいえ・・・
好条件で写すには、 “状況なりの動き”で “光との関係”も速く変化し続ける組み合わせに対応する必要がある。
その複合が良く揃うタイミングが 実際に見える前に判断して行動できる感覚も、 重要なスキルの1つ。
黒っぽい被写体を 質感がある写真に捉えるには、 中間的な色調と比べて、 光の扱いに難しさがある。
これは、 光が少し悪かったのも 明瞭に判断できることでもある。
そこがシビアな被写体で 良い光が“見える”ようになれれば、 少々ルーズでも影響が軽い種類は もっと簡単にできるようになる。
そして、 シビアで難しい...といっても、 カラスほどタイトではない、 ほどほどの加減で 手が届き易い。
光の扱いの部分でのスキル上達への“水先案内”をしてくれるように使える種類、ともいえそう。


体形は、 “一般的な鴨”として 身近で代表的なイメージの カルガモやマガモと比べると、 少し細身。
「~~アイサ」と呼ばれる種類の中で見ると、 かなり太くて丸っこい。
意識する範囲次第で、 細いとも 太いとも、 対極の表し方になる。


たいてい個体数が少なくても
『ミコアイサが飛んでいるのが写っている』
の短文に当てはまりさえすれば良いだけなら 機会はある。
実際、 僅か3単語の要素だけで もう思考が容量オーバーする定型残念さんの、 遠い後ろ姿を爆写して得意満面、が定番情景だが...
距離、角度、光、背景、・・・諸条件が良く揃って写せる機会は、 そう都合良くはあってくれない。
飛び立ってしまえば、 スピード感がある。
とはいえ、 上昇や方向転換は 俊敏ではない。
鴨類の飛ぶ能力は、 渡りの長距離移動が重要なので、 直進の効率優先だろう。
近距離の移動では 低空を直線と大きな弧を繋いだルートでしか飛べないのは、 もし飛んだら見られるだろう状況を予想し易い要素。
鳥の飛翔写真では、 写せる結果は カメラ操作スキルの優劣だけが全て、と思われがち?
実際は、 それ以上に、 状況の多面を総合しての知的な行動が重要なもの。
でも、 可能性としては最善の 期待できる行動をしても、 実際に逢えるかは その時の巡り合わせ次第で “運”次第。
そして、 顔が少し悪い向きになっていたような小さな差だけでも 使えない結果に終わる。
なので、 知的な裏付けがある狙いの通りに捉えた結果を 「幸運」とか表現したりもする。
門外漢は それを“偶然に遇えた”と誤解して、 無思考に立った場所で待つだけの偶然任せと混同するのも、 ありがちパターン。

鳥がたくさんいた方が 狙える可能性がある対象が多い代わり、 周囲に写り込むことも多くなる。
重なりが上手く揃えば 周囲の情景として 効果的な要素になる...とはいえ、
「・・・、 邪魔 x x x 」
になる方が 圧倒的に多い。
飛翔写真では、 重なり方を見ては狙えない上に、 動きの形のタイミングまで良く揃わないと使えないので、 “当たり”は出難い。

冬の前の秋から ずっと、 鳥の状況も 天候も 両方面揃って “フィールドが こっちを向いてくれない”感。
特に 寒さが厳しい時期は、 写しに出る機会自体が 壊滅的に少なかった感覚。
まぁ、 その分なのか、 毎冬に 冷えで 手足の指が“死体”化する加減が 近年の記憶にないレベルで 軽く済みそうではあり。
そこで、 このところ過去分を再整理していた中にあった ミコアイサを、 何回かで 供養 x x x



オス夏羽は、 特徴が顕著で、 最強コントラストの 白黒 ハッキリ クッキリ。
「種名が証明できる」「パンダ模様なのがわかる」だけなら簡単でも、 写真は 明暗差が大きい被写体の質感表現は苦手。
条件が良く揃わないと “証拠写真”に留まるのが ありがち。
そして、 同じ画像でも 表示側によって見え方は違うのが顕著に影響する部分が多いので、 鑑賞写真には 扱い難い種類。
リアル世界(現実世界)に ちゃんと実在している本来の情景のままを写した、
“人の勝手な嗜好に合うように状況を作為的に改変して創作された虚構”のない 絶対非演出スナップです。
野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
.
野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
.