心神喪失状態の人間に、罪は問えるのか?だ。
「私は神だ」を言い出す奴は大概、その時は狂っている。
「責任」それは、何だか重い。
ふいに、「清川元夢」氏、エヴァンゲリオンでは、「冬月コウゾウ」役で有名なこの方の訃報。不意にそれで、「エヴァンゲリオンは終わったんだ」少し本当に、奇妙な程に、実感する感じにはなった。
それは、この作品を知っていた人々なら何だか、意識し理解しつつも恐れていた、そんな事態ではある。
旧「エヴァンゲリオン劇場版」でも、最後に碇ゲンドウは「・・・冬月先生、後は頼みます」そう言い、その場を離れた。実際には何かの精神的支柱、それを担っていた・・・何故か声優さんには、そういう感覚を感じる事は多い。「責任を持つ」という事への”理解”を持っていた人、というべきだろうか、庵野秀明氏は批判される事が多い監督ではある、それでも、彼は今も、庵野秀明ではあり。
その「形」は、完結するまで崩れる事は無く、そして、彼の死で終わった、そんな感覚には。完結前に”彼”が、冬月先生が或いは他の人に変わったら、この作品は終わっただろうか、ただ壊れただけだったかもしれない、そんな気分にもなる。
87歳という年齢に、「まだ若いのに」そう感じるくらいの昨今ではあり、死因や原因、それに関しては色々考えてはしまう状況だ。”責任”から降りられた、というそれは吉事ではあり、恐らくも「次」はある、再びの始まりではあるし。残していったモノはその時、大いなる庇護というそれになるのかもしれない、死と新生、そういうのはエヴァンゲリオンのテーマでさえある。ともかくしかし、新たなる始まり、というのは是非だ、全てが未知なる先を行く、そして残される人々はその喪失に耐えねばならない、ほぼ物理的な欠落を前に、今まで通りにはいかない、そんな事を不意に実感する事には。
それでも現実は、何事もないまま、当たり前として続く訳だが。
責任を全うし得た、それは達成ではある。もちろんか、彼は或いは幸せな人生だったかもしれない、7割くらいは。アニメ作品の重要な柱の一つになった、それは彼には臨んだ意味は有ったろうか、本来は舞台俳優らしく、アニメや漫画は嫌いだ、そう公言もしてたそう。何かの失望と挫折の前に、目指したそれとは違う道を進む結果での成功、それは庵野秀明氏とも通じた何か、だったのだろうか。「そんなもんだ」それは果たして心残りか納得か、どっちだったろう。庵野秀明氏は、特撮の舞台に帰ってきて「シン・ウルトラマン」で何かの汚名を挽回した?様な状態ではある。是非はある、清川元夢氏もやっぱり、もちろんそういう仕事もしていたが、「冬月コウゾウ」この名は、そこに乗った責任には、否定感しかなかったかもしれない。
そんなもんだ、ろうか。
良くも悪くも彼らは、私見ではその責任を全うし、平成を支えた訳だが。その向こうでは、「統一教会」それは広がっていった、実際には彼らの後ろにも居たのかもしれない。方法論の問題、だろうか、エヴァンゲリオンでも、最終的には「EVA」という力に依存せざるを得ない、その中にある物とは?は大いなるテーマだったが。「統一教会」それは、”それ”が崩れて形を保てないまま、虚無の中で「私は神だ」を言い出した、そんな人の、何かの騒乱する混沌、或いは汚泥、そういう物、だろうか。
狂気の中で怪物として膨らんでいった人と、失望の中で名声と共に歩んだ人と。
その境目に有るのは、何なのだろう。
そしてなぜ今も、後者は汚泥のように、そこにあるのか。