緑のカーテンとゴルわんこ

愛犬ラム(ゴールデンレトリバー)との日々のあれこれと自然や植物、
本や映画などの勝手な独り言を書き留めています

あの店、この店

2024年12月27日 | 家族・友人
日経新聞の「私の履歴書」という有名な連載コラムがある。今は米国コロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーティスという方が書かれている。とても内容の濃い楽しい記事が多く、新聞を開くのが毎朝の楽しみになっています。

12月25日の記事は、「社会党の人々」というタイトルで、江田三郎氏や佐々木更三氏の思い出を書かれていた。書き出しは、銀座のコリドー街にあった「ボア」というバーのことで、ビルの地下の小さなバーが社会党員や革新派のインテリ記者らのたまり場だったと書いてあった。
バーとか飲み屋というのは、不思議な空間で、人と人の距離を一瞬で縮めてくれる力を持っている。私自身も、二十歳のころからいろいろな飲み屋やバーで様々な人と出会い、ふれあい、交流を深めてきた。しかし、そこに飲みに集まる人たちに良い触媒効果をもたらすのは、その店のマスターや女将である。私にも育ててもらったと思える懐かしいお店の人々がいる。

新宿、花園通りの「小茶」のおばちゃん

小茶はゴールデン街と通りを隔てて、向かい合うようなところにあった小さな飲み屋である。大学の映画研究会の連中がたまり場にしていて、私がちょうど20歳でお酒らしいお酒を飲み始めた店である。小茶のおばちゃんは愛くるしい顔をした明るくて元気のいいおばちゃんで、早い時間に一人で行くと、カウンターを挟んで、ひよっこの私相手でもたわいもないおしゃべりをしてくれた。朝までやっている小茶は、ゴールデン街や歌舞伎町のお姉さんたちがお店を終えて、帰り際に寄って花札で憂さを晴らしたり、おばちゃんに愚痴をきいてもらったりもしていたそうだ。4,5人しか座れないカウンターと狭い階段を上がった二畳の座敷だけの店に、いったい多い時で何人の客が入ったろうか? 座るところがなくなると階段に座り、そこに座ったら、もう店の従業員なみ、注文の品ができあがると「はい」とおばちゃんから料理を渡され、二階へと運ぶ役目を仰せつかる。一度、私がおにぎりを頼んだことがある。「小茶のおにぎりがどんなだか、知っていて頼んだのか?」と、そばにいた知り合いに言われた。何も知らずに頼んだ私は、出てきたおにぎりの大きさにびっくり、赤ん坊の頭くらいは優にある巨大おにぎりだった。戦争中の飢えやひもじさを知っているおばちゃんは、飢えに苦しんだ人を忘れないで、あの時に作ってやりたかったおにぎりを戦後何十年たってもその思いを込めて、大きな大きなおにぎりを握ってくれていたのだった。酒の肴の美味しさやおにぎりのあたたかさを教えてくれた恩人でした。 (写真は外波山文明さんのブログからお借りしました)

六本木の「スピークロウ」の団長

スピークロウのことは、このブログで一度書いているので、詳しくはそちらを読んでもらいたいが、私が映画の仕事に入り、今までは新宿でばかり飲んでいたのがなんと六本木などというおしゃれな街で飲むようになった。と言っても、六本木の表通りには縁がなく、テレ朝をとおりすぎたあたりの六本木の消防署の先の地下のバーである。映画好き、ジャズ好きなマスター、団長のもとにいわゆる業界人らしき人々が夜な夜な集まり、ウイスキーとたばことジャズに酔いしれていた。時には喧嘩があったりしたが、スピークロウで目撃した一番派手な喧嘩は、内田裕也とショーケンの喧嘩だ。音楽業界の人と4,5人で飲んでいた中で突然喧嘩が始まり、内田裕也が料理場から包丁を持ち出し、冷やっとしたものだ。団長の声掛けで事なきを得たが、みんなまだ若く、血の気の多い頃だったのだろう。「2001年宇宙の旅」を思わせるまっ白なお店の中で、お酒を飲まない団長が、どうやって接客していたのか、私たちは団長と映画の話ができれば、それだけで酒のつまみなどなくても十分に満足していた。
写真は団長と若き日の私である。野球大好きだったくせに、実際のプロ野球を見に行ったことがなかった私を、神宮球場の芝生の外野席に連れて行ってくれたのも団長だった。シャイで優しくて、暖かい人だった。

新宿2丁目の「近藤」の近ちゃん
「近藤」は、新宿2丁目の入り口近くにあるおかまバーである。あれをおかまバーといっていいのだろうか? いわゆるおかまバーには行ったことがないのでよくわからないが、「近藤」のマスター近ちゃんはその道では有名な人だったようだ。
カウンターの前にうずたかく積まれたドーナツ盤のなかから、客のリクエストに応えてさっと希望の曲を取り出す名人芸、得意そうな近ちゃんの顔を思い出す。何度か行くうちに、お客として認められたのか、このレコードを聴いてと近ちゃんがドーナツ盤をまわし始める。都はるみのコンサートの録音盤だ。聞いているととちゅうで一声高く「みやこ!」と叫ぶ声が…… 近ちゃんの掛け声が録音されていたのである。近ちゃんのなんと得意そうなこと、「私の声よ」と。大好きな都はるみのレコードに残された近ちゃんの肉声。
冬のある日、飲んでいた我々に外から「雪だよ」の声が聞こえ、店から覗いてみると一面の雪景色、カウンターのグラスを放り出し、20代から50代までの大人の客たちが2丁目の通りを挟んで雪合戦を始めた。「恐るべき子供たち」の一場面のように…… バー「近藤」の看板の上にも雪が降り積もっていた。
時が経ち、ある日近ちゃんが自死したと伝わってきた。死に至った詳細はわからないが、新宿のお寺で行われた葬儀には都はるみも列席したという。私は残念ながら、近ちゃんとのお別れには行けなかった。あの張りのある声の「みやこ!」が私が近ちゃんを偲ぶ唯一のよすがである。

「近ちゃん」のことをネットで検索していたらレコード業界の方、コロンビアにいらした境弘邦という方が書いた記事を見つけた。「境弘邦 あの日あの頃 ~昼行灯の恥っ書き~」というブログの中の記事に、まさに近ちゃんのことを詳しく書いた記事を見つけた。「新宿2丁目は演歌修行の街」、という記事中の流浪のサラリーマン時代 本社編⑫第58回、59回 そこにまさに在りし日の近ちゃんの姿が見事に描き出されていた。そこには、近ちゃんが死に至った経過も書かれていて、私も連れ合いもその事実は一切知らなかったので、びっくりしてしまった。
レコードがすたれ、CD時代になってからだんだん元気を無くしていった近ちゃんが元気を取り戻したように見えたことがあったという。その理由は、神戸に住んでいる若い恋人の存在だった。週末になるとうきうきとジャニーズ系の若く美しい恋人に会いに行く近ちゃんの姿が見られたという。そこに起こったのが、阪神淡路大震災、1995年1月17日に起きた大地震で近ちゃんの若き恋人は命をなくしたというのだった。全然知らなかったことに、私も連れ合いも言葉が出なかった。大きな喪失のなかで、すっかり憔悴した近ちゃんは恋人の後を追い自ら命を絶ったという。近ちゃんにそんなことがあったとは…… 新宿のお寺を借りて行われた法要の日は、うだるような暑い夏の日だった。

境弘邦氏が、その記事の締めくくりに書かれていた「近ちゃんは歌で人の心の病を治す名医だった」とある通り、きっと私も名医に治してもらった一人だったようだ。「思い出まくら」を近藤のカウンターで聞きながら、何度涙を流したことだろう。誰にはばかることなく、泣ける場があったことで私は、大きな大きな救いを与えられていたのだと、今はっきりとわかる。ありがとう、近ちゃん。




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