パンドラから受け継いだゼウスの
「罠」に由来する「好奇心」がゆえに
出典:blog.livedoor.jp
ダ・ヴィンチもまたヒッチコックのように
自らの表現媒体(ヒッチコックの場合は映画)
に登場しては、ひとり悦に入っていました。
出典:blog.livedoor.jp
しかし、
ダ・ヴィンチの場合には、ヒッチコックの
ように通行人程度の露出ではなく、主役並み
の目立ち方で堂々と出演しているのです。
たとえば、
『東方三博士の礼拝』のケース
では、イエスと聖母マリアと三人の賢者の脇
を固めるようにして、丸印の人物たちが、
それぞれに青年、壮年、老年の姿
となったダ・ヴィンチの影を演じています。
そして、その配置がそっくり、
R6 R5 R4 R3 R2 R1 L1 L2 L3 L4 L5 L6
NHK復元CG画像
そのまま、『最後の晩餐』における
バルトロマイ(R6)トマス(L1)マタイ(L4)
ほかのポジションへと引き継がれるわけです。
たとえば、
丸印をした謎の老人(ダ・ヴィンチ)から右に
黄金を携えた若きメルキオールに 乳香を
奉じ終えて頭を垂れる壮年バルタザールと、
乳香のフタであやす仕草の養父のヨセフに、
聖母マリアに抱かれる幼児イエスがいます。
その右下に、イエスに没薬を手渡している
老賢人のカスペールの姿があって、
聖母子の右上には、
木の陰から天を指さす壮年のダ・ヴィンチ
と右隅には青年のダ・ヴィンチがいます。
そして、彼らが、
老人の姿のダ・ヴィンチ バルトロマイ(R6)
三賢者のメルキオール(青年) 小ヤコブ(R5)
三賢者のバルタザール(壮年) アンデレ(R4)
聖母マリアの養父ヨセフ ペテロ(R2)
聖母マリア ヨハネ(R1)
幼児のイエス イエス(中央)
壮年の姿のダ・ヴィンチ トマス(L1)
三賢者のカスパール(老年) 大ヤコブ(L2)
青年の姿のダ・ヴィンチ マタイ(L4)
NHK復元CG画像
といった具合に『最後の晩餐』での
各配役とそれぞれに対応しているのですが、
こうした関係を気づかせてくれたものは、
ダ・ヴィンチの絵のなかにたびたび登場する
謎のポーズで ・・・
この場合には、
天を指さす壮年の姿のダ・ヴィンチの影と
『最後の晩餐』でのトマスのポーズ
がそれにあたります。
他にも、
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』
における聖アンナや最後の作品となった
『洗礼者聖ヨハネ』にも描かれています。
ついでに言えば、
『アテナイの学堂』のプラトンも
このポーズをとっていますし、
『アテナイの学堂』のプラトン ラファエロ画
『洗礼者聖ヨハネ』の習作とされている
『人間の姿をした天使』のデッサン画も、
『人間の姿をした天使』1515年頃 ルーブル美術館
同じポーズで妖しく微笑んでいます。
さて、
もう、気づかれていることと思いますが、
『東方三博士の礼拝』には、ユダ(R3)
とフィリポ(L3)、そしてタダイ(L5)、
シモン(L6)に該当する人物はいません。
まず、
タダイ(L5)とシモン(L6)の二人がいない
のは、『東方三博士の礼拝』が『最後の晩餐』
における第三幕まで
第一幕 第二幕 第三幕 第四幕
すなわち、
ダ・ヴィンチが生きていたルネサンス期の
世界までしか描いていないからです。
青年の姿をしたダ・ヴィンチの影(マタイ)
が、絵の外(異空間)にいる第三者に向かって
「どうぞこちらへ」と、
案内しているようにも、あるいは誰かと
話をしているようにも見受けられますが、
『最後の晩餐』でのマタイ(L4)の
ポーズとそっくりですよね。
但し、こちらは「Oh My God !!」や
「どういうこと」という感じですが ・・・
果たして、
青年の姿をしたダ・ヴィンチは、絵の外に
いるタダイ(L5)とシモン(L6)の二人
に何かを語り掛けているのでしょうか
次に、
ユダ(R3)とフィリポ(L3)に対応する
人物が見当たらないのは、
この有名な壁画が『最後の晩餐』
以外の場面や情景をも同時並行的に表現
していることを鑑賞者に覚らせるための
大いなるヒントや鍵になっているからに
他なりません。
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
「どんな部分も全体に
組み込まれるように出来ている。
だから
それ自体は未完成から逃れられる」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
つまり、
ダ・ヴィンチが、『東方三博士の礼拝』
を未完のままにミラノへと旅立った本当の
理由がここにあるわけで、未完成のまま
にしておくことこそが計画の一部だった
わけなのです。
『東方三博士の礼拝』の場面構成
は反転した画像とのスーパー・インポーズ
(合成)で、時空劇『最後の晩餐』
における序幕の混沌を演出します。
序 幕 <『東方三博士の礼拝』の世界1>
バルトロマイ、ユダ、ヨハネ、イエス、
トマス、マタイ、シモン他、全キャスト
によるビッグバン以前の混沌空間
続いて、反転させた画像を使うことで、
第一幕の世界を示唆します。
第一幕 <『東方三博士の礼拝』の世界2>
バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレに
よるビッグバンの衝撃と光の誕生
反物質とダークマター(エネルギー)
ビッグバンの衝撃に驚くアンデレの演技と
空間の膨張と時間の流れる方向をさぐる
小ヤコブの左手の先に広がる第二幕以降
における宇宙の軌跡(未来)を見つめる
バルトロマイ(ダ・ヴィンチ)の真剣な眼差し、
そして、
第二幕 <『岩窟の聖母』ルーブル版世界>
ユダ、ペテロ、ヨハネ、イエスによる
物質の出現及び人類の誕生と進化
『岩窟の聖母』ルーブル版 『岩窟の聖母』ロンドン版
第三幕 <『岩窟の聖母』ロンドン版世界>
イエス、トマス、大ヤコブ、フィリポ
による改竄された歴史の闇と真実
第二幕から第三幕への移行期にイエスの
誕生という大きな出来事があって、歴史は
あらぬ彷徨を重ねることになりますが、
それらを経て、再び、第四幕において、
第四幕 <『東方三博士の礼拝』の世界3>
マタイ、タダイ、シモンによる文明
の衝突とイデオロギー(宗教)戦争
本来のシナリオ(筋書き)と合流・合体
すべく、「どうぞこちらへお入りください」
とばかりに、ダ・ヴィンチの影の役を務める
マタイがタダイとシモンを促すわけですね。
第四幕におけるグローバル化による
文明の衝突やイデオロギー及び宗教対立
が激化するテロリズムの時代を、二人の
ディベートに割って入るマタイの演技で
表現しているのです。
このように未完成だった作品が全体
に組み込まれることで、「それ自体は
未完成から逃れられる」 という
レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉どおりに
『東方三博士の礼拝』の世界が
ここに完結するというわけですね
それは、
『聖アンナと聖母子』においても
なにかと話題の絶えない『モナ・リザ』
の場合でも『洗礼者聖ヨハネ』でも
その他の作品でも同じことで、
『聖アンナと聖母子』『モナ・リザ』『洗礼者ヨハネ』
「すべてはひとつ」であるとする
ダ・ヴィンチの最終的な到達地点を
目指して精緻に計画された「罠」で
あったということなのです。
要するに、
ダ・ヴィンチの作品は、それが肖像画
にせよ、宗教画にせよ、壁画にせよ。
すべてがひとつの目的に到達するための
布石になっていて、そのすべてを統べる
のが『最期の晩餐』なる作品です。
従って、
『最後の晩餐』以降に制作された
すべての作品も、『最後の晩餐』に
仕組んだ「罠」の目的を成就する
ためのヒントや鍵を隠し持っていて、
2種類の『糸巻き(糸車)の聖母』
腐食による劣化や変質を余儀
なくされていた『最後の晩餐』の
肝(きも)となる部分を補足・補填
する目的で仕上げられていたのです。
『アンギアーリの戦い』ルーベンス模写
そんな馬鹿な、何をたわけたことを ・・・
と、トンデモなヨタ話として取り合わない
諸兄に問いたいのですが、
次なる事実をどのように説明したら
、万人の納得を得られるのでしょうか
まずは、下記URLを参照してください。
http://noriyasu-katano.hatenablog.com/entry/2016/12/17/110234
記事には、
解剖学者である布施英利先生が発見した
『最後の晩餐』での不思議な謎
について触れていました。
それによると、
『最後の晩餐』に登場する13人の
人物の手の描かれ方にはハッキリとした
特徴があって、中央のイエスを境に、
右側と左側とでは明確なる違いが
あるそうなのです。
向かって左(イエスからは右側=赤丸印)
の人物たちの手はすべて回内で描かれ、
すべて回内で描かれている手 hatenablog.com
向かって右(イエスからは左側=青丸印)
の人物たちの手はすべてが回外になって
いるとのことです。
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
回内とは、手のひらが下(親指が内側)
を向くように腕を内側に回す向きのことで、
出典:hatenablog.com
この場合には尺骨と橈骨がクロスします。
出典:yoshitakaabe.blogspot.jp
回外とは、手のひらが上(親指が外側)
を向いている状態で尺骨と橈骨は並列です。
ペテロのナイフを持つように描かれている
手は一瞬、回外かとも思われたそうですが、
下図右端のような「回内+上腕内旋」
の究極型のようです
出典:yoshitakaabe.blogspot.jp
すでに、
そのことを理解していたダ・ヴィンチは、
詳細なる腕の骨格解剖図を描いています。
腕の骨格解剖図 レオナルド・ダ・ヴィンチ
だとしたら、
イエスの右手(回内)と左手(回外)は
ともかくとしても、
出典:hatenablog.com
イエスを中心に右と左で、こうも明確
に 回内と回外とを描き分けている
その理由とはいったい何でしょうか
実際のところ、
こうした事実が意味することの確固
たる論証はできませんが、蓋然性の
極めて高い推測ならば可能です。
それはイエスが生まれる以前の時代、
すなわち、
紀元前=BC(Before Christ)と、
西暦=AD(Anno Domini ラテン語
で主の年の意味)との明確なる線引き ・・・
つまりは、
大いなる峻別を意図しているとしか
考えられないのですが
同時に、この発見はユダと蔑まれる
人物が裏切者として特別視(敵視)
されてはいない。
換言すれば、イエスの右手側に位置する
弟子のひとりとして同等に扱われている。
要するに、
ダ・ヴィンチはユダを裏切者だとは
思っていなかったのかもしれないし、
出典: www.lets-bible.com
そもそも、この人物はユダではない
とする推測もできるわけで、
『最後の晩餐』 イスカリオテのユダ
これまでの一連の推理を側面から
援護する傍証にも、後方支援と
しての「裏付け」の論拠にもなる
ような発見だったというわけです。
さて、
再生(生成・復活)と破壊(消滅・死)
を象徴する持ち物として、
それぞれを暗示しているのがユダが
持っている再生のための袋とペテロ
が握るとされる破壊のナイフであると、
『ダ・ヴインチの罠 破壊神』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/506.html
のなかで解説をしましたが、
ダ・ヴィンチが企図していたと思われる
水先案内人としてのユダの存在と、
再生のための袋を用意したユダが
「破壊神」の一部であるイエス
と結託して周到に計画し、実行
した事件が「イエスの磔刑」で
あったのにもかかわらず、
キリストの脇腹を槍で刺すロンギヌス
wikipedia.org
そうした
「死と復活」のデモンストレーション
を台無しにした組織や人物たちに
対する怨嗟と無念の心情が破壊
のナイフの真の持ち主の声として
具象化・具現化されているのが、
『最後の晩餐』のヨハネ 『岩窟の聖母』のマリア
一人で七役以上を演じるヨハネ
であることは、すでに、
『ダ・ヴインチの罠 破壊神』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/506.html
のページにて、ご案内の通りです。
次回以降では、
パンドラの箱 wikipedia
彼ら(ユダとヨハネ)の真の姿について、
できる限りの考察を試みたいと思いますが、
「お前さん、七変化とは琴姫か」
そう言う「アンタこそ」
「怪人、何面相かしら !?」
むむむ ・・・
… to be continue !!