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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 俯瞰図

 筆が遅いとされるダ・ヴィンチにしては3年と言う異例の
早さで完成させた壁画『最後の晩餐』は、制作に至る
までの構想だけでも数年を費やしています。

 それほどに、この作品には複雑に交差した絶妙なる仕掛け
「罠」が施されていましたが、完成した壁画はすぐにも
大評判となり、レオナルド・ダ・ヴィンチの名はフランスを
はじめとしたヨーロッパの各国に知れ渡ることになります。

最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)
      『最後の晩餐』(1495~1498年頃)amazing-trip.xyz

 しかしながら、

 壁画が描かれた場所は、修道院の食堂で厨房に近く湿気が
多かったために、完成からわずか数年も経ないうちにヒビが
入り、絵の具の剥落や腐食が始まります。

修復前の最後の晩餐
       『最後の晩餐』修復前の白黒写真 amazing-trip.xyz 

 ダ・ヴィンチはミラノに滞在中に一度だけその部分の塗り
直しを行いましたが、それ以後は一切合切の補修などの手を
加える事がありませんでした。

 「この中に裏切り者がいる」と言うイエス・キリストの
発言をめぐり、弟子たちが動揺や混乱する姿に見事なる「罠」
が仕組まれていたわけなのですが、この時点で「罠」の存続
を断念した仕掛人のレオナルド・ダ・ヴィンチが、

  『モナ・リザ』  『聖アンナと聖母子』   『洗礼者聖ヨハネ』

 崩壊の危機にあった『最後の晩餐』の

 あとを引き継ぐよう、巧妙に「罠」を仕組み直した油彩画
が、上の3枚の作品であることは前回に記したとおりです。

 もしも、この名画が誕生していなければ、おそらくは晩年の
ダ・ヴィンチが、フランス国王フランソワ1世に高待遇で迎え
入れられることはなかったに違いありません。


           フランソワ1世の肖像画 note.com       

 それほどまでに、この壁画は素晴らしいものだったです。

 ところで

 16世紀始めのフィレンツェでは、ドミニコ会の僧であった
ジロラモ・サヴォナローラが、メディチ家を追放したことも
あって、芸術を愛したメディチ家の統治時代の華やさはなく
、芸術は堕落の象徴とされ、美術作品を燃やすなどの厳格な
政策が市民を恐れてさせていました。

 しかしながら、

 サヴォナーロが、教皇を敵にまわして教会を破門になると
鬱積していた市民の怒りが爆発して、彼はシニューリア広場
で締首刑の後に火あぶりとなります。

ジロラモ・サヴォナローラの肖像画
  ジロラモ・サヴォナローラの肖像 amazing-trip.xyz 

 それは西暦1498年のことでしたが、この頃、長年ミラノを
支配していたルドヴィコ・スフォルツァにも、フランス軍の
足音が迫ってきていたのです。

 圧倒的なフランス軍の強さに為す術をもてないルドヴィコ
は逃亡を図り、ミラノは陥落します。

 彼に仕えていたダ・ヴィンチはフランス軍に囚われること
を警戒し、サライら数名の弟子と共にミラノを脱出します。

 西暦1499年、17年間滞在したミラノを去ったダ・ヴィンチ
が目指したのはゴンザーガ家が統治するイタリア半島の小国
である「マントヴァ」でした。

 数日の滞在でマントヴァを後にしたダ・ヴィンチは、次に
イタリア半島の強国「ヴェネツィア共和国」へと向かいます。

 ヴェネツィア共和国に数ヶ月ほど滞在したダ・ヴィンチは
再び故郷のフィレンツェへと向かったのでした。

 時は西暦1500年、彼の年齢は既に48才に達していました。

 帰郷から2年後の1502年にダ・ヴィンチは、新たなパトロン
として「チェーザレ・ボルジア」の軍事技師に採用されます。

チェーザレ・ボルジアの肖像画
     チェーザレ・ボルジアの肖像画 amazing-trip.xyz     

 チェーザレ・ボルジアの軍事技師となっていたダ・ヴィンチ
が、16世紀の初頭(1502年)に描いた「作品」がイモラの町の
地図でした。           


         イモラの地図 www.creativosonline.org

 この地図は、1502年に町の中心にある塔に登っての目視に
よる観察調査や実際に歩いての歩測データの組み合わせなど
によって作成されたものであると推測されていますが、

   

 その当時において、この俯瞰図は最も正確な地図であった
ことは紛れもない事実でしょう。


         イモラの地図(現在との比較)karapaia.com

 現在のマップと比較してみても、その正確性が分かります
が、地図上の方位や町の傾き方もそっくり同じです。

 なお、


           イモラの町(グーグルマップの航空写真)karapaia.com

 町の周囲を取り囲んでいた堀は、道路へと変わっていますが、


           イモラの町の地図 karapaia.com

 西南の砦は今もそのまま残っています。

          

 それでは、

 その制作プロセスを少しだけ追ってみることにしましょう。

         

 チェーザレ・ボルジアのお抱え軍事技師だったダ・ヴィンチ
は、イモラの都市構造をきちんと把握できる正確な地図作りを
彼から命じられます。

 ローマの建築家ウィトルウィウスが名付けた地誌図
(ichnographic map)のように、丘や山の上など高い場所から
の斜視的な視点で見て描いたものでは、通りや建物がぼやけて
しまっているのでダメとのことなので、ダ・ヴィンチは自身の
足と幾何学とコンパスを駆使して俯瞰図の作成に挑みます。

 果たして、

 完成したイモラの地図の出来栄えはすばらしいものでした。

 彼には「神」のごとき卓絶した洞察力と想像力が備わって
いて、それを狂いなく再現する並外れた描写力があったのかも
しれませんが、

 本当に上空から街を見下ろして描いたかのような正確さです。

 しかも、

 彼が利用したのは幾何学とコンパスと自分の足だけなのです。

 2000年以上も昔に、古代ギリシャの学者エラトステネス
地球の大きさを計測するのに使ったものとまったく同じ手段と
道具で描いたダ・ヴィンチの俯瞰地図は驚愕に値します。

 おそらく、

 ダ・ヴィンチは特殊な羅針盤のような機能を持つ装置を利用
したと考えられ、当時それはブッソラ(bussola)と呼ばれて
いたといいます。

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           画像元 amazing-trip.xyz

 それは常に北を指す印がある円盤状の器具で、ダ・ヴィンチ
はその印からの角度を目安に地図を作ったようなのです。

 実際の地図の表面にもそうした痕跡がうかがえるとのことで
、街角を曲がるたびにその角度を記録して、その区間の距離を
計測するという骨の折れる作業を繰り返しながら、地図作りに
必要となるデータを収集し、それに基づいて正確なる鳥瞰的な
現代風の航空俯瞰地図を描き上げたのです。

 ダ・ヴィンチが使用した手法は、いずれも当時の測量技師や
建築家、都市計画家、地図製作者などが普通に利用できたもの
ばかりですが、一方で当代最高の地図製作者のように、美しい
地図をより正確に仕上げたいと思っていたことも事実でしょう。

 ダ・ヴィンチは数学(幾何学)を大いに信頼していましたが、
彼の地図には、不正確な部分も幾つか散見されます。

 それが計算ミスによるものなのか、あるいは芸術作品としての
美的理由ゆえのことなのか、厳に断定することは難しいですが、

 そのいずれにせよ、

 ダ・ヴィンチの地図の出来栄えのすばらしさに感嘆するほかは
ありません。
        
           だよな! 

  以上、

 一部、 の記事から適宜に引用構成しました。

 ちなみに 

 「鳥瞰図」は、上空から斜めに見下ろしたように作られる
図法のことで、「俯瞰図」とも呼ばれるが、鳥が眺めている
ように見えることから鳥瞰図と呼ばれている。

 建物も地形も立体的に描かれるところが特徴で、逆に下から
仰ぎ見ることを仰瞰と呼び、虫瞰図と呼ばれる。

 平面図では、二次元的に正確に描くが、鳥瞰図は三次元的に
透視図法を使うため、主観を交え誇張表現することもできる。

 視覚的にもはっきりと捉えやすく、直感的に配置やデザイン
をとらえることができるため、多くの応用が行なわれてきた。

 景色の案内に使われたりするが、風景画も鳥瞰図のひとつと
して考えることができる。

 舞台装置等のレイアウトにも使われるが、身近なところでは
カーナビの地図表示に多く見られるようになった。

  ええい、黙って聞いてりゃ、
      うるせえんだよ!
     
     (手間ばかりかけやがって!)


      「えっ」

  手間って、いったい 何のことだ!?
    
 「幾何学とコンパスと足の臭いことか」

 
   アッ、いや、足のニオイじゃなくして、

  
  「罠の臭いじゃな!」

     
       マジか !?   

  「When(いつ)」、「Where(どこで)」

   
  「Who(だれが)」、「What(なにを)」

 
  「Why(なぜ)」、「How(どのように)」

 
    「罠にかけるのか!」

 このオチにまつわる5W1Hが問題なんじゃ!?

  
        随分と話がとっちらかってますが、 


    いったい何のためのヒソヒソ話 ・・・  

      こりゃあ

        
           「オチにならんわ」   


         なんでやねん!

           
     … to be continued !!

   
      なんだかなあ❓

 

コメント一覧

小吉
記事を読みながらなんとなく伊能忠敬のことが浮かびました。
伊能忠敬は確か地図づくりが目的じゃなくて何か他のことがあって全国を回っていたとか、あるいは服部半蔵であったとかいろんな説がありますがダヴィンチはどうなんですかね、何か他の目的があったのか、お金の問題だったのか、ううん。
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