問題となった事件が過去にありましたが、
「悪魔」とは、いったい何者なのか
その定義は難しい …
怪物なのか、妖怪なのか、魔物なのか、化け物なのか
少なくとも、そのいずれでもないという答えが、おそらくは
本当の意味での「悪魔」の正体なのですが …
たとえば、
彼女を「悪魔」だと言ったらあなたは信じますか
1000%、信じられませんよねぇ
それでは、彼女は誰でしょう
東方(東洋)世界の我々でも、彼女が西方(西洋)世界で
聖母と慕われ崇拝の対象となっている人物だろうということ
くらいは容易に想像がつきます
ポルトガル コインブラカルメル修道会の聖母マリア像
まあ、1000%という時点で、すでに“ありえない”
というメッセージを十分に発しているわけですが …
ところが、
ダ・ヴィンチの感性は、やはり、常人とは大きく違っていた
のか、表向きは教会(中世カトリック)に対して従順なる
素振りをみせながらも、心の奥底ではこのような考え
を持っていたのではないでしょうか
「キリスト教」というからには、本来は「救世主イエス」に
対する信仰を指すはずなのに、この有様は何だ
『聖書』には、母マリアは礼拝の対象となるような記述
はなく、ただの母親でしかありません。
それなのにどうして、こんなにも「マリア信仰」
が甚だしいのか、これでは「キリスト教」などではなく、
「マリア教」そのものではないか
… と、ダ・ヴィンチが嘆き、訝り、憤ったとしても当然です。
それくらい、日常的に「アヴェ・マリア」が繰り返し
繰り返し唱えられ、ロザリオがバカ売れしているという
現実があったからですが
主イエスよりも、その母であるマリアに対する強い信仰に
疑問と憤りを抱いていたとしても不思議ではありませんね。
そうかと言って、教会は最高にして最大の御得意様です。
機嫌を損ねるだけなら経済的に逼迫するだけで済みます
が、異端 のレッテルが貼られてしまうと宗教裁判に
かけられて殺されてしまうのは必至です
ところで、
「ダ・ヴィンチには作品を完成させる意思はもとより、
完成させようとする動機も希薄だった」のでは
… と、前回の『サイン』のページでも書きましたが、
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/404.html(参照)
教会や修道会に対して不審と欺瞞を抱きつつ
も表立っての批判 がご法度である以上、ダ・ヴィンチが
世に問いたかった真実への糾問は、自(おの)ずから
秘密裏に実行されなくてはならない運命を辿ることに
なるわけです。
それならば、むしろ …
未完成作品の方が関心を誘いやすいとか、万が一にも、
その意図が見抜かれた場合に、なにがしかの言い逃れが
できるように保身的な自己防衛の最大の手段としてあえて
未完成にしていたというような気しないでもないのです。
一旦、完成品として納入してしまうと、難癖をつけられた
場合、明確にその意図を否定できなくなる恐れがあります。
しかし、血気盛んな若い頃には、その縛りも効かずに
事実上のデビュー作である『受胎告知』に見るような
冒険に走ってしまったのかもしれません。
それが、これです。
… と、言われてもねぇ、
唐突に、このページから読んでいる方にはなんのことやら
チンプンカンプンかもしれませんね。
でも、細かい説明をしている余裕(紙幅)がないので我慢
して読み進めてみてください
一目見て、奇異に感じるほどの違和感ではなく、何か
よくはわからないけど、すんなりと受け入れるにはどこかに
抵抗があるような、ないような …
それでいて、とてつもない大傑作を見せられているような
とんでもない“超まがい物”をつかまされているような …
そんな不思議な感覚に襲われるのが、ダ・ヴィンチ
の作品の常なのですが ・・・
『受胎告知』 1472-75年 (ウフィッツィ美術館蔵)
当初、この作品をみた時には、まだデビューしたばかりの
20歳そこそこの時期でもあって、聖母マリアの純潔を示す
白百合におしべを描くなど、ありのままをそのままに表現
しようとする純粋な画家としての一面に初々しさを感じた
ものですが、しげしげと観ると違和感が満載の作品であり、
挑戦的で実験的な意欲作であることがよくわかります
おしべのある白百合を持った
大天使ガブリエルの
聖母マリアを射抜くように見つめる尋常ならざる鋭い視線
受けて立つ聖母マリアも負けじと対峙していますね
な、なによ。その目は
肢(あし)はバレても尻尾は掴まれないわ
臆せずに堂々とした態度のこの少女は、まだ14歳です。
妙に冷静で、それでいて挑戦的な視線を返しています
そして、彼女が言う肢(あし)とは、これです
絨毯からそっと差し出された肢
もちろん、空想の域を出ない荒唐無稽なヨタ話に
聞こえるでしょうが、想像を逞しくするのは自由ですし、
ダ・ヴィンチ自身もそれを歓迎しているはずです。
そうでなければ、こんな絵を描く必要はないのですから …
前回に聖母マリアの右手の二の腕が微妙に長く描かれて
いるのが、重要なサインのひとつで、その究極の仕上げが
『最後の晩餐』に仕組まれた罠であるとの趣旨の
話をしましたが、この時点では暗に肢をアピールするため
の単なるシグナルにすぎなかったのです。
曰く、腕が長ければ、足はもっと長いかも…
我々、日本人は『聖書』というものにほとんど馴染みが
ないばかりに、却って気づきやすいのかもしれませんね。
その絵画の持つ不自然さや異常さや違和感
といったようなものに …
そもそも、
異様に感じたキッカケは、やけに落ち着き払ったマリアの
表情で、もしも思い掛けない処女懐胎の知らせを聞いたら
だとえば、エル・グレコのアニメタッチの『受胎告知』
のように劇的でドラスティックな様相を呈するか …
17世紀のカルロ・ドルチのように、乙女チックな演出効果
をねらうのか …
カルロ・ドルチ 1655年 『受胎告知・天使』 ルーブル美術館
カルロ・ドルチ 1655年 『受胎告知・聖母』 ルーブル美術館
いずれにしてもドラマチックな場面描写になるでしょう。
ところが、まるで西洋式の
裁判か何かで聖書に手を置いて、宣誓をする時のような
チグハグな違和感と雰囲気を醸し出しているのが、
ダ・ヴィンチの『受胎告知』の演出です。
この『受胎告知』では、 聖母マリアに驚きや衝撃
や興奮や動揺がまるでなく、淡々と通過儀礼の手続きを
こなしているようにしか見えません。
あるいは、緊張で固まってしまい、ぎこちないままに
無表情でいるのか、それにしては、きりっと結ばれた
口許と「だから、なによ」というような挑戦的な
目許がどうしても気になってしまいます。
そして、大天使ガブリエルの射るような目つきにも、何か
特別の深い意味があるはずです。
岡目八目というか、無知であるゆえに見えてしまう
真実というものがあるのではないでしょうか
別の意味からは、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの名声が
先行・浸透しているがために見えなくなる真実というもの
もあるのかもしれません
ひょっとしたら、端から
天才の瞳には、未来においてもこの虚構の構図
が変わり得ないことが見えていたかもしれません。
「縁起でもねえが …」
「きょうは13日の金曜日だったな」
「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 」
不審・不明 ともいえる『謎の肢』の正体は …
鋭い爪の 三本の指
アダムの最初の妻であり、妊婦と幼児をねらう女の悪魔
フクロウに似た姿で、長い翼と髪をもつ夜行性の魔女です
『イザヤ書』による夜の魔女「リリス」、別名はリリト
思わせぶりな模様が彫られた「書見台」の脚に
不可解にも描かれた『謎の肢』
… to be continue !!
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