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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 神格化

 紀元1世紀の前後、数百年間のイスラエル
地方では、世俗を離れ 私有財産を持たずに
共同での信仰生活を営むユダヤ教の一派で
あるエッセネ派の活動が盛んでした。

 二十世紀最大の考古学的発見とも言われる
『死海写本』は、エッセネ派のグループの
ひとつクムラン宗団が記したとされています。


      『死海文書』 (死海写本)

 そのクムラン宗団に幼少時より所属していた
のが、洗礼者ヨハネイエスであって、

 二人の生母エリサベツとマリアはいとこ同士、
つまり、ヨハネイエスは「はとこ」にあたる
というのが一般に知られる二人の間柄ですが、

 実は

 ヨハネイエスは、祭司ザカリヤを父に
もつ異母兄弟で、クムラン宗団主導の宗教的
クーデター 「二人のメシア計画」の旗頭
であったと推理したのがダ・ヴィンチでした。

 繰り返しになりますが、

 信条的旗印(主柱)にして、一方のメシア
(旗頭)であった洗礼者ヨハネ最期
『マタイの福音書』から見てみましょう。



 「そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを
 聞いて家来に言った、『あれはバプテスマ
 のヨハネだ。 死人の中からよみがえった
 のだ。それで、あのような力が彼のうちに
 働いているのだ』」
   (マタイの福音書14:1-2)

 「というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟
 ピリポの妻ヘロデヤのことでヨハネを捕ら
 えて縛り、獄に入れていた。  すなわち、
 ヨハネはヘロデに、『その女をめとるのは、
 よろしくない』といったからである」
   (マタイの福音書14:3-4)


   ジョヴァンニ・ファットーリ画

 「そこでヘロデは ヨハネを殺そうと思った
 が群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者
 と認めていたからである」
    (マタイの福音書14:5)

 「さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤ
 の娘が その席上で舞をまい、ヘロデを
 喜ばせたので、彼女の願うものは 何で
 も与えようと、彼は誓って約束までした」
   (マタイの福音書14:6-7)


 『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック(1906年)

 「すると彼女は、母にそそのかされて、
 『バプテスマのヨハネの首を盆に載せ
 て、ここに持って来ていただきとうござ
 います』と言った」
    (マタイの福音書14:8)

 「王は困ったが、いったん、誓ったのと、
 また列座の人たちの手前、それを与え
 るように命じ、人をつかわして、


『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)



 獄中でヨハネを切らせた」



   (マタイの福音書14:9-10)

 「その首は盆に載せて運ばれ、少女に
 わたされ、少女はそれを母のところに
 持って行った」
   (マタイの福音書14:11)



 「それから、ヨハネの弟子たちがきて、
 死体を引き取って葬った。  そして、
 イエスのところに行って報告した
   (マタイの福音書14:12)

 いやはや、実に、

 サラッと書かれていますが、気になる
のは遺体を葬り、イエスに報告したと
いう一文です。

 おそらく、

 この弟子たちとは獄中のヨハネから
イエスのもとに遣わされて、「(助けに)
来るべき方はあなたですか、それとも
他の人を待たなければなりませんか」
と訊ねた者たちだろうと推測されますが、

 すでに、

 その時に彼らはイエス懐柔されて
いたのだとダ・ヴィンチは考えました。



 つまり、こういうことです。

 「あなた方の先生は、ご自身の役目が
 終えられたことを悟って、私(イエス)に
 あとを託されるお考えなのですが、

 あなた方は先生に従っても、私(イエス)
 を救い主だと信じて、心から従おうとは
 しないので、先生はわざと口実を作って
 あなた方を私に会わせ、先生への忠誠
 を私の方に向けさせようとしたのです」

 「先生は既に死を覚悟しておられます。

 それは、先生自身が救い主である私の
 先駆者としての役目を十二分に理解さ
 れているからです。



 あなた方も、『マラキ書』『出エジプト記』
 『イザヤ書』にある我が前に道を備える
 使者のことや主の道を整える荒れ野で
 叫ぶ者の声を知っているでしょう。

 その声の主が、あなた方の先生です」

 そう諭してから、イエスは言います。

 「行ってあなた方が見聞きしたことを
 ヨハネに伝えなさい。 盲人は見え、
 足なえは歩き出し、ライ病はきよまり、
 耳しいは聞こえ、死人は、生きかえり、
 貧しい人々は福音を聞かされている」

 「私につまづかない者は幸いである」
   (マタイの福音書11:5-6)
 
 ここでイエスは、引導ヨハネ
渡たしたということです。

    

 そして、

 彼らが帰るとイエスは群衆に対して
ヨハネのことを語り始めます。

 「見よ、わたしは使いをあなたの先に
 遣わし、あなたの前に、その道を整え
 させるであろう。」と、書いてあるのは
 この人のことである」
   (マタイの福音書11:10)

 「あなたがたによく言っておく。およそ
 女から生まれた者のうちで、洗礼者
 ヨハネより偉大な者は現れなかった。
 しかし、天の国で、最も小さい者でも
 彼よりは偉大である」
   (マタイの福音書11:11)

 このことについては、

 『ダ・ヴィンチの罠 魔導師』

  で触れているので、

 そちらを参考にしてください。

 さて

 ヨハネの弟子たちが、獄中のヨハネ
こうしたイエスの言葉をいかに伝えたか

 そして、

 それを聞いたヨハネが何と応じたかに
ついて聖書はつまびらかではありません。

 ただ、奇妙なことに、

 共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とは
一線を画す『ヨハネの福音書』には、


     出典:amazon.co.jp

 投獄される以前のヨハネの意味深なる
言葉を載せています。

 「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地
 に行き、そこに一緒に滞在し、洗礼を授け
 ておられた。他方 ヨハネは、サリムの近く
 のアイノンで洗礼を授けていた。そこは水
 が豊かであったからである。 人々は来て、
 洗礼を受けていた。 ヨハネは、まだ投獄
 されていなかったのである」
   (ヨハネの福音書 3:22-24)

 「ところが、ヨハネの弟子たちと、ひとりの
 ユダヤ人との間で、清めのことで論争が
 起こった。 そこで、彼らはヨハネのもとに
 来て言った。 『先生、ヨルダン川の向こう
 側であなたと一緒にいた人、あなたが証
 しをされたあの人が、洗礼を授けており、
 みんながあの人の方へ行っています』」
   (ヨハネの福音書 3:25-26)

 「ヨハネは答えて言った。『天から与えら
 れなければ、人は何ものも受けることが
 できない。わたしは、「自分はメシアでは
 ない」と言い「自分はあの方の前に遣わ
 された者だ」と言ったが、それを証しして
 くれるのはあなたたち自身である。花嫁
 を迎えるのは花婿だ。 花婿の介添え人
 は 傍に立って耳を傾け、花婿の声が聞
 こえると大いに喜ぶ。こうして、わたしは
 喜びで満たされている。 あの方は栄え
 わたしは衰えねばならない』」
   (ヨハネの福音書 3:27-30)

 まだ投獄される前に、ヨハネの口から、

   
 『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 「イエスは栄え、自分は衰える」
とまで、言わしているわけです。

 となると、

 斬首への工作疑惑のみならず投獄
一件にも疑いの目を差し向けて見る必要
があると考えるのは自然のなりゆきで、

 ひとりダ・ヴィンチだけが、見誤った前提
をもとに独自の推理を働かせていたとは
断言できないわけです。



 マルコ、マタイ、ルカなどの共観福音書
『ヨハネの福音書』との相違点
他にもあって、イエスが宣教を開始する
時期は ヨハネが捕縛されたのちに彼の
活動を引き継ぐかたちで の国の到来
を宣べ伝える活動をイエスが開始すると
言った内容で、共観福音書においては、
大体がそういうことになっているのですが、

 先の『ヨハネの福音書』3:22-26に
あるように、ヨハネの投獄が前提にある
にしても、その投獄の前に ヨハネと時を
同じくして、イエス自身が弟子たちととも
に洗礼を授けていたと記されています。

 それもイエスの洗礼に、より多くの人々
が集まり、皆が皆、向こうに行ってしまうと
ヨハネの弟子たちは不満そうです

 ヨハネと同時期にイエス自身も洗礼
を授けていたなどという記事は、他の3つ
の『福音書』には書かれていませんが、

    

 これはどう考えたらいいのでしょう。

 小生が知り得る事柄は、イエスの復活
以後になってから 弟子たちが各地で洗礼
を授け始めたという歴史的事実と、

 「それゆえ、出て行って、すべての人々を
 わたしの弟子とし、彼らに、父と子と精霊
 との名によってバプテスマを授けなさい」
   (マタイの福音書28:19)

 という『福音書』における主イエスの言葉
だけですが、

 これは洗礼者ヨハネの専売特許たる
「洗礼」をイエスの名において正当化する
ためのステップ(布石)だと思われます。

 そもそも、イエス「洗礼」を重要なる
イニシエーションであると考えていたとする
ならば、イエス自身が率先して弟子たち
に対して「洗礼」を施したはずですが、

 

 イエスが弟子たちに「洗礼」を授けた
という記述は聖書のどこにもありません。

 あるのは、華々しい限りの数々の奇蹟と
イエス洗礼者ヨハネから「洗礼」
を授かったとされるイエス公生涯
スタート時の出来事だけなのです

 すなわち、


 イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp

 ことの真偽真相は不明ながら、

 『福音書』の中で、一番最後に綴られた
とされる『ヨハネの福音書』において、
すでにヨハネと同時期に、イエスのもと
「洗礼」が行われていたという既成事実
をつくり、しかもヨハネが執り行う「洗礼」
よりもイエスの行う「洗礼」の方が人気が
あったように印象操作をしているわけです。

 それと言うのも、『ヨハネの福音書』
が書かれたのは、西暦85年頃~100年頃と
推定されていて、最終的に完成を見たのは
2世紀の初頭であり 筆者も複数、いわゆる
キリスト教内のセクトであった「ヨハネ教団」
であるとする説が優勢ですが、

 洗礼者ヨハネイエスパウロ
十二使徒たちも、すでにこの世にはなく
、真実を知る者は誰もいなかったのです。

  
  『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 だだ、

 洗礼者ヨハネの弟子たちのなかで、
イエスに靡(なび)かずに、の意志を
引き継いで「洗礼」活動をしていた者たち
がいて、彼らを、前述した「ヨハネ教団」と
区別して、便宜上「洗礼者ヨハネ共同体」
としますが、ある時期までは、彼らの方が
初期のキリスト教団よりも勢力があったと
されていて、それ故に、ドグマ(教義)の
なかでも重要度の高いイニシエーションと
しての「洗礼」イエス(父と子と精霊)
の名のもとに正当かつ妥当性のあるもの
にしたかったからだと思われますが ・・・

 さらに付け加えれば、その次の4章では

 「イエスが、ヨハネよりも、多くの弟子を
 つくり、洗礼を授けておられるということ
 が、ファリサイ派の人々の耳に入った。

 イエスはそれを知ると、

 (洗礼を授けていたのは、イエス自身
    ではなく、弟子たちであったが)

 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」
   (ヨハネの福音書 4:1-3)

 と、わざわざ2節に但書を入れています。

 何とも不自然ですが、父と子と精霊との
御名によって、弟子たちが「洗礼」を施す
ことになるので、「洗礼を授けていたのは、
イエス自身ではなく、弟子たちであった」と
いうことにしたかったのかもしれませんね。

   

 ところで

 投獄中のヨハネからイエスのもとに
派遣された弟子たちの一部は、そのまま
戻らずにイエスに帰属し、ヨハネの死
を知ってから遺体を引き取り、葬った後に
イエスに報告をした者たちではないかと、
ダ・ヴィンチは考えました。

 つまり、弟子の一部はイエスが起こす
奇蹟の数々を知らせるために戻り、一部
イエスのもとに留まることが師である
ヨハネの真意を汲み取ることになるもの
と信じ込まされていた者たちですが、

 獄中のヨハネのもとに戻った弟子たち
イエスの共同体に加わる自由意思を
認められていたので、遠からずイエス
配下におさまったものと推察されます。

 それでも、なお、2世紀の初め頃までは、
「洗礼者ヨハネ共同体(教団)
よる「洗礼」活動は盛んに行われていて、
ユダヤ地域においては初期キリスト教団
を凌駕する勢いにあったとダ・ヴィンチは
推理したのでした。

 それと言うのも、

 クムラン宗団に限らず、ユダヤ社会では、
洗礼者ヨハネの方が人気・実力ともに
レベルが上であり、それゆえに二番煎じの
後継者として、ヨルダン川での「洗礼式」
という格好の舞台をお膳立てしてイエス
をデビューさせたのであって、


 イエスの洗礼 wwww.diwanmsr.com

 双方の弟子たちの力量にも相応の差が
認められるだけでなく、当時のユダヤでは
イエスの弟子たちは誰からも真っ当には
相手にされなかったというのがダ・ヴィンチ
の見方だったのです。

 つまり初期のキリスト教団のメンバーたち、
即ち、十二使徒を含めた古参の弟子たちは
我々が認識しているようなハイ・レベル
高次元に到達した人たちではなく、純粋に
イエスを信じ、彼に帰依した人たちであり、
盲目の信仰を超えた特別の存在なのです。

 その意味からは、ある時点を境に理性的
な判断を停止した状態のままに殉教の道を
歩んだわけで、そこが 洗礼者ヨハネ
高弟たちとの大きな違いなのです。

 一方で、

 回心を目的とする悔い改めの「洗礼」
介して、ユダヤ社会に変革を吹かせ、
改革(革命)のを巻き起こそうとしていた
のが「洗礼者ヨハネ教団(共同体)
あったわけですが、

  
     パウロの肖像

 キリスト教の創始者と言うべきパウロ
登場によって、事態は徐々に変化し始める
ことになるのです。

 以前から言っているように、

 キリスト教は正確には「パウロ教」
あり、「マリア教」でもあるわけですが、

 ここでは、その件には触れません。

 ただ、ダ・ヴィンチは『新約聖書』に言う
「偽預言者」こそがパウロであると看破
し、それを喝破しようとしていたのですが、

  

 それもまた、別の機会といたしましょう。

 いずれにしても、

 初期キリスト教団は、あくまでもイエス
救世主(神の子キリスト)として信奉する
ユダヤ教の一派であって、パウロの登場
を見るまでは、それ以上でも 以下でもない、
単なるユダヤ教内における宗団(ナザレ派)
に過ぎなかったのですが、

 こうした、天才パウロの努力もあって、
イエス「神格化」プランは着々
実を結んでいったものと思われます。

   
      パウロの肖像

 さて、前回の『邪魔者』で触れていた

 洗礼者ヨハネ斬首にかかわった
とされる踊り子の正体は、ヘロディア
の娘(サロメ)ではなく、サロメという名の
別の女性であったとする件ですが、

 ダ・ヴィンチは、こう言うかもしれません。

 「私はその正体を知っているが、紙幅が
少なすぎるのでここに記すことはできない」

 ということで、

 それも次回以降での話とさせてください。

     
     (なんじゃそれ)

  しかし、

 「どこかで聞いたようなフレーズじゃな」

  

 「フェルマーの最終定理」でお馴染みの
フェルマー氏のメモ書き ・・・

 「私はこの命題の証明をもって
  いるが、余白が狭すぎるので
     ここに記すことはできない」

 
  これですね




     「え !!

 アッ、いや、お呼びじゃなかったかも ・・・



 「ユダが命題の証明を握る」

  

 つまり、 

 「巾着袋の中身じゃな」

 確か、エトス(宇宙倫理)とか、なんとか

 宇宙じゃなくて、「地球倫理」ですよ

    ・・・ っておいおい



  「ユダで遊ぶな !!



    (ん !!


      (ゲロゲロ ・・・)

 
   出典:www.lets-bible.com



  「神格化」って ・・・

 


 『この人を見よ』ヤコポ・バッサーノ画(1553年)

 「ユダヤ人の王様万歳」


  出典:plaza.rakuten.co.jp

 『ダ・ヴィンチの罠 濡れ衣』

   

   

   

   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

    

 

    

   
 『洗礼者ヨハネの頭を持つサロメ』チェザーレ・ダ・セスト

    

    


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 … to be continue !!
      (… to be continued !!)

コメント一覧

小吉
そもそも「洗礼」とはなにか、気になったので調べました。

ようするにキリスト教徒となるための儀式なのですね。

つまり神と契約するということなのですが、だれでも洗礼を授けられるわけではないですよね。

ということは洗礼を授けることができるための資格とはなんでしょう。

そこがちょっと気になりましたね。
むらさき納言
またもや、月一更新のペースが常態化しつつあるようで、
令和2年の初ブログには、いまだ、お目にかかれません。

「フェルマーの最終定理」に絡めて言えば、余白も時間もタップリあると思うのですが!?

あっ、それって、暇人のわたしのことかも・・・
ガブリアス・マーレン
本当ですね。

ダ・ヴィンチは遅筆で有名でしたが、こちらのブログの更新も、かなりのスローペースのようですし、ゆっくりと読み進めていくつもりでいます。
やぶにらみ
参考までに言っておきますが、ガブリアス・マーレンさんが好きなものをゆっくりと最後に味わうタイプだとしても、如何せん長いですぞ!

何やら臭わせるべく、サロメを登場させてから、何カ月が経過していることやら、未だに
その真意が掴めずにいるのですから、

なんともはや・・・ですな!
ガブリアス・マーレン
まあ、そんなとこですが(-_-;)

好きなものは残しておいて、ゆっくりと最後に食べるタイプなので、まとめての一気読みはしません。

いずれ袋の中身も、Dの意味も分かって来るでしょうから。 
むらさき納言
ユダの持つ巾着袋の中身については、過去記事を調べるしか方法がないでしょう。

同様に、「D」の意味も、過去のコメント欄をチェックするしかありません。

説明できればいいのですが、複雑に込み入ってるのでごめんなさい。

ところで、ガブリアスの名前はポケモンからで、マーレンは
龍使いの魔術師マーリンからのアレンジですか?
ガブリアス・マーレン
パウロが組み立てた教義体系がキリスト教の骨格であることは、つとに知られた事実ですが、それを偽預言者パウロによるイエス神格化計画であるというのも、斜に構えた意見です。

よく分からないのは、「ユダが命題の証明を握る」として、巾着袋の中身をエトス(宇宙倫理やら地球倫理やら)としている点です。

そして、もっと分からないのが、コメント欄によく出て来る「D」の意味です。
きくらげ
サロメも気になるが、新約聖書に言う偽預言者がパウロだと言うのも大いに気になるところだ。

やぶにらみさんじゃないけど、これも余白が狭すぎるのか、現在までスルーの状態が続いているが・・・
ダメな便利屋
ノーサイドに感謝の意を表します。
それにしては反省の姿勢が見られないとの誹りを受けるかもしれないが、これが個性と言うか、キャラなので、多少のことはお目こぼしを願います。

さて、今回の最新『影法師』が「Dの秘密」のパーツであるとすると、「D」の有無を1と0で表わした場合の過去11回での結果は「01001011011」となり、「Dの秘密」を明かした回を除くと「0101011011」となる。

何かは不明だが、パターンめいたものが見えるようではあるがどうだろうか?
やぶにらみ
知ってはいても、狭すぎて余白には書けないとするサロメの
正体を、ダ・ヴィンチはいつ明らかにするのだろうか?

まさか、違う意味でノーサイド的に済し崩すつもじゃない
でしょうな!
むらさき納言
わかってくれれば良いので、ノーサイドです。
ダメな便利屋
誤った憶測で、穿った見方だったと反省しています。

暴言を吐いたことについて、むらさき納言氏に謝罪します。
むらさき納言
言って、いい事と悪い事があります。 魂胆とか画策とか、失礼ですよ!

確かに、想定しているパターンがありますが、まだまだ先の結果を見ないと判断がつかないうえに、確信もないままに発表するのも変でしょう。

「D」の有無による二進法の表記が可能なので、現時点やこの段階で何らかの意味のある並びになっているのかどうかを知りたかったことに、魂胆や画策があるのですか?

あらぬ邪推はやめてください!
ダメな便利屋
解読できないことが予測されてるのに、解析を煽るなんて、
きっと魂胆があるんだ!

次のタイトルとその次の分まで待たないと判定できないと、「申命記」でコメントしてるからには、想定するパターンをむらさき納言氏は持っているわけで、それを察知されたくないための画策か!?
むらさき納言
次の記事のタイトルが「D」に絡むなら、佳境から終盤へと突入するかも、としていたドイルさんの予想は外れ、1拍(七十週)を挟んで『申命記』(Deuteronomium)という結果でしたが、頭文字が「D」になるか、ならないか、にパターンがあって、それがシグナルではないかと騒がれています。

そこで過去10回のタイトルを見てみると、

『不文律』
『眉唾物』Dubious matter
『濡れ衣』(「D」の秘密の存在を明かす)
『福音書』
『斬首刑」Decapitation 
『受膏者』
『邪魔者』Disturber
『神格化』Deification & Divinization
『七十週』
『申命記』Deuteronomium

という結果で、5対5のイーブンになります。

ですが、「D」の秘密を明かした『濡れ衣』のページを別にして、「D」の有(1)無(0)を並べると、

「010101101」となります。

何か『申命記』のページでのドイルさんの問題に似ていると思いませんか?

ちなみに、『濡れ衣』のページを「0」にして並べると、

「0100101101」ですが、誰か解読してください。
おじゃま虫
やぶにらみさん、全然OKです。
フォースはスルーされちゃいましたけど・・・
やぶにらみ
いやあ、睨みやせんが「ロンパリ」故に、ロンドンとパリが、ごっちゃに見えて、どっちがヨハネでどっちがイエスなのか、困まりましたな!

いや、なに、『岩窟の聖母』のヨハネとイエスのことだけど、

え、ここじゃない? 次のページって・・・

お邪魔でしたかな? おじゃま虫さん!!!
江戸川ドイル
次の記事のタイトルが「D」に絡む頭文字だったら・・・

いよいよ、佳境か、終盤への狼煙かもね!?
おじゃま虫
もともとはミステイクだったんですが、「パリにプールされた〇〇」というアナグラムをどうしても解きたくて、きっとルーブルに関係する何かだと思って必死にチャレンジしたんですが、どうしても作ることが出来ませんでした。

そしたら、パリの綴りが間違っていることが判明して、何も作れなかった理由が、そこでわかった気がしたのです。

ですから、正直に言うと、ここで作られるアナグラムには
何か特別なパワーを感じるんです。

たぶん、やぶにらみさんから睨まれると思いますが、

スターウォーズのフォースみたいな・・・
やぶにらみ
あれやこれやと懸命にアナグラムを思案している方々には
大変申し訳ないが、言葉遊びや頭の体操に過ぎないと思う。

アナグラムと言っても、ここでの場合は文字を入れ替えて、
新しい単語や文章にするというよりも、そこから、さらに、
応用の幅を広げて、頭文字的な要素も組み込んでいるので、
大抵の場合、強引な意味づけが可能となりますな。

しかしながら、それを否定しないのは、自分でも作ること
があるかもしれないし、不思議とクロスしたり、リンク
したりするニアミス度合いが絶妙で、「ほう、なるほど」
などと感心しつつ楽しんでいるのも、また
事実です故、

おじゃま虫さんの作品には、大いに期待しとりますぞ!
おじゃま虫
構想にあるかもしれないという、むらさき納言さんの話って、エフライム族の末裔のことだと思いますが、アナグラムについて、やぶにらみさんはどう思いますか?
やぶにらみ
偶然の部分もあるとは思うが、計画的に記事を構成しているのだと考えられますな。

『濡れ衣』のページで Dr・マリオを使って「D」の秘密のありかを暴露したのも、間違いを誰かが指摘するのを待っていたが、その気配がないのでしびれを切らしたのでしょう。

シリーズのスタート当初に指摘されていたら、さっさと修正して、必要となる時期に別の方法で、布石を打ったと思われますが、

ココナン君が『受膏者』で指摘しているように、記事に焼き直しやリピートが多いのも、点々と島嶼的に分散するのも、そう言う理由によるものでしょうな。

その意味では、むらさき納言さんの言うようなことも構想にあるのかもしれないですなあ!
江戸川ドイル
「偽預言者パウロ説」、また、新説が飛び出しました。

パウロも十三人目の「使徒」と呼ばれることがありますが、
十二使徒とは別物です。

何でも、自分自身で「使徒」を名乗っていたという話も!?

ところで、ユダに代わる「十二使徒」の一員を選ぶときに
二つの条件が示されたようです。

 ① イエスの公生涯をともに過ごした者
 ② 復活の目撃者(証人)となり得る者

これでは、パウロを始め、後世の聖人たちでも対象者には
なり得ません。

ちなみに、十二使徒は英語で、Twelve Apostles ですが、
イタリア語では、Dodici apostoli で、十二人の弟子と
なると、Dodici Discepoli です。

イエスによって、特別に選ばれた「十二人の弟子」という
ことであれば、頭文字は「DD」です。

英語でも弟子は、ディサイプル(Disciple)ですが、何故
こうも「D」ばかりなんだろう?
むらさき納言
考えてみれば、「ⅮN」のサインやポントルモの絵に登場
する聖人たちの妙な違和感に関する話題は、いつの間にか
立ち消えになってましたが、ここに来て、その尻尾がまた
見えて来たようです。

つまり、『魔導師』のコメント欄でのやりとりの内容など
と今回の記事とがリンクする気がするのです。

あそこでは、メダイヨンに描かれた12人はイタリア各地の
シニョーリアたちだというケイシさんの意見に納得したん
だけど、彼らがラテン系に見える点を除けば、やっぱり、
イスラエルの十二部族だとする方が、他の不可解な絵との
整合性が保てると思うのです。

そうであるのならば、エフライム族の末裔が日本にプール
されているというアナグラムの解析も少なからず関連して
来ると思えるのですが・・・
ココナン
そういえば、ポントルモの絵も兄弟の出演が多いですよね。

『聖母子と聖アンナ』では、ペテロとアンデレが出てるし、
「DN」のサインがある『聖母子と聖人たち』では、ヨハネと大ヤコブの兄弟ですが、養父のヨセフがいるのに、聖家族ではなく聖母子なのはなぜだろう?

この聖ヨセフとされる人物が、ザカリヤを兼ねているなら、
『聖母子と聖人たち』でもいいのですが・・・

あと、使徒とされるには、いくつかの条件があるみたいで、
それらの条件が満たされないと、たとえ、素晴らしい業績
を残しても無理みたいですよ。
おじゃま虫
誰か(たぶん、江戸川ケイシさんだと思うけど)が言ってたように、兄弟姉妹、家族や家系がポイントのようで、中でも「兄弟」がカギを握っているように思われます。

イエスと洗礼者聖ヨハネの関係のみならず、十二使徒の中のペテロとアンデレ、大ヤコブとヨハネも兄弟だし、彼ら四人はイエスにとって内弟子とも言うべき存在です。

但し、なぜか、重要なイベントがある時には、アンデレが除かれていることが多いのですが、洗礼者ヨハネの弟子から最初にイエスに従ったのはアンデレで、次がペテロだったと思うけど、その意味ではもっとアンデレに活躍の場面があっても良さそうなのですが、ないんですよね。

他にも、パウロをはじめ、福音書記者のマルコやルカ、あるいは、イエスの兄弟とされる義人ヤコブなども使徒とは呼ばれないのはシロウト目には疑問です。
むらさき納言
理由はわかりませんが、アナグラムからは、ヤコブとラケルの血筋であるエフライム族の血統が日本にプールされていて、それが諏訪湖周辺
とかかわりがあるらしいとのことですが、洗礼者ヨハネもイエスも、ヤコブとレアからの系統ですし、記事の内容とは一向にリンクしません。

ただ、パウロは、ヤコブとラケルの最後の子供であるベニヤミンの血筋で、エフライムとマナセの親であるヨセフの弟にあたります。

この辺から、つながりができるのでしょうか?
やぶにらみ
まさか、それはないだろう。  よもや、そんなことは、
と思いつつも「神格化」を調べると、

神格化 ⇒ Deification & Divinization
神格化する ⇒ Deified & Divinize
形容詞 ⇒ Dific 他動詞 ⇒ Deify

これはもう、明確に計画的だということがわかりますな!

前回の『邪魔者』⇒ Disturber も「D」が頭文字だったことからも疑う余地はないですな!

ちなみに、

きくらげさんへの回答にはならないと思うが、「命題」とは、定理ほどではないが、真または偽であることが証明されている主張で、英語で言えば、Proposition であり、「命題」とは切っても切れない関係にある「定義」とは、正確な意味を定めることを言うが、Definition となる。

つまり、「命題」の正しい意味を定める場合の「定義」の頭文字は「D」なのである。

これをどう考えるべきか、偶然で片付けていいものなのか!
きくらげ
ユダが握りしめる巾着袋の中身は銀貨ではなく、エトス?

頭の片隅にモヤっとした記憶があったが、意味不明なので、
「ダ・ヴィンチの罠 エトス」で検索すると、『核融合』と
『蓋然性』が表示された。

ザっと目を通してみたが、わかるようでわからないような
チンプンカンプンな部分もあるが、要するに、「命題」は
エトスの胤が証明するということか!?

ところで、「命題」って何だ!
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