透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 信奉者

 今回の記事のタイトルは『信奉者』です。

 その対象は神の子と呼ばれ、多くの人々
から崇め奉られているナザレのイエスです。

 AD1世紀の前後、数百年間のイスラエル
地方では、世俗を離れ 私有財産を持たずに
共同での信仰生活を営むユダヤ教の一派で
あるエッセネ派の活動が盛んでした。


    『死海文書』 www.excite.co.jp

 二十世紀最大の考古学的発見とも言われる
『死海写本』は、エッセネ派のグループの
ひとつクムラン宗団が記したとされていますが、

 そのクムラン宗団に幼少時より所属していた
のが、洗礼者ヨハネイエスであって、

 二人の生母エリサベツとマリアはいとこ同士、
つまり ヨハネイエス「はとこ」にあたる
というのが一般に知られる二人の間柄です。


      『死海文書』 (死海写本)

 しかしながら、

 ヨハネイエスは、祭司ザカリヤを父に
もつ異母兄弟で、クムラン宗団主導の宗教的
クーデター 「二人のメシア計画」の旗頭
であったと推理したのがダ・ヴィンチでした。

 ところが、

 「キリスト教」の生みの親にして、歴史上
最大級の詐欺(欺瞞)を見事に成功(完遂)
させたペテン師パウロの奸計によって、

   
      パウロの肖像

 一方のメシアであった洗礼者ヨハネ
断たれ、もうひとりのメシアであったイエス
パウロの描くシナリオ通りに十字架上
での「死の贖い」を演じてしまうのでした。

 繰り返しになりますが、

 信条的旗印(主柱)にして、一方のメシア
(旗頭)となるはずであった洗礼者ヨハネ
最期となるシーンを、

 ここでは

 『マタイの福音書』で見てみましょう。



 「そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを
 聞いて家来に言った、『あれはバプテスマ
 のヨハネだ。 死人の中からよみがえった
 のだ。それで、あのような力が彼のうちに
 働いているのだ』」
   (マタイの福音書14:1-2)

 「というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟
 ピリポの妻ヘロデヤのことでヨハネを捕ら
 えて縛り、獄に入れていた。  すなわち、
 ヨハネはヘロデに、『その女をめとるのは、
 よろしくない』といったからである」
   (マタイの福音書14:3-4)


   ジョヴァンニ・ファットーリ画

 「そこでヘロデは ヨハネを殺そうと思った
 が群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者
 と認めていたからである」
    (マタイの福音書14:5)

 「さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤ
 の娘が その席上で舞をまい、ヘロデを
 喜ばせたので、彼女の願うものは 何で
 も与えようと、彼は誓って約束までした」
   (マタイの福音書14:6-7)


 『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック(1906年)

 「すると彼女は、母にそそのかされて、
 『バプテスマのヨハネの首を盆に載せ
 て、ここに持って来ていただきとうござ
 います』と言った」
    (マタイの福音書14:8)

 「王は困ったが、いったん、誓ったのと、
 また列座の人たちの手前、それを与え
 るように命じ、人をつかわして、


『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)



 獄中ヨハネを切らせた」



   (マタイの福音書14:9-10)

 「その首は盆に載せて運ばれ、少女に
 わたされ、少女はそれを母のところに
 持って行った」
   (マタイの福音書14:11)



 「それから、ヨハネの弟子たちがきて、
 死体を引き取って葬った。  そして、
 イエスのところに行って報告した
   (マタイの福音書14:12)

 いやはや実に、サラッと書かれていますが、

 仔細にして冗長な『マルコの福音書』
の記述内容を整理して、経緯、経過、結論を
過不足なく語っています。

 『マルコの福音書』での件(くだん)の
事件については、

 『ダ・ヴィンチの罠 邪魔者』
 『ダ・ヴィンチの罠 パウロ』

 などで触れているので、

 そちらを参考にしてください。

 さて
 
 ここで気になるのは遺体を葬り イエス
のところに行って報告したという一文です。

 おそらく、

 この弟子たちとは獄中のヨハネから
イエスのもとに遣わされて、「(助けに)
来るべき方はあなたですか、それとも
他の人を待たなければなりませんか」
と訊ねた者たちだろうと推測されますが、

 すでに、その時、彼らは

 パウロに籠絡されたイエスに懐柔
されていたとダ・ヴィンチは考えました。



 「行ってあなた方が見聞きしたことを
 ヨハネに伝えなさい。 盲人は見え、
 足なえは歩き出し、ライ病はきよまり、
 耳しいは聞こえ、死人は、生きかえり、
 貧しい人々は福音を聞かされている」

 「私につまづかない者は幸いである」
   (マタイの福音書11:5-6)

 ヨハネに引導を渡たすべく、イエス
は因果を含めて彼らをヨハネのもとへ
と戻しますが、

    

 彼らが帰るとイエスは群衆に対して
ヨハネのことを語り始めます。

 「見よ、わたしは使いをあなたの先に
 遣わし、あなたの前に、その道を整え
 させるであろう。」と、書いてあるのは
 この人のことである」
   (マタイの福音書11:10)

 「あなたがたによく言っておく。およそ
 女から生まれた者のうちで、洗礼者
 ヨハネより偉大な者は現れなかった。
 しかし、天の国で、最も小さい者でも
 彼よりは偉大である」
   (マタイの福音書11:11)

 ところで

 ヨハネの弟子たちが、獄中のヨハネ
こうしたイエスの言葉をいかに伝えたか

 そして、

 それを聞いたヨハネが何と応じたかに
ついて聖書はつまびらかではありません。

 ただ、奇妙なことに、

 共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とは
一線を画す『ヨハネの福音書』には、


     出典:amazon.co.jp

 投獄される以前のヨハネの意味深なる
言葉を載せています。

 「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地
 に行き、そこに一緒に滞在し、洗礼を授け
 ておられた。他方 ヨハネは、サリムの近く
 のアイノンで洗礼を授けていた。そこは水
 が豊かであったからである。 人々は来て、
 洗礼を受けていた。 ヨハネは、まだ投獄
 されていなかったのである」
   (ヨハネの福音書 3:22-24)

 「ところが、ヨハネの弟子たちと、ひとりの
 ユダヤ人との間で、清めのことで論争が
 起こった。 そこで、彼らはヨハネのもとに
 来て言った。 『先生、ヨルダン川の向こう
 側であなたと一緒にいた人、あなたが証
 しをされたあの人が、洗礼を授けており、
 みんながあの人の方へ行っています』」
   (ヨハネの福音書 3:25-26)

 「ヨハネは答えて言った。『天から与えら
 れなければ、人は何ものも受けることが
 できない。わたしは、「自分はメシアでは
 ない」と言い「自分はあの方の前に遣わ
 された者だ」と言ったが、それを証しして
 くれるのはあなたたち自身である。花嫁
 を迎えるのは花婿だ。 花婿の介添え人
 は 傍に立って耳を傾け、花婿の声が聞
 こえると大いに喜ぶ。こうして、わたしは
 喜びで満たされている。 あの方は栄え
 わたしは衰えねばならない』」
   (ヨハネの福音書 3:27-30)

 まだ投獄される前に、ヨハネの口から、

   
 『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 「イエスは栄え、自分は衰える」
とまで言わして、謀殺隠蔽に腐心して
いるわけです。

 となると、

 斬首への工作疑惑のみならず投獄
一件にも疑いの目を差し向ける必要性が
生まれると考えるのは自然のなりゆきで、

 ひとりダ・ヴィンチだけが、見誤った前提
をもとに独自の推理を働かせていたわけ
ではないのです。



 このあたりにおけるペテン師パウロ
シナリオについては、

 『ダ・ヴィンチの罠 パウロ』

 の記事を参考にしていただくものとして、
ここではその先、つまり ヨハネを亡き者
にしたいと思っていたが、民衆の暴動
恐れて殺害することを躊躇(ためら)って
いたヘロデ王(ヘロデ・アンティパス)に
絶好の機会となる誕生の祝いの宴の場と
いう虚構の舞台を設定した人物について
の話をしましょう。

 結論から言えば、

 その人物こそが、のちに「裏切者」
烙印を押され 蔑まれつづけることになる
イスカリオテのユダだと思われるのです。

 イスカリオテの「イス(Isch)」は人(男性)
で 「カリオテ(Kariot)」は地域名ですので、
カリオテの人ユダという意味になります。

 カリオテとは『エレミヤ書』48章24節
に出てくる南部のケリヨト(Kerioth)だと
されていて、イシュ・ケリヨト(ケリヨトの人)
がイスカリオテの語源であり、「都会人」
という含意をもっています。


    『エレミヤ書』 Wikipedia

 イスラエルの南部地方に位置する村で
あったとされていますが、

 ユダの父親は イスカリオテのシモン
(ヨハネの福音書6:71)と呼ばれています
ので、おそらくは代々にわたり、都会人と
しての生活があったものと推測されます。

 南部パレスチナの地に位置するカリオテ
イエスが活動拠点にしていたガリラヤ
から 地理的に離れていたにもかかわらず
ユダイエスの共同体に加わった理由
(わけ)とは 一体、何だったのでしょうか

 相応なる目的るべき諸事情
あったと考えるべきでしょうね

 ユダは見紛うことなき実践的理論家で、
並はずれた自信と教養の持ち主でもあり、
強い自負と誇りに満ち溢れ、エリート意識
については相当に高かったのではないか
とダ・ヴィンチは推測したのですが、

  
   出典:www.lets-bible.com

 それは生来からローマ市民権を所持し、
エルサレムにおいて ファリサイ派の高名
ラビに師事していたパウロにも比肩
しうるもので、パウロにも負けず劣らず
傑出した彼の要素(資質)であったと
思われます。

 ユダイエスの活躍を風のうわさで
聞き、数々の奇蹟を起こしているという
この人こそ、メシア(ユダヤの王)となり
得る奇貨居くべし逸材であり、イエス
してユダヤをローマの「軛(くびき)から
解放しようと考えたのかもしれません。



 もちろん、うわさが本当であったならば、
ユダイエスを信奉し帰依者となって
自己の心身のすべてを帰投してもよいと
さえ思い詰めていたのです。

 仏教でいう「依伏信奉」ですね

 

 それゆえに、結果として、

 洗礼者ヨハネは殺される運命を、
ユダは裏切者の烙印を押され続ける
宿命を引き受けることになるわけです。

 さて

 そんなユダが、ガリラヤに向かう途中
で、エルサレム(神殿)に寄った可能性は
高く、偶然にも街中のどこかでパウロ
接触していたのかもしれません。

 但し、もし仮に、

 二人に何らかの接点があったとしても
「イエス・キリスト計画」密約
ユダ関与はなかったというのが、

  

 レオナルド・ダ・ヴィンチの見解です

 とは言え、

 洗礼者ヨハネ謀殺パウロ
計画をブレイク・ダウンしたシナリオであり
ヨハネ必要条件だったのです。

 ただし、この斬首パウロは直接的
な関わりをもっていません。

 彼のシナリオでは、捕縛投獄の後、
日を待たずしてヘロデ・アンティパス
命令により処刑されることになって
いたので、手筈違い(刑の執行がなされ
ないまま)のパウロにとってはユダ
存在はまさに渡りに船だったのです。

 但し、ユダの介入にしても積極的なる
働きかけとしての行動ではなく、あくまで
誘導を目的としたプロパガンダであって、
ヘロデ・アンティパスの政治的決断の
後押しとなる工作をしただけなのです。

 その手段や方法については、ここでは
明言できませんが、

    

 フェイクではないが100%真実でもない
うわさを撒き散らして洗礼者ヨハネ
捕らえさせた時のようなパウロ的手法
(ヘロデ・アンティパスに不都合となる話
を故意に流布したもの)とは違うでしょう。
 
 ダ・ヴィンチは密使となる人物に親書の
ような手紙(密書)などを託して、処刑後
の善後策を伝えたものと考えました。

 要するに、処刑後に危惧される民衆に
よる暴動を回避するための方策や方便、

 つまり、「そういうことならば已む無し」
と民衆が納得せざるを得ない言い訳を
伝授することで後顧の憂いを失くさせた
ものと推理したわけです。

 他にもローマに対する独立とユダヤの
解放をヘロデの名のもとに行い、それを
イエスが全面的にサポートするような
奇策・妙案がしたためられていたのかも
しれませんが ・・・

 さもあれ、

  
 『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック 1906年

 インフォメーションだけで具体的内容に
は踏み込めずにいた洗礼者ヨハネ
斬首刑にかかわったとされる踊り子の
正体は、ヘロディアの娘(サロメ)では
なく 「サロメ」という名前の別の女性で
あったとする件ですが、

 マグダラマリアとともにイエス
磔刑を見守り、安息日が明けた日の早朝、
イエスの墓を訪れた女性たちの一人に
イエスの弟子のサロメがいますね。

 しかしながら、


 『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック 1906年

 その踊り子は彼女ではありません

 そもそも、「サロメ」という名前の女性
など実際には存在すらしなかったのかも
しれないということなのです

 果たして、ダ・ヴィンチの推理による

  
 『洗礼者ヨハネの頭を持つサロメ』チェザーレ・ダ・セスト

 この密使がサロメであったかどうか
も、また その方便が福音書に記された
ヘロディア(サロメ)のエピソード
とかかわりのあるものかどうかも、今と
なってはわかりません。

  畢竟するに、『福音書』には、

 

 単にヘロディアとあるだけで
「サロメ」とは記されていません。

 ただ 古代イスラエルの著述家である
フラウィウス・ヨセフスが著すところの
『ユダヤ古代誌』に、「サロメ」
いう名があり、父母の名前が福音書の
記事と符合することによって同一人物
であると見なされているだけのことで、

  

 この「サロメ」は、洗礼者ヨハネ
との関連性においては、まったくもって
無関係なる存在なのです。

 それでは 洗礼者ヨハネの処刑に
ついて、ヨセフスは 如何に記している
のかというと、

 『ユダヤ古代誌』 第18巻5章2節

 ここに洗礼者ヨハネの処刑の記述
がありますが、途中を一部省略して節の
初めと末尾を引用してみたいと思います。

 Wikipediaによれば、

 こうである

 さて、

 ユダヤ人の中にはヘロデ(アンティパス)
の軍隊の壊滅は洗礼者と呼ばれたヨハネ
に対して彼が行ったことへの神による罰で
あり、まったく義にかなった事だと考える者
たちがいた。というのも ヘロデは彼を殺害
したのである。 が、ヨハネは、正しい人で
あり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、
また神への敬虔を尽くせと命じ、その証に
洗礼を受けるように言っていたのである。

 (中略) 

 さて、人々が群れをなしてヨハネの許に
押し寄せ、彼の言葉に大きな感銘を受け
ていた。  ヘロデは、ヨハネの民衆への
大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱
へと繋がることを恐れた。 彼は、ヨハネ
がもたらすかもしれない一切の悪影響を
防止し、ひとりの人間の命を惜しんだが
ゆえに、ことが起きてから手遅れだったと
後悔する様な困難に自らを陥らせぬため
には、殺してしまうのが最善だと考えた。

 そこで、ヘロデは、その猜疑心を払拭
すべく、囚人を、既に私が言及した城で
ある、マカイロスに送り、そこでヨハネを
殺害した。  で、ユダヤ人の間に、彼の
軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神
が彼を不快に感じている証だとの説が
生じたのである。

 ―『ユダヤ古代誌』第18巻5章2節 ―

 すなわち、


   ジョヴァンニ・ファットーリ画

 ヨセフスによればヨハネの処刑は
あくまでヘロデ・アンティパスによる
政治的判断であり、ヘロディア
は処刑にかかわっていないことになる。

 また、ヨハネの処刑はマケラス要塞
で行なわれており、この点もマルコ
利用した伝承(福音書の記述内容)と
異なっています。

 尚、「サロメ」の名前は、このあとの
5章4節にヘロデ大王関連の人物関係
が記述されていて、そこにヘロディア
の娘であり、母の再婚によって伯叔父
にあたるヘロデ・アンティパスの継子と
なったサロメのことが記されています。

 結局のところ、

 イエスを崇め奉る信奉者(帰依者)
となっていたユダの工作が功を奏した
事柄が、『ユダヤ古代誌』のなかで
語られているものと推測したダ・ヴィンチ
は次のように考えたのです。

 ヘロデにすれば、たったひとつのしるし
さえ証しできない洗礼者ヨハネよりも
数々の奇蹟を見せることによって、


 イエスの奇跡(水の上を歩く)exblog.jp

 人々を熱狂させるイエスの方が余程
危険な存在であって、むしろ民衆を煽動
して暴動や叛乱などを起こすとすれば、


 イエスの奇跡(五千人に食べ物を与える)

 その影響力とリスクイエスの方が
ずっと大きいはずであるにもかかわらず、


    出典:www.bible-jp.org

 「ヘロデは以前からイエスに会いたい
 と思っていたので大変に喜んだ」

 とイエスの裁判時におけるヘロデの
心境を『福音書』等は伝えていますし、

 『ルカの福音書』では、

 
    『ルカの福音書』 Wikipedia

 「(イエスに)会ってみようと思っていた」
    (ルカの福音書 9:9)

 と綴られています。

 このようにヘロデ・アンティパスが、

 イエスに会いたがっていても捕らえて
牢につなぐという選択をしなかったのは、


     出典:windychaple.com

 そのため(ローマに対し反旗を翻しても
その矛先はヘロデ王には向けないという
イエスの名を借りて書き送っていた親書)
で、このことはユダの働きが大きかった
ことをあらわしていますが、

 結果的にパウロのシナリオを補強して
障害を復旧し、修復(ナイス・リカバリー)
してしまったことで、

 彼のシナリオに欠かせない「裏切り役」
(キーパーソン)として、格好のターゲット
にされてしまうのです。

 北部辺縁(辺境)の地であるガリラヤの
田舎者たちの集まりであったイエス
弟子たちの中で、エルサレムにほど近い
カリオテ出身のユダは 都会的センスに
溢れ、博学で学識にも恵まれた特異なる
存在であったがゆえに、

 パウロにとって似た者同士のユダ
ライバルというよりも不俱戴天の仇となる
存在であり、将来のイエス共同体での
呉越同舟などは見込めないものと判断
したパウロが、早々にも仇敵となり得る
ライバルの芽を摘んだというのが、



 ダ・ヴィンチが見立てた真相であって、

 洗礼者ヨハネ処刑はあくまでも、
ヘロデ・アンティパスの政治的判断
であり、ヘロディアやその処刑
には一切かかわっていないというのが、

 ダ・ヴィンチの導き出した結論なのです。

 では、なぜ、ヘロディアが宴席
で舞を披露しての褒美にヨハネ
所望したというような話がマルコとマタイ
の福音書に記されているのでしょうか?

 もちろん、その裏には、練りに練られた
パウロの深謀遠慮があったのですが、

  
     パウロの肖像

 それはまた、次回以降の話としましょう。


 ところで

 コト真偽真相だが、

 パウロユダは都会人で、

 そんだら、わしらは、やっぱ、

 「田舎もんだっぺか」

  
 
  これですから

 「そんだらこつ、認めらんねえだ」



     「え !!

 「きっ、君まで、そんな言葉を」



 いやいや、主イエスの訛は、もっと

  

 「半端ないぞい」



 それでも、

 「辛抱(信奉)せにゃならん」

 なにせ、わしらは、

 イエス「信奉者」じゃからのぅ



 … to be continue !!
      (… to be continued !!)





    (ん !!


      (ゲロゲロ ・・・)


(なんじゃこれ)(ホンマの話かいな)

    ・・・ っておいおい

コメント一覧

小吉
たくさんの人が出てきて何が何やら分からなかったけれどつまり聖書の話のことが書かれているんですよね?
リンゴとバナナ
「聖骸布」でのことを考えると、むらさき納言さんが言う、洗礼者ヨハネの首と「最後の晩餐」でのトマスの描かれ方に重要な意味があったということですね。
江戸川ドイル
今回のタイトルの頭文字が「D」であることは、シグナルの可能性を意識している者なら分かっていたと思いますよ!

問題は次とその次のタイトルに「D」が来るのかどうかで、

その関連性というか、つながりが確定できないので触れないだけのことだと思いますが・・・
おじゃま虫
最近では誰も言わないし、触れようともしませんが、今回の「信奉者」(帰依者)は英語では、Devotee です。

またもや、「D」が頭文字になるタイトルですよね!
きくらげ
タイトルの「信奉者」とはユダのことで、彼はイエスに帰依していたのだから、裏切者であるはずはない、ユダもイエスもパウロのシナリオのなかでのキャストでしかなく、かれに動かされる駒(演技者=アクター)であったということか?
ダメな便利屋
普通に考えれば、現代でも軽蔑される傾向にある売春婦や
憎しみの対象になりやすい異教徒、例えば、サマリア人を
大切にしたり、尊敬されるべき律法学者や支配者層である
ローマ総督やローマの軍人に対して当てつけがましい説教
を垂れたり、自己の領主を無視してユダヤの王を自認する
そうしたイエスの言動や振舞いに特権階級にいた連中たち
がキレたわけで、彼らが民衆をそそのかした結果がピラト
による十字架刑に繋がるのだが・・・。

その裏にはパウロの存在があり、その前段階としてユダの進言による洗礼者ヨハネの処刑が敢行されたとする大胆な推理の行き着く先が気になるところだ!
刑事プリオ
悪意ある野心に満ちた欺瞞は、いかにもパウロ的なのは確かだが、証拠がなければいくら刑事でも逮捕は出来ない。

まあ、2000年も前の出来事では逮捕のしようもないのだが、イエスと組んでの大々的な詐欺の裏が取れたら、遅蒔きながらも立件して訴追(公訴を提起推進)したいものだ!
ダメな便利屋
きくらげ氏の『パウロ』の記事にあるコメントどおりに彼は野心家でペテロや大ヤコブ・ヨハネ兄弟などの直弟子たちのいるエルサレム教団(ナザレ派)とは距離を置いていた。

実際上は派内に入れてもらえなかったか、差別されていたのだと思うが、そこで自らが教祖となるべく教義を組み立てて異邦人伝道を始めたというところだろうが・・・

初めからパウロの計画に則して、彼らナザレ派が行動したとは考えにくい。が、しかし、そうではないとも言い切れないところがミソか!
ガブリアス・マーレン
ここでユダが登場してくるとは意外でした。

それ以外はサロメの件も含めて、想像していた展開と大きな狂いはないのですが、独自の「70週預言」の解釈と絡めるとパウロが主役でイエスもヨハネも脇役に転じてしまいそうですが・・・
江戸川ドイル
ふう~っ、更新の間隔が長くなるにつれて、記事も2倍近く長くなってるように感じるが、

それにしても、サロメに引き付けておいて、予想だにしないカウンターとして、パウロの謀略にユダを一枚かませたわけだけど、ボディブローのようにあとで効いて来るのかどうか?

イエスの訛(ナザレ弁)って、日本でいったら津軽弁とか、秋田弁みたいな感じかもね・・・。
むらさき納言
どんな女スパイが登場するのかと思って、期待してたので、正直、拍子抜け状態です。

以前に仄めかしていたベルナルディーノ・ルイーニたちにサロメを描かせたのは、ここでの伏線ではなかったのですね。

そうなると、ヨハネの斬首された首に目的があったということになりますが・・・

つまり、「最後の晩餐」でのトマスとの関連を意図していたということでしょうか?
やぶにらみ
待たされた挙句に肩透かしを喰らったような感じですかな?

しかし、愚にもつかない馬鹿げた話でサロメを踊らせるよりは、可能性のあるストーリーかもしれません。

ユダとパウロの関係性には新たなる展開も予想されますし、次回以降に期待するとしますか!
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